■ 055 ■ 大淫婦エルダート




 そうして、ラジィから石鹸を受け取ったシェファは本格的にウルガータ管区貧民街であるペントラ区、及びクロップ通りの改革に乗り出した。

 

 先ずは配下の娼婦たちに情事後はキチンと石鹸で身体を洗うことを徹底し、衣服もまた孤児を洗濯要員として雇い、ラウラら娼婦たちを日常生活から切り離す。

 これにより家事の時間を更なる勉学と自己研鑽に用いられるようになった他、マメやあかぎれとは無縁となり、日中に外に出なくても良くなったラウラたちの肌は白く、指は白魚の如く傷一つない。

 爪は丁寧に磨かせて形を整え、肌は肌で、


「シェファ、これ、石鹸のあまりで大量にできてるんだけどなんか上手い使い道ある? 甘味料の替わりぐらいにはなるはずだけど」


 ラジィがゴミの始末に困る、といった態で突きつけてきた大量のグリセリンにシェファは狂喜乱舞した。むしろシェファにとっては石鹸よりこっちの方が有用まである。

 石鹸の副産物であるグリセリンは舐めて甘味、また化粧品として保湿、潤滑剤に使える多機能素材だ。当然、ローションとしても使用できる。


 ラジィから供給されるグリセリンを遠慮なく投入、たっぷり保湿されたシェファ配下の娼婦たちの仕上がりはもはや、市街地にいる他の娼婦たちとは完全に一線を画した。

 瑞々しいきめ細やかな肌、ぷっくり湿った唇と頬。怪我一つない肌に整えられた爪、綺麗に磨かれた白い歯に、男たちを魅了する表情と仕草。質素ながらもセンスの良い衣装。


 そんな女の子たちが、しかも一度取った客の顔はキチンと覚えていて、二度目の客は「おかえりなさい」と出迎えてくれるのである。

 あれから再度リュカバースを訪れたウドは完全にラウラに転んだ。コーレも別の子に転んだしその同僚たちも次々と同じ道を辿った。


 なんと言っても肌触りが違うのだ。潮風厳しいリュカバース生活でありながら、掌に吸い付くようなしっとりとした潤いたっぷりの肌の質感。

 とても下級娼婦のそれとは思えないそれには大銀貨を投じたとて何らの後悔も無い。


 リュカバースに停泊する船から降りた船員たちは、一部の高級娼館通いを除いて皆ラウラたちにぞっこんになったのだ。

 もはやラウラたちは街に出れば客などよりどりみどり、というか街に立たずとも船員たちが自らラウラたちの元へ訪れる程だ。

 ここにきてようやく、客自身が自ら足を運ぶ娼館としての形が整ったわけである。


 と、言うか、


「嘘だろ、空いている子が一人もいないって……ああ、海神は我を見捨てたもうたか!」

「ごめんなさいね、次は、次にいらした時には絶対にサービス致しますので!」


 完全に需要に対して供給がまったく足りてない。これぐらいの子しかもう残っていないという意味で、まだ十歳にも満たない子に頭を下げさせる。そうすると流石の荒くれ者たちも仕方ないと引き下がってくれるが、これでは逆にヘイトを溜めてしまうばかりだ。


「こりゃあ望外の幸運であり悪運だ、一息吐いている暇はなさそうだね。フェイ、路地裏の街頭娼婦たちを根こそぎ連れ帰ってきな!」

「はい奥様。直ちに」


 そろそろラウラたちの教育も一段落し、またどう考えても人数が足りないとあり、他の底辺娼婦その日ぐらしたちもごっそり纏めてシェファが引き取りラジィが健康にしたうえで再教育を始めた。


 あっという間にリュカバース港付近の裏路地からは綺麗さっぱりやせ細った人影が消え失せた。

 シェファの元を去る娘など一人もいない。なにせタダで教育が受けられて食事は支給され服も他人に洗って貰えて、自分の身体も情事のあとなら必ず臭わない石鹸で洗える、ときている。


