■ 038 ■ ハウスクリーニング
そうして、ヒューゴたちによる家の清掃が始まった。
「じゃあ、寝ずの番の順番はこれでいくぞ」
盗まれたら食事抜き、は元々盗みで命を繋いでいたヒューゴにとってもっとも留意すべき問題だったため、先ずは寝ずの番を決めたところで、
「おはよう。覚悟は決まったかしら?」
猫車を押した少女がやってきて堅パンとオレンジ一つ、そして全員に木のカップを配ってそこに牛乳一杯を配膳する。
役目を終えて空になった木製の猫車は、ヒューゴたちがゴミの運搬用に使用してよいとのことだ。
助かった、とヒューゴは軽く安堵した。車輪付きの道具があるかないかで荷物運搬の容易さは雲泥の差だ。
「じゃ、あとは頑張ってね。私は朝と晩しかここに来ないけど、貴方たちは常に見張られていると思っていいわよ」
そう言い残した少女がチラとかまどに視線を向けて、
「あー、初日だけ指示させて貰うわね。夜のスープがこのままじゃ作れないから先ず厨房の掃除をお願い」
そう頼まれれば、ヒューゴもそれには頷くしかない。確かにそれは重大な問題だ。
「分かった。最優先で掃除する」
結構、と頷いた少女が、ポンと何かに気が付いたように両手を打ち合わせる。
「ああ、あと名前を聞いてなかったわね。貴方、名前は?」
「ヒューゴだ。お前は?」
「
「マーターマグナノシンデン……なに? 随分長い名前だな」
「……ラジィ、ジィでいいわ。夕飯の時にでも全員の名前を教えてね。それじゃ」
頭を振った少女、ラジィがゴミ捨て場の地図を残し、喋る獣を連れて空き家を去っていく。
そういえばあの獣の名前を聞き忘れたな、とヒューゴが軽く己の迂闊さを呪ったところで、
「ヒュー兄、かまどからそうじって何やればいい?」
家事などやったことがない純粋な捨て子の弟分、ダリーに声をかけられてヒューゴはパンと己の頬を叩いた。
「最初は俺がやるのを見てろ。レミはバケツに水汲んでこい。トマは付き添いだ。横やりが入ったらお前が何とかしろ」
「わかった!」「行ってくるよヒュー兄!」
二つあるバケツのうち一つを持った少年二人を送り出したヒューゴは先ず、率先してかまどに張られた蜘蛛の巣を排除にかかる。
どういうわけか巣の主はもういないようだが……長年使われていなかったようで、薄らと埃を被った灰を前にしばし考え込む。
灰は洗濯にも使えるし捨てたくないが、ここまで埃が混じっていてはやはり捨てるべきか。
かまどの灰を搔きだしては猫車に移して、手に取れる大きさのゴミもポイポイ放り込んでいくとあっという間に猫車は一杯だ。
「ラダ、ゴミ捨ててこい。エリ付き添ってやれ。場所分かるか?」
「えーっと、うん。大丈夫。行ってくるねヒュー兄」
うんしょ、うんしょと猫車を押すラダを送り出しつつ、こいつは中々楽ではないぞ、と下ばっか向いていて痛くなった首をぐるりと回したら、
「あー……先ずは上からだったか……」
天井の四隅にもくまなくぶら下がった蜘蛛の巣を目にして、ヒューゴは早くも安請け合いした己を呪った。
というかここはこんなに汚れていたのかと、掃除をする立場になって初めてヒューゴは己が酷い環境で生活していたことに気がつけた。
――まだ、あのクソみたいな家に居る時の方がマシだったんだな。
そう考えると、少しだけ郷愁を感じてしまう自分が少しだけ腹立たしい。あんな生活が、自分の戻りたい生活だなんて。そんなことあってたまるものか。
首を振ったヒューゴは木箱の上にひっくり返したバケツを重ねると、
「ヨニ、そこの雑巾を棒に巻き付けて蜘蛛の巣を全部剥がせ」
舎弟の一人であるヨニを肩車して木箱、そしてバケツへ足をかけて天井までの距離を稼ぐ。
そのまま蜘蛛の巣と埃を、「ゴホッ」「ヘックショイ!」「これ、口元塞いどかないとだな……」咳き込みながら掃除していると、
「ヒュー兄ヒュー兄!」「すごい! 地面に大穴が空いてた!」
ゴミを捨てに行ったはずのラダとエリの紅二点ペアが興奮したように猫車をかっ飛ばしながら帰ってきた。
興奮している二人の話を聞くに、これまで空き地だった場所に家一つどころか二つくらいは埋まりそうな大穴が一晩で空けられていたのだそうだ。
なお、彼らの与り知らぬところであるが、これはラジィがティナに頼んでディブラーモールの魔術を駆使して拵えたものである。
魔術を使えばそれほど難しいことではないが、そういう非日常に初めて触れる子供たちからすればドキドキワクワクの体験だ。
