第三部「誰がために砲声は鳴る」4
その日の運転セミナーを終えて中隊本部に戻ったイアンは、庁舎の前で同じく戻ったラティーカと出くわした。
「…お疲れですね」
イアンの顔を見て、ラティーカが心配そうに言う。
「大型車両の運転が肉体労働だってことを痛感してるよ…そっちはどうだ」
「わたしはそんなに」
そう言って、重そうに膨らんだ肩掛けの鞄をぽんと叩く。
「最初は不安でしたけど、けっこう面白いですよ。地図が読めるようになるのって楽しいですね」
「そりゃ良かったね…」
イアンは疲れた声で呟く。
門衛に敬礼を受けながら、二人は庁舎に入る。前々から慌ただしい雰囲気だったが、今や庁舎内の空気は殺気立っていると言っていい。兵も将校も床を削る勢いで駆け回り、数人のグループが各所で集まっては何かを囁き交わしている。
「街のあちこちで穴を掘ってますよね」
庁舎のそんな風景を見ながら、ラティーカが言った。
「ああ、防空壕だな」
「やっぱりあるんですか、空襲」
「さてなあ。あるとしても、もう少し先の話になると思うがね」
「なんでですか?」
「帝国の空軍は、地上部隊の支援に特化してる。北の山脈を越えて飛んで来れるような爆撃機は、ほんの一握りしか持ってないんだ。その割切りが、西方共和制を負かしたとも言えるが…おっと」
書類の束を抱えて駆けてきた兵士にぶつかりそうになり、とっさに身をかわした。兵士は失礼しましたあ、と言いながら去っていく。
「で、だ。山岳同盟が寝返ったとは言え、あそこでまともに使える軍用飛行場は片手で数えるくらいしかない。そんなところに、かさばって燃料も食う重爆を十機やそこら置いたところで、大して役に立ちゃしない。だったら陸軍のお手伝いに徹した方が効率的ってわけだ」
「そんなものですか」
人の流れをかわしながら、廊下の角を折れる。
「でも西方共和制が負けちゃったんですから、西の海から爆撃機が飛んできたりしません?」
「お前、最近鋭いな…たしかに問題はそこだが、それはウチも王国連合もわかってる。だから海軍の航空隊はほぼ全力が西側に張り付いてるし、王国は大内海に空母を五隻も浮かべてる。加えて、新大陸から援軍がわんさか入ってくる予定だ」
そこまで話すとラティーカの方を見て、にやりと笑った。
「まあこんなふうに、悲観的な要素ばかりじゃないってことさ。少しは安心したか?」
「はあ…でもそれなら、どうして慌てて防空壕を掘ったりしてるんです?」
「万が一って事もあるからだが…一番の理由は、何かしてないと不安だからさ」
イアンは皮肉に笑う。
「ラジオと新聞はキナ臭いニュースばっかりで、配給制も始まった。普段の生活が変わっていくのは誰だって不安だよ。それをごまかすには、身体を動かすのが一番って事…あれ?」
話の途中で、イアンが妙な声を上げた。
中隊本部のドアの前にヤーヒムが立っていた。イアンたちと目が合うと、敬礼もそこそこに駆け寄って来る。
「中隊長殿、お客様です」
「お客様?」
意外な言葉に、イアンは怪訝な顔で答えた。
「そんな予定は無かったはずだけど…」
「アポ無しで突然現れたんです。兵隊文庫の責任者に会いたいとかで」
「第一師団の連中、それを通したんですか?」
ヤーヒムが困り顔でうなずく。イアンは頭を掻いた。
「防諜って言葉を知らないのか、ここの連中…それで、客の名前は?」
「ラドヴァン・ドシーク。退役少佐を名乗ってます」
チェックが緩いのはその肩書のせいか、とイアンは推察する。だが、その名前には引っかかるものがあった。
「どっかで聞いたような名前だな…」
「お知り合いですか」
「いや、そういうわけじゃ…まあいいや、入れちまったものはしょうがない。会ってみますよ」
