■ 088 ■ 月夜に思う
そうして、リュカバースの夕日が海岸線の向こうに沈み、夜空に輝く月が真円を描いた夜に――
誰もが戦の空気をかぎ取った。
戦士としての予感。
魔術師としての予感。
マフィアとしての予感。
今日が、勝負だと誰もがなんともなしに思う。
夏の潮風が優しくそよぐ今日この夜が、決戦の夜になると。
「では、少し外します。ドンが雇用する他の魔術師が来たら一晩だけでよいので上手く逃げ回って下さい」
ハリー・ミッチェルに恭しく一礼したナガルの顔は相変らずいつも通りで、まるで散歩にでも行ってくるかのような空気だ。
追い詰められていた時はそのスカした態度にイライラさせられたハリーだったが、総合的に考えると、その余裕に見える態度に助けられていたことの方が多いだろう。
「23年もののウィスキーを用意してある。無事帰ってきたら祝杯といこうぜ」
「魔力を絞り尽くすと眩暈と吐き気がしますのでね、もしかしたら胃がひっくり返っていて食べ物を受け付けないかもしれません」
「お前、リップサービスって知ってるか?」
ハリーはそう笑って、秘蔵のウィスキーをトン、とテーブルに乗せる。
ナガルは冗談を言わない性格なのだが、多分それで損をしている部分も多いだろう、と思う。
「お前がそのローブをこのリュカバースで着るのは始めてだな」
「ええ。破門された身で着るのもどうかと思っていたので」
破門された者にはローブを纏う資格はなくなる。それを素直に信じてナガルはこれまで
だが最近は少しだけ心変わりをした部分もある。神の信徒がやることが何もかも正しいわけではないと、
人を麻薬中毒にすることを救済と認めてしまう神がいることも知った。故に正しきは、自分で定めなくてはならないものであるのだと。
「ですが私は信仰を捨ててはいませんし、そんな私に今も
「そいつぁ結構……ありがとよ、ナガル。こんなクソみてぇな男に雇われてくれてよ」
「そういうのは今際の別れにいう台詞でしょう? まるで私がこれから死ぬような物言いは止めて頂きたい」
「そうだな、すまねぇ」
そうやってハリーが頭を下げると、
「あの、いえ、ジョークだったのですが」
「……わかるか、そんなん」
ハリーが完全に困惑してしまうが、これはナガルが悪いだろう。初めて言ったジョークがそれでは絶対に誰もジョークとは思うまいし、何よりジョークとしてはかなりつまらない。
微妙に間の悪い空気を仕切り直すように、ゴホンとハリーが咳払いをする。
「お前さんに
「ありがとうございます。それでは」
死闘になるだろうが、不思議と心は晴れやかだ。
「ああ、そうだ。いつもの命令をお願いできますか?」
ふと思い立って、そうハリーに言ってみる。
「いつもの?」
ハリーはどうやら自覚がなかったようで、口癖なんかあったか? と首を傾げている。
「ええ、いつものです。心当たりがなければ、心の赴くがままにどうぞ」
果たしてハリーは自分の望む言葉を返してくれるだろうかと。
そうして、
「目標だけを仕留めて帰ってこいナガル。間違っても
ナガルの期待は正しく報われたようだ。
本当に、ハリーはマフィアのくせに甘い。だがその甘さにナガルは居心地の良さを覚えて、だからナガルはここにいるのだ。
「お任せあれ、
ナガルの心は仕上がった。戦に臨むコンディションとしては最高だろう。
あとはこの胸の内に滾る炎で、目の前に立ち塞がる敵を焼き払うだけだ。
§ § §
「じゃあ行ってくるよコルン。アンニーバレ、コルンを頼む」
「……行ってらっしゃい、兄さん」
コルンの声が固いのは、やはり兄に勝ち目の薄い戦に挑んで欲しくないからだろう。
だがそれを口に出すことは、アンニーバレを置いて逃げよう、と言うことと同義でもある。だからコルンは何も言えず、ただ拳を握りしめることしかできない。
「結局、最後までお前に命懸けさせるだけだったな、俺に出来ることはよ」
アンニーバレは皮肉げに嗤うが、ガレスに悲壮感はない。
「気に病むことはないさアンニーバレ。魔術師というのはそういうものだ」
そう本気でガレスは思っている。神から力を与えられた。だから民のために尽くし、高給を得るのが魔術師の仕事だ。
もっともガレスはそう言いながら、コルンが傷つくことには耐えられない。そういう風に思考が分裂しているから、授かった獣魔には複数の頭があったのだろう。
ガレスはナガルのように
妹をアミュレットの苗床にして当然のような顔をしていたあいつらとは、怨みはないが袂を分かっている。
だからマフィアらしく、今日も黒いスラックスに黒いシャツ、黒いベストを纏って、何事もないかのように出撃する。
