第四部「硝煙のむこうに見えるのは」3
イアンが訪れた時、工事現場は予想通り休憩時間だった。
担当の部隊が変わっているのではないかと心配したが、顔ぶれを見る限り、以前と変化はないらしい。
目当ての顔はすぐに見つけた。あの時、兵隊文庫を破かれた捕虜だ。現場の隅に座り込み、ぼんやりと地面を見つめている。
イアンは仕切りを越えると、手近な看守に声をかけた。すぐさま、指揮を取っている兵長が駆け寄ってくる。
「少し、話をしたい奴がいるんだが」
越権行為だということは百も承知だ。だがこういう時こそ、勲章と階級章がものを言う。兵長は訝しげな顔をしたが、護衛をつけるという条件で首を縦に振った。
小銃を肩にかけた看守を連れて、イアンは工事現場を横切っていく。
「彼の名前は?」
「は、クルト・ブレヒト二等兵です」
クルト・ブレヒト二等兵は、イアン達が目の前に立っても顔を上げず、地面を見つめるばかりだ。舌打ちして前に出ようとする看守を、イアンは制止する。
相手の視線に合わせてしゃがみ込むと、コートのポケットから出したものを、クルトの目の前に差し出す。『下町の少年探偵たち』の兵隊文庫、その帝国語版だ。
肩がぴくりと動き、クルトはゆっくりと顔を上げた。若い。二十歳を過ぎているかどうかというところだ。不思議なものでも見るかのように、イアンの顔と、差し出された兵隊文庫を眺めている。
イアンはもう一度、兵隊文庫を突き出した。困惑しながらも、クルトはそれを受け取る。表紙をじっと眺め、口を開いた。
『…これを、私に?』
今度はイアンが驚く番だった。
『王国語がわかるのか?』
『父に教わりました。貿易商でしたので…大尉殿は?』
『おふくろがあっちの出なんだ…しかし帝国軍は、王国語がわかる人間を前線で使い潰すのか』
呆れたようなイアンの言葉に、クルトは小さく首を振る。
『通っていた大学が、取り潰されたんです。文部省の方針に最後まで抵抗して…生徒はみんな、入隊か、さもなければ収容所かと言われました。選択の余地は無かった』
絶句するイアンの前で、クルトは飽きることなく、兵隊文庫を見つめている。
『…この本は、大尉殿が?』
低く、つぶやくような声で、若い捕虜は尋ねた。
『ああ、うちの部署で作ってる』
クルトが顔を上げた。その顔に、初めて表情が浮かぶ。驚きの表情だ。
『独立図書館連隊っていうんだ。おかしな名前だろ?』
イアンはそう言って笑いかける。
クルトの表情が歪んだ。そう思った次の瞬間、彼の拳がイアンの顔に伸びていた。
避ける暇もない。そのまま左頬を殴られて、イアンは土の上に倒れ込む。クルトはそのままのしかかり、躊躇なくイアンの首筋に掴みかかった。骨ばった指が喉に食い込む。イアンは相手の腕をつかむが、びくともしない。
殺される。
そう思った時、鈍い音とともにクルトの影が視界から消えた。
「大尉殿!」
小銃を構えた看守が叫んだ。
音を立てて息を吸い込み、むせ返りながら、イアンはなんとか身を起こす。看守が走り寄ってきた。
「ご無事ですか、大尉殿!」
呼吸とともに、思考が戻ってくる。喉を押さえながら視界をめぐらすと、二人がかりで押さえつけられるクルトの姿が目に入った。
彼の目の前に、兵隊文庫が打ち捨てられている。
クルトがなにか叫んでいた。それが自分に向けられていることは、まだ朦朧とする意識の中でも理解できた。黙らせろ、と看守が怒鳴る。
その帝国語の叫びは、極度の怒りと興奮のためか、単純な言葉の羅列になっていた。その言葉を理解して、イアンは、殺されかかったことよりも強く衝撃を受けていた。
お前のせいだ。
お前のせいでエミールは死んだんだ。
そんな本を持っていたから。
連隊長室のドアが、叩きつけるように開けられた。
ランダ中佐は眉ひとつ動かさず、机から顔をあげる。
ずかずかと部屋を横切り、イアンは中佐の机に両手を強く叩きつけた。その顔は怒りに青ざめている。
カルラは腰のナイフに手をかけたまま動かない。動揺を隠しきれない彼女を、中佐は視線で制止する。
「兵隊文庫の翻訳版を前線に撒いたな」
かすれる声で、イアンは言った。
ランダ中佐は無言でイアンの顔を眺める。やがて、おもむろに口を開いた。
「何故そう思うのかね?」
「何故だと?」
怒りをそのままに、口元を歪める。
「この目で見たからさ。帝国軍の捕虜が、あれを持ってるのをな。銃殺された戦友の形見だと言ってたそうだ」
「ほお」
中佐の返事には、心を動かされた様子は全くない。机に置かれたイアンの手に力がこもる。
「あんた、わかっててやったよな」
「何のことかね」
