■ 037 ■ 汚物は消毒だ
ヒューゴ――庶民故に姓を持たないただのヒューゴは孤児である。親に捨てられた孤児ではなく、親を失った孤児だ。
ヒューゴの母親は娼婦をやっていて、それ自体はこの船乗りという屈強な男が集まるリュカバースでは珍しくなく、割と普通のことだ。
普通でないのはヒューゴの母親がヒューゴを身ごもった、というか身ごもらせた船員を捕まえて夫婦となることに成功した幸運の持ち主であったことだ。
娼婦が妊娠したとてお相手は知らぬ存是ぬを貫くことが普通である。大概の娼婦はそこで泣き寝入りをすることになるわけで、どれだけヒューゴの母親がツイていたかは推して知るべしだろう。
そうしてヒューゴを出産し、夫婦水入らずの生活が始まったらしいが、ヒューゴはそのことを全く知りはしない。
というのもヒューゴの母親の幸運はそこまでだったか、ヒューゴの父はある航海に出たまま帰らず、船ごと海の藻屑となってしまったからだ。
物心ついた時からヒューゴは母親に愛されたことは一度もなかった。ずっと「お前さえいなければ」という怨嗟の声だけを聞いて育った。
ヒューゴの母親は娼婦に復帰して生計を立てていたが、その生活は結婚前より大いに劣る生活だったからだ。
無論、それは一人分の食費が増えた、ということもあるが、何より娼婦仲間がヒューゴの母に辛く当たるようになっていたからだ。
もっともこれは自業自得という奴で、ヒューゴの母は所帯を得て娼婦生活から解放された際に、ことあるごとに自分の幸せと運の良さを周囲に見せびらかしてしまっていたのだ。
そんなことをしていれば、落ちぶれた際に誰もが追い打ちをかけてくるのは当然のこと。疎まれたのは完全に自分のせいなのだが、ヒューゴの母はそれを全てヒューゴの責任に転換した。
要するに弱者が、より弱い者をいたぶって心を落ち着るという、社会の宿痾の一端である。
ヒューゴはよく食事を抜かれるなどの育児放棄を受けていたが、それが一概に育児放棄とも言い切れないのは、その程度の収入しかヒューゴの母は得られなかったからでもある。
空腹に喘ぐヒューゴは拾い食いと盗みに手を染めるようになり、そのように生きるヒューゴにヒューゴの母は逆に依存するようになっていた。
ヒューゴが盗みに成功すれば誉め称える。失敗し、捕まり、殴られ、ボロ雑巾のようになって帰ってくればヒューゴを罵倒する。
ヒューゴにとって母は既にお荷物以外の何者でもなく、いつかこいつはぶっ殺してやる、というヒューゴの「いつか殺してやるリスト」筆頭に名を連ねる存在でしかなかった。
もっとも、ヒューゴにとってそれは二度と叶わない話になってしまった。
ある日、やはり盗みに失敗し、しかしなんとか追っ手を逃れて家に帰ってきたヒューゴを当然の顔をして母が怒鳴りつけていた時に、
「このガキ、ぶっ殺してやる!!」
その日の獲物になるはずだった男が家までヒューゴを追ってきていたからだ。
母親を殴り倒しヒューゴの頭を掴んで何度も壁に叩き付けていた男だったが、何故か急にその手を止めて、
「こ、このアマ……」
ヒューゴが涙の滲む目で見やれば男の背中には包丁が刺さっていて、それを成したのは、成せたのは当然一人しかおらず、
「ガキがガキなら親も親かよぉ……なんだよぉこのクズ共がよぉ……! こんなゴミ共にどうして俺が、俺がこんな目に合わされなきゃいけねぇんだよぉ!」
男が背中に刺さっていた包丁を引き抜いて、ヒューゴが止める間もなく母の首を切り裂き、次いで胸に深々と包丁を突き立てる。
だが男の暴力もそこまでだった。刺さりどころが悪かったのだろう、そのまま倒れた母に折り重なるように膝をついた。
母が何を思って男を刺したのかはヒューゴには分からなかった。単純にヒューゴが死んだら今後働かず食っていけなくなるというだけの話だったのかもしれない。
あるいは、単に恐怖に襲われて反射的に攻撃しただけなのかも。だが、結果として母はヒューゴの身代わりとなって死んだ。
最期に文句の一つでも言ってくれれば、ヒューゴは母のことを忘れられただろう。このクズが、いいザマだと笑い飛ばせただろう。
だが、そんな願いももう叶わない。ヒューゴはあれだけ嫌っていた母に意図はさておき結果として助けられてしまった。その事実だけが永久に残ってしまったのだ。
それからのことをヒューゴはあまり覚えていない。家は、よく分からない大人が来てヒューゴは追い出されてしまった。
家の売却料として
ストリートチルドレンとなったヒューゴが知ったことは、このリュカバースにはそういう子供が自分以外にも腐るほどいた、ということだ。
そういう連中とヒューゴは時に対立し、時に奪い合い殺し合い、時に手を組んで盗みを働いた。もっともヒューゴが狙うのはあくまで食べ物のみだ。
というのもまともに教育を受けていないヒューゴは、お金というものがよく分からなかったからだ。
あの時手渡された、薄汚れた小銀貨はだから今も宝物のように布に包んで木靴の中に隠してある。家の対価として与えられた物なので、きっととても大事なものなのだろうと信じて疑わないが故に。
そんなヒューゴには住む家もなく、当然のように古びた空き家を適当に仮宿とし、盗みを働き、大事になったら逃げるようにその地区を離れる、という生活を繰り返していた。
そんなある日に、
「さぁ、汚物は消毒よフィン!」
「はい、主さま」
ヒューゴと、あと最近の盗み仲間七人が潜んでいた建物が突如として光に包まれた。
そしてその光が一瞬だけ炎に包まれた直後、
「おぅおぅ、この家はブルーノ・レンティーニ兄貴のものなのよ? 勝手に住み着いてるのはどこのどなたかしら」
このスラムでは聞き慣れない、あまりに迫力のない柔らかな声がヒューゴたちの耳朶を叩く。
次いで、コツリ、コツリと足音。赤い金属の棒を持った真っ白い少女が、鼻持ちならない笑みを浮かべてヒューゴたちの前に立ちはだかった。
「分かるかしら貴方たち。この家に住んでいいのはレンティーニ兄貴の許可を得たものだけなのよ。みかじめ料は払った? 金がないなら出ていって貰いましょうか」
瞬時にヒューゴたちは判断を下し、目で合図した。
相手は恐らく自分たちより一つか二つは年上だろう。だが、数では此方が上だ。
食糧は持ってなさそうだが、穴の空いてない服が手に入るだけでも、あの少女を殺すだけの意味がある。
スラムにおいて、子供の命など服一着よりも安いのだ。少なくともヒューゴにとってはそうだった。
ヒューゴたちは武器を持っていなかったが、なんてことはない。四肢を押さえて首を折れば人は死ぬ。そうやってヒューゴは何人かを仕留めてきているし、そして自分がそうやって殺されかけたことも一度や二度ではない。
ヒュという短い口笛。やれ、という合図をしてヒューゴは少女へと躍りかかり――
そしてあっという間に返り討ちにあった。
§ § §
「もう一度言うわ。この家に住んでいいのはレンティーニ兄貴の許可を得たものだけなのよ。ここに住みたければ真面目に働いてお金を稼ぐことね」
食事汚れ一つないローブを着た少女が、真っ赤な金属の棒を手にヒューゴたちを見下して高慢にもそう吐き捨てる。
ヒューゴは苦痛と屈辱に顔を歪めた。八人がかりで挑んで、あの苦労など一度もしたことがないような真っ白い少女に手も足もでなかったのだ。
「真面目に働けか。恵まれてる奴が言うことはご立派だな!」
負け惜しみとは分かっているが、ヒューゴは叫ばずにはいられなかった。
お前に俺の何が分かる。梳られた輝く白い髪に、埃一つない服。金属製の道具に革靴。あかぎれなどある筈もない手指。
そんな地べたを這いずり回ったことなどない美しい生き物に追い立てられるのは、いつだって人扱いされない薄汚れた自分たちだ。
いつものこと、そう、いつものことだった。こんなこと、日常茶飯事だ。
「俺たちみたいなガキができる仕事なんてあるわけねぇだろ! お前たちはいつもそういう物言いで俺たちを追い出すんだ!!」
ただ、いつもと決定的に違ったのは、
「そう。じゃあ仕事があるならちゃんと働くのね?」
「え?」
ニンマリ笑った少女が振り向くと、入口からのっそりとよく分からない生き物が入ってきて、
「主さま、どうぞ」
しゃべった。どうぶつがしゃべった。
悩むことは他にも色々あるが、その一点でヒューゴたちの頭は完全に真っ白になってしまった。
「ありがとうフィン」
そんな彼らの前で少女が動物の背から降ろして、床にドカンと置いた木箱。
「ならば私が貴方たちを雇いましょう。一週間あげるからこの二階建て家屋を綺麗に磨き上げなさい。真面目に働くなら日当として銅貨二枚と朝晩の食事は支給するわ」
そこに入っているのは程々に使い古されたバケツに雑巾やハタキ、箒といった掃除用具一式だ。
着る服にも困っているヒューゴたちとて、流石にこれは掃除以外の用途には使えないだろう。幾らボロ雑巾みたいな服とはいえ、雑巾で穴を塞ぐのは御免被る。
箱を見、少女を見、謎の動物を見たらグイッと歯茎を剥かれてうおっと圧倒されて。
また箱を見たヒューゴは、身体の痛みも忘れて状況を理解しようと試みたが、
「……なんで?」
口からまろび出たのはそんな情けない質問だけだった。
「貴方が言ったんじゃない。貴方たちにできる仕事がないから家賃が払えないんだって。だから貴方たちにできる仕事をあげる。掃除ならできるでしょ?」
掃除、掃除ぐらいは確かにヒューゴも分かるしできる。できるのだが……
「それ、仕事なのか?」
少なくとも掃除を仕事として飯を恵んでくれる人はこれまでいなかった。