死地に赴くにしては軽い態度だが、別にガレスも必ず勝って帰ってこられる、なんて子供じみた妄想をしているわけではない。
ただ
それを恐ろしいと感じたことは、初陣の時ですらなかった。
「アンニーバレ。悩む暇があったら、ウルガータがドンになった後どうやって利益を確保するか、そっちを考えろよ。その方がよっぽど重要だ」
恐怖も不安も、共に歩むロクシーが共有してくれるから、だからガレスは他の神の魔術師たちより、よっぽど幸せだと感じている。
絶対に裏切らない、自分だけの味方を与えてくれる神なんて、
「ガレス、そういうのは取らぬ狸の皮算用って言うんだぜ?」
そうアンニーバレは笑うが、ガレスはちょっと不機嫌になってしまう。
「俺はその言葉嫌いだな。それって前準備を疎かにする奴の常套句だし」
「ぬかせ……まあ、心配すんな。お前らが静かに暮らせる家を買える程度の金はしょっ引いてやらぁ」
「ああ、期待してる」
一人では死にたくない、というラジィの願いが、ガレスには嫌と言うほど理解できる。
ガレスは一人にはなったことがないが、だからこそロクシーもいない戦場で一人倒れ見向きもされないなんて状況を想像するだけで、背骨に氷柱を突き刺されたような恐怖を覚えるのだ。
そういう意味では、グラナの家族たちも同じなのだろう。一人では死にたくないから、それが余りに奇形でもグラナの家族になって、力になって死にたいと思うのだ。
だがそれでも、グラナのやっていることは救済ではなく搾取だ。独り立ちさせるのではなく、依存させるのは征服からの略取でしかないのだから。
もしアンニーバレも倒れ、コルンが一人になって、グラナがコルンを救済する未来なんてものを想像するだけでガレスは怒りで発狂しそうになる。
ガレスは最も危険な状態のラジィを見てないが、持ち直した後の遷延性離脱症を見るだけでも心を痛めるのに十分すぎる程だった。
あの聡明で強靱な少女ですら、あっさりと死神の誘惑に身を委ねてしまう様子を見れば――コルンでは耐えられないだろうな、と分かってしまうから。
だからガレスはここで今日、グラナに勝たねばならない。グラナに勝って、ドンを引き摺り下ろして、このリュカバースから麻薬を排除する。
負けた時のことはどうせアンニーバレが考えてくれているだろう。
ならばガレスはただ戦えばいい。ただ戦って勝てばいい。それ以外のことは考えなくていい。
「行こうか、ロクシー」
神気で肉体を編まれたロクシーが、ガレスを誘うように歩き出す。
恐怖はない。絶望もない。死ぬまでロクシーが共にいてくれるガレスは、だから永久に孤独とは無縁でいられるだろう。
§ § §
「新しき仲間は月下に骸を晒し、救う価値なきこの身もまた四肢をもがれ羽虫のようにベチャリと道路で潰れて死ぬ……ふふふ、死ぬ死ぬだぁ」
「相変らず不吉なことばかり言いやがって、よくやるよ」
アジト代わりの料理店で身支度を調えていたシンルーの横にどっかと腰を下ろし、チャン・ロンジェンは杏露酒を呷る。
シンルーは
だからシンルーの装いもガレスと同じ黒一色だ。
もっともシンルーは服装に頓着するような性格ではなかったので、渡されたから着ているだけだが。
「おおロンジェン、負け犬ロンジェン。中立を気取り手柄も女もドンの地位もウルガータに奪われる負け犬ロンジェンの遠吠えが聞こえる。満月の夜に負け犬の鳴き声が」
「煩いぞ少し黙れ。あと俺は別に何も奪われてねぇし最悪とも思ってねぇからな、ふざけたこと抜かすと給料削るぞ」
「小さい、チャンは肝っ玉も小さければ黄金の玉も小さい。実に小さい情けない男おおロンジェン」
真面目な顔でぶつぶつと唱えていたシンルーだったが、本当にチャンが不満を感じていないのが不思議でならない。
シンルー視点ではどう見てもチャンは時世を読み誤り、ウルガータにいいとこだけ奪われた情けないヤツでしかないのだが……
そんな視線を向けられたチャンは、逆にシンルーに哀れみの視線を向ける。
「お前、自分の手に入らないものには価値がねぇってタイプだろ。他人への憧れとかそう言うのに意味を見いだせねぇ即物的な女がお前だ。寂しぃねぇ」
そう笑うチャンの言っている意味がシンルーには分からない。
だって料理の匂いで腹は膨れないし、金の鳴る音を聞いたって財産が増えるわけじゃない。
シンルーがどれだけ呟こうが、呟いただけではそれが真実にならないのと同じように、自分の持ち得るものだけが価値を得るものだ。