すまなそうな顔のヤーヒムと一緒に、ドアをくぐる。
開け放った窓から外を眺めていた男が、こちらに振り向いて破顔した。
「やあ、ようやくお会いできた!」
背の高い、四十がらみの男だ。身長はイアンと同程度だが、胸や肩は服の上からもわかるほど鍛えられている。夏物の白い背広を着ていたが、それでもイアンよりはるかに軍人らしく見えた。
男の後ろ、窓の脇にもう一人、目付きの鋭い小柄な男が立っている。
「お待たせしてすみません。中隊長のイアン・プロヴァズニーク大尉です」
差し出した手を握り返しながら、男は答えた。
「ラドヴァン・ドシークです。こちらは秘書のバルトン」
小男が無言で一礼する。無表情さでは中佐以上だ、とイアンは思う。
「私も以前は軍隊の飯を食っておりましたが、今はまた別の仕事をしておりましてね。『竜の歯』紙で社説をつとめております」
「…ああ」
そう言われて、イアンは思い出した。右翼タカ派で知られる新聞『竜の歯』で、帝国に融和的な社説を書いていた人物だ。ほとんど読み流していた記事で、覚えていたのが自分でも意外だった。
もっとも、そんな事は顔には出さない。
「どこかで聞いたお名前だと思っていました」
「お読みでしたか。これは光栄だ!」
白い歯を見せてドシークは笑う。
「つたない書き物ですが、祖国の行く末を憂いて日々頭をひねっておりますよ」
「ご謙遜を…お席をお出ししましょう」
予備の椅子を持ってきたミルシュカに愛想よく微笑んで、ドシークは腰を下ろした。秘書だというバルトンは、無言で首を振って断る。
自分の席についたイアンは、改まって尋ねた。
「それで、今日はどういったご要件でしょう?兵隊文庫のことでお話があるとか」
ドシークはうなずく。口元にはまだ笑みが残っているが、目は笑っていない。
「その通りです。兵隊文庫…興味深い取り組みだ。兵士たちの余暇の時間まで慮る姿勢、実に頭が下がる」
皮肉のニュアンスを嗅ぎ取りつつ、イアンは小さく会釈する。
「お話というのは他でもない、わが『竜の歯』紙も、この事業のお手伝いをしたいと、そういう事なのです」
「お手伝い?」
イアンは怪訝な表情で聞き返した。
「ご存知とは思いますが…兵隊文庫は、我々図書館連隊と戦時図書委員会が共同で作成しています。記憶する限り、『竜の歯』は委員会に参加していなかったと思いますが」
ドシークが再び笑う。先程までとは違う、侮蔑の色を含んだ笑みだ。
「大尉、ここはひとつ、建前は抜きで話をしようじゃないか」
親しげな態度でそう言った。イアンの嫌悪感がつのる。
「軍隊というのは、一般の社会とは違った仕組みで動くものだ。名誉、献身、団結…現代ではないがしろにされがちな、美しい価値観が軍隊には生きている。この崇高な組織に、あんな売文業者の徒党などが馴染めると思うかね?」
イアンの目元がひくついた。ニコラの主導する戦時図書委員会をあからさまに侮辱されて、さすがに心中穏やかではいられない。
「…委員会をどのように評価するかはご自由ですが、実際、共和国の出版業界を主導しているのは彼らです。その協力無くして、兵士たちに本を届けることはできません」
「さて、どうだろうかね」
ドシークが軽く両手を広げて見せる。
「大尉、兵隊文庫の第一弾は何作品が揃っているのだったかね?」
「五十二作品ですが」
「五十二作品!たいした数だ。それだけ揃えるにはずいぶんと苦労しただろう」
そう言って、わずかにイアンの方に顔を近づけた。
「作品のリストは私も見た。正直なところ、あの選択にはいささか問題を感じている…たとえばリヴェナ・シグトヴァの『丘に生る果実』は、ラヴェゼニ県で発禁処分を受けた猥褻図書だ」
