第三部「誰がために砲声は鳴る」10

「では、このあたりでお別れです」

 少尉はイアンたちに向き直り、直立不動の姿勢をとった。

 最前線、第二六歩兵連隊の担当戦区だ。砲を牽いたトラックが行き交い、タイヤが黒土を掘り返している。もとはおそらく牧草地だろう。本当なら、一面に夏草が繁っている時期のはずだ。

 最後の一両になった装甲書架車の前で、イアンも姿勢を正して答える。

「世話になったな。必ず生きて帰ってくれ。勲章とかそういうのは、どうでもいいからさ」

 少尉は苦笑した。

「大尉殿のそういう物言いにも、慣れてきたところだったのですが」

「名残惜しいね」

「ともあれ、任務のご成功をお祈りいたします…それと、お早いお帰りを。この辺りではいつ状況が変わるか、まったく予測できませんから」

「その点は心配ないよ。とっとと帰るさ」

 そう言って右手を差し出す。少尉はそれを力強く握り返した。

「任務への協力を、心より感謝する」

「恐縮であります」

 手を離し、互いに敬礼する。そのまま踵を返すと、停まっていた車両に飛び乗った。エンジン音が轟く。

 少尉たち護衛隊は図書館連隊と別れ、原隊である第一六七歩兵連隊に復帰する。戦区は東隣、ここと同じく最前線だ。

「お気をつけて!」

 軍用車の座席から、少尉が叫んだ。二人は手を振って応える。黒土を跳ね上げながら、護衛隊の車列は去っていった。

 それを見送り、さあて、とイアンがつぶやく。手に持った書類鞄を上げて、ラティーカに笑いかける。

「それじゃ、締めくくりといくか」


「君たちも我らが『黒豹』に御用か」

 大隊長をつとめる少佐は、ルドルフ・ジェニアルニをそう呼んだ。

 大隊指揮所は、十棟ほどの農家が集まった小さな村だ。住人はみな、もっと南の集落に避難したという。人の生活が染み付いた家を武装した男たちが出入りするさまは、イアンとラティーカを落ち着かない気分にさせた。

 もとは食卓だろう、丸太を割って組んだ素朴なテーブルのむこうで、ジェニアルニ少尉の上官は続ける。

「このあいだも、広報部の連中が来ていたよ。こんなところまで、ご苦労なことだ」

「どうも、時の人になっているらしいですね」

「娑婆の新聞にも載っているそうだ。もっとも、ここにはそんなもの届かないがね」

 皮肉っぽく言ってから、わずかに居住まいを正す。

「しかし君たちは、こんなところまで本を届けに来てくれた。兵どもは大喜びだ…感謝するよ」

「恐縮です」

「しかし、独立図書館連隊というのは初めて聞いたが…黒豹に一体何の用だね?」

「実は、兵隊文庫の第二弾を出版するにあたって、彼に許可を取らねばならない事情がありまして」

 イアンは大隊長に、事のあらましを手短に説明した。彼は大いに感心したらしい。

「なるほど、そいつはいい…実際、耳付き連中の働きは大したものだ。今回の戦争、陸軍の勲章の半分は連中が持っていくかもしれん」

「それほどですか」

「ジェニアルニ少尉には、同族で編成した偵察小隊を任せてある。連中、まさしく豹だよ。誰にも気づかれず敵の懐まで潜り込んで、寝首を掻く」

 言いながら、指先で首筋を裂く真似をする。ラティーカがわずかに眉をひそめるのが見えた。

「この戦争で最初の将校捕虜をとったのも彼だ…おまけに帝国のやつら、自国で耳付きを殺しまくってるだろう。そんな相手に慈悲をかける理由なんぞ無いからな。ためらいってものがない。大宰相閣下も馬鹿な真似をしたもんさ」

