■ 090 ■ 神よ我が祈りに応えたまえ
昏い闇夜を、ぬるい潮風が磯の香りを纏っていらっていく。
リュカバースの夏は日差しが強く高温ではあるが乾燥している。じめじめとした暑さはなく、だからこそ適度に湿った海風が逆に心地よい。
ナガルが、シンルーが、ガレスが合流し、十人十色の足音が響く中、
「では、私はここで。主さま、ご武運を」
「うん、任せておいて」
恭しく頭を下げたフィンが、歩みを進める六人を見送るように足を止める。
契約ゆえ、ではなく、もっと重要な役目を負っているが故に、フィンは戦闘には加われない。だから、ここでお別れだ。
「そういえば、皆はこの戦闘に勝って帰れたら何かやりたいことはある?」
唐突にラジィはそう切り出した。退けぬ理由はあるだろうが、積極的な未来はまだ聞いていなかったと思い出したのだ。
「ジィは、何がしたいんだい?」
「何もしたくない」
うん? と首を捻るクィスに、ラジィは「言ったでしょ」と微笑んでみせる。
「サボるのよ。徹底的に。食べて、寝て、本読んで寝て、それ以外何もしないの。責任なんて全部投げ出すわ」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたね。本気だったんだ」
クィスは少しだけ可笑しそうに笑った。ツァディと違って、クィスはまだ働かないラジィというものが全く想像できなかったからだ。
「クィスは?」
「僕は……何だろう?」
毎日がめまぐるしく変わっていくせいで、それに付いていくのが精一杯なクィスはあれがしたい、という余裕を持ち得ないでいる。
「そうだね、時間が欲しいかな。自分磨きの時間が」
クィスはこの面々の中では未だ駆け出しの魔術師に過ぎない。王族だから魔力は潤沢だが、それだけだ。
強くなりたい。少なくとも嫌いな奴の言いなりにならなくてすむだけの力を手に入れたい。たとえばステネルスとがグラナとか。
「男の子ね」とラジィは笑うが、実際クィスは男の子だ。男の子が男の子で何が悪い。
「アウリスは? せっかくティナがいないんだし、本音を聞かせて欲しいわね」
ティナとラオはフィンより早くに一同から離脱している。
あの両者の役目は戦場の外から延々妨害を続けることだ。戦場に伴ってはその長所が生かせない。
「私は退屈が苦手なので、暫くはドン・ウルガータがどれだけの改革をしてくれるのか、それを楽しみに見物しようと思います」
お姫様みたいな外見に反して、「ティナと一緒だと退屈しない」からティナに従っているアウリスは、刺激こそ我が楽しみと微笑む。
「あとはティナ様が放っておいても何かやらかすでしょうし。私が何もしなくても退屈することはないでしょう」
「……とてもティナには聞かせられないね」
クィスは肩を竦めた。人は本当に見かけによらないものだ、と。
「ナガルはどう?」
「そうですね……リュカバースに来てから私、休んだことがないので、私もラジィを見習って少し何もしないことをしてみましょうか」
ナガルがアウリスに次いでそう表明する。そもそもナガルは真面目というか、気の抜けたふやけたところを誰も見たことがない。
「海を見ながら酒を飲んで、気付いたら一日が終わっている。そういう平穏な一日を過ごしたいものです」
「……それ、いつでもやろうと思えばできるんじゃないか?」
ガレスは首を傾げてしまうが、ナガルは曖昧に微笑むのみだ。
「どうでしょう? こう、何もしないでいると時間を無駄に浪費したような気になってしまいまして」
「なんか、つまらない人生送ってるな」
そのガレスの一言はナガルを甚く傷つけたようだった。無言で一歩引き下がってしまう。
「ガレスは?」
「俺は……そうだな。コルンに保湿剤入りの化粧品が欲しいって言われてるんだが、少し譲ってもらえないかな、ラジィ」
一同はある意味感心し、ある意味呆れた。この男、死闘を終えたその先に望むものが妹のための保湿剤なのだ。
