大淫婦エルダート
■ 047 ■ みをつくしても
ラウラは完全に正体を失って港近くの路地に倒れ込んでいた。
いや、正確に言えば倒れているという感覚もない。冷たい石畳がひんやりして気持ちいい、ぐらいの感覚しかラウラには残っていない。
何故自分がこんなところにいるのか、その記憶すら曖昧だ。
確か、昨晩の客に「しまりが悪い」と酒瓶を突っ込まれたところまでは覚えているのだが……
――もう、このまま寝ちゃってもいいかなぁ。このまま目が覚めなくっても。
そう、仮に二度と目が覚めなくても、いったい何の問題があるのだろう?
こんな人生なんて。
船乗りに身体を売って、なけなしの金を稼いで。
みかじめ料を払う余裕もないから、乱暴にされても誰も助けてなどくれなくて。
それでも、死にたくない一心で十五歳になるまで生きてきたけど。
こんなことやっていて、いったい何歳まで生きられるのか。
もう死ぬ、と思ったことだって一度や二度ではない。
行為中に首を絞められたり、よくわからない薬を嗅がされたり。意識を失うのだってこれが初めてというわけではない。
服ももうボロボロで、身だしなみを整えるために拾い物の割れた鏡の破片に自らの姿を映すたびに、その破片で衝動的に手首を掻き切ってしまいたくなるのをずっと堪えて。
街に立ち、表通りをゆく綺麗な服で着飾った娘たちを見るたびに、いつかは自分もあんなふうにって、そう思う気も失ったのはいつの頃だろうか。
身を守る為に集団で寄せ合って眠る、同業というのも烏滸がましい名も知らぬ娘たちは、自分が寝床に帰らなかったらどう思うだろうか。
分かってる。また櫛の歯が一本欠けたなと、そう思ってくれる人が一人でもいたなら御の字だ。
所詮は、その程度。
だから、もう、いいかなとラウラは瞼を閉じようとして、
「
そんな声が聞こえて、それも幻聴か何かだろうとラウラは目を閉じて、
「……………………ゃだ……」
喉から零れたのは、しかし拒絶の言葉で。
「分かりました。では貴方の道行きを支えましょう。いつか貴方がその旅路を終えたいと願う、その時まで」
そうして、ラウラの意識はそこで完全にプツリと途切れてしまった。
そうして、再びラウラはベッドの上で目を覚ました。
「ここ、どこ……?」
人買いの館、というわけでもないようだ。部屋は清潔で、これまで同業と寝泊まりしていたボロ小屋とは雲泥の差だ。
汚したら弁償だ、と慌ててラウラはシーツをめくるが、自分の体も着ている服にも汚れが見当たらずホッと安心するも、いつの間に自分は身なりを整えたのだろうと不安にもなる。
どうしていいか分からずベッドの上で項垂れていると、
「目を覚まされましたね。実にけっこう」
小さな一人部屋の入口を開いて現れたのは、なんと言えば良いのだろうか。
引き締まった四足獣の体を持つ山羊に声をかけられて、ラウラはもしかして自分は死後の国にいるのではないかと疑い始めた。
「ああ、一応お伝えしておきますがまだ貴方は死んでませんよ? 昨の晩に貴方は自分の心臓を秤にかけることを拒絶なさった。誠実の羽根との重さ比べは未来へ持ち越されましたからな」
分からない。獣が何を言っているのかラウラにはさっぱり分からない。
「おっとこれは失礼。ああいう状況に陥った方は人の顔を見るだけで怯える可能性があると主さまが仰いますので、私めがまずは、と」
その心配はなかったようですね、と獣がベッドのそばにしゃがみこんだ。
その背中にあるのは鞍のような乗騎具ではなく、女性用の一着の古着である。
「この服は差し上げましょう。しかしこの先からは、貴方は自分の力と選択で生きていかねばなりません。
相変わらずラウラには獣が何を言っているのかがよくわからない。前提としての知識にあまりにも差がありすぎるのだ。
だがどうやら自分が善意に縋ることができるわけではない、ということは何となく理解できた。
ベッドから身を起こして服を手に取り、
