港町リュカバースでの生活 Ⅰ
■ 013 ■ 目覚めと混乱
体を貫いたのは灼熱であり。
零れ落ちたのは真紅であり。
湧き出でたのは赫怒である。
最初からどこかしらの違和感は覚えていたのだ。
明らかにリュカバース駐屯騎士の数が常駐している筈のそれより目に見えて少なく、その理由を問うと、
「はっ! 賤しきノクティルカの連中がリュカバースを狙っているという垂れ込みがあったため、街の周囲を探っております!」
という返事が駐屯騎士から返ってくる始末である。
冗談にしては笑えない話だ、とスティクスは辟易する。もしそれが事実ならリュカバースから騎士を出すのではなく本国へ増援を求めるべきだ。
狙われているのがリュカバースならそこから騎士を引き剥がしてどうしようというのだろう。
もっとも、そんな反論をしたところで「軍事に疎い王家が何を」みたいなことを遠回しに言われるだけなのは、リュキア王国第三王子スティクス・リュキアはもう嫌と言うほど知っていた。
第一王子や第二王子の命令には従うくせに、と内心でせせら笑うのが関の山だ。
つまるところ、どちらかの兄が嫌がらせをしているのだ。騎士を減らして、治安を悪化させて、
――そんなことしなくたって、こっちは王位なんかに興味はないんだけどね。
放っておいてくれないかな、とスティクスはことあるごとに思わずにはいられないのだ。
そも、スティクスは確かにリュキア現国王シェンダナ・ウダイオス・リュキアの実子ではあるが、母親の方がどこの馬の骨とも分からない出自不明の少女、という極めつきだ。
父親が遊びで抱いて孕ませて生まれた子がスティクスであり、生まれた時からスティクスは二人の兄と徹底して差を付けられた教育を受けてきた。
だが、まあ教育を受けているだけマシなのだろう。
自分の身の上を嘆いたスティクスが貴族家の庶子の扱いを調べたところ、教育を受けさせない、食事も与えない、部屋は物置以下で雑用としてこき使う、なんて例もあったぐらいだ。
無論それは発覚すれば同じリュキア貴族からも白眼視される明確な虐待であるし、普通はそこそこの教育を受けさせて万が一の予備として手元に置くものである。
そういう意味ではスティクスの扱いはやはり標準的とも言える範囲で、父を恨んでも仕方ないことは理解している。
もっとも、そこら辺の女にホイホイ手を出すなよ、とは若者ながらにスティクスは思いもしたが、貴族の婚姻は仕事なので好き嫌いで選べる筈もない。
やはり父も好みの女性と付き合いたかったのか? と考えると多少はまあ、理解できなくもないのだ。したくはないが。
なお、その母の行方をスティクスは知らない。スティクスが幼い頃に行方不明になったとのことで、まあ生きてはいないのだろう。
スティクス、意味は
それは名を持つ価値がない奴隷によく十把一絡げに付けられる名前であって、まともな感性をしていれば己の子に、しかも王子に付けようとなど思わないだろう。
無論、それが父の本意ではなく、両王子の母である第一夫人、第二夫人からの殺意を和らげ何とかスティクスを生かそうとした結果、ということは分かっている。
差を付けられることで、どこからどう見ても王位は継げないと見せることで、かろうじてスティクスは権謀術数渦巻くリュキア王都リュケイオンで十五歳になるまで生きてこられたのだ。
言い換えれば、スティクスは嘲笑を稼ぐことによって自らの命脈を紡いできたのだ。
勉学のインプットには手を抜かなかったが、アウトプットには相応に手を抜いた。馬鹿だと思わせておいた方が生き延びるのに有利だと考えたからだ。
だがそこまでやっても、第一王子派、あるいは第二王子派はなおスティクスの異心を疑わずにはいられなかったと見える。
此度のリュカバースの視察は父王よりスティクスに課せられた正式な命令であった。
あるいはこれは父の好意、即ち息の詰まる王城から出てゆっくりしてこいという温情なのかもしれなかったが、任務は任務だ。
