■ 053 ■ 娼婦たちの事情




 ウドを送り出し、井戸水で身を清め普段着に着替えたラウラが一階の飲食スペースへ向かうと、


「名前を」

「ラウラです」

「ラウラ、と。これがお前の取り分だ」


 黒服の男に名前を確認され、ラウラ自身の収入として銀貨一枚と銅貨五枚を渡される。

 ウドから支払われた大銀貨ではあるが、ラウラたちの宿代、食事代、衣装代のツケ、化粧代、またみかじめ料に夜の護衛代などが引かれていくと手元に残るのはそれだけだ。


 だがぼったくられているとはラウラは感じない。ウドは気が付かなかったが、夜の街に立つラウラには一人、遠巻きに見張りの少年がつけられていたからだ。

 いや、ラウラのみならずシェファ配下の娼婦には皆一人ずつ、見張り役の子供がつけられている。


 ラウラたちがガラの悪い船員やストリートチルドレンに襲われた場合、彼らが速やかにウルガータファミリーのソルジャーを呼んでくれる手筈になっている。

 マフィアのソルジャーが守ってくれるのだ。これに勝る安心などリュカバースにはあるはずもない。

 これまでそこら辺に倒れていても誰にも見向きもされなかったラウラは今や、マフィアに守られる立場になったのだ。金のためとは分かってはいるが、それでも自分が価値のある存在に思えてきて、自然と顔が綻んでゆく。


 硬貨を握りしめてラウラが本来の家に戻ると、そこは同じように銀貨を手にした少女たちが喜色を浮かべてやいのやいの言い合っていた。ラウラも無言でそこに加わる。


「ラウラ、どうだった? 客取れた!?」

「うん、ほら」


 ラウラが握っていた手を開くと、


「あー、私より銅貨多いー」


 ラウラの手を覗き込んだ別の少女が少し悔しげに唇を歪める。


「いーなー、ラウラのお客さんいっぱいお酒飲んでくれて。ずーるーいー!」

「それでもお代わりしてくれたならいいじゃない。私なんかお代わりなしでひと晩中お相手よ。飲め! 酔え! 潰れろ! 船乗りの癖に財布の紐固すぎ!」

「アハハッ、カンナの愛想が足らなかっただけじゃないの?」

「散々甘い顔したっつの!」


 顔覚えたから次はこっちからお断りよ! なんてカンナと呼ばれた少女が憤慨してみせ、それでラウラは思い出した。


「私も忘れないようにメモしとかないと」


 薄い木切れを手に取って、ラウラはそこに昨晩知ったことを書き込んでいく。

 文字が読めないウド、シェーンエルマ号、ヤシ油、シヴェル大陸のリケ。ウドの好む体位や癖。そういった諸々も次があれば役に立つだろう。


 シヴェル大陸のリケはどこにあるどんな街か分からないから、これはティナ先生にあとで質問だ。

 一ヶ月前、今日をどう生きるかしか考えられなかった頃の面影などラウラたちにはもうどこにもない。


 ラウラたちは前を向いて生きられるようになった。それはそれでいいことなのだが……




      §   §   §




「は? 石鹸を使わない?」

「ああ、悪臭が付いて客が取れないから嫌なんだとさ」


 ラジィは頭を抱えた。そういう問題ではないのだ。

 ストリートチルドレンもそうだが、それ以上に娼婦たちのほうがよほど石鹸を使うべきなのだが……


「というか、シェファも石鹸使ってないわよね」

「まあ、臭いからね」


 あっけらかんとシェファもそう物申すもので、どうやらシェファとラジィの常識には想像以上に格差があるようだ。


「何か問題があるのでしょうか、ラジィ様」


 主の命令で今やすっかりラジィに対しても敬意モリモリになっているフェイが不思議そうに首を傾げる。


「すべて衣服は水洗いをして、落ちない汚れのみ石鹸で落としておりますが」

「あーうん、目に見える汚れだけ落とせばいいんじゃないのよ」


 ラジィにそう告げられても、フェイはいまいちわけが分からなそうな顔をしている。

 主の命令がなければ、「汚れ以外の何を落とせってんだ無茶言うな」位は言っていただろう。


「病気の原因っていうのは目に見えないほど小さいのよ、ダレットの受け売りだけど」


 【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】にいた頃、ラジィは【至高の十人デカサンクティ】が【温室ハーバ】、ダレット・ヘイバブの元でもやはり詰め込み教育を受けていて、その際に様々なサンプルを見せられていた。