「雄なので席を外しますね。それでは下でお待ちしております」
獣が退室した小さな部屋でラウラは貫頭衣を脱ぎ捨て、服を着る前に軽く全身を確認した。
どこも、不具合はない。怪我や痣も。
ホッとラウラは安堵の息を零す。なにせこの体はラウラに残された、もうたった一つだけになってしまった最後の商売道具なのだから。
そうして服を着たラウラが部屋の外に出ると、そこはどうやら安宿の様相を呈しているようだった。
扉がいくつも並ぶ先はみな、このような狭い小部屋なのだろう。
廊下を進み、軋む階段を降りた先はロビー兼食堂になっていて、
「おはよう。身体の具合はどう?」
先程の獣を傍に侍らせた、神官のようなローブを纏った少女がニコリと笑いかけてくる。
「悪くない、と、思う」
「それは結構。いま食事を用意するから少し待っててね」
そうしてしばし待たされた後に差し出されたミルク粥を啜ると、温かいミルクの甘みが滑らかに喉を滑り落ちていって、思わず感極まったラウラの瞳からボロボロ涙が零れ落ちる。
最後に人並みの扱いをされたのは、いったいいつだったか。もう、過去のその日を思い出すことすらできない。
泣いて啜って泣いて啜って、そうして少女がお代わりをよそってくれたのでそれも完食して、
「さて、私に無償で支援できるのはここまでね。以後は私も儲けを出さないとジリ貧だから、奉仕してあげることはできないわ」
改めてラウラは少女と向かい合う。
「はじめまして、レンティーニファミリーの用心棒、魔術師ラジィ・エルダートよ。貴方は?」
「あ、ラウラ、です」
「ラウラ、素敵なお名前ね。さてラウラ、私には貴方に何かを強要させる権利はないから、ここからは貴方がどうしたいかね。もとの住処に帰ってもよし、ここで働くなら何が出来るのかを聞きましょう。しかし何もやらない、何もやれない人を生かしておく余力は私にはない。それは分かってもらえるわね?」
「……わかる、ます」
分かっているとも。ラウラは何も持っていない。だからこそ死にかけたのだから。
「最悪、他の子と同じように掃除さえすれば食事は保証するけどね。こっちもみかじめ料を取りたいのよ。稼げる仕事でないと失速するし。ま、それはこちらの都合だからね。貴方がどうしたいかは貴方が決めればいいわ」
どうしたいか、と聞かれたラウラは面食らった。ラウラは何の技能も持っていない。あえて言うなら裁縫くらいか。
他に売るものがないからラウラは身体を売って生活していたわけだし。
「……街に、戻る」
そうラウラが告げると、ラジィはやはり多少は期待していたのだろうか。露骨にガッカリしたような顔になってしまう。
「その、こう、なんかないかしら? 想像だけど、戻った先ってその、かなり酷い環境なんじゃないの?」
「確かに酷いけど、私、他に縫うぐらいしかできないし……」
裁縫だって別段優れた技術があるわけではない。布と魚の骨でもあれば最低限のことはできる、という程度がラウラの裁縫だ。
死体からボロ布を奪って、それを解いて糸にして、残った布で服の穴を塞ぐ程度だ。それを裁縫と言ったら針子が怒るだろう。
「何もできないので場末に戻る」というラウラを前にラジィは頭を抱えてしまったようだった。
「それに、私一人だけこうしているのも心苦しいし」
「……ああ、お仲間がいるのね。そりゃいるわよね」
ますますラジィは頭を抱えてしまって、
「なら、もうそのお仲間全員連れてきちゃって頂戴。なんか考えるから。フィン、案内と護衛お願い」
「主さま、抱え込みすぎると潰れてしまいますよ」
「わかってるけど、流石に人が人扱いされないのを放置してるってカイに知られたら私がただじゃすまないわ。知識担当の【
あー、と椅子の背もたれに体重を預けたラジィが天井を仰ぐ。
「ラウラさんのお仲間は流石に十人は超えないわよね」
「あ、うん」
「ならいいわ、フィン。お願い」
「畏まりました」
§ § §
