■ 014 ■ 認識合わせ
「肉体自体は衰えてないし、消化も普通にできるってのは楽でいいわね。病人食は作るの面倒だし」
運ばれた魚介類のスープを食べ終えたスティクスの体調はそれだけでだいぶ持ち直し、昼食を終えた頃にはもう寒気も頭痛も消えてすっかり元通りの健康な身体を取り戻すことができていた。
「……凄いな、これは」
王子でありながら治癒術など一度も受けたことがないスティクスは、思わずペタペタと自分の頭や身体を撫で回してしまう。
朝のあの酷い体調不良がまるで幻のようだ。
「本家のシンなら貧血くらい一食で治しちゃえるんだけどね。私にはそこまでは無理だわ」
いや、食事を二回取っただけでこの回復ぶりも十分に異常だとスティクスは思うのだが、恩人の言うことではあるし一応反論は控えておいた。
少女とその従魔に退室してもらい、枕元に畳まれていた己の服を改めて身に纏う。
背中と胸元に穴が空き、血で黒く染まったその服が、己に何があったかを端的に示している。
やはりあれは夢でも幻でもなく事実だったのだ。あれで失血して、そこからの記憶がなくなって、そして目を覚ましたら少女の柔らかな肢体がこの腕の中に――
「って違うだろ!」
ブンブンと頭を振ってスティクスは煩悩を追い払おうとするが、何とか忘れようとしてもすっかり少女の白い肌が脳裏に焼き付いてしまったようで、頭の中から消え去ってくれない。
一度はスティクスの全てを支配した赫怒さんの面目丸つぶれだが、ある意味それはそれで幸せなのだろう。
あのときの怒りと嘆きを幾度となく思い出しては繰り返し世界を憎むという最悪の呪いから、スティクスは辛くも逃れることができたということなのだから。
……まあ、別の呪いには囚われてしまったようだが。
「じゃあ軽く自己紹介と情報共有でも始めましょ」
そうして午後にはスティクスが立ち上がれるようになったため、一度関係者を集めての有識者会談である。
五人が円卓を囲み、フィンはラジィの背後に蹲っている。ラオはフィンの頭上で羽根休めだ。
「
【
「主さまの従魔、スフィンクスのフィンでございます。主さまの騎獣を務めております」
「ラオだ。ジィの人工聖霊のようなものである。もっとも偵察と話し相手ぐらいしかできぬがな」
フィンは素直に喋り、ラオは当然のように身の上を伏せる。元エルダーで死体を操れますなんて言おうものなら皆が怯えてしまう。
なお、人工聖霊というのは文字通り人造の精霊である。神の力で作るので精霊ではなく聖霊だ。
精霊のように動き主をサポートするが、その機能はかなり限定的。要するに霊体ゴーレムのようなものである。
そう考えるとラオの性能は人工聖霊としては規格外、ちょっと無理があるのだが、幸いこの場にそれを指摘できる知識を持つ者はいないようであった。
「ウルガータだ、この一帯を取り仕切っている顔役だな。こっちのブルーノは隣のシマだ」
「えーと、ティナと申します。えーと、皆さんが言うところの火祭りの主催者、それの関係……知り合いみたいなもので、彼らを止めるためにやってきました。もう帰るので報復とかせず見逃してくださいお願いします」
ウルガータとブルーノはそのまま、フォンティナリアは最後までティナで通すつもりらしく、魔術についても伏せての自己紹介に留まる。
そうして最後に、
「スティクス・リュキアです。一応昨日まではリュキア王国第三王子でした。部下に襲われ海に沈められた私を介抱してくださったご厚情に最大限の感謝を。もっとも、今の私には何も御礼ができないのですが……」
スティクス・リュキアが頭を垂れるが、やはりというか何というか、赤竜については一切口にしない。