「噂以上の人物のようですね…それで、彼は今どこに」

 大隊長は思案顔で腕時計を見る。

「昨日の夕方から偵察に出てる。そろそろ戻ってもいい頃なんだが…」

「失礼いたします!」

 ドアの向こうで、兵士の声が響いた。入れ、と大隊長が応える。

「ベラーネク大尉殿とジェニアルニ少尉殿が、偵察結果の報告にいらっしゃっております!」

 大隊長はイアンの顔を見てにやりと笑った。

「運が良かったな…ここに通せ!」

 伝令兵は敬礼して駆けていく。

 しばらくして、二人の将校が指揮所に入ってきた。大きな鼻が目立つ顔をした大尉と、彼より頭一つ背の高い少尉。二人とも、まだら模様のマントを羽織っている。少尉の耳は上向きに三角に尖り、黒い毛皮に覆われている。先端だけが白い。ベルトに吊るした大ぶりのナイフを見て、イアンはカルラを思い出した。

 二人が大隊長に向けて敬礼する。

「偵察結果のご報告に上がりました、が…」

 ベラーネク大尉は不審げな目つきでイアンたちを眺めた。

「独立図書館連隊のプロヴァズニーク大尉と、スプルナ軍曹相当官だ。兵隊文庫を持ってきてくれた。君らも後で一冊持っていけ」

「はあ」

 ピンと来ない顔の大尉に、二人は立ち上がって敬礼する。

「で、どうだ」

 大隊長がそう言うと、大尉の眉間に皺が寄った。

「やはり妙です。正面の方はだいたい見て回りましたが、敵の姿がどこにもない。ここは引き払って、よそに移ったとしか思えません」

 大隊長は顎を撫でて、ふむ、と息を吐く。大尉が続ける。

「別のルートからの奇襲を企図しているのかもしれません。連隊に注意を促したほうがよろしいかと」

「そうだな…だが詳しい話の前に、ちょっと別件があるんだ」

「別件?」

「ルドルフ。君にお客さんだ」

 大尉の肩越しに、大隊長が声をかける。

 名を呼ばれたルドルフは、大隊長とイアンたちの顔を交互に見て、またか、という顔をした。

「イアン・プロヴァズニーク大尉だ。ルドルフ・ジェニアルニ少尉だね?」

「…はい」

 いかにもうんざりという顔で答える。

 精悍な顔つきだ。年齢はラティーカよりも下だったはずだが、前線任務の烈しさからか、目元にはこびりついた険しさがある。

「取材だの写真撮影だの、そういう話でしたら後にしていただけませんか。報告を優先したいので」

 仮にも大尉であるイアンに向かって、臆面もなくそう言った。

 大隊長は叱るでもなく、にやにやと笑っている。大尉は素知らぬ顔だ。なるほど、これが前線式か、とイアンは思う。

「ヴェヌシェ・ジェニアルニは君の祖母だね?」

 ルドルフの表情が変わった。目を見開き、無言でイアンの顔を見る。

「…なぜその名を」

 ようやくそれだけ言った。

「君に見てほしいものがあるんだ」

 イアンがそう言うと、ラティーカが書類鞄から紙束を取り出した。ヴェヌシェ・ジェニアルニの遺言状と、彼女の原稿だ。

 ラティーカはそれを、そっとルドルフに手渡す。

 少尉はしばらく、紙面をじっと見つめていた。微動だにせず、呼吸すらも忘れたようだった。やがて、ゆっくりと顔を上げ、途方に暮れたような顔でイアンを見る。

 その場の全員が息を呑んだ。

 ルドルフ・ジェニアルニ少尉の目から大粒の涙が流れ落ち、軍服の胸に染み込んだ。

 子供のような涙声で、つぶやく。

「おばあちゃんの字だ…」


「落ち着いたかい」

 イアンが静かに言った。三人の前には、イアン秘蔵の茶葉を使った紅茶のカップが湯気を立てている。

 大隊指揮所の隣、別の農夫小屋の一室だ。ルドルフのただならぬ様子を見て、大隊長が使わせてくれた。三人の他には誰もいない。

「…お見苦しいところを、失礼しました」

 恥ずかしそうに言うルドルフの目元は、まだ赤みが残っている。だが表情の険しさは消え、年相応の若者の顔に戻っていた。

「こちらこそ、突然押しかけてこんな話をしてすまない。一応、任務なんだ」

「任務、ですか」

 ルドルフは不思議そうに、イアンの顔とヴェヌシェの原稿を見比べる。

「君の祖母がまとめた毛耳族の民話集。これを兵隊文庫にして、前線に届ける。それが俺たちの任務だ。そのためには、そこに書いてあるように、君の許可が必要なんだ」

 そう言ってから、イアンは小さく微笑む。

「お祖母さんとは、ずいぶん仲が良かったと聞いたよ」

 ルドルフは原稿を持ち上げると数枚をめくり、藤色のインクで書かれた文字を追う。

「小さい頃は、毎年のように行っていました…あの街では、毛耳族だからといって石を投げられるようなことは無かった。十年足らずであんなに変わってしまうなんて、今でも信じられません」

 イアンはうなずく。長大な運河を引き込んだ港町であるファウヌスブルグは、帝国で最もリベラルな土地柄だ。そんな街でさえ、すでに異民族の居場所は無くなっているという。

「いろいろな話をしてくれました。遠い昔の、遠くの土地のこと、見知らぬ人々のこと…同じ話を二度聞いたことはありません。今にして思えば、あれはこのために集めた話だったんですね」

