第三部「誰がために砲声は鳴る」11
帰途は長かった。
帝国軍の奇襲は、広範囲で行われたらしい。街道は後方部隊や敗走する兵士で溢れ、大渋滞を引き起こしていた。
オリヴェルは機転を利かせ、地図を睨んで通れそうな小道を探し、無人の牧草地を通り抜けて距離を稼いだ。さすがは「黒豹」の部下というところだろう。
道中、三人はほとんど口をきかなかった。
オリヴェルは最善を尽くしてくれたが、明らかに残してきた原隊を気にしている様子だ。
ラティーカは酷かった。最初の夜、缶詰とビスケットで夕食をとった時、彼女はそれを口に入れた途端に嘔吐した。それ以降、水しか口にすることができず、憔悴した顔で窓の外を見つめている。
イアンもさすがに、普段のような軽口を叩く気にはなれなかった。実際、彼自身も疲労の極みにある。初めての戦闘は、数分に過ぎなかったとしても、それほどショックだった。
二晩かかって、ようやくアロードと繋がる鉄道駅にたどり着いた。情報は錯綜し、敵どころか味方の動きも分からない状況だったが、ここまでくれば大丈夫だろう、とイアンは判断した。
軍用列車に席をもらえるよう、鉄道隊に話をつける。兵隊文庫を作っている部署だ、と言うと、担当の下士官はしばらく考えて、なんとかしてみましょう、と言ってくれた。
オリヴェルとはそこで別れた。イアンは心底から礼を言ったが、一緒に首都まで逃げるか、という言葉はなんとか飲み込んだ。それが侮辱だということぐらいはイアンにもわかっている。彼は燃料の補給を受け、来た道を戻っていった。
満載された負傷兵とともに首都にたどり着いたのは、丸二日かかった後だった。
「平気か」
第一師団司令部に向かう車の中で、イアンはラティーカに声をかけた。
「…なんとか」
相変わらず、彼女の顔色は悪い。それでも、辿り着いた駅で出された朝食の粥を一皿、なんとか飲み下していた。イアンにとって、ほとんど唯一の安心材料だ。
「中佐に休養を申請するよ」
「ありがとうございます…」
それきり二人は黙り込む。
街の景色は、どこか薄暗く見えた。今にも降り出しそうな空模様のせいだけではない。イアンは街並みを眺め、あることに気づいて運転手に声をかけた。
「灯火管制が出たのか?」
ハンドルを握ったまま、運転手の兵士が答える。
「はい、つい三日前からです。遮光カーテンは配布済みでしたから、皆さんすぐに対応してくれましたよ」
家の窓から見える黒布はそういうわけか、とイアンは納得する。
「空襲は?」
「まだ何も。ただまあ、北から相当押し込まれてるって話ですから、今のうちにですよ」
運転手は肩越しにちらりとイアンを見て、声を落として言った。
「実のところ、前線が一体どうなってるのか、まるで話が来ないんですよ…大尉殿、何かご存知ですか」
イアンは脱力して座席に沈み込む。そんなもの、こっちが知りたい。
「命からがら逃げてきたばかりでね…ご期待にそえるような話は無いよ、残念ながら」
「そうですか」
それきり、イアンは仏頂面で会話を遮断する。運転手も察して、それ以上は声をかけてこなかった。
到着した司令部庁舎は、まさに厳戒態勢だった。門衛は四人態勢で、出る時には無かった詰所が作られている。簡単な屋根とベンチがあるだけだが、数人の兵士がそこで煙草をすっていた。
門衛の伍長から根掘り葉掘り質問された挙句、軍籍手帳の提示まで求められて、ようやく門を通された。ラティーカに手を貸しつつ車を降り、数年ぶりのような懐かしさを覚えながら正門をくぐる。
第一師団の兵士たちの、怪訝そうな視線が突き刺さる。数日にわたる逃亡生活からそのまま司令部に直行したのだ。すっかり忘れていたが、今の自分達はさぞ汚れているだろう。
