■ 092 ■ 神は賽子を振らない
「どうやら上手くいっているようだな」
戦場を物陰から遠巻きに眺めていたウルガータが、低い声でそう呟いた。
「ええ、主さまの【
ウルガータの隣で戦場を見つめているフィンがそう頷く。
マフィアの統括はブルーノに任せ、ウルガータはラジィたちが負けた際にはラジィを回収、船でフィンと共にリュカバースから放逐する手はずになっている。
ラジィに内緒でウルガータ、フィンとクィス、ティナ、ラオ、ブルーノ、シェファの間でそう決めたのだ。
訓練兵Gから始まったラジィの生はあまりに苦難が過ぎる。だからラジィには幸せになって欲しいと、誰もが思ったからだ。
だからこうしてウルガータはマフィアのボスでありながら一人で、夜の街の廃墟に控え、二階の窓から戦況を見守っている。
護衛を一人も付けていないが、聖獣にして魔術師であるフィンがいれば十分すぎるだろう。
「しかし、こうもハマるもんなんだな。かなり一方的じゃないか」
最初の、まだティナが掘り進めていない時点ではどんどんピジョンブラッドが砕かれていって気が気ではなかったが、一度連携が回り始めてからはほぼ一方的にラジィたちはグラナを攻め続けられている。
このまま押し切ってくれれば、と願うウルガータは、ふと違和感を覚えて戦場を二度見した。
――なんだ? 開戦当初よりジィがすこし目立つような……
そう、満月の月明かりでかなり今宵の視認性は高いが、雲もないのに月光は強弱するものではない。
なのに、何故かラジィが、ラジィだけが妙に目を引くと言うか……髪の色が、明るくなっているように見える。
偶然こちらの方を見たラジィの顔を見て、ウルガータは更なる違和感の正体に気が付いた。
「ジィの目が、赤い……?」
「始まりましたな」
フィンが呻くようにそういう、ということはこれはフィンとラジィにとって想定の範囲内、ということだ。
「何が始まったんだ?」
そう問うウルガータを、フィンが真面目な顔で――山羊顔なのでウルガータにはよく分からないが――見つめてくる。
「ウルガータ、貴方は主さまの怪我が治らない場合も、またこの戦に負けた場合にも主さまを逃がす手配を整えてくれました。ですので貴方の善性を信じ、私も主さまの最後の秘密をファミリーの父たる貴方に伝えようと思います」
どうやらフィンはウルガータにラジィへの父性を求めているらしい、とウルガータは気が付いたが、ウルガータもあえて拒絶しようとは思わなかった。
なんだかんだでウルガータはもうラジィのことを他人事のようには考えられなくなっているのだ。麻薬中毒で死んだ姉の存在が多分に影響しているだろうが、だからとて投影や同一視をしているわけではない。
ウルガータが純粋にラジィ・エルダートという少女の未来を案じているから、フィンはこの話を始めたのだろう。
「最後の秘密とはなんだ?」
「ウルガータは神とは何だと思いますか?」
質問に質問で返され、ウルガータは面くらった。
「神、っつうと
そう聞き返すウルガータにフィンは首を縦にも横にも振らなかった。
「どうでしょう」
「うん? そりゃどういう意味だ」
「この世はどうしてここにあるのか、ということを考えたとき、この世界を最初に創造したものはやはり神と呼べる存在なのか、もっと別の呼び方をするべきなのか」
フィンが何を言っているのか分からず、ウルガータは再度面くらった。この世界を最初に創造したもの?
