■ 065 ■ 救済
貴族街に店を構える、旧ロスタム調の装いに贅を尽くした優美な建物こそ、リュカバースが誇る
ドン・コルレアーニはガラス張りの窓からリュカバースを一望していた。
高級娼館はすこし平民街より高めの位置にある貴族街に居を構えているため、最上階にある寝室は見晴らしもよく、ここから街を一望するのはコルレアーニの割と平凡とも言える趣味である。
己の街、そう。己の街と言っても過言でないほどにコルレアーニが管理している街だ。幾ら眺めても飽きることがない。
あるいは
無論、性欲は性欲で別にあるので、夜ごとに別の
「……明るいな」
吐き出すものを吐き出した後、ベッドで倒れ伏した
日の沈んだリュカバースの街にて、あそこの区画だけが日輪未だここでは沈まぬ、とばかりに闇夜の中で一際明るい光を湛えている。
「何よ、ドンも新色町に興味があって?」
呼吸を整え終えた、今夜のお相手であるミザリーが、コルレアーニの視線を追って咎めるように目を細める。
「まさか。俺は臆病なんでね、安全な女しか抱かんよ。まだ
「そうね。負け犬がみっともなくも足掻き続けて。見苦しいったらないわ」
そう口では語っているミザリーではあるが、その眼光はコルレアーニのそれに勝るとも劣らないほどに鋭く、新色町を貫いている。
「あんなところ早く潰してしまって下さらない? ドン。最近じゃあそこのブタ共が
そうミザリーは
その誇りが、貧民街を這いずり回っていた痩せブタ共と一緒にされることなど許せるはずもない。
「まったくだ、実に馬鹿らしい話だな」
脚の上に乗せたミザリーの、その豊かな胸を弄びながら、しかし、と内心でコルレアーニは続ける。
実際のところ、顔と肉付き、そして芸の技術を除けば新色町の上位娼婦は
まだ新色町の娼婦たちが身につけているのは話術だけ。数多の楽器の演奏をこなしたり妖艶な舞いを披露したりなどの技術はない。
だが娼婦たちの肢体の価値、つまり唇や肌の艶や髪の美しさといった器量以外の面においては、確かに新色町は高級娼館に並びつつある。
シェファはドン・コルレアーニの後ろ盾で高級娼館の奥方に上り詰めたミザリーとは違い、独力で奥様と呼ばれる地位を手に入れた才媛だ。
思考、知識、判断力、目利き。その全てがシェファとミザリーでは比較にならない。ミザリーが勝ちうるのはまだ二十代前半という若さと美貌だけだ。
だがその点において、コルレアーニはミザリーに不満はない。コルレアーニが娼婦に求めるのは美しさと甘え上手と抱き心地だけで、己の政治に賢しらな女の口が挟まれるなど以ての外だからだ。
「そう遠くない未来にあそこも俺が手に入れるさ、気にすることはない」
流石に、コルレアーニも潰してしまうとは言い切れない。この街における物と金の出入りはコルレアーニはほぼ把握しているのだ。
特筆すべき新たな物資や素材を確保することもなく、シェファは底辺の娼婦たちを
その才覚は流石にコルレアーニも捨て置けない。金になるものは、コルレアーニは例外なく大好きなのだ。
「その際にはちゃんとあの阿婆擦れを、今度こそちゃんと始末して下さるのよね?」
「分かっているとも。ただそのほかの女は許してやれ。俺の金になるんだからな」
「ふふっ、優しい人。そういう優しさは、アンッ、私だけに、向ければっ、いいのにっ!」
ミザリーの頭を撫でながら、コルレアーニは二度目の欲望をミザリーの中に放つ。まだまだお楽しみの体力も精も残っているが、今日はここまでにしておくべきだろう。
コルレアーニは今年で御年五十二だ。まだ枯れ切るには早いが、流石に最近は回復も遅くなってきているし、明日の楽しみも残しておきたい。一晩で全てを吐き出す必要もあるまい。
快楽の余韻にコルレアーニが浸っていると、
「おぅい、邪魔するぞコルレアーニィ……」
