■ 050 ■ 裁縫師の悩み
「それでは、期日までに仕上げて頂戴ね」
裁縫師たちに背を向け広間を去って行く高級娼婦たちがいなくなった後、ルイゾン・ケクランは軽く溜息を吐いて爪先から視線をあげた。
高級娼婦は貴族同様の扱いだ。許可が出るか、その場から立ち去るまで庶民である針子には顔を上げる権利はない。
もっとも、それが疎ましくて零れた溜息ではない。ルイゾンには今日も発注がなかったことがその原因だ。
「あら、負け犬は今日も受注ゼロでいらっしゃるのね」
「恥知らずにも男がこんなところに堂々といられるのですもの、そのおかしな感性が服にも滲み出ているのでしょう」
そんな陰口もいつものことである。そう、今年三十歳になるルイゾン・ケクランは歴とした仕立屋ギルドの一員であり親方であり、そして男だてらに女性もののドレスを仕立てる針子であるのだから。
通常、高貴な女性は異性に肌を見せないために採寸なども行なう針子は同性が絶対である。
しかし高級娼婦となるとまた事情が異なってくる。彼女らは男に抱かれることが仕事のため、異性に肌を晒すことの抵抗が薄い。
そういう事情もあって男の針子が高級娼婦の衣装を仕立てる機会もこのリュカバースではありうるのだ。
いや、あったと言うべきか。
――シェファ様が奥方様であった頃が懐かしいな。
そうルイゾンは内心で二度三度と溜息を重ねる。そう、かつて奥の院と呼ばれる高給娼館最奥の間の主だったシェファが奥方だった頃には、ルイゾンは幾度も受注を得ることができていたのだ。
シェファは性別でルイゾンを差別することはなかった。贔屓することもまた無く、デザインと刺繍と仕上がりで仕立屋を選んでくれた。だからこそルイゾンは己の腕を磨くことに夢中でいられたのだ。
だが、今はどうか。
最近の高級娼婦たちは美しさはあっても美しいものを見る目がない。審美眼を磨いていない。
それが高級品であればいまいち合わない宝石とドレスを同時に身につけたりもする。全くセンスがないわけではないが、センスを磨く努力もしない。する意味がないのだ。
パトロンが、ドン・コルレアーニであるが故に。
その地位を追い落とされる心配がないから、彼女らは自らの美しさと肉体とおべっかのみを磨いている。
脱ぐ前の女性に、ドン・コルレアーニは高級品を身につけていること以外を望まない。センスではなく値段なのだ。娼婦の服など脱がして終わり。それがドン・コルレアーニの価値観なのだ。
だから一方的に高級娼婦たちを責めるのは間違いだとルイゾンは頭では分かっている。客の求めるものを提供するのがプロだ。高級娼婦だってそれは変わらない。
高級娼婦たちに嵌められてシェファはこの高級娼館を去った。
接待が欠かせない重要な客だ、と娼館の運営を脅し、そして他の高級娼婦は病気と称して仮病を使い。
そしてその客の相手をせざるを得ない状況にシェファは追い込まれ、
黒幕が誰であったのか、庶民であるルイゾンには分からない。ドンなのか、運営か、高級娼婦のだれかか、もしくはその全員か。
シェファは知っていたのかもしれないが、シェファはシェファで醜い姿で人前に出たくない、と復讐より隠遁の道を選んでしまった。
身の回りの世話を任せていたフェイ一人を連れて引き籠もったシェファには、今はウルガータやチャン・ロンジェンといった、過去に彼女と深い付き合いがあった一部の男しか会えないと聞く。
ルイゾンも面会を求めに行ったのだが、フェイに門前払いされてしまった。
「私がウルガータやチャンを通すのは、あいつらが美のなんたるかなど分からない馬鹿だからです」
と言われてしまって、要するに「美のなんたるかを知っているお前には見せたくない」という意味だとルイゾンは理解し、面会を諦めた。
美しいものを好む同士だからこそ、シェファは己の前に出てはくれない。それはルイゾンにとって最高にして最後のシェファからの評価だった。
そうやって過去を懐かしみながら、ルイゾンは高給娼館から己の工房へと戻ってきたため、
「悪いね、ルイゾン。留守だったから勝手にお邪魔しているよ」
己の工房にいるシェファは己の願望が生みだした幻なのか、と一度扉を閉めて道路にしゃがみ込み頭を抱えてしまった。
情けないルイゾンめ、過去に依存するあまりに幻を見るとか底辺まで落ちたかクソ針子め、と己を叱咤して再び扉を開くが、結果は同じだ。
「……あんた、なにやってんだい? 別に入る家なら間違っちゃいないよ」
口調こそ下町のそれに汚染されているが、いや、だからこそそのシェファの声は幻聴ではない。
現役の頃のシェファはこんな雑にルイゾンへ声をかけたことがないのだから、これはルイゾンが頭の中で合成した偽物などではない。
「シェファ、様」
「久しぶりだねルイゾン。元気でやっているかい?」
そうシェファに快活な声を投げかけられて、思わずルイゾンは己の店で跪いてしまった。
「お、奥様。ご快癒されたのですね! 何とおめでたい!」
「もう奥様じゃないだろうに。立ちなよルイゾン、私も今やただの一庶民だ。むしろ手に職があるアンタの方が偉いまである。いや、私も新たな職は手に入れたがね」
「新たな職!? まさか、
希望が一転して絶望に代わり、思わずルイゾンは顔を上げてしまったが、
「もうああいうのは懲り懲りさ。それより今は私の救いの女神に恩を返すことの方が優先だよ」
そう笑いながら来客用の椅子に腰を下ろすシェファの仕草は高級娼婦時代から何一つ劣化などしておらず、
「ウルガータのところの貧民街に娼館を作りたいんだ。あんた、弟子の一人でも送ってくれないかい? 親方じゃなくて職人を送る支店の形でもいいからさ」
故に、シェファの新たな職場が貧民街と聞いてルイゾンは開いた口が塞がらなかった。
この、御方が。マフィアのボスや貴族の寵愛を存分に集めたこの女傑が、たかだか貧民街で娼館をやると?