「そりゃあお前、
「それが神だとするならば、何故物質を神の魔術で構築できないのでしょう? 私たちの肉体や物質としての土や水も魔力なしに存在し得ます。しかし祈りを通じて魔力を神気に変換して編めるのは、魔力供給を断つと消える
確かに、言われてみればとウルガータは頷いた。
神の力を借りて作り出したものは物質にはなり得ない。ピジョンブラッドも媒介としてコルンの血肉を必要としている。
ポーションも無から有は作れず、例外は
「然るに、我々が神と常時呼んでいる者は我々を創造した存在ではない。であればその上位存在が存在する。未だ観測されていないこの上位存在を、神学者たちは仮に【
なんか話が大きくなってきたぞとウルガータは呻いた。こういうのはブルーノの領分なのだが……
「で、それがラジィの秘密と何の関係があるんだ?」
「では次に我々のよく知る神はどうやって生まれたのか、何故存在しているのか。それを追うことにしましょう。ウルガータはどう考えていますか?」
分かんねぇよ、とウルガータは思考を放棄したかったが、もうウルガータはただ教えを請うだけのスクールボーイではいられない立場にあるのだ。黙って問いを吟味する。
「何故存在しているのか、はあれだろ。人が魔獣に抗する為に神は力を与えたもう、じゃなかったのか?」
「昔は、純粋にそうだったのでしょう。古い神の聖句にはそのような意味が込められていることが多いですので」
そういえば、とウルガータは気が付いた。ラジィは
「フィン。何故信仰に古いと新しいがあるんだ? 神というのは最初からこの世に存在しているんじゃないのか?」
「いいえ。神は時代ごとに新たに生まれるものです。もっとも最近は新しい神が生誕していませんがね。なお新旧の見分け方は聖句を読み解けば理解できますよ」
聖句に、その特色があるとフィンは言う。
――主よ、この身を捧げます。肉も、臓腑も、血の一滴すらも余さず愛しき
これが、ラジィが古いと称した神教の聖句だ。
フィンの言う事を加味すると、どうやら命懸けで戦場に向かう、魔獣に抗するという意味が込められている方がより古い信仰になる、ということらしい。
――我ら双身にして一心、双心にして一身。牙持つ人にして愛抱く獣。人に害為す魔を駆逐せよ、神に愛されし比翼の使徒よ。
――汝は人を愛する肉の子、人に温もりを届ける
つまり、ここら辺はかなり古い信仰なのだろうとウルガータは理解した。
――我は毒にして人の罪なり。毒を制する力に焦れて心を喰らいし罪の証なり。贖罪のために魔を駆逐する、人ならざりし異形なり。
――汝、全てを懐く者よ。汝、全てを呑み込む者よ。汝、帆柱を折る者よ。汝、豊穣を運ぶ者よ。沈め、なずさえ、砕け、富ませ。四海の恵よ、三面六臂に氾濫せよ。
――虚なる大空、輝ける日輪。天と地の狭間にまします
――
そして、
「今、
「はい、今現在信者がもっとも多い神教は、その時代に即した神を崇めている、ということです」
古い神は魔獣からの救済を語っている。
だが比較的新しい神は昏迷や飢餓、苦難からの救済を語っている。
つまり救済の意味が、魔獣の暴威から救う、よりも人の幸福へとシフトしているのだ。
「分かりますかウルガータ。【
「神については理解した。だがそれとラジィにいったいどういう関係があるんだ――」
そこまで言ったウルガータの脳裏に、何故かラジィの儚い笑顔が思い浮かぶ。
――私の救いはせめて人の役に立って死ぬことだから、まぁ近くはあるけどね。あいつには私は救えないわ。私を救えるのは神だけだもの。
そうだ、ラジィは前にそう言っていた。そのことがウルガータには引っかかっていた。ならこの神というのはいったいどの神を指すのだろう?
【
「新しい、神の降臨……」
「流石ですウルガータ、やはり貴方は論理的思考はさておき目の付け所が極めて鋭い。ええ、主さまにとっての救済とは新たな神の降臨なのです。ほら、見てください」
フィンに口で示された先に視線を向けると、
「な……何だ、ありゃあ」
ラジィの背中から、二本の枝のようなものが突如として皮膚を突き破って生えてきている。
いや、体の内側から出てきたということは――
「骨、翼か、あれは……」
鳥のものでも、虫のものでもない。ラジィの背中にあるそれは月光よりも神秘的に輝き、しかし陽光より優しく世界を照らす光の羽だ。
何故あんなものがラジィに、まで考えたウルガータの中で、ようやくこれまでのフィンの話とラジィの現状が一本の線で繋がった。
「ラジィは何者なんだ。何故あんな状態になっている」
「主さまが何者かは、私は既に皆さんにお伝えしておりますよ」
そうフィンに言われて、ウルガータは記憶を探る。しょっちゅうシェファはラジィのことを女神だと言っていたが、まさか本当にそうだと?