ノックもなく先触れもなく、一人の男が当然の顔でコルレアーニの占有する娼館の最上位部屋に入り込んでくる。それを娼館の職員もコルレアーニのソルジャーたちも止めようとすらしない。
手入れされていないくすんだ濃紺の髪を揺らしながらフラフラとコルレアーニに近づいてくる男は、年頃は三十路前後か。服装は何の変哲もない庶民のそれで、顔立ちも若干隈があるぐらいでよくも悪くもない、痩せ肉の、普通の男だ。
ミザリーなど視界に入らないとばかりにベッドに近寄ってきた男はその脇机上にあった酒瓶を手に取り、グビッと喉を鳴らしながらそれをラッパ飲みする。
「……今夜はここまでだミザリー、自分の部屋にお帰り。次の機会にはいっぱい可愛がってあげるから」
額への口付け一つで、この部屋の主である己を追い払おうとするコルレアーニを軽く非難しようとし――しかしミザリーは口を閉ざした。
それを屈辱だとはミザリーは感じなかった。
コルレアーニを今の位置に付けているのは金と血と暴力であると、コルレアーニの手を借りてシェファを追い落としたミザリーこそが誰よりもよく知っていたからだ。
傍に控えていた禿たちに身体を清められ、布地たっぷりの優美な赤いドレスを身に纏い、
「では次のご指名をお待ちしておりますわ、ドン・コルレアーニ」
「ああ、その時は今日の続きを楽しもうじゃないかミザリー。愛してるよ」
整然と部屋の主たるミザリーが退室した後、
「グラナ、わざわざ娼館に来るなら来ると言ってくれ。此方にも予定というものがある」
コルレアーニは情事のあとのベッドに平然と腰を下ろす青年――グラナに軽く苦言を呈する。
どちらかというとコルレアーニが文句を言いたかったのはそっちではなく、グラナがその口元から薬の匂いをまき散らしていることの方なのだが。
「あと勝手に商品に手を出すな。持っていく時は事前に必要な数を言えと何遍言ったら分かるんだ」
またこいつは恣にウチの商品を使ったな、とコルレアーニは頭が痛くなってくる。リュカバースの麻薬王であるコルレアーニお抱えの魔術師が麻薬中毒とは、ジョークとしては三流だ。
もっともグラナは麻薬では身を持ち崩さないことをコルレアーニは知っているため、あえて苦言のみに留めているが。
「あんなぁコルレアーニ、俺の前に救いを求めて現れる奴が増えれば必要な薬も自然に増える。全ては神の思し召しだ、事前になんかわっからねぇよ」
グビ、とウィスキーをラッパ飲みしているグラナは今にも吐きそうで瞳は絶えず左右していて、どこからどう見ても不審人物でしかない。
「それにお前が来いって呼んだんじゃねぇか。場所も指定しねぇで、探すの苦労したんだぜ? え? あともうパンツはけよ」
だがこのグラナこそがドン・コルレアーニがもっとも頼りにする、ドンをこの地位に留めてくれている懐刀だ。
この男を手元に置いて十五年近く経つが、その間にコルレアーニのライバル格だったボスは例外なく魚の餌になった。敵だったはずの男たちが皆路傍の石以下に成り下がったのだ。
「近々、公開処刑を頼みたい。また中堅のグズ共が色づき始めてるんでな」
コルレアーニがそう伝えると、グラナは焦点の定まらない目で呆れたようにコルレアーニを見やる。
「おっ前ほんっと人としての求心力がねぇんだなぁ。またかよぉ、何回躾に失敗しちゃあ俺に頼るんだよぉ」
「また、と言われても以前の公開処刑はもう三年前だぞ。馬鹿がつけあがるには十分な時間だ」
「俺はこれまで生きてて未だに誰にも楯突かれたことねぇよ? 愛が足りねぇんだよお前には。愛、ちゃんと
グラナがまるで絡み酒のように、平然とこぶしで裏社会の王たるコルレアーニの心臓をコンコンと叩き始める。
お前よりはよっぽど分かっている、という一言を呑み込むのは、ドンがこの男を前にしていつも行なう予定調和のようなものだ。