「というわけなんだけど、二人ともなんかいい方法ない?」
ウルガータ行きつけの酒場にブルーノを呼び出して開口一番、そうラジィはぶっちゃけてしまう。
ブルーノが管理する貧民街クロップ通りの治安が良くなったこともあり、今はウルガータ側の貧民街ペントラ区でも同様にストリートチルドレンに掃除をさせる案は採用されている。
お陰様でウルガータとブルーノのシマは二人が麻薬を取り扱わないこともあり、マフィアの支配域とは思えないほどに綺麗になりつつある。
が、そうなるとこれ以上掃除要員を増やしても正直仕方がない、というのがラジィの本音だ。
清掃はあくまで環境と健康の維持が目的であり、それ自体は製品、引いてはお金を生み出すものではない。
今のところトマスと、あと同様の流れでウルガータ側の貧民街、ペントラ区にも製パンギルドから一人、製パン職人を推薦してもらう予定だが……
「こう言っては何だが、少し急ぎすぎではないか?」
ブルーノがそうラジィの先走りを制してくる。確かに、今の貧民街には人手だけが余っている状態だ。
生産職を誘致すればその手先としての労働者が必要になるから、雇用を作り出せる。平たく言えばギルド員、つまり親方が増やすのが先決だ、ということだ。
「現時点で製パンは来た。その過程で石工、木工は興味を持っただろう」
製パン工房の石窯作り、そして家屋の修繕の為に石工、木工ギルド員がクロップ通りにやってきて、その治安は確認したはずだ。
そちらを突付いてギルドの職人を取り込むことの方が優先度が高いし、何より利益が出る。
であれば焦って底辺を抱え込む必要はなかろう、とブルーノは言っているわけだが、
「そりゃあそうだけどさ、二人は女の子じゃないし、娘とかいないからわからないのよ」
ラジィとしてはそういう底辺船乗りの玩具みたいな立ち位置の女性は見て見ぬふりをしたくないのであるが……
「ラジィ」
「なに?」
「誰にも秘密だが、ブルーノには娘がいるぞ」
「え!? 嘘!?」
思わずラジィはブルーノを見やってしまう。
だがよく考えればブルーノは三十一歳だと聞いている。たしかに娘がいてもおかしくない年だ。というか結婚してたのがまずビックリだが。
「お前さんは用心棒だから特別に教えたが、こいつはボンボンらにゃ秘密だぜ。娘なんざマフィアにゃ弱点でしかねぇからな」
「分かったわ。秘密を知るものは少なければ少ないほどいいものね」
ラジィは溜息をついた。自分の【
もっともここはあらゆる尾行を想定して行動できているブルーノの用心をこそ褒めるべきだろう。【
そんなことを考えていたから、ウルガータとブルーノが目で合図をしていたことにラジィは気が付かなかった。
「一つ質問なんだがラジィ、お前さん薬も作れんのかい?」
なおウルガータが唐突にそう聞いてきたのは、やれガラス瓶だの乳鉢だの天秤だのをまたラジィがウルガータ配下のバルドに用意させたからだろう。
マクローに薬を作る約束をしている都合上、道具がないとどうしようもないということで準備して貰ったのだ。勿論ウルガータの経費でである。
「まあ、ある程度はね。
【
ラジィは憤慨しているが、本来の
というか、その才能に秀でていたからラジィは【
そんなわけで【
そう答えると、ウルガータが何かを企むように、そしてどこか安堵したようにも見える笑みをラジィへと向けてくる。
「それなら話は早ぇ。この問題を解決できそうな奴に心当たりがあるぜラジィ。お前さんがそいつを癒やせるんならな」
なるほど、とラジィは頷いた。
「病んでるのね」
「ああ。一つ恩を売って安くこき使おうじゃねぇか」
ウルガータめ悪い顔で笑うものだ、とラジィは笑った。
もっともそのラジィの顔も十分に悪い顔であったが、それをあえて指摘せずにいてあげたブルーノは恐らくこの場で一番の善人であろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます