第三部「誰がために砲声は鳴る」5

 その小柄な老人は、二人に向かって深々と頭を下げた。

「定住者の取りまとめをしております、バルナバーシュ・アベスカと申す者でございます」

 顔を上げ、茶色の瞳で兵士二人を見つめる。日焼けした顔は皺に覆われているが、伸びた背筋は老齢を感じさせない。耳の毛皮は外側が黒く、内側が白かった。膨らんだ書類鞄を提げている。

「突然お邪魔したにも関わらずお時間をいただき、まことに恐縮でございます」

「とんでもない。連隊の指揮をとっております、エリク・ランダ中佐です。こちらは部下のプロヴァズニーク大尉とタイノステフカ中尉です」

「はじめまして」

 イアンの挨拶に、老人は再び頭を下げた。胸に手を当てて黙礼するカルラには、重々しくうなずいて見せる。

 挨拶が済み、カルラを除く全員がソファに腰を落ち着けたところで、中佐が切り出した。

「それで、本日はどのようなご用件で?」

「実は、皆様におりいってお願いがございまして、こうして参上した次第でございます」

「お願い?」

 バルナバーシュは、脇に置いた書類鞄を膝に置き、開いた。

「まずは、これをご覧いただけますか」

 鞄から取り出したのは、紐で綴じられた紙束だった。ごくありふれた用紙に、手書きの文章。百枚ほどが一つづりになったそれを、バルナバーシュは二人に一束ずつ渡し、残りを次々と机の上に積んでいく。

 二人が紙面に目を落とす。読み進めるうちに、中佐の眉間には皺がより、イアンの目は驚きに見開かれていく。

 イアンは積まれた方の紙束を取り、数枚めくって目を通し、また次の紙束を取った。しばらくそれを繰り返してから、信じられない、という表情でバルナバーシュのほうを向いた。

「…これは一体、いつ、だれが書いたものですか」

 イアンの声はわずかに震えてさえいた。

「帝国のファウヌスブルグに、長耳、銀灰の氏族につらなる、ヴェヌシェ・ジェニアルニという者がおりました。夫の病をきっかけに定住を選び、かの地にて暮らしておったのでございます」

 彼は持ち込んだ紙束を一つ取り上げ、見つめた。

「ヴェヌシェには、ひとつの望みがございました。我々毛耳族の、大陸に散らばる氏族たちが、子々孫々に語り継いできた物語、伝承、昔話…そういったものを集め、まとめて、一冊の本にする。そういうものでございます」

「それが、これだと」

「左様にございます。若い頃から何十年とかけて、大陸各地の氏族を巡り、彼らの口から語られるものを集めておったと。本人は一昨年、藪むこうに旅立ちましたが…」

 毛耳族の伝統的な言い回しで、バルナバーシュは著者の死をそう表現した。

「この紙束は先日、帝国から逃げ延びてきた者が携えておったのです。ヴェヌシェの執筆を手伝っておった者で、最期を看取ったのも彼でございました。何度も亡命を勧めたのだが、もう身体がそれについて行けぬと言って…結局その通りに、かの地で息を引き取ったと」

 そこまで話すと、バルナバーシュは表情を曇らせた。顔を覆う皺が深くなる。

「寂しい最期だったと聞いております。今の帝国に我らが入るのは難しく、出るのはもっと難しい…ヴェヌシェの息子家族はこの共和国に定住しております。さぞ、最後の別れを言ってやりたかったことでございましょう…」

「お気の毒なことです」

 中佐が沈痛な声で言った。バルナバーシュは一度頭を下げ、気を取り直すように続ける。

「こちらの息子夫婦とも相談して、これらの扱いは私に任される事になりました。それで本日、お目通りを願ったというわけでございます」

「という事だが、大尉」

 中佐が隣の席に目を向ける。

「私は専門外で詳しくないが、重要なものなのかね」

「重要どころか…!」

 目に見えて興奮した様子で、イアンはまくしたてる。

「毛耳族は比較的最近まで、文字による文化を持たなかったんです。彼らの歴史や伝承は、すべて口碑で伝えられてきた。それもあって、彼らの物語文化に関する研究はほとんど進んでいないんです。この数十年でようやく端緒についた、というレベルです。当然、彼らの口碑伝承をまとめた網羅的な資料なんてものは、どこにも存在していなかったんです。少なくとも、今日までは!」

 イアンは持っていた紙束の一つを開き、中佐に指し示す。

「見てください。ちゃんと聞き取った相手と日付が残されてる。アベスカ議長、原稿はここにある分で全てですか?」

「今日お持ちしたのは、全体の三分の一程度でございます。なにぶん量が多いものでして」

 イアンの剣幕に驚きながら、バルナバーシュは答えた。紙束をつかんだまま、イアンは身を乗り出して続ける。

「いいですか中佐。大陸各地を放浪する毛耳族の生活様式を考えれば、彼らが文化の伝達者として機能していたことは十分に考えられるわけです。その彼らの伝承を多角的に研究すれば、大陸の各国、各民族の文化がどんなふうに作用しあっていたかが解るはずです。場合によっては、大陸の文化史そのものが書き替わる可能性だってある!」

 イアンは改めて、机の上に積まれた原稿の山を見渡した。

「宝の山ですよ!」

 イアンの熱弁を静かに聞いていた中佐は、原稿を机に置くと、バルナバーシュに向き直る。

「なるほど、確かに貴重な物をお持ちいただいたようです…しかし」

 中佐の視線が一度原稿に注がれ、また戻る。

「本来ならこういったものは、大学か、文化省の機関などにお持ちになるべきかと思います。なぜ我々のところに?」

 そういえばそうだ、とイアンは今更に気づいた。内容に驚いて、なぜ定住者協議会の代表が自分の所にこれを持ってきたのか、まったく考えていなかった。

「お願いと申しますのは、まさにそこでございます…新聞にて拝読いたしましたが、こちらでは、兵隊さんがたにお配りする小さな本を作っておられるとか」

「兵隊文庫ですね。おっしゃる通り、それが現在の我々の任務です。こちらのプロヴァズニーク大尉が責任者です」

 イアンは居住まいを正して、頭を下げる。老人は、おお、と小さく息をついた。

「左様でございましたか。お若いのに、ご立派な仕事をなさっておられる」

「恐縮です…それで、お願いというのは」

「はい…実はこの、ヴェヌシェ・ジェニアルニの残したものを、どうかその兵隊文庫に載せていただきたいのです」

 イアンがはっとしてバルナバーシュを見る。

「ご存知のとおり、このたびの戦、我ら毛耳族も定住民、放浪民を問わず、多くの者が皆様と共に銃を取りました。アーモス一世殿下の御世より、四百年にわたって受けた御恩を今こそ返すべしと、みな勇んで隊列に加わっております」

 手に取った原稿の束を見つめながら、老人は続けた。

「我らは元来、旅に始まり旅に終わることをその生涯としてまいりました。暖かき宿、終の棲家としてこの国に住まえども、心のどこかは常に旅路の上にある…すなわち旅路こそが、我らの故郷でございます。区切られた土地ではなく、歩むことそのものが我らの故郷…なれば、それはただ語ることによってのみ、我らの前に立ち現れるものでございましょう。この紙束は、はじめて目に見えるかたちとなった、我らの故郷なのです」

「…これが、故郷」

 イアンは机の上の原稿を改めて見渡す。紐で綴じられ、所々が折れたり汚れたりしている、何の変哲もない紙束だ。

「お願いでございます。どうかこれを、あの小さな本にして、戦に赴く我らの息子たちに届けてやってくださりませんか」

 バルナバーシュはそう言って、深々と頭を下げた。

 兵士ふたりは顔を見合わせる。イアンがうなずき、中佐が老人に向き直った。

「お顔をお上げください、議長」

 ゆっくりと顔を上げたバルナバーシュに、中佐は敬意を込めた声で続ける。

「お話、しかと承りました。この原稿を兵隊文庫として、毛耳族兵士たちに届けることをお約束いたします。陸軍将校の名誉にかけて」

「おお…!」

 中佐がイアンの方に視線を向けた。ひとつ咳払いをして説明する。

「私が指揮する九〇一中隊は現在、兵隊文庫の第二弾を制作中です。それにこの原稿を含めて発行しましょう。ただ、相当に量が多いようですから、載せるものを選択する必要があります。選考会議を立ち上げる必要がありますが…」

「君に任せる。戦時図書委員会と連携して、速やかに取りかかりたまえ」

「わかりました。それと、毛耳族の方にもご意見を伺いたいんですが」

「承知いたしました。詳しい者をすぐにでも連れてまいります」

「よろしくお願いします。権利関係とか、細々したことは法務を同席して改めて」

 一つ一つうなずきながら聞いていたバルナバーシュは、大きく安堵のため息をついた。

「まことに…まことにありがとうございます。この老いぼれにも、若い者たちにしてやれることがあった。ありがたいことでございます」

「ご謙遜を…毛耳族部隊の編成は、協議会の尽力あってのものですよ」

「血と汗を流すのは若い者です。それに比べれば…しかし良かった。これで、問題の半分は解決いたしました」

 バルナバーシュの言葉に、イアンと中佐が同時に怪訝な顔をした。

「…半分?」

 イアンがそう言うと、老人は鞄の中から、もう一枚の書類を取り出した。

「帝国を出る際、これが原稿の一番上に置かれていたそうでございます。おそらく、ヴェヌシェの遺言かと」

 二人は額を寄せてそれを覗き込む。流麗な筆致でこう書かれていた。

『この原稿に関するすべての権利を、私の孫、ルドルフ・ジェニアルニに一任する』

 数秒の沈黙の後、中佐がバルナバーシュに尋ねる。

「この、ルドルフ・ジェニアルニというのは」

「こちらに定住した息子夫婦の子でございます。帝国が今のようになる前は度々あちらに訪れていたそうで、ヴェヌシェはたいそう可愛がっておったとか」

 バルナバーシュは感慨深げに、藤色のインクで書かれた遺言書を眺めた。

「この原稿を共和国語で記しましたのも、孫のためであったのかもしれません」

「なるほど…それで、このルドルフという方は、今どこに」

 中佐の質問に、老人はゆっくりと答えた。

「ルドルフ・ジェニアルニは今年のはじめ、共和国陸軍に任官いたしました。第二六歩兵連隊の少尉を拝命したということでございます」

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