第三部「誰がために砲声は鳴る」6
久しぶりの母校の景色は、記憶とまったく変わらなかった。
通い慣れた並木道には夏の日差しが降り注ぎ、石畳に木陰を投げかけている。その向こうには古ぼけた煉瓦造りの校舎が並び、学生たちが出入りしていた。
何もかもが、かつて見慣れた景色だった。ただ、学生や講師たちの間に、落ち着かない空気が流れているのがわかる。すれ違う人々から聞こえてくるのは、あいつが志願した、あの教授の所に軍が来てる、といったようなものばかりだ。
並木道を左に折れ、二つ目の建物の前で立ち止まった。帽子を取り、一層古びて見える煉瓦塀を見上げる。
首都大学文学部第四校舎。構内でも指折りの築年数を誇る建物だ。もっとも、構内最古にして学校の顔とも言える大講堂とちがい、あまり敬われてはいない。
ファサードに彫り込まれた文字は長年の風雨ですり減り、判読不能になっている。これを独学で判読しようとした学生が、ある日忽然と行方不明になったという伝説を思い出し、イアンは小さく笑った。大学には、そんな話がいくらでも転がっていた。そんなくだらないことで、あの頃はいくらでも笑うことができた。
校舎に入り、学生や講師の間をすり抜けて歩く。やがて、開け放たれたドアのひとつで足を止めた。プレートを確認し、中に入る。
部屋にはいくつもの本棚が並んでいた。その奥には椅子と机が十組ほど。今はだれも座っていない。
本棚の間を進み、ようやく人影を見つけ出す。
席にも戻らず、棚から取った本をその場で読みふけっている学生が一人。寝癖の付いた黒髪に、瓶の底のような眼鏡。イアンのことに気づきもしない。
「よう」
イアンがぞんざいに声をかける。
学生は顔を上げ、イアンの方を振り向いた。濃い眉が上がり、続いて眉間に皺が寄る。
「おう」
ぞんざいな返事が返ってきた。
学生は本を閉じ、猫背ぎみな上目遣いで、イアンの風体を上から下まで睨み回した。
「軍服じゃねえんだな」
つまらなそうにそれだけ言う。
「悪目立ちすると思ってな。久々の母校だ。野暮なことはしたくない」
学生は鼻で笑った。そのまま脇をすり抜け、窓際の席に向けて顎をしゃくる。
机に本を置き、椅子に腰掛けながら学生は言った。
「なにが母校だ。相談もなしに軍隊なんかに入りやがって」
「お前までそんなこと言うのかよ、イジー」
隣の椅子に座って、イアンは苦笑した。
イジー・コパル。イアンの同級生で、仲間内で大学に残った数少ない一人だ。口が悪く愛想がないので孤立しがちな男だったが、皮肉屋のイアンとは馬が合い、よくつるんでいた。
「イグナーツのこと、聞いたか」
「ああ。任地に行く直前に会ったよ」
「バカだ」
「それも言った」
机に頬杖をつき、ぶすりとした声でイジーがぼやく。
「どいつもこいつも、なんだって卒業証書をドブに捨てるような真似をするんだ?しかも、将校に潜り込んだお前と違って、イグナーツは一兵卒だ。軍隊ってのはそんなに魅力的か?」
「俺はともかく、イグナーツの事はわかるだろ。自分で確かめなきゃ気が済まない、そういう奴だ」
イジーは苛立たしげな溜息で答えた。
二人はしばらく沈黙する。開いた窓から風が吹き込み、本棚の間を抜けていった。窓の外は強烈な陽光にさらされているが、部屋の中は本棚の作る影で薄暗い。そのコントラストも、学生時代に親しんだ記憶のひとつだ。
「…シュクロバーネク教授は?」
しばらくして、イアンが口を開く。イジーが億劫そうに答えた。
「会議が押してる。陸軍の将校が来るから、終わるまで待ってもらってくれってよ」
「そうか…それじゃ、先にお前に見てもらおうかな」
イアンは持参した鞄を開く。中から取り出した原稿の束を、イジーが胡散臭そうに眺めた。
「話は聞いてるか?」
「概要くらいはな…本当に信用できるのか?」
そういいながらも、イジーは受け取った原稿を興味津々といったふうにめくっていく。
「信憑性に関しては、こっちでもウラを取ってるところだ。定住者協議会を通じて、取材した相手を可能な限り調べて回ってる。今のところの手応えとしちゃ、まず間違いないと思うぜ」
原稿をめくりながら、イジーは唸り声を上げる。
「間違いない、ね…お前、これがどれほどの物か、わかってて言ってるんだろうな」
原稿から目を上げ、分厚い眼鏡の向こうからイアンを睨む。
「宝の山だぞ」
「これでも文学部だ。察しはつくさ」
再び鼻で笑い、原稿に目を戻す。
「で?これを兵隊に配る本にするんだって?」
「そういうこと。ほら、毛耳族の兵士がだいぶ増えただろ。彼らに向けた本を作りたいって事でな。もちろん、後でちゃんとした本にもするつもりだが、まあそっちは戦争が終わってからだな」
「ふうん…」
「どうだ。お前の所の教授、面白がってくれそうか」
次の束を取り上げて、イジーは肩をすくめる。
「…こんなもの見せたら、その場で首をくくるかもしれねえな」
「穏やかじゃないな」
「あの人がやりたがってたのは、まさにこういう事なんだよ。毛耳族の伝承を収集して整理して、大陸全土の伝承と比較検討するってな。ただ、自分が生きてるうちには完遂できないだろうっていつもぼやいてた。そこに、いきなりこんなものを出されてみろ。学者人生の夢が吹き飛んじまう」
「…大丈夫だよな?」
イアンがさすがに不安になる。イジーは人の悪い笑顔で答えた。
「ま、さすがにこの場で死にゃしないさ。それにこれを見過ごせるような研究者はいない。全力で協力してくれるだろうよ」
「安心したよ…」
胸をなでおろすイアンの顔を見ながら、イジーは笑う。
「しかしまあ、大尉殿が出版社の真似事か。軍隊の仕事も色々だな」
「出版社だけならまだ良かったんだけどな。実は、運送会社もやる羽目になってね」
イジーが怪訝な顔になる。
「運送会社…?まさか、本を運ぶのか?」
「そのとおり」
「北のほうじゃ、明日にも帝国軍が攻めて来るって話じゃなかったか?」
「それもそのとおり」
唖然とした顔で、イジーが続ける。
「つまり、本を作る部署のお前が、今まさにドンパチが始まろうっていう最前線に、本を、食料でも弾薬でもなく、兵隊の読む本を届けに行こうってのか?」
「三十年落ちのトラックでな」
旧友の呆れ果てたような視線を、イアンは黙念として受ける。
イジーは瓶底眼鏡をおもむろに外すと、シャツの裾でそれを拭う。かけ直し、改めてイアンを見た。
「バカだ、お前は」
「うるせえ」
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