いや、それを仕事としてヒューゴも誰かに売り込んだことなどなかったから、もしかしたら潜在的にはいたのかもしれないが……少女は真面目な顔で頷いた。
「仕事よ。無論、まだ貴方たちのそれは仕事と言えるほどでは無いでしょうけどね。誰でも最初は下手なものだからそこに文句を付ける気はないわ」
「……朝晩食事付きって、本当なのか?」
ここ最近における、ヒューゴの弟分に納まっているエドがそう疑わしそうに尋ねると、少女が優しくも偉そうにも見える顔でニッコリと笑う。
「ええ。真面目に掃除をするならね。一週間後にこの家が綺麗になっていたら追加報酬と次の仕事を。レンティーニ兄貴のお眼鏡に叶わなければ一週間で仕事はお終い。やる?」
ヒューゴたちは互いに痛む身体をおして顔を見合わせた。
「……掃除してる間はここにいてもいいのか?」
「勿論。清潔に使用するならね」
「食事って……奪われたりしない?」
「一週間の間は私の目の前で食べて貰うからその心配はないわ。代わりに売らせてもあげないけど」
「一週間後の、次の仕事って?」
「まぁ、暫くは同じ掃除ね。綺麗じゃない家なら腐るほどあるもの」
「食事って、何食べさせてくれるの?」
「朝はパンと野菜か果物一つずつにミルクを一杯。夜はパン一つとスープ一杯。ま、清掃の対価としてはこれくらいね」
皆の質問に少女が次々と回答していく。内容があまりに旨すぎる不安を除けば、正直悪くない話だ。
少なくとも一週間は食事に困らないわけで、それだけなら受けてみても構わない筈だ、とヒューゴは考える。
皆の視線がヒューゴに集まって、故にヒューゴは頷いた。
「分かった、やる。食事の話は嘘じゃないだろうな」
「私は約束は守る女よ」
前金、と称して少女が獣の背中からもう一つ小さめの箱を下ろし、中から取りだしたトマトと堅パンを一人一人に一つずつ配ってみせる。
配られた瞬間から子供たちがそれにかじりつくのは、持っていても誰かに奪われてしまうのがこのスラムの常識だからだ。
「ただ、働かない者には食事も報酬もなしよ。怪我と発熱以外の有給休暇は認めません。あと七日間の間は防衛以外の他人への攻撃と盗みを禁じます。いいわね?」
「……分かった。だが、どれだけ働けばいいんだ?」
「それは自分で考えなさい。この二階建て家屋を一週間でピカピカに磨き上げる、その程度なら目処が立てられるでしょ? 七日で家が綺麗になるならどう働いてもいいわ」
七日間を自分の裁量で働け、と言われたヒューゴは不安も覚えたが、逆に喜びもした。
要するに掃除が三日で終わっても七日間は食事に困らない、ということだからだ。
「……屋根の上は?」
「ゴミが落ちてこない程度には清掃を。雨が降るかもだし、磨き上げる必要はないわ」
「ゴミはどうすればいい?」
「明日、ゴミを捨てる場所を此方で指定します。そこに捨てて頂戴。指定した場所以外に捨てたら報酬抜きよ」
「掃除用具が八人ぶんないんだけど……」
「かわりばんこで休憩を取りなさい。あと掃除用具を失っても食事抜きよ。大事に扱うように」
掃除用具がなくなったら食事抜き、と言われてヒューゴは僅かに緊張した。要するに寝てる間に盗まれました、も言い訳にはならないということだ。
掃除用具なんか盗む奴がいるのか? というのはあくまで恵まれたものの視点であって、水漏れしないバケツなら十分にスラムでは盗むに値するのである。
――寝てる間にも見張りを立てろって、掃除道具が八人ぶんないのはそういうことか。
最初は易くておいしい仕事だと思ったが、少女はキチンと抑えるべき点を抑えている。
要するにヒューゴたちが飢えない生活を始めたら、今度はヒューゴたちがより貧しい連中から狙われる立場になると、そう少女は分かっている。スラムの生き方を熟知しているようだった。
「分かるでしょう? 仕事なのよ。楽をさせるつもりはないわ」
「……そうみたいだな」
頷きつつ、しかしヒューゴは首を捻った。なんかさっき配られたパンを食べてから、心なしか少女に殴られた痛みが消えているような気がするのだ。
「じゃあ、また明日の朝にここに来るわね。今日が貴方たちが八人揃って寝られる最後の日よ。ゆっくりおやすみなさい」
少女が獣と一緒に空き家を去ったあと、八人の子供たちは顔を見合わせた。
夢や幻の話ではないようだ。身体の痛みは何故か消えたが掃除用具は残っているし、お腹も満たされているしけものがしゃべった。
「……なんにせよ、一週間は飢えずに済むんだ。やるだけやってみよう」
「わかった、ヒュー兄」
そうして、その日を境にヒューゴたちの生活は一転することになるのである。
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