■ 039 ■ スラムクリーニング




 そうして翌朝。

 舎弟の中で一番年上のエドに空き家の護りを任せ、フィンと共に見本を見に行ったヒューゴは開いた口が塞がらなかった。


「貴方にはこの程度まであの空き家を綺麗にすることが求められているわけですね」


 フィンが紹介したのはあくまでブルーノ・レンティーニが管理する商店の一つに過ぎない。

 だがその家屋の清潔さ、汚れの無さは確かにヒューゴが前提としていた清潔の水準を遙かに上回っていたのだ。


 でも、思い返せばヒューゴも母親と暮らしていた時はある程度清潔な家で暮らしていたわけで――

 己の常識はここまで書き換わっていたのかと、その事実にヒューゴは軽い恐怖を覚えた。人は、環境に慣れる生き物なのだと。


 自分は変わっていないと思っていたヒューゴの水準はもうとっくに、健康で文化的と言えるレベルを大きく下回っていたのだと。


「主さまに言って石鹸を届けさせましょう。もっとも獣脂の軟石鹸なので貴方たちの感覚だと嫌な臭いでしょうが」


 ただそれでも不潔よりはマシだと言われて、ヒューゴは首を縦に振った。


「他にも清掃に必要なものがあれば都度主さまに言うとよいでしょう。そういう点では主さまは無茶を押しつける子ではありませんからね」


 そうして、皆に名残惜しい視線を向けられながら、朝食を配りに来たラジィと共にフィンが空き家から立ち去っていく。

 代わりに残ったのは獣臭を放つ、匂いは強烈だが汚れは落としてくれるという軟石鹸に木桶と洗濯板、あと信じられないことに人数分の着替えがある!

 中古服だが、今着ているものよりよっぽどマシな服が!


「ヒュー兄、これ本当に貰っていいの? 私たちこれから人買いに売られるんじゃないの?」


 ヒューゴとしてもその可能性はチラと考えたのだが、自分たちにそこまでの価値があるか? と考えてみればどうしてもそれは有り得ないという結論になってしまうのだ。悲しいが。