お前どんだけシスコンなんだよ、という周囲の視線にガレスが気づけていないのは、はてさて良いことか悪いことか。
「シンルーはどう? やりたいこととか」
そうラジィに尋ねられたシンルーは口をわなわなと震わせていたが、やがて、
「……え、宴会とか」
「え?」
「戦勝祝のパーティーとかやりたいけど、多分招待状とか出しても誰も来なくて、用意した料理は冷めるし酒は温くなって、一人で寂しく大量の食事を処分するんだ、私知ってるんだ……」
一瞬呆気にとられてしまったのは、どうやらラジィだけでなくここにいる全員であったようだ。
シンルーはてっきり人とつるむのは苦手なのだと――いや、苦手は苦手なのだろう。だが嫌いではないどころか、逆に人付き合いを好むほうだとは流石に思ってなかったのだ。
「そうね、戦勝したらパーッとお祝いぐらいやってもいいわよね」
「うん、ドンの資産が丸々手に入るんだしね」
「麻薬で儲けた金と思うと忸怩たる思いもありますが……お金に罪はありませんしね」
では
「パーティー、華やかなパーティー……私はどうせ皆がわいわいやっている中、一人すみっコで寂しくお酒とか呑んでるんだ。私知ってるんだ……」
こいつは……と誰もが思ったが、一同の間に陰気な空気はない。むしろ少しだけ明るくすらなっている。
勝ったら戦勝パーティーだ。それぐらいの余裕を心に抱いていた方が、むしろリラックスして戦えるというもの。
そうして並び立つ家々の、その木製の窓の隙間から僅かに感じる視線の中を、六人は泳ぐように進んでいって――
辿り着いたのは、何の変哲も無いうらぶれた路地。
貧民孤児がクロップ通りやペントラ区に流れた結果、無人になったアンニーバレのシマの貧民街だ。
「おいおいラァジィイ、俺一人殺す為だけに随分とかき集めてきたなぁあ? ちょぉっと大人げなくねぇかぁ?」
月明りの下で、ぼさぼさの濃紺の髪を揺らしながら、グラナが両腕を広げて天を仰ぐ。
恐らくは麻薬を吸っているのだろう。全能感に満ち満ちたその姿は――その実力を知っているからだろうか――お世辞にも男前とは言えない容姿なのに、一枚の宗教画のような荘厳さを備えていた。
「子供ですので。そういう貴方こそ一体何人の命を背負ってここにいるのかしら?」
ハッとラジィが鼻で笑うと、グラナももう己の手札が明かされていることは承知の上だったのだろう。
「見えるかぁ? 俺の背負っているものがお前たちに見えるかぁ!? 俺の背負っている命の重さがお前たちに量れるかよぉ!」
月の光に溺れるようにグラナが優しく、誇らしく破顔する。
「誇りだとか、快楽だとか、美食だとか、恋慕だとか! そんなものを求めて生きている連中に俺は負けねぇ! 相手に、比較にすらならねぇ! 俺を殺したければ俺以上の慈悲を持ってこい! 愛だ、優しさだよ! 救済だ! 分かるかよぉ!」
「分かる、なんて偉そうなことは口が裂けても言えないわ。残念ながら貴方ほど真摯に人を救おうとするものは、多分私たちの中にはいないから」
そんなラジィの言葉に、どこまでも優しそうにグラナは笑う。
悪意も、敵意も今この瞬間のグラナにはない。ティナやクィスへの憎悪すら、麻薬の効果を借りてグラナは思考の外へと追い出している。
「そうだぁラジィイ! やはりお前は俺のことをよぉく分かってるなぁ! お前の気持ちも俺にもまたよぅく分かるとも! 人を救いたいし救われたい。だが救った結果として救われたいわけじゃない! 救うことは使命だ! 救われることとはまた別の話だ!」
そう。他者を救済することが使命だ。グラナはそう信じているし、ラジィもまたそう信じている。
だけど、
「ありがとうグラナ。貴方のおかげで一つだけ私は、自分の信念に
ラジィは、グラナのおかげで自らの信仰をほんの少しだけ否定することができるようになった。
どれだけ人を救いたいと思っても、どれだけ強大な力で人を救い続けても、
