■ 044 ■ 束縛された思考
「お、魚影発見。さあ行くわよ! ティナは舟を宜しくね」
借小舟の上でほくそ笑んだラジィはいつものローブとその下に着ているワンピースを脱ぎ始める。
リュカバースから漕ぎ出しさほど陸地から離れずに目標を発見できて一安心だ。
「はいはーい。あ、危ないものは獲ってこないで下さいね」
「……獲ってくるに決まってるでしょうが。そのために来たんだから」
最後に靴を脱ぎ捨て下着一丁になったラジィは聖霊銀剣を掴んでジャイアントストライドエントリー。単身で海に飛び込んだ。
そのまま身体強化をしてバタ足で逃げる目標を追う。
「
そんなラジィの声が聞こえたわけではないだろうが、逃げ切れぬと判断したか。
青と黄色の縞々模様が特徴的な、隊長はラジィにも匹敵するウミヘビのような、それは魚類――いや魔獣だ。
体表で
墨を吐いたのではない。光を遮断する魔術か何かだろう。ラジィは泳ぐのを止めて巻き足で水深を維持。
じっと静かに音を立てず周囲に気配を散じて――
『ジィ後ろ!』
水上から投じられたティナの声が届くや否や、闇の中へ聖霊銀剣を突き入れた。手応えあり! だ。
そのまま手探りで相手の胴を掴んで、ラジィは水上へ顔を出した。
「ティナ、ナイスサポート!」
「まー、これだけが取り柄ですんで。で、そいつがクスリの材料ですか?」
泳いで小舟へと戻ってきたラジィは自分より早くに聖霊銀剣ごとその獲物を小舟上へと放り込んだ。
然る後に腕一本で船上へ己の身体を引き上げて、濡れた髪をギュッと絞る。
「そう。ハイドラバー。まぁ正確に言えばこいつが分泌する毒素の方が材料ね」
腹から血を滲ませる縞々のウミヘビは、当たり所がよかったと言うべきか悪かったというべきか。
まだ絶命せずに舟上で時折びたんびたんと身体を船底に打ち付けている。
「……毒が薬になるんですか?」
ティナが怪訝そうにハイドラバーを見下ろすが、
「こいつが持っている毒は溶血っていう血液を壊す効果があるらしいんだけどね。逆にそれが血結病には特効薬になるのよ。無論、そのまま毒を注入したら普通に血液も壊れちゃうけどね」
故に、こいつの毒を利用して必要な魔力の結晶だけ壊すよう改良する。そういう薬の作り方をラジィは【
もっともその時使用した毒はウミヘビ魔獣のそれではなかったが、代替品として幾つか教わった中にこのハイドラバーも含まれていたのだ。
「血を壊すから、逆に血の中に魔力の結晶ができてる人には薬、ということですか」
「そういうこと。普通の人にとってはただの毒だけどね」
ラジィは手拭いで髪を拭いながら、
「毒も薬もただの物質を人がそう呼んでいるだけよ。よいものを薬、悪いものを毒ってね。薬も取り過ぎれば毒だし、毒も少量なら薬になる。この世に一方的に良かったり悪かったりするものなんてないわ」
そうかつて【
ある生き物にとっては毒でも、他の生き物にとっては毒にならないものもある。そういった事情を踏まえると毒だ薬だなどという括りにせず、ただ現象のみを把握するべきと、そうダレットは言っていた。
至言であるとラジィも思う。誰かにとっての不幸が、誰かにとっての幸福であるのと同じように。
あるいは誰かの苦痛が、他の誰かにとっての快楽であるように。
小舟を身体強化したパワーで漕いで陸地に戻る間、ティナはずっと何かを考えていたようで、それがなんとなくラジィには予測できてしまった。
要するに、ならばティナという存在は一体誰にとっての薬になるのかと、たぶんそういった感情なのだろう。
「ティナはアウリスのことをどうしたいの?」
「……何です? いきなり」
ティナはそう怪訝そうに尋ねてくるが、表情はさておき声音まで制御する余裕はなかったようだ。
「いきなりじゃないでしょ。だって貴方、さっきからずっとそれ考えてるでしょうに」
