■ 040 ■ パン焼き職人のトマス
トマスは製パンギルドに軒を連ねるパン工房『クラストクラム』にて徒弟として従事するパン焼き職人である。
このご時世のリュキア王国において、職人というのはその全てがギルドに所属し、徒弟制度でその立場を認められる専門職だ。
七歳の頃からギルドに所属する親方の下について下積みを続け、親方にその実力を認められギルドメンバーとして推薦されて初めて己の店を持つことが許される。
実力があれば誰でも店を持てる、というわけではない。どれだけ腕前があろうとギルドが否と言えば道具や材料の入手経路から、果ては人格に至るまで徹底して否定されるのが職人界隈の常識であった。
当然、トマスもまたそれを常識とする社会の中で生きてきて、親方のキンバリーの下で製パン技術の腕を磨いてきた。
「えー、パンいかがっすかー。外はパリッと、中はふっくら具材入りの美味しいパンだよー!」
とはいえ残念なことに、最近のリュカバースにおいて製パン職人は既にある程度飽和状態にあるのが現状である。
農民が主体的に育て税として収めるのが小麦である為に、小麦というのは貨幣を除けばもっとも基本的な疑似通貨として作用する。
であれば輸入品を数多扱うこのリュカバースにおいて小麦が不足する事態というのは発生せず、然るにパン焼き職人というのはもっとも安定した職の一つと見做されている。
そして安定している、ということは一攫千金を狙わない者たちにとってもっとも理想的な職の一つと見做される。
そういう背景もあり、今の製パンギルドは職人の独り立ちをいろいろな理由を付けて認めない流れになっていた。認めたとて、人口が増加しない限りはパンの消費は増えないのだから、店を増やしてもしょうがないのだ。
レッドオーシャンに新人を放り込ませて路頭に迷わせるのは哀れだというギルドのそれは慈悲なのだが、安定した生活を夢見てパン職人を目指した新人たちからすれば、いつまでも実力を認めて貰えないと怒りを溜め込むばかりである。
今年十八になるトマスもまたそんな職人の一人であり、最近は専ら自分で焼いた調理パンを港に売りに来ているのだが――ギルドの見立てはやはり間違っていないのだろう。
そんな売り込みパン屋のパンなどには船乗りも見向きはしない。むしろ自分の店を持てないへぼパン屋と見下される始末である。
トマスがわざわざ港まで売りに来ているのに、船員たちは町中の店舗に出向いてパンを買うという噛み合わなさ。
トマスは理解した。「ヤツらはパンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ」と。
まあ、それを理解したところでトマスにはできることは何もない。ギルドが認めなければ自分は開業できないし、客はトマスではなく親方たちの店舗をこそありがたがっているのだから。
そんなある日、
「そこのお兄さん、いつもと違う場所でパンを売ってみる気はない? 毎日同じじゃつまらないでしょ?」
お昼過ぎに一人の少女に声をかけられて、トマスはそれもありかなとごく自然に考えた。
少女は服装こそ垢抜けてないが身振りや言の葉には教養の断片が見え隠れしていて、子供の悪戯というわけでもなさそうだったからだ。
どうせ港で声をかけても誰も捕まらないのだ。駄目で元々、と少女の勧誘に応じて後についていったはいいが――
「な、なぁ。この先って貧民街だよな?」
「ええそうよ。あら、今頃になって怖くなっちゃったの? 取られるお金も持っていないのに?」
クフフ、と笑う少女にこのメスガキが、と分からせてやりたいところだが、トマスは七歳の頃からパンを焼く以外のことをしてきていない、武芸はからっきし駄目な職人である。
少女に案内されスラムに放り込まれては、ここからどうすればいいか分からない。
「ああ、マフィアが近づいてきたら『ラジィの紹介』って言ってみかじめ料を払えばいいわ。勿論、売り上げゼロならそう伝えればレンティーニは見逃してくれる筈よ」
そう言い残した少女は貧民街の中にトマスを残したまま、あっという間に街路の影へ消え去ってしまう。
残されたトマスは、今日が命日かと青い顔で、しかしこれが最後ならと覚悟を決めて声を張り上げる。
「えー、パンいかがっすかー。外はパリッと、中はふっくら具材入りの美味しいパンだよー!」
