リュカバース頂上決戦――総力戦――

 ■ 083 ■ 【至高の十人】ツァディ・タブコフの放浪記




 さて、【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】を一人出立したツァディはサンモニス山をその両の足で軽やかに駆け下りると、シルケ川に沿って一路カルベッタの街を目指す。

 ラジィのように【スタブルム】ザインから騎獣を借り受けたりなどはしない。というかその必要がない。


 【道場アリーナ】ツァディ・タブコフの身体強化は地母神教マーター・マグナ唯一の戦闘職だけあって他の【至高の十人デカサンクティ】とすら一線を画す。

 疲れない程度の速度でヒョイヒョイと走る速度が肉食獣の全力疾走をも軽々と上回るのだ。従者などそんなツァディに付いてこれるわけもないから、ラジィとは別の理由で自然と一人旅になる。


 【道場アリーナ】は戦技成長支援という『置き物パッシブバフ』効果も強力である為、成長を期待してツァディの遊撃任務に同行を求める者が多かったが、当然ツァディはその悉くを退けている。

 どうせ付いてこれるはずもないのだし、何より【神殿テンプル】カイ・エルメレクから与えられた本来の使命はラジィの装備を補充することなのだから。


 カルベッタの街はシヴェル大陸のほぼ端っこに近く、これといった名産品もないが、港を目指す際の宿場町としてそこそこの賑わいを見せているようだった。

 地母神教マーター・マグナの教会はあるにはあるが、どちらかというと海神オセアノス道祖神イティネルのほうが敬われているらしい。


「海が近い宿場町だもんな、仕方がないとは言え……」


 ツァディは収まりの悪い金色の跳ねっ毛を掻き回してそうぼやく。

 地母神教マーター・マグナカルベッタ支部教会に辿り着いたツァディは少しだけ悲しくなった。教会の大きさと質で、地母神教マーター・マグナは完全に負けている。

 まあ、地母神教マーター・マグナはシヴェル大陸をほぼ制しているので、末端を見て一喜一憂する必要はないのだが。


「ええと、はい。朝のお清めに出た修道女が、投函されていたエルダート様の手紙に気が付いたのが最初です」


 ツァディを出迎えた司祭は、年頃は五十代半ば程度だろうか? 温和な顔の老婆で、権力争いとは無縁そうな穏やかな雰囲気を纏っている。

 もしこの老婆がどこかの権力と結び付いていたら、ラジィの手紙は【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】まで届かなかっただろうから、そこは信用しても良さそうだ。


「他に何か知っていることはないか?」

「はい。ラジィ・エルダート様はどうやら奴隷商に捕まっていたそうで――ああ、では同じくその場に捕まっていた者たちを呼んで参りましょう」

「ん? 一年前の話だろう? まだここにいるのか?」

「はい、エルダート様に解放されたはいいものの、行く先をなくしている者たちが数名いましたので」


 人道支援としてこの教会の下働きとして生活を保障している、とのことだった。

 真っ当な教会だな、とツァディは思う。腐っている地母神教マーター・マグナ徒も沢山いるが、地母神教マーター・マグナはその特性上、大多数が他人を思いやれる善人で構成されているのだ。


 一定数のゴミが混じるのは、膨れあがった組織としてはもうそういうものだと覚悟し、頑張って駆除に尽力するしかない。

 この遊撃任務が終わったらカルベッタ支部教会への何らかの支援を願い出よう、とツァディは思う。よく働く者をよく評価するのも、正しい組織の在り方だ。


 ラジィに解放された元奴隷たちに話を聞くと、やはりラジィは満身創痍だったようで大人一人を倒すのにも苦労していたようだ。

 どす黒く張れ上がった四肢でなお果敢に戦うラジィの姿に感銘を覚えた、としきりに女性の一人が誉め称えていたが、ツァディとしてはよくもまあそこまで弱ってまで古死長竜アンデッドエルダードラゴンとの戦闘を続行したものだよ、と呆れてしまう。

 そこまでお前、一回の仕事だけで五年分の成果が欲しかったのかよ、と。どこまでサボりたいんだ、と。


 ただ聞いた話の中で、少しばかり気になることもある。

 何故か非合法奴隷商の死体が動き回っていたり、あとラジィは骨格しかない、腹に宝珠を付けた鳥と話をしていた、というのは――


――ジィの奴、古死長竜アンデッドエルダードラゴンを浄化して従属テイムさせたのか?


