第四部「硝煙のむこうに見えるのは」1

 霧雨の降る交差点で、イアンはふと立ち止まった。

 交差点にある小さな空き地。以前は、ベンチが二つとちょっとした街路樹が植えられていたはずだ。今はどちらも撤去され、防空壕の設置工事を知らせる張り紙が出されている。

 そこに、陸軍のトラックが停まっていた。

 幌をかぶせた荷台から、ポンチョをかぶった人影が降りてくる。兵士らしくない、鈍い動きだ。周囲には小銃を持った別の兵士が、彼らを取り囲むように配置されている。ときおり、指揮官らしい一人がポンチョの一団に叱咤の声を上げていた。

 一目でわかった。帝国軍の捕虜だ。

 防空壕を掘るための労役にかり出されているらしい。周囲の兵士は看守だろう。

 指揮官が作業内容を手短に伝え、かかれ、と号令した。捕虜たちはやはり鈍い動きでシャベルやツルハシを掴み取り、作業に取り掛かる。

 一人の顔が、ポンチョのフードからちらりと見えた。若い兵士だ。青白い顔に表情を浮かべず、黙々とツルハシを振り下ろしている。

 イアンはしばらくそれを眺めていたが、やがて目を逸らし、足早に立ち去った。


「おはよう」

 中隊本部のドアをくぐる。ヤーヒムとラティーカが立ち上がり、敬礼した。

「おはようございます。できてますよ」

 ヤーヒムはそう言って、一冊の兵隊文庫を手渡す。

「ああ…」

 イアンは曖昧な返事をして受け取った。クリーム色の表紙に「毛耳族民話集(一)」というタイトル。著者名はヴェヌシェ・ジェニアルニ。

 ヤーヒムの机には、真新しい兵隊文庫が積み上げられていた。完成したばかりの第二弾だ。ぱらぱらとめくり、中身を確かめる。

「チェックのほうは?」

「先程、済んだところです」

「そうですか。それじゃ、これで進めましょう」

 そっけなく言って、イアンは本を返した。ヤーヒムの表情が心配そうに曇る。

「まだ、お疲れなんじゃないですか。もう何日か休まれたほうが…」

 前線から戻ったイアンは、中佐に命じられてしばらく休養をとっていた。だが、本調子に戻っていないのは誰の目にも明らかだ。いつもの軽口も鳴りを潜めている。

「そうも言ってられませんよ。まだやる事は色々ありますから」

「そうですよ」

 横から口を挟んだのはラティーカだ。

「わたしたち、勝たなきゃいけないんですから」

「…まあ、そういう事だな」

 固い顔で断言する部下に、イアンはうなずく。ヤーヒムの表情は晴れないままだ。

 様子が変わったのはイアンだけではなかった。同じく休養明けのラティーカも、最近は固い表情を崩さない。以前とは人が変わったように黙々と任務に打ち込む彼女を、隊員たち、特に年長のヤーヒムとミルシュカは心配していた。

「負けちまったら何もかも無駄だ。それははっきりしてる…ヤーヒムさん。例の書類、仕上がってますか」

「ええ、こちらです」

 手渡された書類の束を、イアンは素早くめくっていく。

「今朝一番で、関係部署のサインが揃いました。あとは出版社に引き渡せば、あの原稿はうちの手を離れることになります」

「わかりました…さっそく行ってきます」

「今からですか?」

 ヤーヒムが声を上げて驚く。

「来たばかりじゃありませんか。すこし落ち着いてからでも…」

「早いほうがいいでしょう。それにこの件に関しちゃ、俺が顔出す必要がありますから…それじゃ」

 書類を鞄に詰め込み、置いたばかりの傘を取って、イアンは足早に部屋を出ていった。

「…少し、気を張りすぎじゃないですかね」

 ヤーヒムの呟きに、ラティーカは何でもないような口調で応じる。

「イアンさんも、いまの状況はわかってるって事じゃないですか…わたしも仕事に戻ります」

 そう言って自分の机に戻っていく。その背中を見ながら、ヤーヒムは小さく首を振った。


 霧雨が車の窓を伝っていくのを、イアンはぼんやりと眺める。

 留守にしている間に、連隊には車両部隊が増設されていた。乗用車が三台だけだが、第一師団に気兼ねせず車を使えるのはありがたい。

 午前中だというのに、街の景色は暗い。霧雨だけがその理由ではないようだ。

 イアン達が逃げ出したあの日、帝国軍は全面的な攻勢に出た。味方は至る所で敗走し、前線は日を追うごとに南下している。今や首都は、完全に戦時体制だ。配給品の統制は強まり、営業を停止する飲み屋やレストランも少なくない。街の暗さはそのためだ。ひっそりとした街路で、配給品を配る窓口だけが長蛇の列を作っていた。

 陰鬱な風景を後にして、車は走る。

 到着したのは、首都の中心部にあるオフィスビルだった。正門に凝ったファサードを設けた建物だ。門柱には紋章が彫り込まれ、その下に社名がある。「プロヴァズニーク出版」。