「人の心を読んだようなこと言うの止めて貰えませんか。神にでもなったおつもりですか」
「別に成れないこともないけど……違うって言うなら私の教会で喧嘩とかは止めてよね。溜め込んで爆発でもしようものなら私は両方ボコボコにして解決するわよ」
「う……」
ラジィならそうすると覚ってしまったのだろう。僅かに身動ぎした後、ティナが事切れたハイドラバーに視線を落として「うっ」と二度目の悲鳴を上げる。
ややあって、
「……アウリスのこと、どう思います?」
どうやら自分一人で考えていても堂々巡りだと判断したのだろう。おずおずとそう切り出してきた。
「凄く優秀よね。ただ我を主張することが殆どないし、偉い人に仕えるために生きてきた子って感じがするわ」
「全くその通りです。アウリスは貴人の側近になるために育てられてきて――で、私に付けられたわけですね」
自嘲するようにティナがそういうもので、だからなんとなくティナが何を考えているか、ラジィには少しだけ先読みできた。
「才能の無駄遣いじゃないですか。正直、アウリスは国に戻った方がいいと私は思ってるんですけど。国に戻って、もっとちゃんと自分の才能を十全に生かせる主の下で働くべきだって」
「でも、そう言ってもアウリスは首を縦に振らないと」
ええ、と苛立たしげにティナが同意する。
「『自分の主は貴方だ』って言って聞かないんです。でもあいつ、絶対自分で考えてそういう結論絶対出してない。ジィだって分かるでしょ?」
「……そうね、否定はできないわ」
ラジィは否定することなく同意した。アウリスはそう育てられたからそう生きているのだと。
あの御方に仕えなさいと親か誰かに言われたから愚直にそれを実行していて、「今の主は本当に仕えるに足りる主か?」みたいなことは考えもしない。
貴族に仕えるための貴族なのだ、アウリスは。そうやって形作られている。
「でも、アウリスはそれ以外の生き方を知らないのだから仕方ないわ」
「私はそこまで割り切れません。アウリスにはもっとちゃんと自分の人生を生きる価値がある筈だ、あるべきなんだ」
そういうティナの善性をラジィとしては好ましく思うが、しかし同時に悩ましくもある。
お前の生き方は間違っている、とアウリスはティナに言われていて、しかしアウリスには自分の生き方が正しいと信じてきた十六年間があるのだ。
そりゃあアウリスだって首を即座に縦には振らないだろうし、しかしティナも自分の考えを曲げる気はないだろう。
世間的にはティナの方が正しいと多くの者が考えるだろうし。
「アウリスは優秀なんだから、私の元になんかいないでその実力を発揮できる場所で生きるべきだ、そうじゃありませんか?」
「その問いには私は首肯しかねるわね」
「……何故です?」
「私が怠けたいから」
うん? と首を傾げるティナに、ラジィは真面目な顔で向き直る。
「ティナの言うことは要約すれば、『才能を持つ人はその才能を十全に生かすことが幸せ』って言っているようなものよ。それを肯定すると私はこんなとこでマフィアの手伝いをしているなんて間違っている、ってことになるわよね」
「……あー、いや、そういうことになるのかな?」
ちょっと納得しかけたティナではあったが、
「いや違う、私が言いたいのはそういうことではなくてですね。自分で自分の才覚を知った上で、自分で生きたいように生きるべきだってことなんですよ」
すぐにラジィの言葉を否定できるあたり、やはりティナも地頭は悪いほうではない。
「でも、じゃあアウリスが自分の意思で貴方の下にいることを選べていないのだ、とどうやって証明するの?」
「それは考えるまでもないことです。まともな頭していたら自分より劣る奴の下になんてつくはずないじゃないですか」