いや、違う。確かフィンは前に一度明確にラジィは女神ではないと否定していた。あれは確か……
――主さまは天使ではございますが女神ではありませんので、皆様が主さまに平伏し信頼を得よ、などという傲慢なことは私も申しません。
「天使……」
正解、とばかりにフィンが重々しく頷いた。
「左様にございますウルガータ。【
ウルガータは悟った。
次なる新たに降臨した神がラジィを救ってくれるのではない。
自らが次なる新たな神になることで、ラジィは救われるのだと。
「冗談じゃねえ、【
「ウルガータ、順番を違えてはいけませんよ。主さまという存在はまず天使であり、人の苦しみを理解し、その苦しみから人類を救済することを意義としてこの世に存在しているのです。ラジィ・エルダートという人格とその不幸な生い立ちは天使の上に勝手に構築されたものでしかありません」
そもそも人を苦しみから救う神になることを定められて作られたのが天使であるので、そこにラジィの辛く苦しい人生を紐付けて考えるのは間違いだとフィンは言う。
【
神になるという目標を与えられて作られた天使が、たまたま人としては最悪に近い人生を歩んでしまっただけだと。
「まあ、天使が悲惨な人生を歩むのは【
「……どういう意味だ?」
「天使は人の苦しみから人を救わねばならないのですから、まず天使自身が人の苦しみを知らねば話にならないでしょう? だから効率よく苦しみを味わえるよう男より弱い女として、大人より弱い子供として、親の腹からではない、庇護者のいない存在としてこの世に産み落とされます」
フィンの言葉にウルガータは人として怒りを覚えずにはいられなかった。
要するに天使とは『その時代において人をもっとも苦しめているものは何か』を身を以て理解するために、徹底して苦しみを味わうのに適した形でこの世に落とされるのだ、と分かってしまったからだ。
天使が苦しめば苦しむだけ、人と【
その方がより沢山の人を救済できる神に成れるのだから。
「クソッタレが、その過程で天使が死んだらどうするんだ」
「新たな天使を創ればよいだけでしょう? 元より天使とはそういう存在なのですから。人類の歴史と現存する神の数からして、神になれなかった天使の方が神になった天使より遙かに多い筈ですよ」
まさに神の思考だ。天使をあくまで人類救済の道具としてしか見ていない。
いや、最初からそのために創った道具なのだから、道具を人と見做すことそれ自体が倒錯でしかないのだ。
「ですが、そうやって散った天使の死も無駄にはならないようです。それらの経験蓄積はある程度次の天使の性格や、産み落とされる場所の選定に使われている、と推測されますので」
たとえ新たな神が生まれる過程で幾体の天使が倒れようと、【
重要なのはより多くの人を救済することであり、そのためにこそ天使は創り出されているのだから。
「そういう事情を、いったいどれだけの人が知ってるんだ?」
「大神教の神学者たちはある程度この仕組みを理解しています。というのも私が今語ったこれが神学者たちが長年をかけて辿り着いた結論ですので。なので大神教は孤児院を建て、孤児を拾い育てるのです。その中に天使がいる可能性があるわけですからね」
教会に孤児院が付属している理由にそういう裏付けがあるとはウルガータは予想もしなかった。偽善で無駄なことをしていると思っていた。
だが孤児を信者に仕立てているのはあくまでついで。本当の目的は孤児の中にいるかもしれない天使を確保することの方にあるのだ。
「天使を確保してどうするんだ。殺すのか?」
「そこは神派によって違いがあるようですね。自分の神派を大事にするものは殺しますし、新しい
ウルガータはそこに人という種の傲慢を垣間見た気がした。
既に人は神に祈り願う立場から、神より与えられし天使を己の欲望の為に使う段階に移行しているのだ。
「もうあれだ、【
「そうかもしれません。ただこの世界のそういう機微を、いえ【
フィン曰く、何を人が救いと感じるか、いや本当に人が神によって救われているのかすらも【
だから何が今の世界の救いになるかの判断も、人を救う神の立場も、ほぼ人と変わらないように作られた天使に一任しているのではないか、と。
あるいは既にこのシステムは完全自動化され【
それほどまでに【
「ふざけた仕組みだ、反吐が出るよ」
「それは見方によるでしょう。少なくとも【
それは確かにそうなのだが……苦痛を効率よく蒐集するために、人の世の苦しみを味わいやすいように作られた天使を送り込む、というのはあまりに人の心がなさすぎるとしかウルガータには思えない。
神に人の心などあるはずがない、と言えばそれまでなのだが。
「道理でジィの奴は
「ええ、天使は人類救済が存在意義として定められている種族です。もともと全ての神との親和性は高いのですが、『他人を思いやる心』を基底とする
天使としての性質がラジィの性格にも影響しているのか、と考えてウルガータは気が付いた。
「……もしかして貞操観念が低いのもあれか? あいつが天使だからか?」
「はい。主さまは親から生まれておらず、また天使は一代で終わることが前提の種族です。そもそもからして天使の子宮の位置には別の臓器が納まっていますので、主さまは子を作ることができません」
「そういうことかよ……」
ウルガータは呻いた。ラジィの基本人格がああなのは、どうやら孤児の出自だからではなく、天使であるという存在由来からだったのだ。
そこまで考えて、ウルガータは自分が最も重要なことを聞いていないことに思い至る。
「ジィはもう苦痛の蒐集を終え、救済の対象を定めているのか?」
ラジィが天使だというなら、最終的にラジィは『今の世界でもっとも人類を苦しめている何か』から人類を救う神になる筈だ。
「はい、主さまがどのような神になるかは既に定まっております。現在の人類の大多数を苦しめているものですので、ウルガータも過去の経験から想像が付くかもしれません。どうでしょう?」
己をもっとも苦しめたものは、ウルガータにとっては麻薬だろう。
それはラジィにとっても同じではないかと思うのだが……いや。麻薬は確かに苦しいが――現在の人類の大多数を苦しめるものではない。
――そうじゃない。もっともっと根源の話なんだ。
何故ウルガータが麻薬を憎むのかは、ウルガータの育ての親代わりだった姉がそれで死んだからだ。
そもそもの発端として、ウルガータは姉が自分を育てねばならない環境を憎んでいた。平たく言えばウルガータにまともな両親がいなかったから、姉は両親の代わりにウルガータを育ててくれたのだ。
ウルガータの苦しみの根源はそこにある。
『何故、自分にはまともな両親がいないのだろう。他の子たちには、ちゃんとした両親がいるのに』
ウルガータの苦しみの根源はここから始まっている。ちゃんとした両親さえいれば、姉もウルガータも普通の生き方ができたはずなのだから。
そしてウルガータが長らく中堅ボスに留まっていたのも根源は同じだ。長らく魔術師を雇用できていなかったこと。同格であるチャンやハリーは魔術師をそれぞれ雇用できていたのに。
それがウルガータにとっての不満と怒り。ウルガータ以外にも誰もがこの世に感じる不満。ラジィと初めて会った日に改めて強く思ったこと。
「……運、か」
フィンは静かに頷いた。
「御名答、ウルガータ。生まれたときから人は不公平です。広い世界は道で繋がり、人は己と他人の違い、社会の違いを強く意識するようになりました。これが今の人類を苦しめる最大の苦痛であり、主さまが救済すべき対象です」
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