 眉をしかめてそれを一瞥し、イアンは門をくぐった。

 受付の前で待ち構えていた老紳士が、深々と頭を下げる。イアンの表情は、さらに苦味を増していた。

「お久しぶりでございます、イアン様」

「親父は」

 機械的に言う。

「お部屋の方でお待ちです…お荷物を」

 差し出された手を無視して、イアンはエレベーターに向かった。老紳士が後に続く。

「どうぞ、お荷物をこちらに」

「軍機密だ。易々と人に渡すもんじゃない」

 つい口調に棘が出た。実際のところ、民間に回す書類なのだから機密などありはしない。苛立っている自分に気づき、さらに不愉快な気分になる。

「これは失礼を…では、コートだけでも」

 相手はあくまで丁重だ。息をつき、足の間に鞄を置いてコートを脱ぐ。手渡すのと同時に、エレベーターが到着した。

 最上階の社長室まで、お互いに無言だった。絨毯の敷かれた廊下は軍靴の踵にも音を立てず、無音のうちに二人は歩く。

 黒檀のドアの前で老紳士は立ち止まり、おもむろにノックする。ドアの向こうから、どうぞ、と返事があった。

 ドアを開けて、一歩中に入る。頭を下げ、恭しく言った。

「イアン様をお連れいたしました」

 そう言って音もなく脇に退がる。イアンは、正面から部屋の主と対峙した。

 面長の、痩せた男。手入れの行き届いた口髭。鏡で見る自分の顔が、否応なく頭に浮かぶ。

 アルビーン・プロヴァズニーク。この会社の持ち主で、イアンの父親だ。

 部屋を横切り、父親の前に立つ。その背後で老紳士はコートを掛け、一礼して出ていった。

「話は聞いてる。書類を見せろ」

 事務的な口調だ。イアンは音を立てて鞄を置くと書類を掴み出し、無言で差し出す。

 受け取る父親の手が、ふと止まった。

「受勲したのか」

 視線がイアンの胸元に留まっている。

 青と白のラインが並んだ略綬。後方任務で目ざましい功績を上げた兵士に授与される、第一種戦功章だ。兵隊文庫の好評を受けて、指揮官のイアン、実質的な副隊長であるヤーヒム、それに判型の考案者としてラティーカが受章していた。

「ブリキの玩具さ」

 つまらなさそうに言う。久しぶりに再開した父への、それが第一声だった。

 息子の無愛想な返事を気にするでもなく、アルビーンは書類を受け取る。父親がそれに目を通す間、イアンは社長室を眺め回した。

 瀟洒な部屋だ。柱や窓枠には、目立たないが凝った装飾が彫り込まれ、純白の壁には染みひとつない。ただ、部屋の広さに比べて調度の少なさが目についた。机と応接用のソファ、傘立てとコート掛け、それに本棚が一つ。どれも柱や窓枠と同じ木材で揃えられている。

 唯一目を引くのは、広い壁に掛けられた風景画だった。夏の草原を描いたもので、目の覚めるような青空が丘の上に広がっている。その美しい絵の下には、花が生けられていた。

 イアンはしばらく眺めていたが、アルビーンが書類を置く音で我に返る。机の上で指を組み、息子の目を覗き込む。

「…ひとつ聞いておくが」

 イアンはうなずくだけだ。

「学術系の出版社なら、規模は小さくとも、ここよりも得意なところがあるはずだ。なぜこの話を私のところに持ってきた?」

「言われなくても、先にそっちを当たったよ。けど、全部断られた」

 アルビーンがわずかに眉を上げる。

「紙の配給が厳しくなって、中小の出版社は発行部数を絞ってる。新規事業には、どこも及び腰だ…もっとも、それは理由の半分だと思うけどね」

「もう半分は」

「この戦況だろ?戦争に負けたら、こんな本を刷ってる会社は取り潰し、経営陣はそろって収容所だ。危ない橋は渡りたくないって事さ」

 口の端を歪めて続ける。

「無駄な足掻きさ。もしそうなったら、業界ごと根こそぎだ。残るのは『竜の歯』みたいな太鼓持ちだけだろうね」

「…なるほど」

 アルビーンはつぶやく。ペンを取り、先端をインク壺に浸した。

「話はわかった。引き受けよう」

 そう言って、書類へサインを書き込んでいく。イアンは挑発するように口を挟んだ。

「いいのかよ。あんたも会社も、潰される口実が増えるぜ」

「それがどうした」

 書類から目も離さず、平然と言う。

「これは世に出すべき本だ。戦争の勝ち負けも、帝国の占領も、それを覆す理由にはならん…もちろん、お前と私の関係もな」

「当然だ。任務だからな」

「その通り…出来たぞ」

 サインに当てていた吸取器を除けて、アルビーンは書類を手渡す。陸軍側の控えだ。受け取って目を通す。

「…これで、毛耳族民話集の取り扱いは陸軍から、中央図書館とあんたの会社に移った。あとの事はニコラ先生とアベスカ議長に相談してくれ。一応、こっちの連絡先も書いてあるが、あてにしてほしくないね」

「お前に判断を仰ぐ必要は、もう無いだろう」

「そりゃ良かった」

 書類を鞄に入れ、机から下ろす。

「…半端なものにはするなよ」

 イアンが低く言った。アルビーンの眼光が鋭さを増す。

「誰にものを言ってる」

 父と息子の視線がぶつかる。正面から顔を見るのは久しぶりだ、とイアンは思う。顔を見た瞬間に殴りかかると思っていたが。

「…話は終わりだ。それじゃ」

 ぶっきらぼうにそれだけ言って、踵を返す。アルビーンの方も無言だ。

 横目でもう一度あの絵を見て、ドアへ向かう。

「お前の作った本を見た」

 コートを手に掛けた時、唐突にそう言われた。

 手を止めて向き直ると、父親は窓の外を見ていた。イアンから見えるのは椅子の背だけだ。

「…兵隊文庫のこと」

「ああ」

 一般流通はしていないが、何百万冊と刷っている本だ。出版に関わる人間なら、手にする機会があってもおかしくないだろう。

「…いい本だな、あれは」

 顔を向けずに、父親はそう言った。

 イアンはしばらく、椅子の背を眺める。やがてコートを羽織ると、無言で部屋を出ていった。

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