そう大声を上げながら街路を歩いていたトマスはやがて、あることに気が付いた。
――貧民街にしちゃ変じゃないか? ここ。
建ち並ぶ建物こそ古びているものの、妙に清掃が行き届いている。
貧民街の主要住人であるハエやネズミ、カラスが全然いないし、悪臭がほとんどしない。
何よりこうやって食糧を籠に抱えて歩いていても、ハイエナじみたストリートチルドレンが襲ってくるそぶりもない。
位置的にはリュカバースの南西だから貧民街の筈だ。それは間違ってないだろうが……
あまりに有り得ない光景にトマスが首を捻っていると、
「なあ、そのパンくれるのか?」
悪臭を纏いながらも、スラムにしては妙にこざっぱりした外見の少年がそうトマスに声をかけてくる。
匂いこそ臭いものの、それが軟石鹸由来だと気づけたトマスは少年をまじまじと観察する。
栄養状態も悪くなく、瞳には知性の色があり、髪と肌の艶も悪くない。
何よりトマスが今手に持つ籠を奪って逃げようという雰囲気がまるでない少年。スラムなのに、会話が成立しているのだ。
「冗談言うなよボウズ。こっちも商売なんだ。一つ二百カルだ、それ以上はまからないよ」
だからトマスもまた、懐から銅貨二枚を取り出してごく自然に少年へと見せつける。と、
「え? これ二つでパンと交換できるのか?」
少年もまたポケットから銅貨二枚を取り出してトマスへと突きつけてくる。
それを受け取って重さと外見を確認するも、トマスにはそれが偽造通貨か否かの区別がつかない。であればトマスとしては本物として扱うしかない。
スラムの少年が金を持っているのは不思議だが――仮に盗まれた金でも、トマスにとっては関係ない話だ。
「ああ、それ二枚でパン一つだ。買うかい?」
何故、自分がこの場の売り手に選ばれたのか。その答えは孤児相手にもふっかけない真面目さを買われたのだが、その事実はトマスにはついぞ死ぬまで知り得る機会を持ち得なかった。
だがそれはそれとして、その応答に少年が「ちょ、ちょっと待っててくれ!」一言言い残して家屋へと戻り、
「八つくれ。これでいいんだろう?」
銅貨十六枚を手渡してくれば、トマスには拒絶する理由も無い。
「はいよ、毎度あり!」
銅貨十六枚と引き替えに僅かな挽肉と野菜を挟んで焼いたパンを八つ、少年にて手渡してほくほく顔である。
なにせ港では全く売れなかったパンが一気に八つも売れたのだ。しかも、
「なんなら明日以降はこんな時間じゃなくてお昼ごろに来てくれないかな。そうすればもっと売れるだろうからさ!」
少年にそうアドバイスまでもらえたこともあって、トマスとしてはもうすっかりその気である。
鼻歌を歌いながらスラム街を出ようとして、
「お前、誰の許可を得てレンティーニファミリーのシマで商売しているんだ?」
どう見てもマフィアにしか見えない男に声をかけられてトマスは一転して震え上がった。
そうだ、この町はマフィアに裏社会で仕切られていて、その認可無しに商売など許されるはずがないのだ、と思い出して、そしてもう一つ追加で思い出した。
「『ラジィの紹介』なんだ」
そう告げると、マフィアの顔が目に見えて困惑に包まれたものの、
「そうか。なら分かってるな?」
「あ、ああ。今日の売上はパン八つだ」
マフィアのソルジャーと思しき男の手に銅貨を数枚握らせれば、それ以上の追求はない。端金だが、額自体が重要なわけではなく払うか払わないかが問題なのだ。
改めてあの昼間に出会った少女は何だったのだろう、と若干の不安を抱きつつも満足なトマスである。パンが売れたことの方が重要なのだ。
「ほう、売れたのか」
店に帰って売上を報告すると、親方のキンバリーが衛生の為に綺麗に剃られた顎を不思議そうに擦る。
「ああ親方、なんか孤児が買ってった」
「孤児って……ニセ金じゃないのか?」
「そんなん俺にゃあわかんないよ」
みかじめ料を払った分だけ減った売上をテーブルに転がしてみせると、キンバリーがそれを手にとって秤に乗せる。
「……混ぜものじゃねえ、本物だな。明日も行くのか?」
「ああ、昼頃に行ってみようと思ってるけど」
「本物っつっても盗んだ金の可能性もある。命あっての物種だぞ」
キンバリーがそう心配してくれるのは、トマスとしては普通に頭が下がる心持ちだ。
