■ 041 ■ ベッラルチア




 ほぼ空になった籠を抱え、昨日と同じ場所でマフィアにみかじめ料を払い、表通りに出たところで、


「やぁお兄さん、パンは売れたようね」

「……君か」


 トマスを貧民街へ連れてきた少女がヒョイとトマスの前に現れる。


「君がラジィなのか? 孤児に清掃をさせてるっていう」

「正解」


 クフフ、と少女は笑いながら、ついっとトマスの横に並ぶ。


「何を企んでいるのか聞きたいの? 聞きたいのね? でもそんなの決まってるわ。マフィアなら当然よ」


 マフィアなら当然、何をする? 決まってる。金だ。私腹を肥やすのがマフィアの仕事である。

 もっともそれは職人も商人も領主も貴族も同じ。誰だって金のために働いている。


「貴方も分かってると思うけど、もうこの街のシマはいっぱいよね。マフィアだけでなく、職人も、ギルドも」

「そうだな」


 トマスは頷いた。パンを食べる人数が変わらない限り、パン屋の数もまた増えない。

 ならばどうすればトマスは店を構えることができる? 決まってる。パンを食べる人を増やすしかないのだ。


「人を増やすわ。働く人を増やす。雇用を作って消費を回す。あの貧民街、クロップ通りに店を構える気はない? 今の孤児たちには一日二枚、銅貨を消費できる余力があるわ」


 そういうことか、とトマスは納得した。マフィアがみかじめ料を増やすには、己のシマに店を構えてもらう必要がある。

 だからこの少女はまず客を作ったのだ。食事の配給は朝晩だけにして、昼飯の代わりに銅貨を二枚。パン一つ分の金を渡す。


 清掃であくせく働いている育ち盛りだ。一日二食では物足りないだろう。


「でも、彼らがその銅貨二枚をパンの為だけに使うとは限らないよな」


 そうトマスが指摘すると、ラジィがさも可笑しそうにケラケラと笑う。


「それはそうよ。お金は欲しい物を手に入れる為に稼ぐものなのだから。この先もパン屋が一軒に留まる保証はない。客がいるなら店は増える。パン屋以外にも、定食屋や酒場もできるかもね。あるいは私が失敗して、あそこはまたうらぶれたスラムに逆戻りするかも。それは誰にも分からないわ」


 分からない。そうだ、先のことなんてトマスにも分かる筈もない。

 ただ二つだけ言えることは、今ならトマスは店を持てる可能性があるということ。そして少なくとも二、三年くらいは客に困ることがなさそうだ、ということ。それだけだ。


「店を構えてもうまくいかないかもしれない。別の店に客を取られて竜頭蛇尾で痩せ細って死ぬのかも。でも、腕があれば客は来る。商売って、そういうものでしょう?」

「……そうだけど、そうじゃない」


 腕なら自信がある。でも自分のパンは港じゃ売れなかった。何故か? 決まってる。自分が自分の店を持てないヒヨッコだと、食べるより前に切り捨てられていたからだ。

 そのことは、このラジィにも分かっている筈だ。分かっていなければラジィはトマスに声をかけてない。


「肩書きっていうのは強いものね。さ、それらを引っくるめて改めて問いましょう。トマス、あそこに店を構えるつもりはない?」


 何故ラジィが己の名前を知っているのかは、もうトマスにはどうでもいい話だった。

 二人はもう、トマスの職場である『クラストクラム』にまで戻ってきている。


「やってやるとも。このままくすぶっているよりよっぽどマシだ。俺の腕で勝負ができる土台に、まずは立つ。その上で負けるなら諦めもつくさ」

「分かったわ。ブルーノ・レンティーニには話をつけておきます。ギルドの色良い返事を期待しているわね」


 そうしてトマスは店内へと戻り、


「親方、一つ頼み――」

「どこほっついてやがった馬鹿野郎! パン焼くの手伝え午後の店が開けねぇだろうが!」

「す、すみません! 火ぃ見ます!」


 まずは店内のパンを根こそぎかっぱらって行った自分の尻拭いに奔走する。

 往年鍛えた勘どころで火勢とパンの位置を調整して焼き加減を一定に保ち、ミトンを手に焼き立てのパンを取り出しては店内カウンター背後の棚へ並べていく。


「よし、ここはもういい。店開けて店番やれ」

「はい親方」


 そうしていつも通りの販売を終えればあっという間に閉店のお時間だ。

 住み込みのためにそのまま夕食を終え、薄めたワインの入った木製のマグを手に食卓を挟んでキンバリーとトマスは向かい合う。


「親方、俺、店出さないかって誘われたんだ。ギルドに推薦して貰えないかな。クロップ通りだ。他に店はないし、競合はしないはずだ」

「これまで店がなかったんならギルドも文句はねぇだろうが……旨い話にゃ落とし穴があるもんだぞ。そこはちゃんと考えたか?」


 無論、トマスだって自分なりには考えた。いつまでラジィが孤児を雇い続けるのかとか、レンティーニファミリーの質はどんなもんなのかとか。

 そういったことを考え始めれば不安の種なんていくらでもあるし、怖くて堪らない。

 だが、


「このままじゃ嫌なんだ。いや、親方の店が嫌いだとかじゃない。でもここまでやってきた以上は俺も自分の店を持ちたい。もしここで尻込みして、他のやつがあそこに店持って、そいつが成功しているところなんか見たら多分俺は嫉妬で狂い死ぬよ。分かるんだ。俺は特別じゃないから、このチャンスを逃したらきっともう次はないって。一世一代の賭けをするときが今なんだよ親方! ここで乗らなきゃ俺は一生下積みだ。そうだろう、親方!」


 そう熱意をぶつけられたキンバリーは長いこと腕を組んで黙っていたが、


「分かった、だが独立したらもう退路はねぇぞ。店の場所がどうとか小麦の質がとかは全て泣言だ、分かってるな」


 キンバリーとトマスの縁がこれで切れるわけではない。

 しかし独立してなおトマスがキンバリーにおんぶに抱っこされていては嘲笑の的だし、自分の店も維持できない男などギルドはメンバー失格としてギルド員からトマスの名を消し去るだろう。


 ギルド員に推薦、というのはキンバリーがトマスの実力を保証するということでもある。トマスが失敗すればキンバリーにまで無能のレッテルが貼られるのだ。

 だからこそギルドに所属する親方は弟子の育成に手を抜かない。弟子を正ギルド員に推薦するということは、己の将来をも左右するからだ。


「分かってる。親方にはなるべく迷惑をかけないようにするよ」

「それだけの覚悟があればいい。次の会合でお前を推薦してやる」

「ありがとう、ございます」


 頭を下げるトマスに顔を上げるよう言ってキンバリーがマグを机から浮かせた。

 応じるようにトマスもまたマグを手に取って、


「頑張れよ」

「はい!」


 乱暴にマグをぶつけて、薄いワインを喉に流し込む。

 もう後には引けない。ならば胸を張って前に進のみだ。




      §   §   §




 そうして、「クロップ通り? 正気か? いやまあそこでいいって言うんなら認可してもよいが……」とキンバリーの推薦は認可され、はれて一人前の製パン職人になったトマスではあったが、


「大丈夫、俺は自分の店を持てるんだから大丈夫。親方になったんだから大丈夫……」


 とある家の前で、完全に浮き足立った不審者丸出しの様相でその場をぐるぐると回っていた。


 指先は震え、首筋はびっしょり汗に濡れており、見る人が見れば怪しいクスリでもやっているかのようだ。

 当然、家の前でそんなことやってる男がいれば中の住人は気が気じゃないわけで、


「アンタ、何やってんの」

「うわぁ! どうして出てきちゃうんだよルチア!」

「……あたしがあたしの家から出てきて何が悪いわけ?」


 至極当然の詰問にトマスはウッと言葉に詰まってしまう。そもそもトマスが家の前で不審な行動を取っていたからルチアは自宅から出てきたわけで、完全に自業自得だ。

 そんな挙動不審なトマスを前に、ルチアはそこそこ豊かな胸を押し上げるように腕を組んでトマスを睨む。


 ルチアはトマスの幼なじみで、二つ下の十六歳。リュキア貴族は十八からを成人と定めているが、庶民は少しでも早く大人を労働力としてこき使いたいため十六歳から成人とされている。

 要するに亜麻色の髪を雑に後ろで一纏めにした、薄いそばかすが特徴的なこの少女は新成人、ということだ。


「で、何の用?」

「お、俺さ、昨日ギルド入りしたんだ。今度パン工房開くんだよ。俺の、俺が経営する店を開くんだ」

「へぇー、思ったより早かったじゃない。製パンギルドは糞詰まってるからもっとかかるとか言ってなかったっけ?」


 お前女なんだから糞詰まるとか言うなよと軽くトマスは思ったが、今更なのでそれはさらりと聞き流した。


「そうなんだけど、運良く誘いが来てさ。これで俺もようやく胸張って親方の仲間入りができるんだ」

「へー、おめでとう。で、わざわざそれを自慢しに来たっての?」


 トマスはルチアがこういう女だと知っている。知っていてトマスは今日一張羅を着飾り、その手には花束を持って、


「お願いします! 俺と結婚して一緒に来て下さい! 一生愛して、大切にします! 幸せにしてみせますから!」


 ずいっと花束をルチアの前に押し出して、トマス一世一代の大勝負である。

 もっともトマスにとっては大勝負であるが、ルチアにとっては、


「で、どこよ」

「え?」

「だから、どこに店出すのよ。それも分からずにハイもイイエも言えるわけないでしょ?」


 まず将来設計が無事に描けるってことを証明してから出直してこい、と言いたいわけである。


 当たり前だ。店を開けると言ってもこのリュカバースにおいてパン工房が足りていることぐらい、トマスの幼なじみやってりゃ嫌でも分かる。

 一生愛して大切にする? それは当たり前だ。それはそれとして自分の力で幸せにできるという根拠の片鱗ぐらいみせてみろ、というのはルチアの立場からすれば当たり前だ。


「ええと、店はクロップ通りに開く予定で……オゴッ!」


 問答無用で飛んできたルチアのグーパンを、パン焼きしかしてこなかったトマスは躱せなかった。


「あんた馬鹿ぁ!? クロップ通りって貧民街じゃない! あんなとこいったらぶっ殺されて服奪われて屍姦されて終わりだわ! ふざけんじゃないわよ!」

「あ、いや、そういうこと大声で怒鳴らないでルチア。心配は分かるけど大丈夫なんだ、あそこなんかちゃんと綺麗になってるんだよ。あ! な、なら今から一緒に見に行こう! そうすれば分かるから!」

「馬鹿言ってんじゃないわよ、あたしの拳も避けられない男なんか虫除けにすらならないでしょうが! あんたそんなにあたしを殺したいわけ! そりゃあんなところに店開くとかいうならギルドだって許すわよ! すぐに潰れて終わりだもんね!」


 なお、これに関しては完全にトマスが悪い。殆ど貧民街になど足を踏み入れない平民にとって、あそこがどうなっているかなんてリアルタイムの情報は入ってこない。

 ルチアの頭の中では未だクロップ通りは足を踏み入れたが最後、ストリートチルドレンに殺されて身ぐるみ剥がされる最悪の無法地帯でしかないのだ。


 そんなわけでトマスがひたすら説明を繰り返して、半信半疑ながらも不承不承トマスと共にクロップ通りを訪れたルチアは、


「うっわ、どういう魔法? 何やったら貧民街がこんな綺麗になるのよ……」


 普通に表通り並の清潔さを保つクロップ通りを目にして、これはこれで不気味になったらしい。


「ええと、ここのボスの、レンティーニだったかな? が本気出して区画整理始めたらしいんだ、と」

「あ、パン屋がいるぞ!」

「あれ? でもパン持ってないよ」

「えー、売りに来たんじゃないのかよ。パンがないパン屋とか湿気てるよな。恥ずかしくないのかよ」


 通りすがった少年少女がトマスを見て一喜一憂の後につまらなそうにトマスから離れていく。

 その目で見ても未だにルチアは信じられない。飢えた獣のようなストリートチルドレンがこの貧弱トマスを見て襲いかからないなど、それこそ魔法のようだ。


「あんた、餌付けでもしたの?」

「だからもうちょっと言葉をガーゼに包もうねルチア。俺ここに店開くんだから……」


 ふぅん、とどうでも良さそうにルチアはトマスの言を聞き流し、真面目な顔で周囲を見回した。

 先の子供たちは血色もよく、服も貧民にしては布地に穴は少なく、何より何故かトマスとルチアを獲物のような目で見ない。


 普通の町人であるルチアはストリートチルドレンの恐ろしさをよく知っている。

 子供の頃、近道や冒険で貧民街に踏み込んで危うく死にかけるのはリュカバースの町民あるあるだ。一度は皆似たような体験をして、運か実力か生き残れたのが今のリュカバースの子供だ。

 人とは教育を受けねば言葉を喋るだけの獣に過ぎない、という体現が貧民街のストリートチルドレンだというにあのお行儀の良さ。マフィアが本腰入れて区画整理に乗り出したというのは、だから本当なのかもしれない。


「あんた、最近はここでパン売ってるの?」

「あ、うん。一週間ぐらいずっとね。お陰様で毎日完売している。だからここに店開けばいちいち移動する手間も省けるし」


 一週間。一週間もこいつはパンを抱えてここにやってきて、生きて帰れてるということなのか。ルチアは驚愕しつつも頷いた。


 来る途中、ルチアはここを見張っているマフィアがいることに聡くも気が付いていたのだ。要するに、ここにはマフィアもわりと本腰入れて目を光らせているということだ。

 他の都市ならいざ知らず、このリュカバースにおいてマフィアは必要悪だ。そのマフィアが本気だというなら、たしかに安全ではあるのだろう。


「いいわ」

「え? 何が?」

「貴方のプロポーズを受け入れます。一生愛して、大切にして、幸せにしてくれるのよね?」


 一瞬、トマスは幻聴に悩まされるような表情を浮かべ、然る後に大きく目を見開き、そして満開としか言いようもないほどに破顔した。


「勿論だ! ルチア愛してる! 絶対に幸せにしてみせるから!」

「ちょ、往来で抱きつく――まあいいわ。がっかりさせないでね、旦那様?」


 返事代りにキスで唇を塞がれて、やれやれとルチアもそれに応じる。元々トマスのことは別に嫌いではないのだ。

 多少及び腰でマッチョイズムには期待できないが、善良で悪事を嫌っていて、そして根が真面目で働くこととルチアが何より好きな男だ。嫌いになれる要素がそもそもあまりない。


「ああルチア! なんか俺、最近幸せなことが多すぎて明日には死んじゃうんじゃないかって不安になるよ!」

「一生幸せにするって言っておきながら明日には死んじゃうんだ。短い幸せね」

「ごめん嘘ちゃんと長生きする。長生きしてルチアを幸せにするから!」


 そして二人は幸せなキスをしてこの話は終了、なわけはない。これはラジィの話であってトマスとルチアの話ではないのだから。




 そうして、トントン拍子に話は進んでトマスのパン工房がクロップ通りに開店した。

 なお、その際におけるパン焼き窯設置等の初期費用はギルドによる超低金利の融資によって実現されている。


 ギルドメンバーに加えた以上、そういった融資はギルドは決して惜しまない。というか惜しんだらギルドの存在意義が失われる。

 同業に優しく、他職に厳しくがギルドの存在意義だ。然してトマスの工房は順調な走り出しを迎えることができたのである。


「おはようルチア。今日も君は捏ね立てのパン生地みたいに綺麗だよ」


 トマスのセンスは正直何言ってんだか結婚した今でもルチアにはよく分からない。そも捏ね立てのパン生地は綺麗というかブヨブヨだ。

 トマスとてルチアがブヨブヨしてると言いたいわけではないのだろうが……センスが独特過ぎて理解が及ばない。だがその程度の瑕疵は承知でルチアは婚姻を受け入れたのだ。


「ハイハイありがと。でも貴方はベッドの中よりパン焼いてる時の顔の方が一万倍素敵だわ」


 自覚はあるのだろう。トマスは頭をかいて笑い、何よりも愛しい妻の頬にキスを落とす。


「この十一年間、パンしか焼いてこなかったからね。仕込みのあとに朝食作るから、目がしゃんと覚めたら起きてきて」

「もう起きるわ。水汲んで掃除して、やることいっぱいあるでしょ」


 そうして、トマスのパン工房は今日も一日が始まる。

 今のところ、クロップ通りに開店したリュカバースでもっとも新しいパン工房、『ベッラルチア愛しきルチア』は平穏にして繁盛しているようだ。





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