「それが真心からなる、真なる救済であろうと。結果として害悪となる
たとえそれを成すことが己の使命であり、それを成さぬ己に意味などないのだとしても、
「存在するべきでない救済が私であり貴方なのだって、貴方のおかげで少しだけ納得できた――たとえ刺し違えてでも、貴方はここで屠ります」
自分は生まれてきてはいけなかったんだって、それを認めて何もしないまま消えなければいけないって――
そう、覚悟を決めなくてはならないのだと。
「ああ、ああ! 哀れなラジィ・エルダート! 救われるべき哀れな子供よ! いいさ、なんと言われようと俺の生き方はこれしかねぇんだ! 救ってやるとも、命の限り救うとも! 救うべき相手を俺は見捨てねぇ!」
ラジィは救済を捨て、自分の存在意義を捨てて。
グラナは救済を続け、自分の存在意義を貫いて。
そうして、完全に両者の道は分かたれた。
ならば互いを否定する両者は、ここから先は力で押し通るのみだ。
息を吸って、吐いて。
呼吸を整え、語るべきはただ己が神に捧げる祈りの言葉。
「我は毒にして人の罪なり。毒を制する力に焦れて心を喰らいし罪の証なり。贖罪のために魔を駆逐する、人ならざりし異形なり」
聖句が紡がれる。獣を喰らいて獣に堕せし、罪人が語る懺悔の謳が。
クィス・エルダートが人の姿を捨て、魔獣と人の相の子へと成り代わる。己の敵を、その灼熱の吐息で焼き捨てるために。
アウリス・ヒッターが人の姿を捨て、魔獣と人の相の子へと成り代わる。己の敵を、凍霜の下に眠らせるために。
「我ら双身にして一心、双心にして一身。牙持つ人にして愛抱く獣。人に害為す魔を駆逐せよ、神に愛されし比翼の使徒よ」
聖句が紡がれる。獣と心を通わし、支え合いて戦う鼓舞の謳が。
ガレス・ノイマンが獣の装いを纏い、魔力を編んだ神気の獣と並び立つ。己の敵を、人狼一体の連携で以て駆逐するために。
「汝は人を愛する肉の子、人に温もりを届ける
聖句が紡がれる。天の独占する火種を盗み出し、人界を興す施しの謳が。
ナガルがその掌に、その瞳に焔を宿して敵を睨む。己の敵から、守るべきものを守り通すために。
「汝、全てを懐く者よ。汝、全てを呑み込む者よ。汝、帆柱を折る者よ。汝、豊穣を運ぶ者よ。沈め、なずさえ、砕け、富ませ。四海の恵よ、三面六臂に氾濫せよ」
聖句が紡がれる。人の都合など知ったことかと、気ままに振る舞うわだつみの謳が。
シンルーがその身に、白波の飛沫を纏って陰気に笑う。人間の意思や尽力など、大波の前では無意味だとばかりに。
「主よ、この身を捧げます。肉も、臓腑も、血の一滴すらも余さず愛しき
聖句が紡がれる。仲間の、愛しい人の帰還を願って紡がれる献身の謳が。
グラナの纏う魔力が、目に見えるほどに膨れあがる。託された意思、願い、祈りに応えなければ己の存在価値などないとばかりに。
そうして、最後に。
「
聖句が紡がれる。どうか私に人を助けさせて下さいと、そう
それは戦う力を持たなかった者たちの絶望の謳だ。
それは戦う力を持たなかった者たちの怒りの謳だ。
――お前たちはそうやっていつもいつも戦って、殺し合ってばかりいて。
そうやって家に残される、帰ってくることのない人を待ち続ける只人たちの、殺し合いを憎む凄絶なる憤怒だ。
そういった者たちの願いに応えて、
だが、そうやって得た力でまた、
愚か者だ。
ラジィ・エルダートが大地より引きだした力をその手に、槍を強く強く握りしめる。
奪い合い殺し合い憎しみ合ってばかりいる愚かな連中に、母の手で拳骨をくれてやるために。
準備はいいかと。
覚悟はいいかと、そう問うまでもない。
聖句を唱えたその瞬間から、彼らは既に死をも恐れぬ神の使いだ。
だから、誰もがその動き、その隙、その機を読んで――
弾かれたかのように、死の舞台へと躍り出る。
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