キンバリーとて別に嫌がらせでトマスをギルドに推薦してくれないわけでは無いのだ。
むしろ腕は一人前なのに未だに見習い扱いされる弟子の不遇を嘆いているくらいである。
もっとも、それはこのリュカバースに店を構えるほぼ全ての製パン親方が同じであろうが。
「分かってるよ。でもこのままじゃ俺、いつまで経っても店も嫁も持てないし。このまま年取ってくくらいならまだ危険でもパン売りてぇんだ」
「……覚悟の上ならいいんだ。上納金は忘れずに払えよ。自慢の弟子を魚の餌にはしたくねぇ」
「分かってる、気をつけるよ親方」
弟子の肩を一度叩いたキンバリーは、店じまいをして厨房から去った。
パン屋の朝は早いのだ。朝一で朝食のパンを買いに来る客に間に合わせるには、それより早く起きないといけないのだから。
翌日、助言を貰った通りに正午を狙って昨日の貧民街へ訪れると、
「来たな、パンくれ!」
「おわっ! 待て待て一列に並んでくれ!」
トマスは待ち構えていた子供たちにもみくちゃにされそうになった。
パンが何個売れたかの計算がズレてみかじめ料を間違えて払いでもすれば、トマスの命がない。マフィアに間違えた、は通用しないのだ。
一つ一つ、確実に銅貨二枚とパンを交換していくと、
「え、もうないの……?」
たちまちパンは売り切れ、銅貨二枚を握りしめた子供に潤んだ目で見つめられてトマスはうっ、と言葉につまる。
「ちょ、ちょっと待ってろ!」
慌てて店へ戻って、しかしパンを焼いている時間はない。
「オヤジ、ここからここまで全部貰うぞ!」
「ハァ!? おいそりゃ午後の客の為の……」
「いいから!」
キンバリーが焼いたパンを手当たり次第に籠に放り込んで再び貧民街へ戻れば、
「来た、戻ってきたよ!」
「パン一つ頂戴!」
「待て待てだから一列だってば!」
トマスは待ち構えていた子供らの中で再びもみくちゃである。
ただまあ、親方のパンを根こそぎ掻っ払ってきたこともあり、どうやら今度はギリギリ足りたようだった。
恐らく足りなかった場合に年下に譲る為だろう。最後の方になってやってきた、昨日助言をくれた少年に、
「なあ、この金だけど盗んだ金とかじゃないよな」
一応聞いてみると、少年が僅かに憤慨して、
「馬鹿言うな、これは仕事して得たもんだよ」
そんなことを言い返してきて、トマスはビックリである。
仕事? 貧民街に? いったい誰がそんな無茶で無謀で危険なことをやっているのだろう。
「どんな仕事なんだ?」
嘘なら探ればボロが出るだろうとつついてみれば、
「清掃だよ。家とか街の掃除すると朝晩のメシとこれ二つくれる」
ほら、と少年が銅貨を取り出してみせて、その素振りには嘘を付いている様子はない。
「これ何かと思ってたんだけど、パンの引換証だったんだな」
その発言に、トマスはこの小綺麗な少年はやはり孤児なんだなと改めて印象付けられた。
一般市民ならもう見習いをとっくに始めててもいい年なのに、お金の使い方をまだこの子たちは知らないのだ。
「違う。それは金だ。それを集めればパン以外にも何にだって交換できるんだよ」
「何にだってって……何でもか?」
親切な少年の隣にいた、少しだけ彼より年上っぽい別の子供が、まじまじと手の中にある銅貨を見つめて言う。
「ああそうだ、そりゃあ勿論貴族とかに制限されて買えないものもあるけどな……この区画に、パン屋はないのかい?」
「店はないよ。空き家しかない」
「……これだけ清潔なのにか」
下手な表通りより清掃が行き届いた町並みを前にトマスが感心していると、少年たちが僅かに胸を張った。
「それは俺たちが掃除してるからだよ」
「何のために君たちはここを掃除してるんだ?」
「飯のため」
「……質問しなおそう。君に仕事を振っている人は何のために君にそれをやらせてるか、知ってるかい」
「さぁ? ジィに聞けば分かるんじゃないか?」
ジィ、という誰かがどうやら少年たちのボスということのようだが、とまで考えてトマスは思い出した。
――ああ、マフィアが近づいてきたら『ラジィの紹介』って言ってみかじめ料を払えばいいわ。
どうやら己をここに誘ったのと、この少年たちを動かしているの。どちらも黒幕はラジィという同一人物のようだ。
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