第四部「硝煙のむこうに見えるのは」9

 半月ほどは、何事もなく過ぎた。

 その日、イアンと中隊の面々、それにホンザは、中隊指揮所に集まって顔を見合わせていた。机の上にはいくつもの新聞が散乱している。一面の見出しには、どれも同じ内容が載っていた。

 北部での反攻作戦の成功を報じるものだ。

 東西からの強襲は功を奏し、包囲されつつある帝国軍はこぞって北上しているという。勝利を熱狂的に報じる新聞もあれば、慎重で抑制的な論調のものもある。だが、勝利そのものを疑うものは一つもなかった。

「どうも、今ひとつピンときませんが…」

 海軍歩兵の奮戦を伝える記事を眺めながら、ヤーヒムが不思議そうに言った。

「我々は、勝ってるということですか?」

「どうやらそうらしいですね」

 複数の新聞をとっかえひっかえ、イアンは応じる。

「中佐からウラも取りました。軍や政府のプロパガンダじゃないことは確かだそうですよ」

「戦争、終わるんですか?」

 期待と不安の入り混じる声で、ダリミルが尋ねた。イアンは苦笑する。

「さすがにそりゃ気が早いな。まだ包囲は続くし、反攻もあるかもしれん。だが連邦の参戦が迫ってる以上、帝国もこの半島に戦力を張りつけ続けるわけにはいかんはずだ。共和国から連中を叩き出すところまでは、なんとかできるんじゃないか」

 部屋の全員が顔を見合わせる。

「俺も実感は湧かないよ。だが少なくとも、多少は光明が見えてきたんだと思うぜ」

「あら!」

 唐突にミルシュカが声を上げた。

「どうしました」

「これ、ちょっとご覧になってください。すごい事になってますよ」

 興奮気味のミルシュカから新聞を受け取る。それが『自由新聞』だとわかって一瞬眉をひそめたが、すぐに驚きがそれを上回った。

 誌面に載った大判の写真は、ニコラ・クルハンコヴァのものだった。新聞の荒い写真でもわかる意志の強い目と、はつらつとした笑顔。その上には「兵士たちの心の盾」という大見出しが載っている。

 記事は、兵隊文庫の検閲に対して反対の声を上げるものだった。兵士たちにとってそれがいかに大切かを訴え、また中央党の恣意的な改正案を痛烈に批判している。

 その下には、多くの著名人による反対声明が掲載されていた。数十万人に及ぶ市民の反対署名が集まったことも書かれている。

「こっちにも載ってますよ。主文は同じですが、寄稿は別の人ですね」

 ダリミルが別の紙面を見ながら言った。同席していたホンザが顎を撫でる。

「噂にゃ聞いてたが、なるほどな」

「噂?」

「ああ。出版協会と作家連盟が、足並みを揃えて声明を出すって話でな。まとめたのは戦時図書委員会と、イアン、おまえの親父だ」

 イアンがなんとも言えない顔になる。ホンザはそれを眺めてにやにやと笑った。

「聞いてなかったか。まったく、親子そろって素直じゃないな」

「…会社のイメージアップ戦略でしょ。こっちとは関係ないよ」

 イアンが不機嫌そうに言う。そこへミロウシュが口を挟んだ。

「でもすごいですよ。これ、見てください」

 差し出された紙面を覗き込む。載っている寄稿文の作者名を見て、全員が目を丸くした。

「ユラーセク先生!?」

 『共和国時事新報』の声明記事に載っていたのは、ヴィクトル・ユラーセクによる寄稿文だった。文面は短いが、居並ぶ著者の中でも先頭に載せられている。新聞社もおおごとだと思ったのだろう。

「あの軍隊ぎらいのセンセイが、どういう風の吹き回しだ?」

 ホンザが不思議そうに言った。ヤーヒムがイアンに小声で尋ねる。

「連隊長殿の策でしょうか?」

「さて…」

 イアンは門前払いをくらった日のことを思い出す。せいぜい数ヶ月前だというのに、遠い昔のような気がした。

「いくら中佐でも、あれこれ指図できる相手じゃないと思うんですがね。きっかけはともかく、自分から腹をくくってくれたんだと思いますよ」

「しかし凄いなこりゃ」

 感心したようにホンザがつぶやく。

「よくもこれだけ集めたもんだ。さすがに中央党も無視はできんだろう。選挙は現職に傾くな…あのごろつき共も、少しは大人しくなってくれりゃいいんだが」

「それはどうかな…」

 対照的に、イアンは渋い顔だ。

「あの手の連中は、下手に追い詰めると暴発しかねない。こう急激に状況が動くと、かえって危ないかも…警戒レベルを強めるよう、ビィカと相談しておくよ」

「わかった。ウチの職員にも注意しておく」

「よろしく…っと」

 唐突に、イアンの机の電話が鳴り出した。足早に向かい、受話器を取る。

「はい中隊指揮所。おう、俺だ」

 電話口に話しながら、イアンは手をふって会議を打ち切った。隊員たちが席に戻る。

「…はいよ、お疲れさん。そっちはどうだ…ふん…なに言ってるんだ。何事もないのが一番だぜ。ていうか新聞見たか?ああ、どうも間違いないみたいだぞ」

 部屋の隅で終始無言だったカルラが、会話の相手を察してか、ちらりとイアンを見た。

「…さてどうなるかな。こればっかりは、軍と参謀本部を信じるしか…ん?何だ今の音」

 急に張り詰めたイアンの声に、隊員たちが顔を上げる。

「おい、何が…おい!どうした!ラティーカ!…くそっ!」

 受話器を叩きつけ、椅子を蹴って立ち上がった。

「何かあったらしい。おじさん、俺が戻るまで印刷所から誰も出さないで」

「おう、わかった」

「中尉!一緒に来い!」

「はっ!」

 イアンはコートを掴むと中隊指揮所を飛び出した。走りながらカルラに命じる。

「ビィカの手下から五、六人連れて駐車場に」

「了解」

 カルラが廊下を曲がり、すぐに見えなくなる。イアンが駐車場に出たときには、すでに車のエンジンがかかっていた。

 運転席からウィンクしてきたビィカの車に、イアンはすべり込んだ。助手席にはカルラがつく。

 ドアを閉める音と同時に、車はタイヤを軋らせながら急発進した。

「店で何かあったんですって?」

 スピードにそぐわぬ呑気な声で、ビィカがたずねた。

「でかい音がした後に電話が途切れた。どう考えても、いい予感はしないだろ」

「なるほど」

 ハンドルを握るビィカの口元は、普段どおりの微笑みが浮かんでいる。だが目元には、重く冷たい憎悪の光がちらついていた。

「タマ無しの野良犬どもだと思ってたが、ちょいと見くびりすぎましたかね…」

「とにかく急いでくれ。何かあってからじゃ遅い」

「大尉さん、そいつはナントカに説法ってやつですぜ」

 ビィカは乾いた笑い声を上げると、いきなりハンドルを右に切り、狭い路地へ突っ込んだ。

 座席にしがみつきながら、イアンは後ろの窓を覗く。あとに続くビィカの手勢は、ほとんど遅れずについてくる。

「十分で着きます。ちょいと荒っぽくなりますんで、気をつけて」

「気にせず急いでくれ」

 気力を総動員して、イアンは口の端を捻じ曲げる。

「乗り物酔いはしない体質でね」

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