第四部「硝煙のむこうに見えるのは」8
「お疲れさん」
印刷所の一室、『九〇一中隊臨時指揮所』と張り紙が貼られたドアを開ける。軍隊調とはかけ離れたイアンの挨拶に、隊員たちが立ち上がった。
「お疲れ様です」
「あー、そのまま続けてくれ…ヤーヒムさん、進捗どうですか」
うなずいてみせるヤーヒムは笑顔だ。どうやら調子はいいらしい。
「順調です。正直なところ、首都よりここの方が仕事がはかどるくらいですよ。資料も豊富だし、設備も充実してる。テレタイプまであるんですから」
「飯も美味いですしね」
横から茶々を入れたハヴェルは、向かいの席で書類に向かうミルシュカに睨まれて首をすくめた。
「食事もそうですが、社長さんとヒネクのみなさんが、色々と助けてくださるのが大きいです。こんなに頼もしい味方はいませんよ」
書店勤めの長かったヤーヒムの言葉には実感がこもっている。
ホンザ・ヒネク社長は、印刷所に臨時中隊指揮所を開設するにあたって全面的な協力を申し出ていた。「出版社がガタガタ言うようなら俺の名前を出せ」という彼の台詞が法螺やハッタリでないことは、ヤーヒムが一番よく知っている。
「ともかく、この調子で行けば第三弾は予定通りに出来上がるはずです。きっといいものになりますよ」
「何よりです…実際、家から引き離してまで仕事をさせてるのは悪いと思ってるんですが」
「いまさら何をおっしゃるんです」
ミルシュカが快活に口を挟んだ。
「まだまだ作りたい本はたくさんあるんです。大尉さんが嫌だと言っても続けますよ、わたしは」
彼女の言葉に、隊員たちがうなずく。イアンは照れくさそうに顔をしかめ、髪をかき回した。
ドアがノックされ、カルラが入ってきた。普段どおりの愛想の無さで、イアンの前で踵を鳴らす。
「大尉。積み込み作業がまもなく完了するとのことです」
「わかった、すぐ行く」
横で聞いていたヤーヒムの表情が、不安そうに曇る。イアンはことさら気楽に笑ってみせた。
「心配ありません。準備は万端、心強い用心棒も揃ってる。何もおこりゃしませんよ」
「しかし、なにも中隊長殿お一人で同行しなくても」
「さすがに、引き渡しの手続きは銀猫には任せられませんから。こればっかりはね」
「やはり自分が」
いやいやいや、とイアンは顔の前で手を振る。
「家庭のある人にこんな事させられませんよ。大丈夫、任せてください」
「…どうかお気をつけて」
まだ心配そうなヤーヒムの敬礼に応えて、イアンは部屋を出る。廊下を折れ、階段を降り始めたところでカルラが唐突に口を開いた。
「マレチェク曹長の懸念は正しいと考えます」
イアンは首をめぐらしてカルラを見る。
「指揮官が最も危険な任務に当たるのは非合理です。別の人間に行かせるべきでは」
「中隊に職業軍人は、俺とヤーヒムさんの二人だけだ」
踊り場をまわり、歩きながら続ける。
「あの人には奥さんも子供もいる。それにこの戦況だ、アロードの連中は間違いなく殺気立ってる。大尉の階級章くらいの押しがないと、スムーズに話が進まないと思ってな」
階段を降り、印刷所の職員たちが行き来する廊下を歩く。
「まさか銀猫に手続きまで任せるわけにもいかんだろ」
「…その件ですが」
カルラの声に、僅かに不快の色が混じる。
「やはり金額が大きすぎます。不測の事態に備えるためにも、もうすこし様子を見るべきでは?」
「悪いが決定事項だ」
「使い込まれます」
「織り込み済みさ。むしろそう仕向けるようにしたいね…ああ、どうも」
ドアを押さえてくれた職員に礼を言って、二人は外に出た。息が白い。
「使い込んだ額だけ、彼らは俺たちに借りをつくることになる。贈賄の基本だな。領収書がなくても、心理的な負い目ってのはなかなか無視できないもんさ」
イアンが足を止め、カルラに振り返る。
「それとも銀猫には、俺達から金を持ち逃げするようなたぐいの人間が揃ってるのか?」
「それはありえません」
カルラは即答した。
「ルボシュ・パストレクが我々に協力を約束した以上、その面子を潰すような事は誰にもできない。そんな事をすれば、即座に刺客が放たれます。何人返り討ちにしても、生涯追われ続ける。どんな末端でも、それは理解しています」
