第四部「硝煙のむこうに見えるのは」6
市警の車をそのまま借りて、イアンとラティーカ、カルラ、ヴァイダ警部補の四人はLa lynxへと向かった。
店の前には若い男が二人、周囲に目を配っている。イアンたちの車を見て、一人がこちらに近寄ってきた。
「拳銃を持ってます、ご注意を」
警部補が低い声で言った。イアンにはまったくわからなかったが、ベテラン刑事の眼を疑う理由はない。
男が車の窓を叩く。
「プロヴァズニーク大尉ってのは、あんたかい」
窓を開けたイアンに、男はそう質問した。
「そうだが」
「後ろのねえちゃんたちは?」
「部下だ」
男は彼らの言葉で相棒に何か言うと、イアンの方に向き直る。
「失礼しやした。案内しますんで、車を中に」
イアンはうなずき、窓を閉める。
「銀猫相手に顔パスとは、驚きましたな」
冗談めかした警部補の言葉に、苦笑で返す。
車は正門から、ゆっくりと店の敷地に入った。庭と駐車場でも、数人の男たちが警備にあたっている。随分と物々しい。
車から降りると、ルボシュとアネタが直々に出迎えた。
「これは皆様、お久しぶりでございます」
ルボシュが恭しく頭を下げる。イアンは帽子を取ってそれに応えた。
「ご無沙汰しております。今日は軍服で失礼…じつは、ヒネクの印刷所で陣頭指揮をとることになりましてね。この状況ですから」
「なんとも、おかしな事になったものでございます…さ、どうぞ中へ。ここは冷えます」
ルボシュに促され、イアンたちは店に入る。
壮麗な屋敷の中は、別世界のように暖かい。夏には空っぽだった暖炉には石炭が燃えていた。アネタに促されて、イアンたちはコートを脱いで手渡す。
ホールには書き物や針仕事に精を出す女達のほかに、剣呑な目つきでこちらを眺める男たちもいる。
「どうも、むさ苦しくて申しわけございません。街があの有様でございますから、万一に備えて男手を増やしておりまして。皆様のことは申し伝えておりますので…」
『ラティーカ先生!』
ルボシュの声を遮って、甲高い声が降ってきた。
数人の子どもたちが、階段の手摺越しにこちらを覗き込んでいる。夏にラティーカの「授業」を受けた子供たちだ…と思い出す暇もなく、彼女はあっという間に囲まれていた。
『先生!ひさしぶり!』
『また、がっこうしにきたの?』
『ちがうよ、おしごとできたんだよ』
『せんせいだから、がっこうがおしごとじゃん』
『せんせい!』
ひときわ大きい声で、女の子が前に出た。後ろに隠れるようにしているもう一人の手を引いて、ラティーカの前に押し出す。純白の耳がぱたぱたと揺れた。
「…ビアンカ」
ラティーカがつぶやく。ビアンカは彼女の顔を見上げ、はにかむように笑った。
『ビアンカね、夏から一センチ半も背が伸びたの。先生、わからなくなっちゃうかもって、心配してたの』
手を引いてきた女の子が得意顔で説明する。後ろに隠れていたビアンカが駆け寄り、『先生』の手をぎゅっと握った。
ラティーカはわずかに頬を染め、途方に暮れたような顔でイアンを見る。イアンは苦笑いするしかない。
「こっちはいいから、ここで待たせてもらえ。中尉、ラティーカを頼む」
「了解しました」
子供たちに囲まれたラティーカを置いて、イアンと警部補はルボシュに連れられて階段を登った。
「あのお嬢さんは、ウチの者らにたいそう人気がありまして」
「そのようですね」
子供たちの歓声を背中で聞きながら、イアンは答えた。
「ただ今回は、前の授業みたいなことはできるかどうか…ヒネクの印刷所に詰めっぱなしになるかもしれません」
「それは残念…いや、致し方ございませんな。このような事態になっては」
廊下を歩き、前と同じ会議室に入る。席につくと同時に飲み物が置かれた。ルボシュと警部補にはコーヒー、イアンには紅茶だ。
花が描かれた美しいカップから、芳しい香りが立ち上っている。かなり上質な茶葉らしい。イアンは口をつけ、切り出す。
「今日お邪魔したのは、ひとつ伺いたいことがありまして」
ルボシュはカップを下ろし、イアンの顔を覗き込む。
「どのような」
「憲兵隊のダヴィデク中尉から聞きました。銀猫が、私に恩がある、と言っていたと。印刷所の警備まで買って出てくれている…ですが私には、まったく心当たりがありません。あなたがたの言う恩とは、何のことです?」
単刀直入なイアンの言葉に、ルボシュは深くうなずいてみせた。振り返り、脇に控えたアネタに声をかける。
「あれを」
黒服の女は、なにかをルボシュに手渡した。受け取り、そっとテーブルに置く。
兵隊文庫だった。
クリーム色の表紙。「毛耳族民話集(一)」のタイトル。所々が折れ曲がり、小さな破れ目もある。
