■ 042 ■ 未来を想う




 銅貨二枚を握りしめて、ヒューゴはボウッと今日も薪の燃える煙を一筋上げる『ベッラルチア愛しきルチア』を見やる。


「どうした、まだパンが焼き上がるにゃ早いぞ」


 そんなヒューゴに声をかけてきたのは、最近じゃすっかり角も取れてヒューゴと親しくなってきたコニーである。


「お前、掃除は?」

「ダグに任せてある。お前こそどうなんだよ」

「こっちもエドに任せてる」

「サボりか」

「計画的休憩中と言えよバカ。ジィがどこで聞いているか分かったもんじゃないんだから」


 ヒューゴが怯えたように左右を見回すが、それをコニーも馬鹿にするつもりはない。

 あの黒服に連れて行かれた少年の一件だけでなく、ラジィはちょくちょく子供たちに飯抜きを命じていて、そしてそのどれもがあとから聞けば本当に掃除せずサボってた子への正当な罰だったのだ。

 一つとしてハズレなし。濡れ衣もなければ隠蔽は全てバレているという百発百中の罰則なのだ。ヒューゴやコニーが怯えるのも致し方ないだろう。


 ヒューゴやコニーが品行方正になったのも、どうやってもラジィを欺くことなどできないと骨の髄まで叩き込まれてしまったからだ。

 真面目にやっていれば三食食える。欺けば絶対にバレて、盗みや恫喝を行なえばマフィアによる粛正が待っている。


 これではヒューゴたちが心を入れ替えるのも当然だ。犯罪行為を行なうことに何一つメリットがないのだから。


 改めて、ヒューゴは『ベッラルチア愛しきルチア』に視線を向ける。

 ここでは朝晩の食事は支給されることもあって、『ベッラルチア愛しきルチア』がパンを焼くのは決まって午前中が中心だ。

 もっとも、ヒューゴたちの主食である堅パンの一部(全部はどうやっても一工房だけでは無理だ)も『ベッラルチア愛しきルチア』で焼いているので、朝と午後が暇なわけではないが。


「飢えなくなった。俺たちの生活は向上してる」

「ああ。ジィのおかげで確かに生きるのが楽になったな」


 もうラジィ一人でストリートチルドレン全員の食事は用意できないので、最近は孤児の一部が調理係として朝食のミルクの購入、及び夕食のスープ作りに駆り出されている。

 報酬はヒューゴたちと同じ。一日に銅貨二枚だ。そしてそれは全て『ベッラルチア愛しきルチア』に吸い込まれて消えていく。手元には、一枚の銅貨も残らない。


――これ何かと思ってたんだけど、パンの引換証だったんだな。

――違う。それは金だ。それを集めればパン以外にも何にだって交換できるんだよ。


 あのとき、トマスと交わした会話がずっとヒューゴの頭の中にこびりついて離れない。


――何にだってって……何でもか?

――ああそうだ、そりゃあ勿論貴族とかに制限されて買えないものもあるけどな。


 何でも買えるとトマスは、しかもそれをさも当然のような顔で言っていた。

 だから、それはトマスたちにとっては常識だったのだ。そんなこともヒューゴは知らないまま、盗みを働いて得ていたのは食料品だけという始末。


 もしかしたらヒューゴが過去に盗んだものの中には、沢山のお金もあったのではないだろうか?

 そう考えると、意識が向かうのは靴の中に隠している、色違いのお金だ。ヒューゴの家の対価として渡された金。あれにはどれだけの価値があるのだろう?