 ラジィは【スタブルム】ザインからも教育を受けているから、ある程度獣と心を寄せる術を身につけてもいる。

 もっとも同じ教育をツァディも受けているのだが、ツァディのほうはサッパリだ。ラジィと違って、ツァディは道場アリーナ適性以外の地母神マーター魔術はからっきしである。


――古長竜エルダードラゴンの魂魄か。ちょっと注意が必要だな。


 ラジィが挑んだのが古死長竜アンデッドエルダードラゴンだったのはツァディとカイにとって僥倖だったと言える。

 古死長竜アンデッドエルダードラゴンは死体なので、その身体は既に朽ち果てている。もし他の古長竜エルダードラゴンだったらと考えると、ツァディは戦慄せざるを得ない。

 なにせ古長エルダーと呼ばれる魔獣はこの世を長きにわたって生き抜いてきた存在であり、その中でも古長竜エルダードラゴンは最も神に近い存在と言われているからだ。


 古長エルダーはただ長生きして強いから古長エルダーと呼ばれるわけではない。

 その種族にとっての象徴、代名詞ともいえるまでに昇華され、信仰を集めその信仰に力を分け与えられるまでになったものが古長エルダーと呼ばれるのだ。

 言うなれば、現人神(人では無いが)のような存在に対し、古長エルダーという呼称が付けられるのである。


――まあ、でも心臓がないなら問題はないか。


 ツァディは悩むのを止めて再び奴隷の話に耳を傾ける。

 彼女らを解放した時のラジィは既に五体満足の健康体になっていたとのことで、どうやら霊薬エリクサーで全快したらしいと分かったのはツァディも一安心だ。


 流れから察するに、最後の霊薬エリクサーを持たせて待機させていたフィンと脱獄後に合流できたに違いない。

 そこまでの話は【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】に上がっていなかったので、ツァディの心は重い鎧を脱ぎ捨てたかのように軽くなった。


 少なくとも古死長竜アンデッドエルダードラゴン討伐後にラジィは一度健康体に戻っている、ということが分かったのは安心だ。

 その後数枚の金貨と共に「街を守護する騎士団へ説明をよろしく」と言い置いてラジィは姿を消し、元奴隷たちが知っていることはそれで全てだそうだ。


「ありがとう、参考になったよ」

「エルダート様に是非とももう一度お目にかかって直接お礼を申し上げたいのですが……」

「巡礼で民に尽くすのは【至高の十人デカサンクティ】の務め。お気になさらず」


 下働きの女性を仕事に戻し、司祭に礼を言ってツァディは教会を後にする。


「ふむ。ジィの性格からして、追っ手を撒くのを最優先にするだろう。となると船だな」


 船に乗ってしまえば、同じ船に便乗しない限りその後の足取りを追うのは難しくなる。自分の後に乗るものが少なければ尚更だ。

 とすると、予約が必要な人気の航路ではなく、予約無しで乗れるマイナー航路に突然ヒョイと乗ったはずだ。


 それなら自分のあとに船に乗り込んだ奴だけ重点チェックすればいいし、加えて、


「一回じゃ足りないな。もう一回船に乗った方が安全だ」


 同じことをもう一度繰り返せば、ほぼ追っ手からは姿を眩ませることができるだろう。

 であれば、ここから一番近い港へ向かう前に、


「……やるか」


 日も落ちて、薄暗くなってきた通りに目をやりながらツァディは軽く肩を回した。

 カルベッタの大通りを平然と歩いていたツァディは一度、串焼き肉の露店を覗くと見せかけて向きを変え――


 そこから突如として地を蹴って、左後方を歩いていた一人の男を路地に蹴り込んだ。そのまま自分も路地へと飛び込む。


「ご苦労様だな。俺の脚に追いつけるはずもないし――ということは先んじてずっとカルベッタで張っていたわけだ。ここが最後の足取りってのは上層部なら知ってるもんな」

「な、何の話でしょう!?」


 年頃は三十路頃か。特徴のない顔立ちをしている、いかにも職人らしき男が震えたような声を出すが、


「そこまでしてジィを消したいのか? テッドの言うとおりじゃないか。その程度の博愛しか持てないからジィを上回れないって、どうしてその程度が分からないんだよ。大人だろ?」