「最低でも三日おきに石鹸で服と体を洗うならくれるってさ、守れるか」

「守る!」


 獣脂の軟石鹸はかなり臭うのだが、更なる悪臭に慣れきっている舎弟たちが文句を言わずヒューゴの指示に従ったのは僥倖だったろう。


 こうしてヒューゴたちは微妙な悪臭の残り香を纏いながらも清潔という、割と庶民の子より健康な生活を送れるようになったのである。




      §   §   §




 ただそうやってヒューゴたちがこざっぱりすれば当然、


「ようヒューゴ、お前ら最近随分と羽振りが良さそうじゃねぇか」


 別の孤児集団に目を付けられるのは仕方のないことである。

 ヒューゴは舌打ちした。目の前にいるコニーとその取り巻きはヒューゴたちより人数が多く、時に最下層の船乗りからも金を巻き上げたりできる強グループだ。


 何か差し出せばこの場は逃れられるかもしれないが、ラジィは本当に着替えと掃除道具以外の何もヒューゴに与えてくれていない。食事もその場での完食を求められている。

 掃除道具を奪われれば飯抜きな上に、その日の掃除がそこで終わってしまう。

 そうなれば七日で掃除を終わらせるヒューゴの算段が完全におじゃんだ。


 先程ゴミ捨てに行った際に掴まったのだろう。今はコニーグループの集団に囲まれているラダとヨニを見やり、ヒューゴが着替えを差し出すしかないかと諦めたところで、


「そこまでよ!」


 この場に余りにも場違いな少女の声が響き渡って、ヒューゴは思わず脱力してしまった。

 どうやら自分たちは本当にこの数日間、見張られていたらしいと。真面目に掃除しておいて良かったと。


「なんだテメェは」


 近くの屋根上で腕を組んで仁王立ちしているラジィが「とうっ!」と飛び降りてきて、こいつはなんで屋根の上にいたのだろうと少しだけヒューゴは気になったが、


「レンティーニファミリーの用心棒よ。悪いけどそこのヒューゴには私が仕事を依頼してるの。邪魔立てするならレンティーニファミリーに喧嘩を売ったと見做すわ」


 とりあえず助けに来てくれたのは間違いなさそうなので、ヒューゴは大人しく引き下がることにする。

 プライド? そんなものはラジィとやり合った初日にボロボロに叩き潰されている。今更ラジィに道を譲って失うものなど何一つない。


「ハッ、テメェみたいな小娘がレンティーニファミリーだと? ハッタリかましやがって、やっちまえお前ら!」

「ハァ? ガキに小娘とか言われたくないわ! いいわよ来なさい、ボコボコにしてあげるから!」


 あ、これどこかで見たパターンだな、とヒューゴたちは安堵より生暖かさ由来の笑みを零してしまう。

 そうしてヒューゴたちの予想通りにコニーグループは一人の例外もなくその場でボコボコにぶん殴られて往来に倒れ伏した。描写の必要もない、まさにナレ死だ。


 屋内でやられたヒューゴたちとは違い、道端での大立ち回りである。

 ヒューゴの見たところ、いくつかのグループの子供たちが叩き潰されるコニーグループを恐々と観察しているようだ。


「貴方たちには二つの道があるわ。私に雇われてヒューゴみたいに働くか、このレンティーニファミリーのシマから出ていくかよ」


 ボッコボコにした連中を見下ろし、緋紅金の棍棒をパシパシ手に打ち付けながらそう語るラジィを前に、しかしコニーの敵愾心はまだ完全には折れていないようにヒューゴには見える。


 だがヒューゴより多くの舎弟を率いるコニーもまた、我折りラジィの下に付くことにしたようだった。頭を道端で地面に擦り付けて雇われることを選ぶ。


 掃除道具を押し付けられたコニーがラジィとフィンの去った後に、


「……なんだよ、笑いたきゃ笑えよ」


 そうヒューゴを悔しそうに睨み付けてきたが、当然ヒューゴたちは笑えなかった。

 何せまるっきり同じ流れでヒューゴたちもそうなったのだから。




 ヒューゴがラジィの下で働き始めてから七日後、


「キレイになったわね! よく頑張ったわ皆!」


 ヒューゴたちはラジィから何とか合格を貰い契約を更新するかを尋ねられ、一も二もなく首を縦に振った。

 その頃にはヒューゴ、コニーのグループ以外にも複数の孤児グループがスラムで清掃に精を出しており、今更女の子の下について働くなんて、みたいな翻意など持ちようがなかったからだ。

 それに、


「ジィは本当にレンティーニファミリーの関係者だったんだな」


 ヒューゴは見てしまったのだ。

 ラジィと契約しておきながら、舎弟に掃除をさせて自分は盗みを働いていた少年が、黒服を着た男に引きずられていく所を見てしまったのだ。


 黒服はマフィアのソルジャーかヒットマンだ。それくらいはヒューゴも分かっている。というか分かってない奴は死ぬ。

 だからラジィの「契約中は防衛以外の他者への攻撃と盗みは禁止」という禁を破った者は、レンティーニファミリーに楯突いたと見做されるのだと、分かってしまったのだ。


 あの少年がどうなったかをヒューゴはしらない。何せ彼は清掃の場に戻って来なかったのだから。

 よくて徹底的に痛めつけられてレンティーニファミリーのシマを追い出された。悪ければ――


「言ったはずよ? 私は約束を守る女だって」


 ラジィの笑顔を目にしたヒューゴの背筋に、堪えようがない悪寒が走る。


「貴方たちのお給料はレンティーニファミリーから出ているの。この意味を忘れないでね?」


 「だから貴方も約束は守りましょうね、マフィアとの約束よ」という副音声を聞かされたのだと、ヒューゴは感じずにはいられなかった。




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