「はあ!?」
イアンがとうとう声を上げた。
「あの処分はラヴェゼニ県だけでしょう。他県では回収もされてないし、起訴もされなかった」
「しかし処分がくだされたのは事実だ。他にもある。ヤルシュカ・ユーゾヴァーの『ある母子』は民族の伝統を攻撃しているし、アントニーン・ヴラーチルの『銀嶺より海へ』は中世以来の貴族階級に対する悪意が剥き出しだ。それに、アナキストのヴィクトル・ユラーセクを載せているのも問題だ」
ドシークの背後で、ラティーカが憤然と立ち上がった。彼女が叫びだす前にすかさずダリミルが割って入り、小声でなだめにかかる。
背後に気づかず、ドシークは続けた。
「兵隊文庫には、兵士にとって不適切な作品が多すぎる。もっと厳選するべきだと思うね」
「例えば?」
「まずは聖典だ」
イアンは失笑をこらえる。こいつは兵隊文庫の意義を全く理解していない。
「それからクリシュトフ・ペチンカの『献身の道』、ツィリル・フランタの『騎士団物語』、それにミラン・ミクシークの詩集…まずはそんなところかな」
「なるほど、『竜の歯』の常連寄稿者ばかりですね」
こらえきれずに皮肉を口にしたが、ドシークは動じない。小さく肩をすくめるだけだ。
「どうしてもそうなってしまうんだ。この時代に、正しい理想と伝統を説く人間はここにしかいないからね」
臆面もなくそう言ってのけた。
「大尉。君も軍人なら誇りを知っているはずだ。民族の守護者たる誇り。それなくして軍は存在し得ないし、存在する価値もない。兵隊文庫が兵士を守るためのものなら、その誇りを兵士たちに植え付け、育てることこそが役目であるはずだ。それができるのは、戦時図書委員会などであるはずがない」
すでにうんざりした表情を隠しもしなくなったイアンに向けて、ドシークは続ける。
「この一件、私と一緒にやらないか。顧問でもなんでも、適当な肩書きをつけてくれればいい。あとは私が万事うまく取り計らう。委員会など、適当にあしらっておけばいい。もちろん、君にも色々と便宜を図れると思うね」
にこやかに話しかけるドシークの顔を、イアンは冷たく一瞥した。
しばらく沈黙してから、機械的な口調で答える。
「共和国陸海軍は、共和国市民によって民主的に選ばれた政府に従属する組織です。また兵隊文庫計画は、独立図書館連隊と戦時図書委員会の、公的な契約によって運営されています。その運営を、私の一存で他者に移譲することは不可能です」
ドシークの顔色が変わるのを見ながら、イアンは続けた。
「先程の顧問が云々という話は、本来なら陸軍将校に対する贈賄示唆として報告すべきですが…聞かなかったことにしておきましょう。話は終わりです。お引取りを」
蒼白く変わった顔で、ドシークはイアンをにらみつける。秘書のバルトンがわずかに身じろぎするのが、視界の端に映った。
「…君は、誰と話しているのかわかっているのかね」
やっぱりだ、とイアンは思う。この男は、自分が今でも陸軍将校だと思っている。階級が下の相手なら、言うことを聞いて当然だと疑わないのだ。
「ごく原則的なことを申し上げたまでです。それとも、軍の規律をないがしろにする事が、あなたの言う誇りだとでも?」
ドシークが椅子を蹴って立ち上がった。さすがに中隊員たちが色めき立つ。イアンはなんとか冷静を保ちながら、相手の強張った表情を見上げる。
「貴様のような若造に、軍人の誇りの何がわかる!」
怒声が響き渡った。廊下を通りかかった兵士が、何事かと足を止める。
「私にそんな口をきいて、どうなるかわかっているのだろうな。貴様なぞ…」
「失礼」
背後から響いた無機質な声が、ドシークの怒声を遮った。
全員の視線がドアの方に集まる。