「とぼけるな。後退する陸軍の部隊に、翻訳版を置き去りにするよう指示したんだろ。帝国軍じゃ、焚書扱いの本を持ってりゃ即銃殺だ。それを狙ったんだ」
沈黙する中佐に、イアンの声が高まる。
「要は地雷だ。あんたは兵隊文庫を、地雷と同じに使ったんだ。違うか!」
イアンの言葉はほとんど叫ぶようになっていた。
見開かれたイアンの目が、中佐の視線とぶつかる。青い熾火のような瞳は、イアンの怒りを冷たく見つめていた。
「そこまで察しがついているのであれば、私の答えも予想できるだろう」
まったく平静に、中佐は口を開く。
「国際法の定める捕虜の権利を擁護するにあたり、兵隊文庫の翻訳版はこれを速やかに配布しなければならない。そのため、その運用を前線の師団司令部に委任し、捕虜の給養と合わせてこれを配布する体制がとられている」
書類でも読み上げるような口調で、中佐は続けた。
「仮に、戦局利にあらず、我が軍の後退という局面になったとして、その処分もしくは遺棄にあたって責任を有するのは各師団司令部である。また、その機密性の低さから見て、兵隊文庫を前線に残置するにあたっては特別の配慮を要しない。ましてや、これを鹵獲した帝国軍が、その組織内においていかなる反応を示したとしても、責任を負うべき謂れはない…前線の将兵も、我々もだ」
淀みなく言い終えて、イアンの顔を改めて見つめる。
「これが全てだ。なにか質問はあるかね?」
「拾った相手がなにをしようと関係ない、ですか。御高説を賜り光栄ですね」
口元を歪め、イアンは吐き捨てた。
「これが諜報部のやり方ですか」
「誤解しているようだが、兵隊文庫に関して諜報部の意向が働いているという事実はない。すべて私が決定し、実行したものだ」
イアンの顔から表情が消える。
「…ユラーセク先生が言ってましたよ。俺たちのやってることは帝国と変わらない、刷るか焼くかの違いだけだって」
「さすがは大作家だ。本質をよく捉えている」
イアンの手が中佐の襟元に伸びた。数センチのところで、カルラがそれを掴み止める。
「大尉!」
カルラの口調は張り詰めていた。非難と懇願がないまぜになったような声だ。イアンの手を押さえ込みつつ、右手はナイフの柄から離さない。
「怪物を打ち倒そうとするものは、己もまた怪物となることを覚悟せねばならない…しかしある種の人間は、その目的のためなら喜んで怪物になるのだよ。例えば、私がそうだ」
「知ったことか!あんたの戦争、あんたのエゴだろうが!」
「エゴイズムを持たない人間が戦争の役に立つなどとは思わないことだ。大尉、君は有能な将校だが、その点が致命的に欠けている」
平然と、冷淡に、中佐は宣告した。
「理由を見つけて自分の戦争を戦うか、物言わぬ暴力装置の歯車となるか。ふたつにひとつだ、よく考えて選びたまえ」
「どっちも御免だ」
「それは許されない。今は戦時で、君は将校だ」
最大限の憎しみを込めて、イアンは上官を睨みつける。
「拳銃を持ってくるんだったよ」
「いや、持ってこなくて正解だった。もし君が武装していれば、中尉はとっくに君の頸動脈を切断していたはずだ」
カルラの顔を見る。イアンの手をまだ押さえつけたまま、彼女は小さく首を振った。
イアンの手から力が抜けた。
警戒は緩めないまま、カルラがそっと手を離す。中佐と大尉は睨み合ったまま動かない。
やがてイアンは唐突に踵を返し、ドアの方に向かう。
「大尉。君にはもう少し休息が必要なようだ。今日は帰って、そのまま三日ほど休みたまえ。マレチェク曹長には私から伝えておく」
背中へ放り投げるように、中佐が言った。
イアンが足を止める。歯噛みする音が小さく聞こえたかと思うと、勢いよく振り向く。そのまま、閲兵式さながらの鋭い敬礼をしてみせた。
手をおろし、出ていく。
数日後、イアンは再び連隊長室に訪れていた。
休暇の後にも関わらず、イアンの顔は憔悴の度を増していた。目の下にうっすらと隈が浮かび、顔色も良くない。
「話というのは?」
中佐の言葉に、イアンは軍服のポケットから一通の封書を取り出した。机に置き、差し出す。
「除隊願いです」
乾いた声で、それだけ言った。
中佐は封書に手を触れず、部下の顔を見上げる。
「理由を聞いてもいいかね」
「聞かなくても、おわかりでしょう」
イアンは小さく笑う。口の筋肉を動かしただけの、無意味な微笑だ。
「付き合いきれないんですよ」
中佐は無言だ。机に肘をつき、空中に視線を漂わせている。イアンはそこから目をはなさない。
やがて中佐はおもむろに立ち上がると、イアンに向き直って言った。
「少し歩こうか」
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