第四部「硝煙のむこうに見えるのは」2
交差点の工事は続いていた。
中央図書館からの帰り道だった。休憩時間らしく、捕虜たちは思い思いの場所に腰を下ろしている。昼食の後なのだろう、炊事係が食器を片付けているのが見えた。
捕虜の一人が目についた。あの霧雨の日、青白い顔でツルハシを振るっていた男だ。地面に腰を下ろし、何かをじっと見つめている。イアンは思わず足を止めてた。
兵隊文庫だ。
捕虜が持っているということは翻訳版だろう。しかし、ずいぶん傷んでいるようだ。別の収容所から回されてきたのだろうか?
翻訳版を増刷するべきか…そんな事を考えていると、突然、怒声が耳に飛び込んできた。
別の捕虜がなにかまくし立てている。大柄な男だ。早口の、それもかなり訛りがある帝国語は、多少かじっただけのイアンにはほとんど理解できない。だがその口調と表情から、怒りと侮蔑のニュアンスだけは感じ取れた。
兵隊文庫を持った男は立ち上がると、極めて冷静に、端的に答える。許可は取っている、お前には関係ない、そういう答えだ。
その態度が、相手を激昂させた。大男は突然、相手が持っていた兵隊文庫を奪い取った。取り返そうと掴みかかる男を、腕力に任せて突き飛ばす。
尻餅をついた男の前で、大男は兵隊文庫を引き裂いた。
一瞬、イアンは声を上げそうになる。
だがそれより早く、突き飛ばされた男がバネじかけのように飛び出し、大男の腹にタックルをかました。倒れた相手に馬乗りになり、めちゃくちゃに殴りつける。
ようやく、看守の兵士たちが走ってきた。警笛が鳴り響いても殴るのをやめない男に、容赦なく銃床を叩きつける。男は地面に倒れ込んだ。
大男は鼻血を拭いながら立ち上がり、看守に連れられていく。本を持っていた男も、うめき声をあげながらどうにか立ち上がった。
よろめきながら去っていく男の背中を、イアンは見送る。
その足元に、引き千切られた兵隊文庫が散らばっていた。泥の上に表紙が落ちている。
エリク・カストナール『下町の少年探偵たち』だった。
首都の郊外、丘と林が点在する静かな場所に、陸軍中央病院はあった。
公国時代の末期に作られた石造りの病棟は、宮殿のような優雅さを誇っている。だが、ここ数年で最新の医療機器を多数導入したため、ダクトや配管、大型機器のための増築部などがあちこちにはみ出している。白亜の壁から鉄の臓物をはみ出させたようなその姿は、一種異様な雰囲気を漂わせていた。
院内に足を踏み入れたイアンは、その空気の慌ただしさに一瞬、怯んだ。
医師や看護婦が駆け回り、担架に乗せた患者を運んでいく。建物の西側にある車両用搬入口から、途切れることなく負傷兵達が連れてこられているのだ。自分の足で歩ける者は、包帯まみれの体を引きずるように、のろのろと列を作っている。
病院特有の薬品と消毒液の匂いの中に、隠しきれない血の匂いを嗅ぎ取って、イアンはわずかに吐き気を覚えた。
足早に受付へ向かう。疲れ切った顔の看護婦に所属と官姓名を告げ、来院者名簿にサインする。
目的の部屋は二階だった。
階段を登り、長い廊下を歩く。病室はどれも満員だ。首都の各病院に負傷兵の受け入れを依頼しているにも関わらず、間を詰めて追加のベッドを入れるほど病室が足りない。それでも、帰り着くまで生命があった者は幸運というべきだろう。劣悪な環境だという野戦病院に比べれば、天国と地獄だ。
目的の病室にたどり着く。中に入ると、負傷兵たちの視線が身体に突き刺さるのがわかった。大尉の階級章に、染みひとつ無い軍服。血と泥にまみれてきた兵士たちの目に自分がどう映るか、想像するのは容易だ。
窓際のベッドに歩み寄る。
一人の兵士が眠っていた。土気色にこけた頬。骨ばった指先には、泥と油の黒ずみがまだ残っている。毛布に覆われた左足には、膝から下が無かった。
イアンは立ちすくみ、旧友の姿をじっと見つめる。
「話をしにきたんじゃないのか」
イグナーツが口を開いた。目は閉じたままだ。
「…いや、またにする。寝てろよ」
「そう言うな」
目を開けると、踵を返そうとするイアンを呼び止めた。上体を起こそうと、腕を動かす。
「寝てろって!」
「心配するな。やられたのは足だけだ…っと」