「中佐!」
イアンが慌てて立ち上がった。
ランダ中佐は泰然と部屋に入ってきた。その後にカルラと、いつの間にか部屋を出ていたヤーヒムが続く。
「ラドヴァン・ドシーク氏ですね。はじめまして、独立図書館連隊長のエリク・ランダ中佐です」
「…はじめまして」
明らかに困惑した顔で、ドシークがそれだけ言う。
「兵隊文庫に関してお話があるとうかがいましたが、なにか問題でも?」
中佐は青い鬼火のような目で、ドシークの顔を覗き込んだ。
さすがに少佐まで勤めただけあって、ドシークにも相手が何者か察しがついたらしい。先程の勢いは跡形もなく消え失せていた。
「いえ、そのような事は」
「それは良かった…どうやらお帰りのところだったようだ。引き止めてすまない。では、気をつけて」
反射的に踵を鳴らすドシークに、中佐はうなずき返す。
車を回せ、とバルトンに低く命じた。小男の秘書が足早に出ていく間、ドシークは振り返ってイアンと、中佐の隣に控えるカルラに憎しみのこもった視線を投げて部屋を出ていった。
中隊員たちが息をついて、めいめいの席に戻る。
「わざわざ中佐に来ていただかなくても」
イアンがそう言うと、ランダ中佐は後ろに控えるヤーヒムに目を向けた。
「マレチェク曹長が知らせてくれた。妙な客が来ているとね」
「ヤーヒムさんが?」
すまなそうな顔でうなずき、ヤーヒムが言う。
「どうも、あまりたちの良くない客に見えましたもので…」
「曹長の判断は正しい。あの男は右派のごろつき連中とも付き合いのある人物でね。おおかた、知名度の上がってきた兵隊文庫を、自分たちの広告塔にでもしようという腹だろう。妙なことになる前に知らせてくれてよかった」
恐縮するヤーヒムにうなずいてから、中佐はイアンに向き直る。
「第一師団には、庁舎の出入りを厳格にするよう要望を出しておく。万が一、またこういう事があったらすぐに知らせたまえ。私が対処する」
そう言ってぐるりと部屋を見回した。
「君たちには、もっと重要な仕事が山ほどあるのだ」
「ありがとうございます…まあ、そうならないことを祈りますよ。二度と見たくないたぐいの顔だ」
「それは同感だ」
中佐の口元がわずかに緩み、イアンも笑う。ふと、脇に控えるカルラが目に入った。普段と変わらない無表情だ。
あのドシークという男は、毛耳族保護法の熱心な廃止論者でもある。以前、読むに耐えないような差別的な記事を『竜の歯』に寄稿していた。すました顔をしているが、彼女の心中はどんなものだろう。
そのすまし顔が、わずかに視線を動かした。その先でラティーカが、カルラに小さく笑いかける。獣を思わせる鋭い目つきが、わずかに和らぐのが見て取れた。
「…?」
イアンの心中で疑問が具体的な形になる前に、ドアのむこうから声がかかった。
「失礼いたします!」
第一師団の衛兵だ。イアンが首を伸ばして答える。
「何だ?」
「独立図書館連隊にご来客であります!」
イアンと中佐が顔を見合わせた。
「大尉、今日は君の誕生日かなにかかね」
「中佐もそういう冗談をおっしゃるんですな」
「あのー…」
返事をもらえない衛兵が、おずおずと声をかける。
「ああ、すまん。で、お客様ってのはどこのどちらさんだ?」
「はっ!自由放浪民定住者協議会議長、バルナバーシュ・アベスカ氏であります!」
中佐がわずかに目を見開いた。この人が驚くのを初めて見たな、とイアンは思う。
「連隊長室にお通ししてくれ」
「はっ!」
中佐は衛兵に命じると、イアンの方に向き直り、言った。
「君も来たまえ」
「はっ」
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