然るにこれには手を抜けず、スティクスは真面目に査察を行なっていた。都市の外観、港の維持、役人の質、騎士の質、住民の健康状態、設備の損耗。
そういったものを一つ一つ確認しては、報告書に認めていく。
明らかに駐屯騎士が不足している件については騎士を引き上げさせたのが第二王子のため少し悩んだが、それで民が害されることあらばそれは王国の過失である。報告書には騎士不足と正直に記載する。
あるいはそういった真面目さが、周囲にはスティクスの野望と映ったのだろうか。
「申し訳ありません殿下……そのお命、何卒リュキアの平穏の為に捧げて頂きたい……!」
周囲には聞かせられぬ話がある、と腹心だと思っていた護衛騎士に港に呼び出され、後ろから心臓を刺されてようやく、スティクスは己に味方など一人もいなかったことに気が付いたのだ。
体を貫いたのは灼熱であり。
零れ落ちたのは真紅であり。
湧き出でたのは赫怒である。
朦朧とした意識のまま、水底へと沈みつつあったスティクスが感じられたのはその三つだけだ。
肺腑が海水に満たされた息苦しさも、悔しさも悲しみも、無念も後悔も無い。
ただ、何故自分はこんな目に合わなければいけないのかという、理不尽に対する赫怒だけがスティクスを満たした時、魂の奥底で何かがグルリと
そして、そこから先に何があったかをスティクス・リュキアは全く記憶していない。
だが、
――殺せ!
怒りがある。
怒りがある。
――僕をこんな目にあわせてなお笑いながら生きている連中を殺せ!
許せない怒りがある。許しがたい怒りがある。
何故こんなことがまかり通るのかという、世界に対する怒りがある。
自分がこんな目に合うことによって誰も彼もが幸せに生きているというなら、その全てを破壊してやらねば気が済まない。
僕の不幸を礎にして幸せに生きるな。
僕を踏みつけにすることによって幸せに生きるな。
僕がそう在ることがこの世界のためであるというなら、そんな世界を踏み潰して何が悪い。
――殺せ。
――壊せ。
――全てを蹂躙して踏みつぶせ。
忘れるなスティクス・リュキア。烙印を押されし者よ。
それだけがお前がこの世に存在する理由の全てである。
§ § §
そうして、スティクス・リュキアは目を覚ました。
開いた目がどうにも霞んで、意識が朦朧としている。全身が鉛のように重くて、力が入らない。思うように身動きできない。
それでも、目に焼き付いている光景と、心に焼き付けた情景だけはしっかりと覚えている。
体を貫いたのは灼熱であり。
零れ落ちたのは真紅であり。
湧き出でたのは赫怒である。
忘れるな。これを忘れるな。
この屈辱をはらさんが為に自分は存在するのだと、腹心に裏切られた怒りを胸にスティクス・リュキアは身を起こそうとして、
「……え?」
ベッドの上で呆然と固まった。
何故自分がベッドの上にいるのか、いや、それはいい。いや全くよくないのだがそれは些細なことだ。今は忘れていい。
問題は被せられていたシーツを捲って、さて。何故、自分は下半身の下着一枚でベッドの上にいるのだろう。その上、
「うぅん……ふぁ……」
どうして自分と同様に下半身の下着一枚の少女が自分に覆い被さるようにして穏やかな寝息を立てているのか。とても今目の前にある光景が現実とは思えない。
夢見心地に導かれるまま、そっと己の上でうつぶせになっている少女の太股に手を這わすと、スティクスの手付きに添ってその肌が滑らかに形を変えていくのが触感で分かる。
その、あまりにも心地よく温かい感覚。
どうやらこれは夢じゃないらしい、とスティクスの意識が現実とようやく向き合ったことで、
「うわぁ!?」
スティクス・リュキアはこの状況、及び己が無意識に成したあまりに不埒かつ不純な行為に仰天してベッドの上でもんどりうった。
シーツがめくれ、スティクスの胸から隣へ転げ落ちた少女が仰向けになり、今度はまだあまりに薄い胸の膨らみが視界に飛び込んできて慌てて裸の少女へシーツを被せ直す。
――なんだ、なんだこれ、一体どうなってるんだ!?