「陸軍さんの客が置いていったものでございます。他にも何冊か。読みやすいものは、子供らの読み物にもなっております」
染みのついた表紙を、ルボシュは優しく撫でる。
「はじめは気にも留めませんでしたが、ある時、すこしばかり中を読んでみましてね…がきの時分に、母親に聞かされた昔話が載っておりました」
顔を上げ、イアンの方を見た。不可解な笑みは薄れ、どこか遠くを見るような目をしている。
「何十年も、忘れていたものでございます…不思議なもので、ひとつ思い出すと、とっくの昔に藪向こうへ行っちまった親兄弟のことも、次々と浮かんでくるんです。まだあちこちを流れ歩いていた頃の、声やら、味やら、においに色…綺麗さっぱり忘れちまったと思っていたのに」
そこまで言うと、手元の本に目を下ろす。
「私だけじゃございません。皆この本を読んでは、これは知ってるとか、俺が聞いたのはこうだったとか言い出して、その後は決まって昔話になるんです。このご時世に、こんなところに流れ着いた者の話でございますから、ほとんどはもう取り返しのつかない事ばかりで…このアネタなどは、若くに亡くした夫から教えてもらった話を見つけたそうで」
イアンたちの視線を受けて、アネタは目を伏せた。
「もともと、兵隊さんがたのために作られた本だというのは承知しております。それがたまたま、私らのところに舞い込んできた。しかし、ここに書いてあるのは、まぎれもなく私らの話なんでございます。焚火のそばで聞き、語った、私らの物語です」
ルボシュの声が熱を帯びる。イアンに向けた視線には、なにか敬虔なものがこもっていた。
「私はね、大尉さん。大げさに聞こえますでしょうが、これは奇跡だと思っておるんですよ」
「…奇跡、ですか」
ルボシュは本を持ち上げ、じっと眺めながら続ける。
「私らみんなの胸の内にあったものが、ようやく形になったような、そんなふうに思えるのでございます。例えが適当かはわかりませんが、皆様がたにとっての聖典のようなものかもしれません」
イアンはうつむき、首を振る。
「そんなものがあっても、いい事ばかりじゃありませんよ。事実あの聖典ってものは、千年間ずっと諍いのタネをまき散らしてもいる」
ルボシュが穏やかに笑った。
「たしかに、そういうものかもしれません…それでもこの本は私らにとって、自分の足がどこに立っているかを教えてくれるような、そういうものなんでございます。私はこの歳まで、本などというものは触りもせずに生きてまいりました。ですが、藪向こうに行く前にこの本に出会えたことは、翼持つ猫の巡り合せだと思っております」
「翼持つ猫?」
イアンの怪訝な反応に、ルボシュは笑みを大きくする。
「幸運を運ぶ使者でございますよ。私らのあいだの言い回しで…ねえ大尉さん。この巡り合せを連れてきてくれたのは、他ならぬあなた様なんでございますよ」
そう言うとルボシュは、イアンに深々と頭を下げた。後ろに控えるアネタもそれに倣う。
「私らアヴォネクの銀猫は、この御恩を末代まで忘れはいたしません。私らに出来ることがあれば、どうか遠慮なくお申し付けください。この街の耳あるものは、一人残らずあなた様の味方でございます」
厳粛に告げるルボシュの言葉を、イアンは絶句して聞いていた。
「つまり、あんたがたはヴィドラーク騎士団と事を構えるつもりがあると言うんだな?」
ヴァイダ警部補が鋭く口を挟んだ。ルボシュの顔に、判読不能の笑顔が戻る。
「それは、大尉さんの思し召し次第ということになりますな、市警の旦那…あなたはいかがです?盗賊と足並みを揃えるなど、警察の沽券に関わるとお考えですかな?」
挑発的な言葉に動じるふうもなく、警部補は澄まし顔で顎髭をしごいた。
「銃後の治安は、軍と警察の協力によって守られるものだ。陸軍大尉による理にかなった決定は、市警においても当然尊重されるものと理解していただいてけっこう」
ぬけぬけと言い放ち、コーヒーを啜る。ルボシュは笑顔のままうなずいた。そのままイアンに向き直る。
「大尉さん、どうかお役目をお果たしください。前線には、私ら以上にこの本が必要な兵隊さんが居られるのでしょう。僭越ながらこの老いぼれが、できる限りのお手伝いをいたします。それがきっと、あの『黒豹』の弔いにもなりましょう」
イアンは苦しげに顔をしかめる。その名が胸に突き刺さるように思えた。
「…ご存知でしたか」
「やりきれぬ事ではございますが…彼も、己の役目を果たしたとは申せましょう。胸を張って、藪向こうの先祖のところへ参ったのだと察します」
「役目、ですか」
イアンはぽつりと言うと、ぬるくなってきた紅茶を飲み干した。