「……それ、落ちたら上がってこれなくないか?」
「うん! 気をつけないとだね!」
もっとも、酸いも甘いもかみ分けてる兄貴分のヒューゴからすれば、それが自分たちの墓穴にならないことを願うのみであるが。
そんなこんなで水汲みから帰ってきたレミとトマからバケツを受け取って、ここからは雑巾で壁の汚れを丁寧に拭っていく。
あっという間に真っ黒になるバケツの水はだから頻繁に交換する必要があり、その水は用水路から組み上げてこなければいけないために全く楽な仕事ではない。
二つあるバケツが延々空き家と用水路を往復する、半端じゃない重労働だ。だが、
「ん、ちゃんと働いているわね」
日が暮れる直前に食材をその背に乗せた獣を連れてラジィが再びやってくれば、ヒューゴは表には出さないが舎弟たちは喜色満面である。
盗みなら、成功しなければ食事にはありつけない。だがこの一週間は朝晩の食事が確約されているのだ。これ程ありがたい話はない。
ラジィが鍋に水を張って、そこに塩やら切った野菜やらソーセージ(とんでもないご馳走だ!)やらを放り込んでいけば、もう周囲はソワソワである。
ヒューゴからすれば煮炊きの匂いでそこらの浮浪児たちが集まってくるんじゃないかと、とてもじゃないが落ち着いていられないが。
「はい、お疲れ様。ちょっと遅れ気味みたいだけど初日としてはまぁまぁだわ」
そうしてラジィからソーセージと野菜が浮かんだスープを受け取ったヒューゴは軽く青ざめた。
自分としては結構進んだと思っていたのだ。だがラジィからすれば「ちょっと遅れ気味」という判断である。
ここに来てヒューゴは己の常識とラジィの常識に齟齬があることに改めて気が付いたのである。
そりゃそうだ、相手はこうも小綺麗にしている少女だ。その少女からすれば己など埃の又従兄弟でしかあるまい。
いいところのお嬢さんが! とヒューゴは文句を言いたかったが――手の内にあるソーセージ入りのスープがヒューゴにそれを許さない。
甘やかな動物性脂肪の溶け込んだスープの香り。こんなご馳走は何十日ぶりだろう。
「兄ぃ、いらないなら私に頂戴!」
「馬鹿言うな! いらないわけないだろ!」
堅パンをスープに付けて齧り付けば、塩味が効いたスープでふやけたパンの何と美味しいことか。
これだ、この味に見合った仕事を己は求められているのだ、とヒューゴは舌鼓を打ちながら一人怯えた。自分も舎弟たちみたいに無邪気に美味しい美味しい言って笑えてたらどれだけ幸せだっただろう。
その日の晩だけだ、と忠告した上でラジィは獣を見張りとして残してくれた。
なんでも、いきなり夜型生活に移行するのは難しいだろうからとのことで、悔しながらもヒューゴはその気配りに感謝せざるを得ない。
実際、今夜の夜番役だった舎弟も昼間は興奮して仮眠をあまり取れておらず、それをラジィは最初から想定していた、ということだ。
もっとも、
「しがみ付かないで下さいね。貴方たちは不潔に過ぎる。主さまに病気がうつります」
誰もがフィンと名乗った獣に抱きついて眠りたがったが、獣はそれを断固拒否した。なんでも、全く洗濯と水浴びをしていない自分たちは不潔なのだという。
もっとも彼らの与り知らぬところでダニやシラミは駆逐されているので、純粋に服と肌の汚れが問題視されているのだが。
「清潔になりたいですか?」
夜番をするはずだった舎弟がやはりというかこっくりこっくり舟を漕いでいて、なので代わりに番をしていたヒューゴにフィンがそう問いかけてきた。
「分からない。清潔になるとどうなるんだ?」
「先ず今貴方が感じている全身と頭のかゆみが消えます。あと人前に出ても追い立てられなくなります」
ふむ、とヒューゴは顎を擦った。
確かに全身が痒いのは事実だが――清潔になることはそこまで重要なのか?
「主さまは説明不足ですね。明日、貴方たちが六日後に到達すべき見本を紹介しましょう。今晩は私が責任を持ちますので今日はもう貴方もおやすみなさい。明日からは休んでいる暇もありませんよ」
「……わかった。ありがとう」
フィンの忠告にヒューゴはありがたく従って、光源でもあった仄かなかまどの火を埋め、目蓋を降ろす。
今日の仕事で「遅れ気味」だったのだ。明日からは本当に休む暇がないに違いないのだから。
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