第四部「硝煙のむこうに見えるのは」4

 師団司令部から道路を挟んだ向かい側、ダーシャ大公妃記念公園の遊歩道は閑散としていた。

 秋も深まり、色づいた木の葉は公園の地面を鮮やかに彩っている。だが今日は、厚く垂れ込めた雲が空を覆い、美しい風景も色あせてしまっていた。

 木々が音を遮るのだろう、少し歩いただけで車の音も聞こえなくなり、響くのは鳥の声だけだ。普段なら散歩する人間もいるのだろうが、天気のせいか、今日はまったく見かけない。

「反攻作戦が決まった」

 隣を歩く中佐が言った。

「…できるんですか、そんなもの」

「帝国軍の進撃は、戦線の西側で停滞している。機動要塞イーゼ・ランの司令が混成旅団を編成し、防衛線の構築に成功したためだ。それを足がかりに、東部で突出した帝国軍の側背を突き包囲する。一言で言えば、そういう話だ」

「そんな兵力があるんですか」

「西からは第一、第十二の二個機甲軍団。東からは海軍歩兵が総力をもって敵前上陸し、突破口を開いた後に第四機械化歩兵軍団が浸透する。陸海の航空隊と、第四艦隊の戦艦、巡洋艦がこれを支援する予定だ」

 第一機甲軍団は、図書館連隊が居候する第一師団を含む組織で、首都防衛の要と言われている。それを投入するこの反攻作戦は、実質的に共和国の陸上予備兵力すべてを賭けた大博打と言えた。

「海軍歩兵総司令のヴルザル少将は、たとえ自分が最後の海兵となろうとも、この作戦を完遂すると言ったそうだ」

「結構な話ですね。それで、ただ世間話をしに出てきたわけじゃないでしょう」

 中佐は歩調をそのままに、ああ、と答える。

「間の悪いことに、我が共和国は今、もう一つの問題を抱えている」

「そりゃなんです」

「忘れているのかね?共和国市民としてあるまじき態度だ」

 イアンの方に振り向き、続ける。

「選挙だよ」

「ああ…」

 実際、忘れていた。この年末で、現職のローベルト・ルセク首相の任期が切れ、首相選が行われる。少なくとも、通例通りならばそうなるはずだ。

「やるんですか、この状況で」

「この状況だからこそ、だ。つつがなく選挙が行われることこそ、帝国の侵略を拒否する明確なメッセージとなる…だが、いささか雲行きが怪しくなってきてね」

 歩調がわずかに緩み、声のトーンが低まる。

「中央党が巻き返しを図っている。槍玉に上がっているのは、兵隊文庫だ」

「は?」

「『前線兵士選挙法』だよ。戦地の兵士たちが選挙に参加するための法律だ。中央党はこれに新たな条項を追加しようとしている。条文はこうだ。『あらゆる種類の政治的意見またはプロパガンダを含む文書を、政府の資金を用いて供給することを禁止する』」

 中佐の口調に苦味が増しているのを、イアンは感じた。

「極めて恣意的な文言だ。対象の文書が政治的プロパガンダか否か、誰がどのように判定するのかが明記されていない。検閲のための条文だよ。彼らにとって兵隊文庫は、現政権の民心党によるプロパガンダに映るらしい」

「兵隊文庫の検閲のために新法を作ろうってんですか。暇な連中だ」

「逆だよ、大尉。彼らは焦っているんだ」

 中佐が素早く、さりげなく周囲を確認するのがわかった。

「連邦が参戦を決めた」

 イアンは目をむく。声を上げそうになるのをなんとか抑えた。

「もちろん味方側だ。わかるだろう、大尉。これで勝ちだ。少なくとも、この戦争そのものは」

「ええ、そうでしょうよ。問題は、戦争が終わった時にこの半島がどうなってるかって事です」

 イアンの言葉に、中佐がうなずく。

「公式発表はまだだが、連邦人民政府は『帝国主義に抗うすべての戦友国家への惜しみない助力』をおこなうと宣言している。これがどういう意味か解るかね、大尉」

「連中の手を借りて戦争に勝ったら、そのまま居座られて連邦に飲み込まれるって事でしょう」

「そのとおりだ。革命の輸出、それこそあの超大国の基幹産業だ。そして人民政府の支配は、ある意味では帝国のそれよりも過酷かもしれん。少なくとも中央党のお歴々は、そう信じて疑わない」

 話し続ける中佐の表情は硬い。

「反攻作戦が失敗に終われば、我々は帝国の支配を受け入れざるを得ない。そうなればこの半島は、帝国と連邦との戦場になる…保守政党のほとんどは、連邦よりも帝国のほうがマシだと考えている。帝国軍と共同すれば連邦を押し返せると、虚しい望みを抱いているのだ」

 中佐の口元が吊り上がる。皮肉と侮蔑が濃厚に混じりあった笑みだ。

「選挙法の改正は、民心党の再選阻止だけが目的ではない。新たな支配者様の覚えを良くするためのパフォーマンスだよ。帝国大宰相閣下の手を煩わす前に、先に本を焼いておこうというわけだ」