「なら、何も心配はないって事だ。彼らには、諜報部の秘密資金を大いに飲み潰してもらうとしよう」
イアンは口元を歪めて言い放った。
上司に似て表情の読めないカルラが嫌な顔をするのを期待していたが、それは外れた。それどころか、彼女は視線に敬意すらこめてイアンを見る。
「大尉、諜報部に転属されては?素質があるように思います」
「…たちの悪い冗談はよせ」
嫌な顔をするのはイアンの方だった。踵を返し、歩き出す。
「いつだったか、ラティーカにも同じ事を言われたな…と、噂をすれば、だ」
駐車場の脇に、積み上げた本を重そうに抱えて歩く後ろ姿が見えた。足取りが危なっかしい。「授業」の教材を持って、La lynxに向かうところのようだ。
「彼女を店まで送ります」
「よろしく頼む」
カルラは素早く敬礼すると、よたよたと歩くラティーカに走り寄った。ごく自然な動作で、彼女の手から本の山を受け取る。
二人の背中を見送って、イアンは荷積み場のほうに足を向けた。
装甲書架車が倉庫の前に並んでいる。その姿は、イアンたちが前線へ行ったときとは細部が異なっていた。荷台の上には太く頑丈なロープが張られ、運転席の窓には金網が被せられている。投石や火炎瓶を防ぐための応急改造だ。
更に無骨な外見になった装甲書架車に、ヒネク印刷の職員たちが兵隊文庫を詰め込んでいる。その横で、厚着をした毛耳族の男たちが集まり、コーヒーを飲みながら眺めていた。ルボシュがよこした護衛隊だ。
中の一人が、イアンの姿を見て片手を上げた。話をしていた受付の美女にカップを預け、こちらに歩いてくる。
「イアン・プロヴァズニーク大尉さんで?」
「ええ、自分です。クルヴァビィカさん、でしたね」
「ビィカって呼んでください」
そう言って人懐こく笑った。
三十前後の、背の高い男だ。目鼻立ちのくっきりした美男だが、鼻の右から顎にかけて伸びる傷痕が凄味を醸し出している。三角に尖った耳は茶色に黒縞。彼らがキジトラと呼ぶ模様だ。カルラと同様、腰のベルトにナイフを下げていたが、彼のは幅の広い両刃のもので、ナイフというより短剣に近い。
「わかりました、ビィカさん。これからよろしく」
差し出された手を握る。
イアンはその時、コートの上に斜めにかけた革帯に気づいた。大型のリボルバーに繋がれ、ウェストベルトに挟み込まれている。
「それは?」
イアンに尋ねられて、ビィカは得意げに拳銃を持ち上げてみせた。
「スタスキー&ウィラード、CR39。新大陸の最新モデルでさ」
全長三十センチ近い拳銃は、ほとんど黒に近い青に表面処理されていた。冬の日を浴びて輝くフレームの上に、真鍮の筒が据え付けられている。
「拳銃にスコープを?」
「あっちの農家が、狐や穴熊を撃つのに使うんだそうで。車の上でもじゃまになりませんし、街中で使うならライフルの相手もできる。今回の仕事にゃもってこいです」
革帯を外して差し出した。受け取ったイアンは、その重さに驚く。
「ずいぶん重く感じますが」
「ライフル担ぐよりはマシってことで。こんなものを一般市民に売ってるんですから、新大陸ってのは面白いところですな」
イアンはぎこちなく拳銃を持ち替え、返す。慣れた手付きで革帯を付け直しながら、ビィカは言った。
「全員、扱い方は心得てます。もちろん撃ち合いにならねえのが一番いいが、いざって時には役に立ちますぜ…それとも、大尉さんも一丁持っていきますか」
「遠慮しますよ。まっすぐ歩けなくなりそうだ」
半ば本気の発言だったが、ビィカはそれを聞いてからからと笑った。
「ビィカ!」
護衛の男たちから声が上がった。彼らの言葉でなにか言い、ビィカがそれに答える。男たちが一斉に散り、装甲書架車の屋根によじ登った。書架の上に張られたロープに、登山具を使って身体をつなぐ。
「積み込みが終わったそうです。そろそろ行きますか」
「ええ…しかし、あれで本当に寒くないんですか?」
身軽に頭上を行き来する男たちを眺めて、イアンは心配そうに言った。ビィカが笑う。