「なに考えてるんだ?」

「これからのこと。お前だってそうだろ?」


 逆に問い返すと、コニーが後ろ手に頭をかいて、しかし否定はしなかった。


「ジィはいつまで掃除用具をただでくれる? いや、掃除用具はいい。でも服は違う。洗濯ってこすりつけるから、少しずつ服は削れてる」

「……そうだな。次の服まで用意してくれるとはジィは言ってねぇ。次の服は、ならばお金と交換になるんじゃないか?」


 それがヒューゴやコニーといった、舎弟を持つ者たちにとって最大の悩みである。

 ラジィはヒューゴたちに三食では無く、一食を抜いてあえて金で昼食を買うように仕向けた。それぐらいはヒューゴたちにも分かる。


 何のために? 決まってる。ヒューゴたちにお金というものの存在と使い方を学ばせるためだ。

 その事実に、ヒューゴはこの通りに『ベッラルチア愛しきルチア』ができてからようやく気付くことができた。コニーもだいたい同じだ。


「このままじゃ俺たちは今の生活を続けられないんだ。飯を抜いてでも、お金を貯めないといけない」


 ラジィは製パンギルドの他にも、今後はいろいろなギルドから職人を呼ぶと言っていた。

 そして職人がお金を食うんだということを、ヒューゴはトマスから知った。そしてその職人に金を払うのはこのクロップ通りではまだヒューゴたちしかいない。


 であれば、ヒューゴたちは必ずその職人に金を払わなきゃいけない状況へと持っていかれる。今ヒューゴがせっせとトマスに銅貨を食わせているようにだ。

 そういう予測がヒューゴにもコニーにもできるから、最近は少し憂鬱なのだ。昼飯を抜かないと銅貨を貯めることができない。そして空腹は、思考を常に悪化させる。


「……ジィは、やっぱり俺たちを腹一杯食わせる気はねぇのかな」


 ここが底辺だと知っていたつもりが希望を与えられ、そして今希望を失いつつあるコニーがそう零す。

 やはり、ここでもコニーたちは空腹を強いられるのだ。一般市民を名乗る連中が、散々それをコニーたちに強いていたように。


「ジィに聞いてみないか?」


 だが、ヒューゴは別のことを考えていた。


「何を?」

「別の仕事だよ。清掃と調理は日に銅貨二枚だ。でも製パンは違うだろ?」


 そのヒューゴの一言はまさしくコニーの蒙を啓いたようであった。年上なのにそれに気づけなかったコニーは悔しげに舌打ちする。

 そうだ。お金を貯める方法は一食を抜くだけでなくもう一つあったのだ。




      §   §   §




「あら、そこに気付いたのね」


 そうして、様子を見にクロップ通りを訪れたラジィにヒューゴたちが問いをぶつけると、ラジィは悪ぶれもせずにそうニッコリと笑った。

 そのまま舎弟たちには掃除を続けるように告げ、ヒューゴとコニー、それと別グループの纏め役、兄貴分らを一つの空き家へと集める。


「そう。世の中できることによって支払われるお金が異なります。だからこそ都市の庶民は七歳の時点から親方に師事して、技術を身につけるわけね」

「技術って?」

「水の漏れないバケツの作り方、服の縫い方、パンの焼き方、金属加工のやり方、家の作り方、石窯の作り方。そういった、貴方たちが簡単に真似できないことよ」


 そう語るラジィの副音声はこう言っていた。

 即ち「掃除しかできない貴方たちの価値は銅貨二枚しかない」ということを兄貴分たちはキチンと読み取ったのだ。


「……どうすれば技術を手に入れられる?」


 そうヒューゴが問いかけると、ラジィが困ったような顔を一同に向ける。


「難しいのよ。技術はギルドが独占しているから。分かるでしょ? お金になるから彼らはそれを自分たちの内側に閉じ込めて、独り占めしているの」


 そう言われればヒューゴたちもなんとなくであるが分かる。

 何故ギルドは徒弟制度を取っているのか。それは技術がお金になると分かっているからだ。いま技術はお金になるのだとヒューゴたちが理解したように。


「でもね、それ以前に貴方たちはまず何が幾らで買えるのかを知らないでしょう。もっというと何を買うために幾ら貯めればいいか、そういう計算が先ずできるようにならないとだわ」