廊下の向こうに、九〇一中隊のドアが見えた。
そこに、ちょうどドアノブに手をかけようとしているヤーヒムがいた。イアンが声をかけるより早くこちらに気づき、目を丸くする。
「中隊長殿!」
敬礼も忘れて二人に駆け寄る。イアンはどうにか笑みを作って答えた。
「どうも、只今戻りました」
「よくご無事で…!」
老下士官は感極まった様子でイアンの手をとった。中隊の面々が顔を出し、同じように驚きの声をあげる。
「北部で敵の攻勢が始まったって聞いて、もうダメかと思ってたんですよ」
ダリミルが安堵の滲む声で言う。
「ご無事で何よりです。お怪我は?」
「五体満足だよ、幸運にもな」
「まあ、ラティちゃん!」
一際大きな声で、ミルシュカが叫んだ。
「どうしたのその顔!どこか悪くした?」
ラティーカの肩に手をやり、心配そうに顔を覗き込む。
「前線で、戦闘に巻き込まれましてね…いろいろキツかったみたいです。休ませてやらないと」
ミルシュカはそう聞くや否や部屋にとって返すと、タイプ用紙を一枚取って「女子使用中」と書き殴り、粘着テープをポケットに入れて戻ってきた。
「彼女をお風呂に入れてまいります。よろしいですね!?」
「え、ああ、はい」
ミルシュカの決然たる表情に押し切られ、イアンは中途半端に答えた。
第一師団の庁舎には、仮眠室とシャワー室が完備されている。イアンも泊まり込みの仕事の時に、何度か使ったことがあった。
「さ、いらっしゃい!まずは体を温めて、汚れを流すの!そうすれば気分も少しは良くなるわ」
「え、はあ」
戸惑うラティーカの手を引いて、ミルシュカはずんずんと廊下を歩いていった。それと入れ違うように、ランダ中佐とカルラが階段を降りてくる。
「彼女たちはどうしたのかね」
敬礼もそこそこに、中佐が廊下を振り返りながら不思議そうに言った。
「ミルシュカさんが、ラティーカを風呂に入れてくると」
「ああ、なるほど…医務室に着替えがあるはずだ。使わせてもらうといい」
自分が行きます、とダリミルが言って駆けていく。残った一同は部屋に入った。
イアンが鞄を置くのを待って、中佐が口を開く。
「まずは、任務ご苦労。よく戻ってくれた」
「恐縮であります」
イアンは踵を鳴らして背筋を伸ばす。それから、口元を皮肉に歪ませてみせた。
「刺激的な出張でしたよ」
「ゆっくり休め、と言ってやりたいが、先にこれだけは確かめておこうと思ってね」
中佐の口調に、いつになく緊張の色がある。
「例の件はどうなったかね」
イアンは胸騒ぎを覚えつつも、鞄から書類の束を取り出し、手渡した。
「ルドルフ・ジェニアルニ少尉より、兵隊文庫へのヴェヌシェ・ジェニアルニ著作の掲載許可、ならびに同作の出版に関する諸手続きの署名、すべて完了しました」
受け取った書類を注意深く確認し、ランダ中佐はうなずく。
「…確認した。問題ない」
そう言って、大きく息をついた。
「間に合ってよかった」
その一言が、イアンの心臓に突き刺さった。
「…中佐?」
裏返りそうになる声をなんとか押さえ、イアンは尋ねる。
「その…『間に合って』とは?」
中佐が意外そうな顔をした。嫌な予感が膨れ上がる。
「聞いていないのかね?」
やめろ。やめてくれ。頭の中が、そんな台詞で一杯になる。
いつの間にか脇に立っていたヤーヒムが、そっと何かを差し出した。受け取り、目を落とす。一昨日付の新聞だ。
畳まれたそれを広げる。一面の左下、黒く縁取られた囲み記事。
それは、「黒豹」ルドルフ・ジェニアルニ少尉の戦死を告げる記事だった。
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