心臓はもはや滅茶滅茶に乱打された早鐘の如しだ。心拍数はあっという間に
頬は初心な少年らしく真っ赤に染まり、呼吸の仕方すら今や忘却の彼方にある。赫怒? そんなもの身体のどこを探しても欠片も残ってなどいない。
体を貫いたのは快楽であり。
零れ落ちたのは恍惚であり。
湧き出でたのは劣情である。
腹心に殺されかけた? そんなことは今考えなきゃいけないことか? モロチン、いや勿論当然考えることイヤイヤどう考えたってそんなのは些事だろう。
そうとも、今考えるべきは朝立ち、え、それが真っ先に考えることか? いやそうだろう。何せ今少女が目覚めたら何も言い訳できない。
なんだ、なんでこんなことになっている。やはり自分もまた庶民に見境なく手を出したクソ親父の息子に過ぎないということか。いや、そうと決まったわけでは、ない、ない筈だ……!
鎮まれ我が魔羅様よ鎮まりたまえぇ! と必死でスティクスはかしこみかしこみ願い奉るが、なにぶんそれは生理現象であるので理性ではどうしようもない。
見るな、見るな見るな見るな、と考えれば考えるほどスティクスの視線は隣にあるシーツ越しに描かれた柔らかな稜線に釘付けになってしまい、全てが悪循環に陥っている。
とにかくこのままベッドで寝ているのは拙い、とスティクスは立ち上がろうとして、ズキンと頭が痛み――
「――あ」
ふっとした目眩とともに身体が前に折れ、そのまま横倒しに再び倒れ伏してしまう。
開かれているはずの視界は薄暗く、歯の根が合わずガチガチとスティクスの意に反して音を立てて震え、全身に力が入らない。裸だからか、それとも海に落ちたからか。
寒い。酷く、寒くて仕方がない。
「ふわあぁぁっ……あ! 目が覚めたのね! よかった、これで治療が再開できるわ!」
もがき苦しむスティクスの耳へと飛び込んできた声と、それに続く衣擦れの音からして、隣の少女もまた目を覚ましたのだろう。
明滅する視界に苦しむスティクスの横で手早く着衣を終えたらしい少女が、
「出血多量からなる貧血と低体温症よ、無理しない方がいいわ。もう少しの辛抱だから頑張ってね」
そう言い残して、スティクスの側から離れる。
「じゃ、続きはお願いねフィン。私は食事を温め直してくるから」
「はい、主さま」
少女と入れ替わるように渋い声の何かがベッドの上へと移動してきて、それが何かは分からないが、不安と恐怖からスティクスは遮二無二それに抱きついてしまった。
「言っておきますが、先程までのラジィのあれは貴方が低体温で死んでしまわないための治療行為ですからね。勘違いしてラジィに手を出そうものなら
眩暈が激しくてよく分からないが、柔らかな体毛を持つその何かの体温がスティクスには涙が出るほどありがたい。身体が寒くて、震えて、今にも凍え死んでしまいそうなのだ。
「況してやラジィを淫婦扱いするようなことあらば最期、貴様の心臓は決して誠実の羽根に釣り合うこと能わぬと知れ。よいな」
そう厳格に諭されて、しかし激しい頭痛と酸欠に襲われているスティクスはわけも分からないままガクガクと頷いた。
もっともその頷きより身体の震えの方が大きいもので、相手にそれが伝わったかは分からないが。
「……まったく、ただでさえ足りない血をそうも下半身に集めては目も眩みましょう。自業自得です、精々苦しみなさい」
要するに今のこの苦しみは己の破廉恥な行為に対する罰なのだろう。
そうスティクスは自己嫌悪と羞恥心でますます青くなってしまった。
「しかし、ラジィの知識の偏りにも困ったものですねぇ。別に雪山のように人肌で温める必要などないはずですが……」
ただ、この毛深い何かの発言に対して、一つだけスティクスは反論できることがあった。
人肌が有効か否かはともかく、こうやって他人の存在を肌で感じられることは安心に繋がる、ということだ。
まぁ、そんなことを言われてもスティクスにひっしと抱きつかれているフィンはいい迷惑としか感じないだろうが。
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