 いっそ憐憫すら込もった赤い瞳を向けられた男が、意味がわからないとばかりにゆっくり立ち上がって後ずさる。


「わ、私はしがない木工細工師にございます……僧侶様の仰られることの意味が分かりません。どなたかと勘違いされていらっしゃるのでは?」

「そういうのはポッケの暗器から手を離してから言うもんだな」


 そうツァディが指摘すると、どうやら男はもう言い逃れは難しいと判断したようだ。

 スッと表情が能面のような無表情になる。


「逃しはしない。来いよ弱者の敵。せめてもの情けだ、一撃で死なせてやるからさ」

「おのれ、麻薬中毒の売女如きにたぶらかされた――」


 ナイフを手に凄まじい速さで斬りかかってきた男の、


「成敗」


 首がごろんと肩の上から落ちた。

 無造作に振られたツァディの手には、いつ抜いたのかラジィへの支給品である竜麟の剣が握られている。


「……なんで自分なかまたちの手で麻薬中毒にされた女の子をそうも罵倒できるんだよ。ジィじゃなくて俺たちの恥だろうがよ」


 血を拭った剣を鞘に収め、首を拾い上げてツァディは一度溜息を吐いた。

 この世には何でこんなくだらないことに多大な金と労力と人材をつぎ込める奴がいるのだろうと。


 薬物中毒の孤児の分際で【至高の十人デカサンクティ】などおぞましい。目障りだ、恥知らずだ。恥知らずめ。

 そんな理由で十四歳の少女を殺害しようとしている自分の姿に、どうして羞恥心を覚えないで生きられるのか、それがツァディには分からない。


「同じ神を信じた誼だ、せめて【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】にだけは帰してやるよ。死体には罪は無いもんな」


 そこら辺の店で壷と塩を購入したツァディは首を壷に入れ塩漬けにして封をすると、再びカルベッタ支部教会に戻って、


「とんぼ返りですまないがこれの封は開けず、【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】に送ってくれないか? ある犯罪に関する重要な証拠が入っているんだ」

「畏まりました。【道場アリーナ】ツァディ・タブコフ様」


 司祭に壷を渡し、その首が【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】に届くように手配する。

 温和な司祭に首が入っていると伝えるのは憚られたので誤魔化したが、ちゃんとツァディ自身の直筆で説明書も添えたので、これであとはカイが何とかしてくれるだろう。


「……ジィのいるところを目指す前に少し身辺整理をしておいた方がいいかもだな。ジィへの一方的な怨恨、割と根深いぞこれは」


 あの首が【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】に届く前に、既に指令を受けて動いてる連中を一掃しておかないと、どこで後をつけられるか分かったもんじゃない。

 そう判断したツァディは目的をいったん変更。幾つもの港町を周り、ツァディの位置を追跡、監視してくる連中を片っ端から叩き潰して回ることにした。


 そうしてツァディから次々と首桶が届けられることとなった【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】は恐慌をきたした。

 どうやら【道場アリーナ】ツァディ・タブコフは身内犯罪者摘発のため【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】を離れたのだ、という噂が真しやかに飛び交ったからだ。


 ツァディとしてはラジィの行方を探っていた連中に「部下を埋葬してやれ」と返しているだけなのだが、首を送りつけられた方はそう感じる筈もない。


 ツァディの凶行きょうはくに文句と非難の声を上げるものも少なくなかったが、それは大火には成り得ず自然と消えていった。

 何せ相手は地母神教マーター・マグナ最強の男である。それ即ち最も己に似たり、と地母神マーターに認められた人間ということだからだ。


 かつえる民に温もりを、難き道行きに安寧を与えるのが慈悲深き地母神マーターだが、だからと言って暴力や殺害を否定するわけではない。

 救いようのない悪には苛烈な処断を下すのもまた地母神マーターの一側面だ。矯正の目のある子供はまず可能な限り救おうとするが、成熟し、もうとっくに責任の伴った判断を下せる筈の大人には割と容赦がない。