「クソが」

「同感だが、酷い話はまだある。『ヴィドラーク騎士団』というのを聞いたことがあるかね?」

 唐突な質問に、イアンは眉をしかめる。

「カイェターン・ヴィドラーク。統一以前に半島を荒らし回った盗賊騎士だ。名前からして、ろくでもない代物だってのはわかりますよ」

「素晴らしい洞察力だ。保守派の跳ねっ返りや、手下のごろつきで組織されたものでね、表向きは銃後の治安維持に協力する自警団ということになっている。だが本当の目的は、帝国軍が迫る地域を内側から制圧し、速やかにそこを差し出すことだ。兵隊文庫の廃止よりも、はるかに直接的な裏切りだな」

 イアンが舌打ちした。心なしか、わずかな吐き気すら覚える。

「わかってて放置してるんですか?利敵行為じゃないですか」

「軍の上層部にも、保守派とつながりの強い人間は多い。拙速に動けば返り血を浴びかねん。時間が必要だ…ちなみに、この騎士団とやらの指揮を取っているのが、あのラドヴァン・ドシークだ」

「あいつか」

 イアンは吐き捨てる。親玉があの男だとするなら、その手下もどういう連中か、だいたい察しがつくというものだ。

「口では愛国を叫びながら、手は祖国を売り渡す算盤をはじいているわけだ。陸軍将校の忠誠の誓いも、地に落ちたものだよ」

 暗い笑いを収めて、中佐は続ける。

「この下劣な『騎士団』の活動は、当然ながら前線に近い街で顕著だ。すでにあちこちでトラブルを引き起こしている。なかでも彼らが今、もっとも重要視している街が…アヴォネクだ」

 イアンは思わず足を止めた。

 中佐は二歩先を歩いて、イアンに振り向く。普段と変わらぬ無表情。青い目。

「イアン・プロヴァズニーク大尉。貴官は速やかに中隊員を選抜してアヴォネクに向かい、想定される妨害から印刷施設を防衛したまえ」

「…冗談はよしてください」

「冗談なら良かったのだがね…これを」

 中佐はコートのポケットから何かを取り出した。鍵束だ。十個ほどの鍵がリングに通してある。それを持つ指の間に、小さな紙片。

「これは?」

「諜報部の秘密資金だ。アヴォネクの複数の銀行に収めてある。あの印刷所なら一年は稼働させられるだろう」

 イアンはぎょっとして、受け取った鍵束を見つめる。

「万が一の時は、その資金を使って印刷を続けたまえ。メモは貸金庫の暗証番号だ。必ず暗記して、その後は燃やして処理するように。必ずだ」

「中佐はどうするんです」

「私は首都を離れられん。保守派の動きを牽制し、兵隊文庫の検閲を阻止しなければ。それに、戦時図書委員会や掲載作家に危害が及ばないとも限らん」

 さすがに色をなしたイアンが口を開く前に、中佐は手を上げて制した。

「心配はいらない。彼らには厳重な警備をつける」

「信用できるんでしょうな」

「我が国の治安機関をもう少し高く評価するべきだね」

 わずかに浮かんだ笑みはすぐに消えた。

「大尉。もはや我々の生きのこる道は、ただ勝利あるのみだ。いつか言った、すべての兵隊がその本分を果たす時というものが到来したんだよ。図書館連隊も例外ではない。いまや兵隊文庫は、我が軍にとって欠かすことのできない重要物資だ。失われてはならない。そのための任務だ」

 中佐の言葉に、イアンは口元を捻じ曲げた。侮蔑的に吐いた息が白く染まる。

「重要物資ですか。相手の同士討ちを誘う、便利な地雷ですもんね」

「勿論だ、私にとってはね。君はどうだ?君にとって、兵隊文庫とはなんだ」

 イアンは表情を消し、黙り込んだ。

 秋の森で、二人の兵士は互いの顔を見つめあう。やがて、中佐が静かにに口を開いた。

「明朝〇七〇〇時の列車を手配してある。今日の業務はすべて中止し、隊員は家に帰して荷造りをさせるように。それと、ヴォヤチェク・フラデツから装甲書架車をアヴォネクに移送中だ。君に預ける。通常のトラックよりは、安全に輸送できるはずだ」

 一度言葉を切り、続ける。

「残念ながら、実戦部隊は配備できない。いまや陸軍には、一個分隊の余裕もないのだ」

「丸腰でごろつきの相手をしろと?」

「アヴォネク市警と現地の憲兵隊に協力を要請したまえ。この情勢ではどうなるかわからんが、無視はされるまい」

 顔をしかめるイアンに、付け加えるように中佐が言う。

「代わりと言ってはなんだが、タイノステフカ中尉が一緒に行きたがっている。連れて行ってやってくれ」

「は…」

 意外な申し出に、イアンはいささか面食らった。あの毛耳族の女将校は、何を考えているか今ひとつ読めないところがある。とは言え、銀猫との連絡には彼女が必要だ。

「冷えてきたな…そろそろ戻ろうか」

 帽子のつばを上げて空を見ながら、中佐は何気なくそう言った。もと来た道を歩き出す彼に、イアンも続く。

「あの除隊願いは預かっておく」

 歩きながら振り向かず、中佐は言った。

「この総力戦の中、仮にも大尉の階級にいる者がそう簡単に辞められるとは思わないことだ。ほとぼりが冷めてから、じっくり話をすることにしよう」

 イアンの視線を背中に受けながら、中佐は続ける。

「もっとも、そんな日が来ればの話だがね」

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