「厚着させてますんで、ご心配なく。それに、俺たちゃ皆さんがたより寒さには強いんですぜ」
「狙撃の危険は?」
「伏せてれば、横から狙われる分にはまず当たりゃしません。問題は街中で上から撃ってくる奴ですが、銃を持った不届き者が居る建物は、ウチにタレコミが入るようになってます。その都度ルートを変えて対応するってことで」
イアンは舌を巻く。銀猫の組織力は聞いていたが、ビィカとその手勢はパルチザンとしても第一級と言えるだろう。
二人は先頭車両のほうに歩いていく。途中、受付の美女が二人に魔法瓶を渡してくれた。
「プロヴァズニーク様にはお紅茶をと、社長から申しつかっております」
イアンは苦笑し、礼を言って車に乗り込む。運転席にビィカが滑り込んだ。
「社長さんとは、長い付き合いで?」
「生まれた時からです。親父の友人でしてね、世話になりっぱなしですよ…それを言ったら、ビィカさんにもですが」
そう言うとビィカは、眉間にしわを寄せたまま微笑むという複雑な表情でイアンに言った。
「もしそう思うんでしたら、大尉さん。俺からひとつお願いがあるんですがね」
唐突な申し出に、イアンは怪訝な顔をする。
「何でしょう?」
「そのビィカさんってのは、やめちゃもらえませんか。年上を敬うのは結構だが、俺にそんな気遣いは無用に頼みます。どうにも座りが悪いんでね」
意外な申し出に、イアンはしばらく相手の顔を眺めていたが、やがて吹き出すように笑った。
「わかった。それじゃ、俺も普段の調子でやらせてもらうよ、ビィカ」
「そうそう。それで頼みます」
「じゃあ手始めに、これだ」
イアンは鞄から長方形の包みを取り出すと、ビィカの顔の前に差し出した。
無言で受け取ったビィカの眉がわずかに動く。重さで中身を察したらしかったが、彼はそのまま、包みの一部を小さく破いた。上半分だけ顔を出した肖像画は、王国連合女王のものだ。低い口笛が車内に響いた。
「こいつはまた」
ビィカの声には驚きと、わずかな警戒が混じっていた。
「ずいぶんと気前がいいですが、まだボーナスを貰えるほどの仕事はしてませんぜ」
こちらを探るような視線。イアンは正面からそれを受ける。
「期待させて悪いが、それは報酬じゃない。経費だ」
「経費?」
「この先、騎士団の連中と揉めるケースもあるだろう。そうなった時に使ってくれ。弾丸より先にね。引き金を引く前に選べる手段は、多いほうがいい」
ふむ、とビィカが鼻を鳴らした。
「君に預ける」
「よろしいんで?大尉殿が持っておくのが筋じゃないんですか」
イアンは軍服の襟をつまむと、小さく苦笑いした。
「軍がおおっぴらに騎士団にカネを渡すって絵面はいかにもまずい。あくまで民間組織同士の取引に終始してもらいたいわけだ」
「なるほど。しかし随分と張り込んだもんですな。あのチンピラども相手なら、もっと値切れますぜ」
「使いかたは君に任せる。任務に必要と思われることには、遠慮なく使ってくれて構わない。領収書もいらないよ」
鋭さを増した視線で、ビィカはイアンの顔を覗き込んでいる。イアンも目をそらさない。
「…任務に必要と思われる事には、ですか」
「その通り」
「心得ました」
ビィカの口元が吊り上がった。紙幣の包みをぽんと叩いて、ポケットにねじ込む。
「ご命令通り、有効に活用させていただきましょう…この事、オヤジには?」
「言ってない。報告も君に任せる」
イアンの答えに声を上げて笑う。そのまま、相手の顔をしげしげと眺めて言った。
「なかなかどうして、大尉さん、あんたもいっぱしの悪党だ。仲良くやりましょうや」
憮然とするイアンを見て、また笑う。
背後からクラクションが聞こえた。サイドミラーを覗くと、後ろの車両の運転手が合図を出している。
「準備が整ったようですな」
「それじゃ、行こうか」
ビィカがエンジンをかける。轟音が響き渡り、装甲書架車が全身を震わせた。
荷台に用心棒を載せた車列はゆっくりと動き出し、印刷所の門を出ていった。
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