表情からして、隠しているのではなく本当に知らない、記憶にないのだろう。
「あー、王子サマよ。昨晩港で赤竜が暴れたことはご存知か?」
ウルガータがそう探りを入れるが、入れられた当のスティクスはキョトンと頭上にはてなマーク状態だ。
「赤竜……? いえ、何かの隠喩でしょうか?」
そんなものいるはずがない。監査の手落ちでも指摘しているのか? とでも言わんばかりの顔は、これが嘘なら――いや、王子ならそれくらいの腹芸はできるか、とラジィたちは困ってしまった。
最上位貴族の本心を顔から探るなど不可能。もうこうなったら直接聞くしかあるまい、とアイサインでウルガータ、ブルーノ、ラジィが合意する。藪を突いて竜が出るならその時はその時だ。
「単刀直入に言うわね。昨夜、このリュカバース埠頭に赤竜が来襲。これをティナの知り合いは予言で知ってたっぽくて、だから赤竜の炙り出しの為にリュカバースを火の海にしようとしていて、それを阻止しようとしていたのが私とウルガータ、ブルーノなのよ。あ、ティナもそうよね」
「ええまあ、焼き討ちは人道に悖るので何とか引き留めようと……まぁ結果的に赤竜が出てきてくれたので丸く収まりましたが……」
「で、首を落とした赤竜の心臓の位置から出てきたのが王子サマ、あんただそうだ。先に言っとくが胃袋からじゃねえぞ、心臓だ」
「は……?」
ふんふんと頷いていたスティクスが何言ってんだこいつ、みたいな視線を一瞬ウルガータに向ける。
「信じられないかもしれないけど本当の話よ。そこのティナとブルーノの前で私が貴方を赤竜から引っ張り出したし、風化して崩れた赤竜の身体は貴方に吸い込まれていったし」
スティクスがラジィ、ティナ、ブルーノ三人の顔を順ぐりに見回していくが、三人ともに至って真面目だ。ウルガータのみは、まだ多少懐疑的にも見える表情を浮かべているが。
「ティナの知り合いが何人も犠牲になりながら懸命に止めてくれたからね、リュカバースに被害はほぼ出なかったけど。あのまま貴方が暴れてたらリュカバースは火の海になってたわ。本当に心当たりはないの?」
ラジィに有無を言わせない口調と気配を向けられ、スティクスは息を呑んだ。
何人も犠牲になりながら、ということは、赤竜との戦いで人が死んだ、その赤竜は人を殺したということだ。そんな赤竜の中から自分が出てきたというなら、では。
――殺せ!
ああ、そうだ。
怒りがある。確かにある。
――僕をこんな目にあわせてなお笑いながら生きている連中を殺せ!
「どうして、僕――私が竜から出てきたかは分からない。だけど、そうする理由なら私の中にあった、と思う」
許せない怒りがある。許しがたい怒りがある。
何故こんなことがまかり通るのかという、世界に対する怒りがある。
自分がこんな目に合うことによって誰も彼もが幸せに生きているというなら、その全てを破壊してやらねば気が済まない。
人の不幸を礎にして幸せに生きるな。
僕を踏みつけにすることによって幸せに生きるな。
そう在ることがこの世界のためであるというなら、そんな世界を踏み潰して何が悪い。
そう、思っていた。
水底に、沈みながら。
「手段はさておき動機はあったと。謀殺されかけたんだしそれはいいとして、では何故できたかだけど……ティナ。貴方たちの魔術で完全変態ってできるの?」
ラジィはラジィで既に一つの仮説を立てていたのだ。昨晩のティナは地面を掘り進めるのに適した魔獣の姿に身体の一部を作り替えていた。
そしてそれは魔獣の力を奪ったからだとも言っていた。そんなことができるならば、だ。
なら竜から力を奪って、竜になることも当然できるのではないか?