 この状況から抜け出してストリートチルドレンに戻りたい娘などどうして現れようか。

 ラウラたちを見て、自分もああなりたい。美しくなりたい。綺麗な衣装を着たいと、その一心で真面目に学ぶ少女らにはラジィのバフがモリモリだ。


「うへー、一段落したと思ったら新しい生徒追加かぁ。いくら支援料免除だからって安請け合いしたかなぁ」

「でもこれも人道支援だし。一緒に頑張ろう、ティナ」

「あーまーそーですね。一応これも人助けですもんね。あー、本国に娼婦育ててますって知られたら益々肩身が狭くなりそう……」


 教育を終え、一人、また一人と彼女たちはルイゾンやフルールが仕立てた服を着て街に立ち、稼ぎ、お金をウルガータやブルーノの懐に落とし始める。


「……元々は底辺だったくせに! 調子に乗ってんじゃないわよ!」


 ラウラたちに客を取られた、元々はラウラたちより遙かに金を稼いでいて、今は完全に落ちぶれている少女たちが難癖を付けに来ても、


「あんたたちが望むなら、同じ環境においてやってもいいよ? もっともこっちへの移住が必須だがね」

「……本当に?」

「本当だとも。ただそこから先は実力の勝負だよ」


 シェファは当然のようにその子たちをも取り込んだ。

 最初から、一人も逃すつもりなどシェファはなかったのだ。


 最終的には娼館所属を除いた、リュカバース平民街全ての街角娼婦を支配下に置く。それがシェファの目標だ。

 元高級娼婦クルチザンヌであるシェファに銀梅呪スフィリスの治療薬、石鹸、保湿潤滑剤入りの化粧品まで揃えば向かうところ敵無しである。


 他のボスたちが経営している娼館には流石に手を伸ばせない、というか最初から伸ばさないが、街角娼婦はシェファがこれでほぼ掌握した。

 そうやって街に立つ娼婦のほぼ全てがペントラ区、及びクロップ通りに納まれば、当然のように布屋ギルド、染物屋ギルド、毛織物ギルドもまた両地区に親方、ギルド員を新たに住まわせて欲しいと向こうから願い出てくる。


 ここでウルガータやブルーノのシマにいる親方の徒弟から新たな親方を選出させることもできた。ペントラ区とクロップ通りは今やそれだけの優良物件になっているのだ。

 だがあえてシェファは両者に頼んで、元のシマを問わず腕利きの親方をギルドに選出させた。


 幸い服の素材の良し悪しは元高級娼館入りしていたシェファやルイゾン、フルールが見れば一発で分かる。

 その上で親方たるに相応しい実力を示す「代表作マスターピース」まで見比べての選別だ。


 ペントラ区、及びクロップ通りはあっという間に活気で賑わい始める。

 人が集まればいろいろな道具が物入りとなるし、他のギルドからしても参入のチャンスとどんどん親方が移住を求めてくる。大工、屋根工、鉄工、製靴、それらが次々とだ。


 現地から弟子と下働きを雇うことを条件に、ウルガータとブルーノはこれを受け入れた。

 次いでラジィが元から両者のシマにいた孤児たちから希望者を募って、これら親方の下に送り込む。


 盗みやサボりなど決して許されない、ということをラジィに最も骨の髄まで染みこまされた子供たちだ。

 小銭をちょろまかしたりはしないし、読み書き計算の勉強も終えている。使い勝手は良く親方たちから不満の声は上がらない。


 下働きとしてだけでなく、正式に親方に弟子入りした孤児たちもチラホラと出始めた。

 ようやく孤児への散財へストップをかけられて、ラジィとしても胸をなで下ろせる。既に海賊と奴隷商から巻き上げた金は残り一割を切っていたからだ。

 ウルガータやブルーノのみならずラジィ自身もまた散々身を切った初期投資が、ようやく収穫にまでこぎ着けられたのである。




 ほぼ全てのリュカバース下級娼婦(なお、中級は他のボスが経営する娼館にいる娼婦だ)を手中に収めたシェファはここで、娼館の組織構造に改めて手を入れた。


「最初だから費用対効果度外視で操業していたが、こっからはちゃんとお前たち一人一人を査定していくよ。いい暮らししたかったら真面目に取り組むんだね!」


 稼いだ収入に応じて、使用できる物資に少しずつ差を付け始めた。要するに娼婦の格付けを本格的に始めたのだ。


 今やラジィたちが作る石鹸はティナの発案で柑橘系の匂いを付けた新製品なども開発されているが、これらを使用できるのは稼ぎ頭の一部の娼婦のみ。

 それ以下は普通の硬石鹸とし、また稼ぎ頭たちには一人に複数の孤児を付けて洗濯や炊事以外のあらゆる家事からも解放してやる。ほぼ高級娼婦クルチザンヌと大差ない扱いである。