この男は人を「救済」と称して殺しておきながら、それを愛だの何だのと語る危険人物なのだ。しかもそれを絶対の信仰としているので、そこに茶々を入れればコルレアーニまで殺されてしまう。
「ま、愛がマラにしか入ってねぇお前に何言っても無駄か。心に愛がなければスーパーヒーローにはなれないんだぜコルレアーニィ?」
「私はお前と違って救世になんぞ興味はないのでな。愚民を助けるなど御免被る」
「お前はそういう奴だよなぁ、人を駄目にすることしかしねぇ。だから代わりに俺が救ってやらなきゃいけねぇわけだ。困ったヤツだよお前はさぁ。あと早くパンツはけパンツ。パンツは大事だぜ、クソが漏れても小便が漏れてもズボンを汚さずにすむ」
グラナの信仰を尊重し、それに必要な麻薬を供給する代わりに、グラナはコルレアーニの殺しを請け負う。この二人はそういう関係で結び付いているのだ。
それにグラナが「救う」相手はコルレアーニにとって有用な人材とは絶対に重なることはない。であれば、文句を言う意味がそもそもないだろうに。
グラナが救済と称して生きる価値のないゴミのような連中をどれだけ殺そうと、そんなことはドン・コルレアーニには関係ないのだから。
「で、ぶっ殺すのはどこのどいつだ? 下調べは済んでるのか?」
「ああ、
公開処刑、というのは反抗的なマフィアのボスたちを集め、その前で魔術師を徹底して叩き潰す、コルレアーニの力を示す為の殺戮ショーである。
翻意を持っていそうなボスの抱える魔術師にグラナを叩き付けて、徹底的に蹂躙し四肢を引きちぎり内臓をぶちまけ、残った魔術師の首を雇い主のボスにくれてやるのだ。そうすればどんな馬鹿も従順になる。
コルレアーニはまたいつものを頼む、程度のノリでそう言ったが、
「ローブは着てるか? 現役なら紋章入りのローブを纏ってるはずだが」
「着ているな。その括りなら現役なのだろうよ」
「ひぇ、破門されてない
言われた方は顔をしかめてしまう。
無論、幼気な少女を解体しろというドンからの依頼が悪趣味だから顔をしかめたわけではない。そのような通常の倫理観など、この男は持ち合わせていないのだから。
「現役の
グラナがそう立て板に水のように話すのは本心を語っている時だ、と知っているコルレアーニは急に不安を覚えた。
これまでどのような魔術師相手にも臆することのなかったグラナが本気で嫌がっているのが、長い付き合いから分かってしまったからだ。
「お前が勝てない相手か? それほどまでなのか現役の
「勝てねぇとは言ってねぇよ。ただ投じる苦労に対して得られるものがねぇ、って話だ。今度あの婆さんと会ったら俺はパンツ汚す前に逃げるね」
その戦術に以前、南方布教を志して海を渡ったグラナは撃退されたのだ。
もっとも、別に惨敗をしたわけではない。かなりの数の
「勝てもするし、殺せもするさ。だがな、それをやっても俺が損するだけで最終的には潰されるんだよ」
だが、その戦でグラナは
戦い続けていれば老婆、シン・レーシュの首は獲れただろう。だがその後にまた別の
「信心浅いコルレアーニィ、
グラナは心底嫌そうにそう吐き捨てた。単純に数が多い、というのは強いのだ。零細神教を奉じているグラナは単体としては極めて強力な魔術師だが、所詮はそれだけだ。
人間であることを止めない限り、人は飯食って寝なければいずれ死ぬ。だから大神教が数を揃えて殴ってくれば、どうやっても弱小神教には勝ち目はない。ましてや相手が現役の
「だが、この街にいる
冗談じゃない、とばかりにコルレアーニが問い返すが、グラナは首を縦には振らなかった。
「馬鹿言うな、
そうとも、
だが、その結論はコルレアーニの真実と矛盾する。
「それはないぞグラナ。このリュカバースには
「ねぇねぇ、それはぜってぇにねぇよコルレアーニィ。あいつはら複数人いて初めてモノの役に立つ軍隊だ。それは
両者の主張は完全に食い違っているが、お互いに相手を騙す気などなく本心で対話をしている。