だがラジィの問いを、ティナは首を左右に振って否定した。
「む、無理ですよ。あくまで
ティナ曰く、完全変態したらそれはもう魔獣と変わりなくなってしまうので無理、ということらしい。
ウルガータとブルーノは魔術に疎いためか怪訝そうだが、問題提起したラジィ当人はそれもそうかと普通に納得できた。
人が行使する魔術は、神の加護によって成すものだ。そして魔獣は神の加護を受けられないから、魔獣を従える神の力で魔獣そのものになるのは前提からしておかしいのだ。
そもそもそれがティナたちにできるなら、ランベールたちが赤竜の中を検めることなく撤収する筈がない。
ランベールやティナたちにはそれが逆立ちしてもできないから、ランベールたちはあの赤竜が人だとまで想像することができなかった。
頭が複数ある魔獣ならさておき、一つしかない頭を落とされて死なない魔獣などせいぜい高位のアンデッドくらいだ。それを油断と詰るのは流石に度を超えているだろう。
「そう。じゃあリュキアの魔術ではどう? スティクス殿下?」
「……魔獣になる、なんて話は聞いたことがない。リュキアの魔術は『先祖返り』だ。尊き神の血を受け継ぎし者こそがリュキアにおける優れた魔術師、優れた貴族の在り方なのだから」
「ああ、リュキアは氏神系なのね」
ラジィは頷いた。神の加護にも色々な種類がある。ラジィは
他にも魔術が使える土地が固定される土着神などもおり、神を介することは共通だが、魔術発動までの流れは自らが信奉する神によって千差万別なのだ。
「成程、なら二つの合せ技ならどうかしら」
「え?」
「どういう意味でしょう?」
怪訝そうなティナとスティクス、二人をラジィはお行儀悪く二本指でそれぞれ指さしてみせる。
「魔獣を取り込む、先祖返りする。それを両方合わせたら魔獣の先祖にも返れるんじゃない?」
『あ……』
そうラジィが指摘すると、それは誰にとっても盲点だったらしい。ティナもスティクスもポカンと口を空けてしまう。
確かに、理論上それは可能かもしれない。人の先祖ではなく魔獣の先祖に返るならそれは神の力を引き出すのではなく魔獣の力を引き出すことになるだろう。魔獣の先祖は当然魔獣なのだから、それに返ったら全身魔獣になってしまう、理屈としては筋が通っている。
「僕の母はノクティルカの民だったと……? しかも竜を取り込んだ? そんな……父上は、父上は何やってんだよ! 馬鹿なんじゃないのか!」
「あ、いや、魔術使わなきゃ変態しないから御父上も竜の力を取り込んでるとは知らなかった可能性も……そういう問題じゃないですよね分かってますはい」
ティナ――フォンティナリアとてノクティルカの貴人である。一国の王が自分の都合で結婚して子供を拵えてはいけないことくらいはようく分かっている。
しかも氏神系の魔術が主流の国で、他国民の娘を孕ませるとか馬鹿なのとティナも言いたい。というか馬鹿だ。
――リュキア国王は馬鹿だ。
その場にいる誰もがその想いを共有することとなった。
ヤリチンクソ野郎が欲望のままに動いた結果、街中にドカンと現れる竜が生まれたのだ。いっぺん責任とって死んでこいと誰だって言いたくなるだろう。
「いや、早合点はよくないぞジィ」
だが白けムードになってきたその場に、傍観者を気取っていたラオがバサバサと舞い降りてくる。
「ラオ、早合点って?」
「リュキア国王が狙って竜化する子を為した可能性もあろう。想像するにそこの小僧は疎まれていたようだが、少なくとも昨日までは国王に生かされていたのだろう?」
『あ……』
その指摘に、一転して場の空気が重くなった。
リュキアとノクティルカは飽きることなく小競り合いをこれまで延々と続けてきている。つまり究極的には互いが互いを滅ぼせるなら滅ぼしてしまいたいのだ。
街中にいきなり現れる竜など、テロの手段としてこれ程便利な道具はない。しかも暴れるだけ暴れた後は人に戻って逃げれば何度でも繰り返し使用可能だ。いくらでもやりたい放題できる。
「下手すると第一、第二王子よりよほどスティクス殿下は王にとって重要な存在だったのかもしれませんなぁ。まあ王位を継がせる気はなさそうですが」
確かにそう考えればこれまでスティクスが生かされてきた理由が説明できる。第一、第二夫人の反感を買ってでも国王はスティクスを生かして手元に置いておきたいだろう。
スティクスは予備などではなく、唯一無二の戦略兵器として国王に望まれているのかも知れないのだ。
「うー、ランベールたちの判断は結果的には間違ってなかった側面もかなり強かったってことですか、嫌な話だなぁ」
まさか氏神の力を引き出す魔術で完全な魔獣の力を引き出せるとは思いもしないだろう。
第三王子もまたフォンティナリアと同様にこれまで国交の場に引き出されたことがないから、ノクティルカ民はスティクスの外見も特徴もよく知りはしない。
だから時と場所が指定されなければ迎撃などほぼ不可能。スティクスが生体兵器として機能できる土台は十分に整っているということだ。
そう考えればランベールたちの行動は英断、先見の明があったということになってしまう。無論、結果論ではあるが。
ティナとスティクスが複雑そうな顔を見合わせる中、ウルガータとブルーノはもう完全に投げ遣りである。
状況は既に両者とも己の手から離れた、と思っているのだろうが、
「じゃ、これからどうするかを決めないとね」
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