「ああ心配なさんな。
微妙に話が噛み合っていない、とルイゾンは頭を振った。
「お、奥様は本当にそれで宜しいのですか? 清潔で安全だろうと貧民は貧民です。上等な布地もレース地も、色鮮やかな染めもない環境ですよ」
「確かにそれはないよりはあった方がいいだろうが、そこは創意工夫で何とかするさ。その環境内での最善手を模索すればいいだけのことだろ?」
そうシェファに返されて、そうだ、この方はそういう人だったとルイゾンは納得してしまった。
高給娼館でのシェファが金に糸目を付けずに審美眼を磨いていたのは、単にそこには上品な品が集まるからというだけ。
貧民街で高級な品が入ってこないなら、ないなりにそこでの最善を目指す。シェファの生き方は何も変わっちゃいない。ルイゾンが勝手に勘違いをしていたのだ。
「……分かりました。仕立職人が一人必要なのですね?」
「ああ、頼まれてくれるかい?」
「はい、では私が参ります」
「そうかありがとう――って、はい?」
さて、この店をどう畳むか、いや弟子を親方にして押しつければいいかと考え始めたルイゾンの横で、シェファが呆然と目を瞬く。
「え? 何であんたが? あんたはこんな立派な工房持ってるじゃないか」
「今の私に似て形だけの、魂のない工房です。正直私も高給娼館勤めはもう飽き飽きしておりましたので。再び奥様の服を仕立てたく存じます」
「あ、いや、私もそりゃ着るけどさ」
説明が足りなかったか、とシェファは改めて誤解なきよう言葉を選ぶ。
「服を必要としているのは元々は底辺だったそこらの浮浪児なんだ。あんた、それでもいいのかい?」
「私ならそういう要求に耐える、とお考えなればこそ私に声をおかけ下さったのでは?」
んな訳あるか、とシェファは首を横に振った。目をかけたつもりがあったから借りを返して貰おうと思っただけだ。
優れた親方の未来を潰すつもりなんてシェファには更々ない。
「いや、流石にあんたの積み上げたものを崩すつもりはないよ。ただ弟子の修行にはなるかなって思っただけで……数だけは仕立てて貰う予定だったから」
「であれば、尚更でございます奥様。私も本質的には布や糸の質には興味がないのです」
ルイゾンは深々と頭を下げる。
「奥様。我が工房は近年あまり受注を取れず、それ故に扱う布の質も下がり、更にそれが受注から遠ざかる。そんな悪循環の中にいるのだと私は思っていました」
そう。金がないからいいものが作れず、干されていくのだとルイゾンは現実から目を逸らしていた。
「私はドレスが好きで、デザインが好きでこの道に入りました。しかし今の高給娼館ではそれは求められず、それゆえのやる気の無さが私のドレスを無味乾燥に仕上げていたのです」
確かに、高級娼婦たちの路線の違いがルイゾンが受注を取れなかった根本ではあろう。
ただ高級な品が求められるから、受注が取れず質を落とし始めたルイゾンには高級娼婦は発注しなかった。それも事実だ。
だがそれはそれとして、無駄だからとデザインのセンス磨きを止めたのはルイゾン自身だ。
ルイゾン自身が、高給娼館にしがみ付いて上達を放棄する道を選んでいたのだ。
「私も奥様と共にもう一度服飾のなんたるかを磨き直したく存じます。どうか私に来るな、と命じないで下さい」
「……そこまで言われちゃ断れないね、いいよ。私たちを助けてくれるかい?」
「喜んで、奥様」
即答しても、後悔はルイゾンの中にはついぞ生じなかった。むしろ己が生まれ変わったかのような晴れ晴れとした気分である。
もっとも両者のやり取りを聞いていた工房の職人や弟子はとてもそれどころではなかったが。
§ § §
そうして、弟子の一人を親方に推薦し仕立屋ギルドに認可を貰ったルイゾンは、この街最高の高給娼館にて別れを告げる。
以後ルイゾンは身の程を弁えてこの館への出入りを辞退する、と。そう告げた時の周囲の反応は一言でいえば「嘲笑」で終わりなのだが、
「何か貴方、前よりやる気になってるわね。目つきが変わってる、脱落者の顔じゃないじゃん」