憧れ? そんなものは腹の足しにならん。どんなに誇り高い男でも海で遭難して水も食糧も失えば誇りなんか投げ捨てる。ただの獣になる。
「おおロンジェン、愚かなロンジェン。真の苦しみを知らないロンジェンは今日もマフィアごっこに
「阿呆が、ごっこでマフィアやってねぇ奴なんて一人もいやしねぇよ。ドンもウルガータもブルーノもそれは同じだ」
そうとも、チャン・ロンジェンだって分かっている。人間というのはただの知恵のある獣だ。
だから知恵を捻って、自分の理想とする自分を
自分の思い描いた自分のままで生きられれば、人生というゲームの勝者だ。自分の思い描いた自分とかけ離れた生を送るなら、人生というゲームの敗者だ。
そのゲームのクリア商品は死という共通の結末。勝者も敗者も等しく同じ。商品が同じなら楽しんだ方が勝ちだ。
「出来のいい服を着てりゃあ、服の方に次第に身体を合わせようとする。人生ってのはそういうもんさ。着ている服に操られるんだよ」
最初っから、職業も性格も仕草も、何もかもが人という素体に後付けで着せられた着ぐるみでしかない。
人生というのはそういう個々人の着ぐるみを鑑賞して、褒めたり貶したりする行為のことを指すのではないか、違うかよ? と。
「こんなものはごっこだ。誰だって自分が格好いい、美しいと思う自分の着こなしを鏡で見て楽しんでるだけだ。それを上から笑うのは楽しいか? ええ、シンルーよ」
シンルーは言い返したかったが、上手い言葉が思い浮かばない。
なりたい自分? そんなものはない。あえて言うなら今日を生き延びた自分が、なりたい自分だ。
明日を迎えられるならそれでいい。明日もまた、明後日を迎えられるならそれでいい。
……本当に?
「どうせ自分の期待通りにはならないって、最初から諦めて生きるのは楽しいかシンルー。そりゃあ確かに辛くはないだろうが楽しそうにも見えないがよ、俺にはよ」
期待? そんなのはするだけ無駄だ。
誰もがシンルーを煩いと避ける。不吉だと遠ざける。他人への憧憬? そんなものはクソの役にも立たん。この孤独を癒やしてくれることはない。
「他人の幸せと栄光を見ているだけで満足だなんて、笑わせる」
それはシンルーにとっての怒りであり苦しみであり、何一つシンルーを幸せにしてくれる感情ではない。
シンルーが欲しいのは実物であり繋がりであり、だけどそれが手に入らないからシンルーは海に投げ込まれた。
「今日だって私は強いから求められている。戦力として使えるから求められている。求められているのは
「なるほど、それがお前にとっての最悪か」
そうだ。シンルーが欲しいのはただ一つ。
仲間が欲しい。友達が欲しい。ようするに、それだけだ。
だからシンルーは出撃する。この場限りの関係だと分かっていても出撃する。自分も仲間とワイワイやりたいから出撃する。命? そのくらい普通に懸けてやるとも。
楽しいならそれでいい。時間を他人と共有できるなら、目的を共有できるならそれでいい。それが一時のまやかしでも構わない。対等の関係が欲しいのだ。グラナの救いはいらない。
「グラナに勝てばこの関係は終わる。ならばいっそ共にグラナに負けてしまえば――」
しまえば――その先がシンルーには紡げない。何故だろう? いつもやっていることなのに。
そう黙り込むシンルーの肩をチャンが軽く叩いた。
「行けよ、行って勝ってこい。そうすりゃお仲間ができるさ。最初はなんだって形からだ、形も保ち続ければいつかは本物になる」
「おおロンジェン、小さい男ロンジェンはいつもそうやって私を顎で使おうとする情けない男ロンジェン」
「なんでお前、俺の罵倒だけは流れるようにでてくるんだろうな。それだけはお前、完全に本心で語ってるだろ」
苦笑したチャンは椅子に戻ると、脚を組み直して杏露酒を呷る。
「行ってこいよシンルー。自分が格好いいと思う自分を着て、見せびらかしてこいよ。割と楽しいぜ?」
呑気なものだ、とシンルーは思うが、だが死地だからこそ、せめて格好付けて死にたいと思うのが男の子だ。
くだらないとは思うが……それでも、格好付けない男よりは格好付けてる男の方が格好いいだろう。女だってそうだ。
「情けない男ロンジェンは明日の朝に踏みつぶされた毛虫のような私の死体を回収することになるだろう。楽しみにしているといいロンジェン、おお情けないロンジェン」
「ああ、お前さんに
そうしてシンルーは出撃する。多分、今晩は充実した楽しい夜になるだろう。
この楽しい夜が、明日も明後日も続けばいいのに。
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