 病気についての知識もその時に教わったものだ。


「例えば銀梅呪スフィリスだって人から移るわけだけど、フェイはその時のシェファのお召し物、ちゃんと綺麗に洗ったでしょ。それでもシェファは銀梅呪スフィリスを患った。石鹸で綺麗に洗うのはそういった病気にかかる確率を下げるためなのよ」

「むぅ……」


 実際のところ、高級娼婦だったシェファは情事のあとは世話係に全身を丁寧に洗われていたが、確かに中までは石鹸では洗えなかった。

 銀梅呪スフィリスの感染が抑止できないのはそれが最大の理由でもある。


「情事をしなくてもね、肌とか服とかにも病気の元は付いてるのよ。ましてや船乗りって世界のあっちこっちから来てるでしょ? その土地土地の風土病とか、そういうのを荷物と一緒に船乗りは運んでいるの。だから娼婦は一晩毎にちゃんと石鹸で服と身体を洗わないと、皆が同じ病気で最悪死んでしまうわ」


 性病は防げなくても、一般の病気は丁寧に身体を洗うことで防ぐことができる、とラジィが言えば、


「ようやく走り始められたところでそれは確かに勘弁して欲しいね……」


 実際に銀梅呪スフィリスを移されたシェファである。

 流石にラジィの言葉を脅しと聞き流すことはできない。できないのだが……


「とはいえ、ねぇジィ。あの軟石鹸の匂い、そりゃあ孤児ならいいけど娼婦には流石に無理だよ」


 シェファはそう首を左右に振らざるを得ない。元底辺存在のラウラたちはそこまで器量が良いわけでは無い。それを仕草と服と愛嬌と話術でカバーしているのだ。

 そこに悪臭が加われば絶対に客は寄り付かなくなる。そもそも軟石鹸の匂いをかいで、


「お、この子清潔にしてるな。素晴らしい衛生観念だからこの子にしよう」


 なんて考える船乗りなどいるはずがないのだから。

 匂い、体臭というのはそれもまた性欲に直結する重要な要素だ。誰だって悪臭のする相手よりいい匂いの相手の方が気持ちいいに決まっている。


「私から石鹸の使用を厳命してもいいけど、絶対に売上は激減するし恨まれる。それにこう言っちゃ何だが、臭い匂い纏って病気を予防できても誰も喜んじゃくれないよ。むしろ病気にかかった奴を癒やすほうがよっぽど尊敬されるってもんだ」

「うぬぅ……」


 ラジィは呻いた。そう、予防は防いだことが誰にも察知できないから、それをやっても誰もありがたがってくれないのだ。

 病気の予防は娼婦だけでなくウルガータ、レンティーニファミリー、ひいてはリュカバース全体の問題なのだが……


 だがそんな視点でものを見ているのは間違いなくリュカバースではラジィ一人だけだ。

 明日をも知れなかった娼婦たちに一都市規模の安全意識を持て、というのがそもそも無理筋である。


「でも分かるでしょシェファ。今あの子たちは何人の船乗りと関係を持ってる? 十の船があれば十の土地の病気がやってくるのよ」


 交易船というのは売れるもののみを運ぶわけではない。

 病気、ダニやネズミ、繁殖しやすい海藻など、人にとって害のあるものも人知れずあちらこちらにばら撒いているのだ。


「ここは客が厳選される高級娼館じゃないわ。あらゆる土地の船乗りが流れ込んで来る。あの子たちだけじゃなくシェファや私、フェイ、ウルガータにルイゾンやフルールの安全の為でもあるのよ。これは」

「わかるさ、ジィの言うことは理解できたつもりだよ。私だって女神のお願いはなんとかして叶えてやりたいが、こればっかりはねぇ……」


 軟石鹸で洗濯した衣服は香水をダバダバかけて匂いを誤魔化すしかないが、貧民街では香水なんて高級品だ。

 そんなことしてたらシェファの娼館は黒字どころか大赤字である。


 一先ず軟石鹸の使用は各自の判断に任せ、ティナの授業に病気の原理を組み込んではみたのだが、全く改善は見られない。

 これには完全にラジィも困り果ててしまった。

 当たり前だがラウラたちにとっていつか罹るかもしれない・・・・・・病気の予防より、今日手に入る銀貨のほうが比べ物にならない程に重要なのだ。


「こう言っちゃなんだがジィ、この問題は多分誰か身近なものが死ぬまで――いや、死んでも変わらないかな。彼女たちはそういう世界で生きてきたんだ。それが当たり前なんだろうよ」