「いい奴でしたよ、ルドルフ・ジェニアルニは。どう考えたって、戦争なんかで死ななけりゃならない男じゃなかった。誰だってそうだ。共和国でも帝国でも、釜に薪を放るみたいに、人間一人を使い潰していいわけはないんだ」
吐き出すようなイアンの声には、抑え込んだ怒りが籠もっていた。三人は驚いた顔でそれを聞いている。
「だが、それでも…畜生」
額に手をやり、そのまま髪をかき回す。うつむき、黙り込む。
ヴァイダ警部補は怪訝な顔でそれを眺め、アネタは戸惑ったように主人の方を見た。ルボシュは、イアンの次の言葉を待つように、じっと彼を見つめている。
「…頼みがあります」
そう言って、イアンは顔を上げた。
「兵隊文庫運搬用の特殊車両が、まもなくアヴォネクに到着します。ですが、人が足りない。陸軍の人員は底をついてます。運転手と護衛の人員を、手配してもらえませんか」
ルボシュは真剣な顔でうなずく。
「お引き受けしましょう。腕利きを揃えてご覧にいれます」
「それと、服を人数分と車を一台。軍服とヒネクの社用車でここに出入りするのは目立ちますから。それから…こちらに、ウチから連絡要員を置いておきたい。言葉のわかるラティーカをこっちに詰めさせたいんですが、かまいませんか」
ルボシュとアネタが、同時に笑顔を浮かべた。
「もちろん歓迎いたします。子供らが喜びますよ」
「ありがとうございます…印刷所の方でやる事があるので、今日のところはこれで。明日にでも、詳細を詰めてまたうかがいます」
イアンが立ち上がり、警部補もそれに続く。アネタに助けられてルボシュも椅子を降り、右手を差し出す。
「今度の戦と街の騒ぎ…共和革命以来の大騒動と言えますでしょう。長くこの街に根を張る私らにも、そうそう経験のない厄介事でございます。ですが、皆様と力を合わせれば、恐れることはございますまい。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
「いや、どうもこちらの方が一方的に世話になりそうだ。申しわけないが、どうか頼みます」
イアンは差し出された手を握った。続いてヴァイダ警部補も握手する。
「市民の協力に感謝いたします」
真顔でそう言い、片目をつぶってみせた。ルボシュが珍しく苦笑する。
揃って部屋を出て、ホールに戻る。子供たちの話し声がかしましく響いていた。階段から覗いてみると、ラティーカが絵本を読み聞かせていた。ちょうど終わったところらしい。
こちらを見つけて敬礼するカルラに応えて、ホールに降りる。ラティーカも振り向いた。
「今日のところは戻るぜ」
「あ、はい」
子供たちに向き直り、言葉を切り替えて言う。
『ごめんねみんな、今日はおしまい』
子供たちが一斉に落胆の声を上げる。店の女達が宥めに入り、イアンたちはコートを羽織った。
「それじゃ、また来ます」
「お待ちしております」
玄関口で見送るルボシュに挨拶する。ぞろぞろとついてきた子供たちは、大声でさよならを言ってラティーカに手をふった。それに応える彼女の目元がわずかに赤くなっているのに、イアンは気づく。
「お前、『授業』に使えそうな本を集めてたよな。あれ、どうした」
駐車場を横切りながら、イアンは声をかけた。後悔のにじむ声が返ってくる。
「部屋に置きっぱなしです…やっぱり持ってくればよかった」
「まだ遅くない。下宿に電話して、まとめてこっちに送ってもらえ。もちろん着払いでいい」
「うちの下宿、電話ないんですけど」
「なら電報だ。お前さんには、連絡員としてLa lynxに詰めてもらう。あの『授業』も任務の内だ。しっかりやれ」
ラティーカが目を丸くする。
「銀猫のサポートなしじゃ、任務はおぼつかない。むこうの言葉がわかるお前が頼りだ。頼むぜ」
「は、はい!」
緊張はあるようだが、ラティーカは素直に答えた。目の奥に決意の色が見える。
その目が、不意にイアンの顔を覗き込んだ。
「イアンさん、少し調子が戻ってきました?」
「お前さんこそ、肩の力が抜けたか」
二人はお互いの顔を眺めて、笑った。
車に乗り込む直前、ラティーカがなにかを思い出したように、あ、と声を上げた。
「どうした」
「ええと、お店に詰めるのはいいんですけど…」
ラティーカは言いにくそうに声をひそめる。
「前に私に、その、興味があった人たちとか、そのへんの事…なんとかしておいてもらえませんか」
「…厳重な対応を要請するよ」
二人はそれぞれ車に乗り込む。排気を白く立ち上らせて、車は走り出した。
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