「計算ぐらいできるぞ! パン一つに付き銅貨二枚だろ?」


 一人がそう反論の声を上げるが、ラジィは褒めもバカにもしない。


「ええ、パンはそれでいいわね。じゃあバケツ一つはいくら? 家一軒は? 銅貨を何枚貯めればそれらを購入できる?」


 そうラジィが質問すると、誰もが押し黙ってしまう。調理パン一つが銅貨二枚なのは知っているが、それ以外の適性価格を知らないのだ。

 誰もが暗い顔で押し黙ってしまう中で、ラジィ一人だけがお日様笑顔でパンと手を叩く。


「なので、貴方たちには庶民と同程度の計算ができるように教師を付けます。しっかり勉強するといいわ」

「べんきょう?」

「そう、私がさっき言った、バケツ一つや家一軒を買うのにどれくらいのお金が必要か、そういったことを知るための時間ね」


 そう言われてヒューゴたちは目の色を輝かせた。どうやればそういった自分たちが知らないことを知れるようになるか、ずっと悩んでいたのだ。


「あと、それと同時に貴方たちに警察権を譲渡します」

「けいさつけん?」

「私が今やってる、サボってる子供を罰したり、あと――分かるでしょ? 他人から銅貨を奪おうとする不埒な連中を叩きのめすことね」


 ああ、とヒューゴたちは頷いた。

 お金の使い方がストリートチルドレン内に浸透した結果、お金を自分で稼ぐより他人のお金を盗めばよくないか? といった考え方もまた広まっているのだ。

 もっとも盗みはラジィが禁じているから、「貰った」「譲られた」みたいな形を表面上は取るような案件が最近チラホラあることを、ここに集った面々は知っている。


「ここにいる貴方たちに新たな仕事を与えます。今後、私の代行としてクロップ通りにおける不当な盗み、恐喝、金銭の巻き上げを協力して阻止なさい。これを貴方たちが引き受けるのであれば、貴方たちの日当を銅貨十枚に引き上げます」


 銅貨十枚、と示されてヒューゴたちは沸き上がった。現時点でヒューゴたちが数えられる限界が手指の数だ。何より銅貨十枚が日に手に入るならパンを買っても八枚を貯蓄に回せる。

 もう昼飯を抜かなくてもいいのだ、と喜色を浮かべたヒューゴたちに、


「分かるわね? 貴方たちは今後どのような存在からもお金が不当に奪われることを防がねばならないのよ。人はうそつきな生き物だって、それは分かっているわよね?」


 そうラジィが指摘すれば、ヒューゴたちはその責任に怯んでしまう。そうだ。人は嘘吐きだし騙す生き物だ。

 そういう連中に惑わされることなく、ヒューゴたちはラジィがやっているように全てのサボりと犯罪に罰を与えろ、と要求されているのだ。


「自分の舎弟だからって甘く見るだなんて許さないわ。身内だろうと何だろうと不当に奪うものは悪よ。それを見過ごしたら貴方たちも悪になるわ。勿論、貴方たちがそれを示唆してやらせてもね」


 要するにラジィはこう言っているのだ。今後は身内グループの利益より、クロップ通り全体の利益を優先しろと。それをやるなら給料を上げてやると。

 ヒューゴは考え込んだ後、そっと手を挙げる。


「俺たちの中で言うことが食い違った場合は?」


 当然、ヒューゴは己のグループが可愛いし、他の連中もそれは同じだ。

 であれば、権限が同等であるここの面々は自分のグループのために嘘を吐くかもしれないし、嵌めることも考えるだろう。その際はどっちが正しいか分からなくなる。


「貴方たち同士の諍いは今後も私が解決しましょう。でも舎弟たちの諍いは貴方たちで解決なさいな」


 要するに、ここに集ったメンバーの嘘に関してはラジィが責任を負ってくれる、と分かってヒューゴたちは安堵する。

 何だかんだでヒューゴグループはコニーグループより数は少ないし、そういった強弱差は厳然として存在するのだから。


「どうする、やる?」


 ヒューゴたちは顔を見合わせて頷いた。


「ああ、やらせてくれ」


 何にせよ今は、金を貯めておきたい。きっとそれは将来のために必要なことだから。




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