 最下層の娼婦にはグリセリン入りの化粧品は供給しないなど、上を手堅く支援するのみならず、下には風当たりを強くし始めたのだ。


 こういった改革にラジィは当初難色を示したが、


「いいかいジィ、競争ってのはどんな社会でも絶対に必要なんだ。ああなりたいっていう目標があるから人は努力するのさ」

「シェファの言わんとすることは分かるのよ。けどね……」


 競争する、ということは頂点ができると同時に底辺ができるということでもある。

 であればまた、この新たな色町の中にかつてのラウラのような存在を、今度はラジィたちの都合で作り上げるということだ。


 それじゃ結局何も変わらないじゃないか、とラジィとしては思うのである。

 だが、


「そうじゃないよジィ。私たちはあの子たち全員に同じ教育を受けられる環境を整えた。分かるかい? 今度こそ正しく『努力しなかった奴』が苦労するんだ。それは絶対に必要なことなんだよ」


 そう。これまでは娼婦と呼ぶことも躊躇われる最下層の娘たちは、教育と安寧を享受できる立場では無かったから、成長もできず余裕も持てなかった。

 だが今は違う。皆が同じ屋根の下で、同じ教育を受けられる。最低ラインが横一倍で共有されるようになったのだ。


 上を狙って努力をしたものが正当に評価される。そういう構造じゃなければ人は熱意を失ってしまう、とシェファは説き、


「それにね、ある程度安く買える子も残しておかないと船員たちから恨まれちまう。分かるだろ? 全ての客が高級品だけを求めるわけじゃないってさ」


 全てが高嶺の花になってしまっては困る、という現実的な忠言にはラジィとて頷かざるを得ない。


「むぅ……確かに船員を敵に回しては港が立ちゆかないわね。仕方ない、か。だからってお客に乱暴に扱われることだけは絶対に許さないでね」

「勿論さ。そこは私を信用しなよラジィ。同じ女だ、無下には扱わないさ」


 最終的にラジィもその言を受け入れた。

 ただし、


「では、私からも要求を一つ追加するわ。どれだけの稼ぎがあろうと『同僚を見下したり妨害したり、悪意のある流言を流したりする奴』は絶対に評価を上げないで」


 そうラジィに注文されて、シェファは頷いた。

 それはもっともな理由だし、何よりその言葉の裏に隠されたラジィの本音が、嵌められて娼館を追われたシェファにもある程度理解できてしまったからだ。


「貴方もよシェファ。もし貴方が自分に従順な、おべっか使いだけを優先して取り立て不当に他人を非難するようなことがあれば、ここまでできあがった全てを台無しにしてでも私は貴方を排除するわ」

「……あい分かった。女神のお言葉だ。そういうことは私が意識できる限りやらないと、今ここで地母神マーターとラジィに誓おうじゃないか。フェイ、お前も忖度せず私を見張るんだよ。それが直臣の仕事だからね」

「それが奥様のお望みであれば、全身全霊を以て取り組みましょう」


 ラジィを慮ったシェファは更にもう一手を打った。

 リュカバースから他のリュキア王国各地へ輸入品を運送する馬車商人たちに金を掴ませて、新色町を喧伝させたのだ。


 何も客は船乗りのみに限定する必要はない。リュキア国内からも客を取ればよい。一晩に色町を訪れる人が一定数に達すれば、底辺でも客は取れる。

 これにより客が全く取れず食いっぱぐれる娼婦というのはほぼいなくなった。新色町は更なる人出で賑わいを見せる。


 ただ船乗りはほぼ男しかいなかったが、こうなると女性の客、というのも多少ながら現れるわけで。

 手段を問わず高収入を、と望む孤児たちから新たに男娼まで教育せねばならなくなったのはシェファにとって多少の誤算ではある。




 夜の町が賑わい始めたこともあり、ウルガータとブルーノは新たに賭博屋の営業も手がけ始めた。


「賭博は恨みを買いやすいわ。恨みがそこかしこに蔓延はびこりだしたらこれまで積み上げた全てがパァよ。荒稼ぎは絶対に禁止!」

「へいへい、女神様の仰せの通りに」


 もっとも度を超えたイカサマはラジィに禁じられ、かなり真っ当な経営を強いられたが、それでもやはり賭博は強い。

 胴元が絶対に損をしない程度の掛け率であってもそこそこに金が入ってくる。不快にならない範囲の損なら、客はいくらでも金を貯めて戻ってくるのだ。


 むしろあえて負け続きで熱くなってる客には従業員側から娼婦を送り込んで、


「お兄さん、そんな熱くなっちゃって次に負けたら夜を過ごすお金がなくなってしまうわよ?」

「え、あ、そ、そうだな。で、でも次、次は絶対勝てるような気がするんだ!」

「それで負けたらほら、想像してみて? 周りはみぃんなお相手がいる中、一人寂しいベッドで寝ることになるのよ」

「……」

「わざわざこの町にきてそれは寂しいでしょ? ね。ほら、悔しい気持ちは分かるけど、人助けだと思ってお金は町の子たちに恵んであげて。勿論、私にでも、ね」


 意識を色欲に向けさせ強制的に勝負を打ち切るまでやるほどに、ひたすらに手堅い経営を(ラジィの指示で)二人は維持する。

 人心の荒廃はその土地の荒廃だ。荒れた人間が一人でも暴れれば、それだけで町の雰囲気は悪くなるのだから。


 新色町――元ペントラ区及びクロップ通りは陽気な活気に満ちあふれた。

 その結果としてウルガータとブルーノは住人たち――即ち元孤児や職人、親方、他のシマから移住してきたリュカバース民全体から絶対的な信頼を勝ち取ったのだ。


 ウルガータとブルーノはヒーローだった。そうなるように徹底的にラジィがプロデュースしたのだ。

 ことある毎にラジィは「お前たちの給料はウルガータ、レンティーニファミリーから出ているのだ」と触れていたのがキチンと根を張り、今や立派な大樹となったのである。

 無論、名だけではなく時に暴力に晒されそうになった娼婦たちをファミリーのソルジャーがきちんと守ってきたという実績もあればこそ、名実ともに二人は頼れるマフィアのボスとして慕われるようになったのだ。


 今やウルガータ、レンティーニファミリーに入りたがる者たちは後を絶たず、厳選が必要なほどだ。

 ラジィから警邏を任されていたヒューゴやコニーら初期グループの兄貴分たちはファミリーの見習いとして数えられ、小綺麗なスラックスとシャツが与えられた他、アウリスや他のマフィアから戦闘訓練も受けている。


 ヒューゴやコニーがウルガータやブルーノに感謝し憧れるように、ヒューゴやコニーもまた孤児たちにとっての憧れとなった。

 孤児たちはリュキア騎士になど全く憧れず、名誉ある男たるギャングスターにこそ憧れを抱くようになったのだ。


 真面目で責任感が強く、犯罪行為に難色を示すヒューゴやコニーがことあるごとに「ジィ――ラジィが怒るからそれは駄目だ」と孤児たちを厳しく取り締まる。

 その結果としてこの新色町は「ラジィという少女がウルガータ、ブルーノ両者から信頼され全てを任されている」という噂が広がり、さらにラジィは常に、


地母神教マーター・マグナの神殿騎士、ラジィ・エルダート」


 と自己紹介をするため、地母神教マーター・マグナという宗教をよく知らないリュカバース市民、またリュキア国民は、


「ああ、地神ってそういうことなのね」と新色町を見ては事実と異なる見当違いの誤解を重ねていった。


 今やリュカバースにおいて地母神教マーター・マグナとは愛欲と肉欲の神という暗黙の理解が形成されてしまった。

 後にリュキア王国において「色町に君臨せし大淫婦エルダート」と名が刻まれる歴史の、これが始まりである。





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