信頼があるが故に、だからこそお互い苛立ちよりも不可解が先に立つ。
「だが……実際に一人しかいないのだグラナ。私を信じろ。この一年以上、ずっとあの小娘はほかの
「いや無ぇって。そんな
チビリとウィスキーの瓶を呷ったグラナはその可能性を吟味した。
「……そいつは強ぇのかコルレアーニ」
「ああ、強いな。ハリー、チャンは愚かアンニーバレお抱えの魔術師まで完全に手玉に取られてやがる」
コルレアーニとてグラナがいなければアンニーバレは脅威と感じていただろう。実際、
だからこそ三年前、
釘を刺しておかなければ、必ずアンニーバレは己の首を
「見た目がいい、ってさっき言ったな。嫉妬は買いそうか?」
「同年代の同性からなら買うだろうな。まだ子供だが、あと三、四年もすれば匂い立たんばかりの美女になるだろうよ」
続いての問いも肯定され、グラナの顔に納得の色が強まっていく。
「強くて美しい
「そこまでは分からん。だが恐らく……庶民だと思う。貴族なら孤児を使った貧民街の立て直しなどまず考えもしないだろうしな」
そこまでコルレアーニから聞き出したグラナは膝を叩いた。
であれば、成立する。
「公開処刑なんざ許さねぇコルレアーニ。そいつは俺の救済対象だ」
そうグラナがやる気を見せ始めた理由がコルレアーニには分からない。
救済する、ということはグラナは結局その
グラナの言う救済は対象を殺すことにあるのだから、その二つには差がないようにコルレアーニには思えるのだが……
「処刑など論外だ、そいつは俺が救ってやらなきゃ誰にも救われねぇ哀れな子供だ。俺が、俺が救ってやらなきゃならねぇんだ。邪魔をするならお前を公開処刑するぞコルレアーニィ」
初めてのグラナの変貌にコルレアーニは戸惑いを隠せなかった。コルレアーニが望む処刑対象とグラナの救済対象はこれまで一度として被ったことがない。
というのもコルレアーニが死を望む相手は才能ある魔術師であり、グラナが救済するのは決まって何の能力も持たない無能ばかりだったからだ。
ここにきてなぜグラナが
「ふむ、まあ私としてはあれをウルガータの元から排除できれば構わんが――さっきはあんなに嫌がっていたのに構わないのか? まさか負けたりはせんだろうな?」
魔術師の機微に疎いコルレアーニはそう尋ねてしまうが、グラナは酒と麻薬で感覚がおかしくなってきたか、涎のみならずその両目から涙までぼとぼとと零し始める。
「一人しかいねぇならどんなに優れた
グラナはその
だから、ならばその死を迎える瞬間だけはグラナが救済してやらなければならない。グラナの神の庇護を与えてやらねばならない。その命に価値を与えてやらねばならない。
「哀れな子羊、そいつの名前は?」
「ラジィ・エルダートだ。白髪青目、ウルガータのシマに教会を構えていて、聖霊銀と緋紅金の剣で武装している。聞くところによるとかなりの難敵だぞ。油断するな」
「心配するな、救済に一切手は抜かねぇ。それが俺の聖務だからな」
グラナもまた魔術師、即ち神に仕える神官なのだ。である以上、己の教義に従い神のご加護でこの世を救う使命を胸に秘めている。
そしてそれがご加護の証たる魔術を引き出せるならば、それは間違いなく人類救済の一側面であるのだ。
どのような神も全て、人を救い魔獣を駆逐する為に存在するのだから。
「ラジィ・エルダート、お前は俺が救ってやる。もうお前は二度と理不尽に苦しまなくていいんだ。俺がそうしてやる、絶対にそうしてやるとも」
人を救う。その聖務を為す。
それこそがコルレアーニの懐刀であるグラナの唯一の
そしてその行いを神がお認めになっているからこそ、グラナはこれまであらゆるドンの敵を排除してこれた、リュカバース最強の魔術師なのだ。
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