「……命が軽いわ」


 困ったことにラウラたち自身がある程度稼げるようになった今ですら、自分たちが明日死ぬ可能性をある程度許容しているのだ。

 彼女たちはそれで良いのだろう。しかしこう言っては何だが、そういう考え方で病気を運び込まれたらラジィやウルガータのほうが堪らない。道連れは勘弁なのだ。


「くぅ、欲を出して元も子もなくしては話にならないわ……何とかしないと」

「ジィは臭わない石鹸の作り方とか知らないのかい?」

「知ってるけど……手間がかかるし、そんなことに金つぎ込んでたら益々赤字だわ」


 公衆衛生は確かに大事だ。しかしそれ自体はやはりというか金を生み出すものではない、要するに清掃と同じなのだ。


「お金、お金、お金が足らないわ! このままじゃ破産よ!」

「とはいえ、臭わない石鹸が作れれば一先ず娼館の健康は保てるわけだろう? やってみてもいいんじゃないかい?」


 そうシェファに促されるがラジィとしては苦い顔だ。


「あのねシェファ、銀梅呪スフィリスの薬と違って一定期間飲んで終わりじゃないのよ。恒常的に石鹸は作り続けなきゃいけないの。その製造費は誰が出すのよ。人手よ人手、人件費! 孤児を回すにしても到底足りないわ。その孤児たちだって今は家賃ロハ状態のほぼ赤字だし!」


 むぅ、とラジィが唸っていると、今クロップ通りの警邏を任されているはずのヒューゴが、


「ジィ、ここにいるか!?」


 慌てた顔で娼館に飛び込んできた。


「どうしたのヒューゴ。ブルーノが裸踊りでも始めた?」

「んなわけないだろバカ! なんか他のシマから昔の俺たちみたいなのが一斉になだれ込んで来てるんだ。どうやら他のボスに何か吹き込まれた上でシマを追われたみたいで、自分たちにも仕事を寄越せって喚いてる」


 ラジィは頭を抱えた。

 どうやらラジィが孤児を助けているのをいいことに、自分のシマのストリートチルドレンを他のボスたちは体よくラジィに押し付けることにしたらしい。


 いわゆる難民攻撃である。生産力が低い連中をガンガン押し付けて治安の悪化と散財を強いるという、人の善性を逆手に取る外道の手段だ。

 これがあるから地母神教マーター・マグナは自らの行いに対価を要求し、無償の奉仕をしないわけだが……


 孤児から儲けが出ていない現時点では、他のシマからみればラジィのやってることは完全に無償の奉仕だ。

 どうやら地母神教マーター・マグナの奉仕に金を使わせウルガータを破産させる、もしくは孤児をウルガータに殺させて今の関係を破壊する腹積もりらしい。


「でもまあ、人手は増えたね」


 ボソッとシェファにツッコまれてラジィは覚悟を決めた。

 とりあえずいつ黒字になるかはさておき、目の前の問題どもを大人しくさせねばせっかく綺麗になった貧民街の平和がパァだ。


「ああもう! ヒューゴ案内! ああいうのは最初が肝心だし、所詮は余所様よ! 後から美味しいとこだけ持っていこうとする物乞いクレクレ君連中なんて徹底的に叩き潰すわよ!」

「了解だ、助かるよ」


 とりあえずヒューゴの先導に従って走りながら、ラジィのイライラは怒髪天を衝く勢いだ。


「現場に着いたらヒューゴはコニーと警邏隊を率いて私の打ち零しを仕留めなさい。やりすぎるくらいでいいわ! 複数人で一人を相手取って、決して逸った突出はしないように! 貴方たちの安全が最優先だからね」

「任せてくれ! コニーは既に現場にいるから合流して退路を塞ぐ、やってやるよ!」


 そうして現場に急行したラジィは「なんだ、こんなガキが代表かよ」なんて見下してきた連中を当たるを幸い、ちょっとやりすぎじゃね? とヒューゴたちが怯えるレベルで死なない程度にボコボコにした。

 ……まあ、単なる八つ当たりである。




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