それはティナの思い込みであって全く証明にならないのだが、どうやらティナにとってそれは絶対的真であるらしい。
「分からないわよ? あーこいつアホだし見てて楽しいなー、とか権謀術数面従腹背みたいな息が詰まる生き方はやだなー、とか考えて貴方についているのかもしれないし」
「アウリスがそういう性格に見えます?」
「人の性格なんて見た目じゃ判断できないわ。お貴族様ならそんなこと分かりきってるでしょうに」
「私よりジィの方がアウリスを理解できている、って言いたいんですか」
「私はそんなこと言ってないでしょ……」
だんだんラジィは辟易してきた。ティナのアウリスに対する感情はかなり滅茶苦茶に数多の糸が絡まり合っているようだと。
前に家族だ、助けたいと言ったのは本当だろう。しかし自分の元にいて欲しくもない。
ちゃんと自分の頭で考えて、自分の元から旅立って欲しいと『ティナが勝手に』思っている。
同時に偏った教育を施されて盲目的に自分に従っているアウリスにティナは軽い嫌悪も抱いているはずだ。あるいは怒りと言い換えてもよい。
「結局のところ、思い込みを解きほぐすには時間をかけるしかないわ」
ラジィは短期的な説得を諦めた。実際のところ偏った教育を受けた者がそれを自覚するには、そのもの自身が見識を広めるしかないのだ。
他人がそれは違う、と言って即座に「じゃあそうします」となるんじゃ所詮は思い込みの上書きに過ぎない。
本当にアウリスがガチガチに教育されているのなら、その程度しか解決方法は無いのである。
それ以外には、自分と同じ状況にある誰かが明らかに間違った行いをする様を見せつけるショック療法もあるが、これは反動も大きいしラジィとしてもあまりお勧めはしない。
「分かるでしょ? いろいろな人と世界とその在り方を見せて、アウリスが自分の意思を自分で選ぶのを待つ。それを見守るのが家族である貴方のやることだと私は思うのだけど」
「……そう、なのかもしれないですけどね……」
「何か問題でもあるの?」
そう尋ねると、ティナは両手の人差し指を付けたり離したりしながらそっぽを向く。
「いやその、自分より優秀な様を延々見せつけられてるとですね、ストレス溜まるんです私が。凄く」
こいつは本当に面倒だな、とラジィは大きな溜息を吐いた。アウリスのことは大事だが、それはそれとして自分より優秀なアウリスに嫉妬しているのだ。
よくもまあどっちかに振り切れないもんだ、とそれはそれで感心するが、ラジィからすればヤジロベーのように親愛と嫉妬の間で揺れてるティナはただただ面倒くさいだけだ。
ティナの嗅覚聴覚の鋭さとディブラーモールの有用性はアウリス救援時にも、ついさっきにも発揮されているのだが、既にティナの中でディブラーモールは最底辺で固定されていて不動なのだろう。
故に、その認識をショック療法でぶっ壊してやらないとどうにも先ず話が進まなそうだ。ティナに対してはショック療法を全く躊躇わないラジィである。
「貴方が思っているより多分、ディブラーモールって強いわよ」
そう告げるも、しかしこれまでコンプレックスの塊として生きてきたらしいティナが素直に受け取るはずもない。
「そういう安いお世辞で今更私が喜ぶとでも?」
そうじゃない、とラジィは首を振った。恐らくディブラーモール自身という魔獣種全体が、自分たちの
「陸に帰って血結病の治療薬作ったら、私が本当のディブラーモールの強さを教えてあげるわ。精々自分で気づけなかった己の頭の悪さを恨むのね」
「ぐっ……ジ、ジィこそディブラーモールが強いとか寝言ほざいたことを後悔しますよ!」
こいつも本当に思い込み強いよな、とラジィは呻いた。
「はいはい、私の思い違いだったら土下座して謝りますよ」
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