 無論、そういう善悪判断はあくまで地母神マーターにとっての善悪であり、世界常識としての是非ではない独り善がりな面も備えてはいるが。

 だがそれでも、地上でもっとも地母神マーターに他人を思いやる心がある、と認められた男の行いだ。どうしてそれに地母神教マーター・マグナが文句を付けられようか。


「どうしてうちの子たちはああも行いが極端なのかしらね……」


 もっとも、【神殿テンプル】カイ・エルメレクだけは頭を抱えてしまったわけだが。




      §   §   §




 そうやって海岸線を延々と移動し、気付けばカルベッタから遠く離れた土地まで来てしまったツァディは、ある日突然我に返った。


「待てよ、ジィが帰ってきた時以前に、ジィが帰って来られなかったらどうするんだ俺」


 地母神教マーター・マグナがラジィにとって居心地のいい場所であればあるほどよいのは確かだが、その前に今のラジィは薬もなければ装備もない状態である。

 未来を見る前にまず今を見なければいけないのは当たり前の話、どう考えたってラジィが残り四年の巡礼を続けられるようにするのが先じゃないか。


 ツァディ・タブコフは強くて優しい男だが致命的な欠点を備えていた。

 即ち「俺は馬鹿だから難しいことはよく分からねぇがよ」を地で行ってしまう、本当に頭が残念なウホウホミラクルゴリラだということだ。


 いかん、ラジィを探さねばとツァディが本来の目的に立ち帰ったはいいが――


「どこだ? ここ」


 ツァディはまるで冒険者のように、街の入口に立っている門番に今更自分が今いる街の名前を聞く。


「おいおい地母神教マーター・マグナの神官さんが迷子かい? ここはリケだよ。商業港だ」

「商業港? じゃあ客船は?」

「出てるわけないだろ。ここは油ヤシや果物の集荷場だ。商船しか出入りしないが、まぁ地母神教マーター・マグナなら信用されてるし、金払えば乗せてくれるかもな」


 そういえば最近は妙に暑いな、とツァディも思っていたが……どうやらツァディは気候帯が変わるほどの距離を単独走破して移動してきたということのようだ。

 とんでもない話ではあるが、別に疲れを感じていないツァディからすれば「なんで急に暑くなるんだふざけてるのか」位の話でしかない。


 強くて弱者に優しいのだが、本当に残念な男なのだ。


 とりあえず船に乗るか、とツァディは港に向かい食事処の一つに入り、何かよく分からない料理をつつきながら周囲の話に耳を傾ける。

 会話の内容は衣服によって綺麗に別れている。上等な服を着ている者は商機についてや果物の品質、取れ高等の話をしているし、


「あぁ、早くリュカバースに帰りたいなぁ。ラウラの柔肌が俺を待っているんだ……」

「まぁそのラウラちゃんは今頃別の男に身体を許してるわけだがな」

「そんなこと一々言うなよコーレ! 俺に怨みでもあるのか!?」

「いや、ラウラちゃんはお前のもんじゃないからな? 勘違い野郎になりたくなかったらそこちゃんと認識しとけよウド。さもなくば痛い男になるぞ」

「分かってるって! ……ああ、どうしよう、もう俺ラウラに語れる新しいこと全然なくなっちゃったよ。絶対つまんない男だって思われてるに違いない」

「別にいいじゃないか。金払えばお客として相手してもらえるんだし」

「そりゃあそうだけどさ……」


 下級の甲板員は当然のように娼婦の話しかしていない。まぁそんなもんだよな、とツァディも頷いた。

 どうやらウドという男はラウラという娼婦に入れ込んでいるようで、それに周囲が現実を教えている、という状況らしい。


「ああ駄目だ、ラウラに馬鹿な男だと思われたくないけどラウラのほうが頭の良さは完全に上だ。どうすりゃいいんだ……」

「いやどうしようもないだろ。俺らが船操ってる間にあの子たちは昼は勉強して、夜はいろんな話を聞いてるわけだし」

「にしてもホント、あれで親に捨てられた子ってマジか? って話だよな。どう考えても教育受けられなかった子らじゃねぇよ。会いに行くたびにどんどん頭よくなってくし」


 最近ちょっと気遣われて辛い、と零している船員の話が、少しだけツァディには気になった。


――親に捨てられた子。

――会いに行くたびにどんどん頭よくなってく。


「リュカバース自体も本当に綺麗になったもんな。今じゃどこの路地覗いても薄汚れた孤児どもを見かけないし」

「ほんとなー。治安がよくなりすぎて仕事がないのか、暇を持て余したマフィアたちがドンパチ始めちまってるそうだし」

「新色町は大丈夫かなぁ? カタギには奴さんらは手を出さないって建前守ってくれるのかな。ああ、俺たちのしっとりおっぱいが……」


――薄汚れた孤児どもを見かけないし。


 この時点でツァディはピンときた。ラジィは地母神教マーター・マグナ第二位を占める、要するにツァディの次にお人好しな子供である。

 そして元々が孤児だったからこそ、ラジィは孤児に対してはかなり甘い。多分、行く先で孤児に何らかの手助けをしている可能性は高いとふんでいたが――


「そこのお前たち」


 地母神教マーター・マグナのローブを着たツァディに声をかけられた男たちは一斉に萎縮した。

 船乗りからすれば、還俗していない魔術師というのは基本的に雲の上の人だ。下品なことを大声で話しすぎたか? と怯える男たちを前に、


「すまないが、船に乗せてくれないか? 代金は払う。偉い人のところに案内してくれ」

「はい? お坊さん、うちのシェーンエルマ号に乗りたいんですか?」

「こう言っちゃ何ですがシェーンエルマ号は割と乗り心地最悪なボロ船っすよ?」

「構わない。そのリュカバースって土地に行きたいんだ。乗り心地は気にしない」


 そうツァディに言われた男たちは首を捻りながらも、もう殆ど終わっていた食事を切り上げ、ツァディをシェーンエルマ号へと案内する。


「坊さんよ、こっちも商売でね。無駄に食糧を消費する客一人のせるならそれより多くのヤシ油を運びたいんだが」

「力仕事なら手伝えるし、何なら魔獣が出たら叩き潰してやれるぞ。あとこれが前金だ」


 シヴェル大陸の貨幣で大金貨五枚五十万オラスをツァディが机の上に積み上げると、船長は相好を崩して金貨を懐に入れた。


「流石は地母神教マーター・マグナ、いい金払いだ。だがいくら大金を積まれても乗り心地とお上品さは保証できないぜ?」

「構わない。船乗りに求めるのは船を目的地に辿り着かせる能力だけだろ?」

「気に入った! そいつが分かってんなら文句はねぇ。乗りな坊さん、リュカバースまで楽しい一週間の船旅だ!」


 ツァディは頷いた。リュカバースとやらにラジィはいるだろうか?

 いなかったら? その時はその時、改めて情報を集めて別の土地へと向かうだけだ。




 そうして、船上の人になって出港したツァディは、やることもなく海を見つめていた。


「ジィの奴、泣いてなきゃいいんだがな」

「なんだ坊さんよ、あんた泣いてる恋人残して船に乗ったのかい?」


 船縁に頬杖をついていたツァディは、そう船長に背後から尋ねられて苦笑する。


「妹分だよ。我儘で怠け者でやせ我慢ばっかりする、な」

「ははぁ、兄貴分を気取ってられるのは今のうちだけだぜ? その年頃の娘ってのは一回航海に出る間にグゥンと色っぽくなっちまうからなぁ」


 俺の娘がそうだった、なんてガハハと笑う船長に、ツァディは少しだけ不安そうに眉根を寄せる。


「そうだな、成長してればいいんだが――最悪の場合小さくなっている可能性もあるし」

「小さくぅ? ……おいおい坊さんよ、そいつは本当に人間なのか? 血を吸うと若返るとかいう吸血鬼とかなんじゃねぇか?」


 そう不安そうにツァディを見やる船長に、ツァディは己の胸の辺りを撫でながら小さく笑った。


「いいや、ただの天使だよ」

「ははっ、言うねぇ! 分かるよ、俺の娘も俺の天使だったからな!」


 船長は破顔し、ツァディも曖昧に笑った。

 そう、ツァディにとってラジィは幸せに天寿を全うさせてやりたいと願う、この世に二人といない天使である。


 その認識は、ラジィが己の妹分から抜け出して現地で恋人を作っていようと、決して変わることはない。

 ラジィに幸せな人生を歩ませることだけが、ツァディの望む全てであるのだから。




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