そう言いながらも、バランスを崩してベッドから落ちそうになる。イアンが駆け寄り、肩を貸すようにしてようやく上体を起こした。
「すまんな」
ばつが悪そうに笑う顔は、以前と変わらない。だが、隠しきれない憔悴が、笑顔に影を落としている。
言葉をさがすイアンより先に、イグナーツは左の腿を叩きながら言った。
「後退中、敵の攻撃機に追われてな。林に飛び込んだのはいいが、その時に地雷を踏んだんだ」
天気のことでも話すように、気楽な口調だ。
「味方の地雷だったそうだ」
「酷い話だな」
「そうでもないさ。帰れなかった奴等の事を考えれば、な」
イアンの胸元をちらりと見て、続ける。
「それに、お互い勲章持ちだ」
「俺のはただの飾りだ。お前のは違う」
壁に吊ったイグナーツの軍服には、左胸に銀色のメダルがあった。四肢の一部欠損で授与される、上級戦傷章だ。
「そうか?まあ、年金の額は違うだろうけど」
「茶化すな」
憮然とするイアンの顔を見て、旧友は笑った。
「すまん。でもな、お前の仕事は勲章に見合ったものだと思うぜ。ほら」
そう言って、ベッド脇の小さなテーブルに手を伸ばす。数冊の兵隊文庫が置かれていた。
「『旅行記』、ちゃんと出してくれたんだな」
「抜粋になっちまったけどな」
「あれだけの大著だ。そこは仕方ないさ…掲載箇所を選んだのはお前か?」
イアンはうなずく。一応、中隊や関係各所と協議はしたが、イアンの案がほぼそのまま通ったのだった。
「だと思った。明らかにお前の趣味だ」
「うるせえ」
顔をしかめるイアンの前で、イグナーツは兵隊文庫の表紙を撫でている。
「白状するとな、足を吹っ飛ばされてからここに来るまで、何度か死のうと思ったんだよ」
表情を無くすイアンの前で、イグナーツは淡々と続けた。
「無くした足が痛むって話、ありゃ本当なんだな。とにかく痛くて、苦しくて、眠れたと思っても、死んだ奴の顔が夢に出るんだ。それで目が覚めると、同じような境遇のやつが、車の荷台に詰め込まれてる。ああ、これが地獄かって思ったよ」
兵隊文庫をパラパラとめくり、また閉じる。
「戦争だからな、小銃でも拳銃でも、そこらじゅうにあった。ロープと枝を探すまでもない、死のうと思えばいつでも死ねた。けどな、銃の横に、この本があったんだよ。『遊星艦隊の旅立ち』なんて初めて読んだけど、悪くないな」
イアンの脳裏に、ハヴェルとミロウシュのにやつく顔が思い浮かんだ。
「読んでる間だけは、死ぬことを忘れられた。そうしてるうちに病院について、まあ、死にそびれちまったわけだ」
イグナーツが顔を上げ、旧友の顔をまっすぐに見た。
「俺が生きてるのは、お前のおかげだ。ありがとう、イアン」
返す言葉を思いつかず、イアンは帽子を取って髪をかき回した。
「…俺だけで作った本じゃない」
「それでもさ」
イアンは帽子をかぶり直す。
「まあ、お前が死にそびれる役に立ったなら、親父さんやユーリアにも面目がたつな」
「その話はよせよ」
「その話をしにきたんだ」
旧友の顔を覗き込み、言った。
「契約変更だ。ユーリアとヨリを戻すまで、お前の『旅行記』は預かっとく。病院を出たら、真っ先に会いに行け」
「一方的な契約変更は違法じゃないか」
「黙れ。勝手に怪我なんかしやがって」
イアンの仏頂面を見て、イグナーツはくつくつと笑う。
「わかったよ。結果はどうあれ、努力はするさ。誓約書を書こうか」
「いらねえよ」
「じゃあ、こうだ」
イグナーツは右手を差し出す。イアンは旧友じろりと見てから、それを強く握り返した。
「今度は、見舞いに酒でも持ってきてくれよ」
「それも病院を出てからだ…じゃあな」
手を離し、病室のドアに向かう。その背中に、イグナーツは声をかけた。
「また旅行に付き合ってくれるか」
イアンは立ち止まり、首だけで振り向く。
「戦争が終わったらさ」
「…考えとく」
それだけ言って、イアンは病室を出る。
階段を降り、血と消毒液の匂いを通り抜けて外に出た。厚い雲が途切れて、日が差し込んでいるのが見える。
イアンは立ち止まって、その風景を眺めた。それから、車に向かって歩きだす。
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