そこそこ長い付き合いである仕立屋の一人、フルールに背後からそう声をかけられ、これも最後だしとルイゾンは振り返って頷いた。
今年二十八になるフルールもまた一種のマニアで、ルイゾンを男だからと馬鹿にしない数少ない仕立屋の一人だった。ならば、多少は語ってもよいだろう。
「他人に言うなよ。奥方様――シェファ様が快癒なされた。庶民生活で苦労を重ねたせいか、以後は貧民街での人助けに注力するらしい。私もそれに協力する」
「え、は?」
急にそんなことを耳打ちされたフルールは面白いぐらいに百面相を繰り返していた。
何一つルイゾンの言っている言葉が頭に浸透しない。単語一つ一つの意味は何も難しいことなどないはずなのに。
「マジで?」
「マジだ」
「
「
「
「興味がない。それにシェファ奥様が女神と崇める御方だ。私がその情報を勝手に娼館になど売れるはずがなかろう」
そうルイゾンに返され、たはーと開放的な声を上げて頭の後ろで両手を組む。
「シェファ奥様の女神……何それ興味ある。ね、ね、次の面会にあたしも同席させてよ。シェファ奥方様を貧民街に引き込めた奴とかちょっと見てみたい!」
なおフルールは布が好きで、新しい布地に出会うために仕立屋として腕を上げたという筋金入りの変人である。
その一心だけで高給娼館に招かれるだけの針子になれたのだから非凡ではあるし、ルイゾンにとってはライバルでもあるのだが、結局ルイゾンは頷いた。
どうせ貧民街にはフルールの興味を引くような布地など入ってくるはずもないという確信故であったのだが――
「神がいたわ」
シェファ、そしてその雇い主であるラジィ・エルダートとの面会とペントラ区への仕立屋工房設立手続きを済ませた後。
何故かフルールは前述のようなわけの分からないことを言い始めて、ルイゾンを困惑させた。
「何だ神って」
「信じられない何あの穴あき聖霊銀糸で編まれたローブ? ううん素材はそれだけじゃないもう一つ未知の糸が使われてる。刺繍もただの金糸じゃない、なにあれ、なにあれ! 私の常識が音を立てて崩れていくわ!」
フルールは完全に自分の世界に入ってしまって正体不明だが、語られた言葉の意味は断片的ならルイゾンにも理解できる。
「聖霊銀糸? 見間違いじゃないのか?」
素材に固執しないルイゾンにはラジィの(初対面のため警戒して着てきたのだ)穴あきローブの良し悪しなどは分からない。ただ織り目細かい美しい布だと分かる程度だ。
そう否定するルイゾンにフルールは上気した顔で首を激しく横に振ってみせる。
「いいえ間違いないわ。あれは聖霊銀糸よ。元は金属だから綺麗な布地にはならないはずのあれをあそこまで自然な衣服に仕上げるとか、なんて技術!」
しかし一部の素材を見抜いたフルールにとっては天より零れ落ちた甘露にも等しきお宝である。
しかも数多の布地に触れてきたフルールですら素材が一部しか分からないときている。
まあ、あのローブは【
聖霊銀糸は衣服というよりあくまで防具の素材である以上、素材を見抜けなかったルイゾンが無能というわけではない。というか高給娼館御用達でありながら最高級防具の素材を知っているフルールのほうが仕立屋としては異端なのだ。
「それに着てるほうの子も天使みたいに可愛いかったし。あーあの子で着せ替えっこしたい! 色々着せてみたい!……よし決めたわルイゾン。私をシェファ奥様に紹介なさい。私も貧民街に行くわ!」
何言ってんだこいつ、とルイゾンとしては思ったが、ここで反論すると何故か自分がボコボコにされる未来しか予想できず、怖気から首を縦に振らざるを得なかった。
――ま、期待したものがなければ勝手にドロップアウトするだろうし、それまでは針子としてシェファ様の為にこき使えばいいか。
という極めて下らない理由で、ウルガータ、及びブルーノのシマには高給娼館への出入りが許されるほどの仕立屋二人が着任することになったのである。
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