「原稿のことは、なにも?」

 イアンの質問に、ルドルフは首を振る。

「両親にも話していなかったはずです。今にして思えば、祖母は帝国がああなることを予期していたのかもしれません」

「たしかにな…」

 異民族の著作を徹底的に灼き尽くす帝国で、この原稿が露見するということは死を意味する。極秘のうちに書き続けたものだったのだろう。

「…彼女が亡くなったことは?」

「聞いています。父も母も、心底から悔やんでいました。僕も…せめてもう一度会いたかった」

 ルドルフがまっすぐにイアンを見る。

「まさか、こんなかたちで祖母と再会できるとは思いもしませんでした。本当に…ありがとうございます、大尉殿」

「殿はいらないよ。ウチじゃそういう決まりだ」

 ルドルフが破顔する。少年の面差しが残る笑顔だ。

 ふと、隣に目をやったイアンが呆れたような声を上げた。

「おいおい。なんでお前さんが泣いてるんだよ」

 見ると、ラティーカはハンカチを顔に当てて目鼻を押さえている。目尻には涙が溜まっていた。

「わたし、こういうのダメなんですよ…」

「わからんでもないが…いちおう仕事なんだからさ」

「わかってます!ちょっと、待っててください…」

 ハンカチで顔を拭うラティーカの隣で、イアンは苦笑して見せた。

「悪いね」

「いえ」

「さて、それじゃ仕事の方を済ませてもらおうかな。いくつかサインをもらいたい書類があるんだ」

 イアンは鞄から書類を取り出し、テーブルに並べる。

「こっちが兵隊文庫への掲載の同意書。これは一般書籍としての出版に関する書類だ。定住者協議会との連携とか、印税の配分なんかのことも書いてあるから、よく読んでくれ」

「拝見します」

 ルドルフは書類を受け取り、真剣な顔で読み進める。

 イアンはそれを眺めながら紅茶をすすった。隣では、ようやく落ち着いたラティーカがハンカチをポケットに仕舞い、同じくカップに口をつける。

「…わかりました。異存ありません」

 顔を上げたルドルフが言った。

「よし、それじゃサインを頼む。それとそれと…それだ」

 イアンが差し出した万年筆を受け取り、書類にサインを書き込んでいく。

「こういう本って、あまり売れないんでしょうね」

 ペンを走らせながら、ルドルフが冗談めかして言う。

「まあ、シグトヴァやユラーセクみたいにはいかないな。だが、学術的には革命と言っていい内容なんだぜ」

「そうなんですか?」

「ああ。君のお祖母さんの名前は、大陸全土の文学史に残るんだ」

 ルドルフは書類から顔を上げて目をしばたかせた。

「…あまりピンときませんね」

「まあそうだよな。でも本当の話だ」

 サインの記入を済ませて、ルドルフは書類を手渡す。イアンはそれを確認し、うなずく。

「問題なしだ。ありがとう少尉」

「恐縮であります」

 書類を鞄にもどし、三人とも立ち上がる。イアンが手を伸ばし、ルドルフはそれを握り返した。

「時間を取らせて悪かったな。協力に感謝する」

「とんでもない。こちらこそ、お礼を申し上げます」

 ルドルフは微笑む。

「また祖母に会えたんですから」

 イアンは照れくさそうに笑う。手をはなし、帽子を取る。

「これで俺たちの任務は完了だ。ようやくデスクワークに戻れるよ」

 そう軽口をたたいた瞬間だった。

 突然、農夫小屋が振動した。叩きつけられたように家が揺れ、窓が音を立てて割れる。天井から埃が舞い、壁にかけてあった農具がばらばらと床に落ちた。

 イアンとラティーカは声も出せず、机にしがみついてしゃがみ込む。その間に、ルドルフはすばやくドアの方に駆け寄った。

 振動は二度、三度と続く。どれも最初のものよりは小さい。

「何事だ!」

 ルドルフが叫ぶ。外を駆けていく兵士が答えた。

「戦車です!」

 毛皮の耳がピンと尖る。振り返って、二人を促す。

「こちらへ!早く!」

 イアンは鞄をつかんで立ち上がる。足をもつれさせるラティーカを引きずって、小屋を出た。

 右側で爆発。停めてあった軍用車が吹き飛ばされ、腹を見せて燃え上がる。

「西から…!?」

 ルドルフがそうつぶやくのが、爆発で痺れた耳にかろうじて聞こえた。

 三人は走り出す。燃える車のそばを走り抜け、駆け回る兵士たちに紛れる。誰もが叫び、走り、焦っていた。

「オリヴェル!」

 ルドルフが叫ぶ。部下らしい兵士が一人駆け寄ってきた。

「どうなってる」

「わかりません。師団戦区の境目から浸透してきたようですが、一体どうやったのか」

「一緒に来い」

 四人は再び駆け出す。その間も周囲で次々と爆発が起こる。家や車が黒煙を上げて燃えていた。

 倒れて動かない兵士の前で、ラティーカが足をすくませる。

「止まるな!走れ!」

 肩をつかみ、無理矢理に走らせる。頭を抱えてうずくまりたいのは自分も同じだったが、そうもいかない。

 駐車場が見えた。いくつかの車は燃えているが、ほとんどは無事だ。装甲書架車も無傷。

 一瞬の安堵。だがその一秒後、叩きつけるような衝撃と共に爆発が起こった。

 四人はたまらず顔を覆う。腕越しにイアンが見たのは、ひしゃげ、砕け散って燃え上がる、装甲書架車の残骸だった。

「ああっ…」

 ラティーカがその場にへたりこむ。イアンは気力を奮い起こして、彼女の腕をつかんだ。

「立て!あの車はもうカラだ、気にするな!」

「お二人とも、こちらに!」

 ラティーカを引きずるようにしながら、ルドルフの方に走る。背後でふたたび爆発。足をもつれさせそうになるが、なんとか耐えた。

 一台の軍用車の前で、ルドルフが待っている。運転席には先程つれてきた兵士がすでに座っていた。

 ドアを開け、二人に乗るよう促す。後部座席に倒れ込む二人を見届け、閉めた。

「オリヴェル、いいか、よく聞け!」

 ルドルフは運転席の部下に顔を近づけ、爆音と、今や間近に迫ってきた銃声に負けぬよう声を張り上げた。

「このお二人を安全なところまでお連れしろ!必ずだ!復唱の要なし!」

「了解!」

 返事を聞き届けて、今度は後部座席の二人に向き直る。

「一刻も早く離脱を。我々はここで敵を食い止めます。どうか、それを無事に持ち帰ってください」

 ルドルフは笑った。英雄と呼ぶにふさわしい、あまりにも鮮やかな笑顔だった。

「本を楽しみにしてます…それでは」

 素早く敬礼する。イアンはうなずいてみせるのが精一杯だった。

 ルドルフがドアを叩く。間髪入れず、オリヴェルは車を急発進させた。激しく揺れる車の窓から、イアンはかろうじて後ろを振り返る。

 戦場に向かって走り出す背中が見えた。だがそれも一瞬で、すぐに黒煙と炎に遮られて見えなくなった。

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