第三部「誰がために砲声は鳴る」9
その夜は集積地の兵士たちと同じ場所にテントを張った。
昼間の少佐が、イアンたちの夕食を手配してくれた。「前線の食事」に対してそれなりに覚悟を決めてきた二人だったが、ありがたいことにその予想は裏切られた。野菜と豆、ベーコンを入れたシチューにマッシュポテト、スライスした軍用パンという武骨なメニューだったが、味はどれも悪くない。イアンは「第一師団庁舎の食堂より美味い」と放言して、炊事班の兵士を苦笑いさせていた。
夏の長い日が暮れ、辺りは暗くなっている。キャンプの脇にある林で、イアンとラティーカは小さな焚火を囲んでいた。
「しかし、お前さんがこういう事が得意だとは思わなかったよ」
私物のアウトドア向けティーセットを設置しながら、イアンが言う。
最初のキャンプの夜から、彼女は火おこしやテント張りなどを手際よくこなし、イアンを驚かせていた。話を聞くと、よく父親とキャンプに行っていたのだという。
「覚えてるもんですね…今度帰ったら、父にお礼を言っておきます」
「俺からも頼む。それにしても意外だ…てっきり文学少女なのかと思ってた」
「もちろん、本を読むほうが好きでしたけど…」
そう言って、小さな炎を見つめる。
「こうして焚火を囲んで、読んだ本のことなんかを父に話すんです。そうすると、不思議と考えがまとまって…読んでるときは気づかなかったことに気づいたりするんです。父も、それをよく聞いてくれました」
「いい親父さんだな」
「ええ…それもあって、キャンプは好きでしたよ。近場の丘とか川べりでも、夜や明け方は違う場所みたいで、楽しかった」
「釣りとか狩りはしなかったのか?」
うーん、とラティーカが声を上げた。
「釣りは時々やってましたけど、狩りはぜんぜん。一応、家には古いライフルが一丁あったんですけど。昔はやってたんだけど、私が生まれてからやめたって母が言ってました」
「なるほど」
焚火の上のケトルがカタカタと音を立てた。
イアンは脇においていた缶を取る。普段から愛飲している紅茶の茶葉だ。蓋を開け、スプーンですくった茶葉を慎重にケトルに入れる。蓋を戻し、大事そうに雑嚢の中にしまい込んだ。
「はいよ」
ラティーカにカップを手渡す。それから、蓋の付いた小瓶を地面に置いた。中には角砂糖がぎっしり入っている。
「前線じゃ貴重品だそうだが、まあ遠慮なく使ってくれ」
「そんなこと言われたら使いづらくなるじゃないですか」
イアンはケトルを取ってふたつのカップに紅茶を注いだ。角砂糖は、言ったそばからイアンが三個取ったので、ラティーカも同じだけカップに入れた。
「イアンさんって甘党ですよね」
「紅茶は甘くなきゃ美味くないだろ」
二人はしばらく、無言で紅茶を味わった。
頭上には夏の星座が輝いている。昼間の日差しは灼けつくようだったが、北の山脈に近づいたからか、夜には涼しい風が木々の間を通り抜けてくる。熱い紅茶も苦にならない。
「少し濃いな」
イアンが小さくつぶやく。
「スプーンがいつもと違うからか」
「…イアンさんって、お父さんと仲悪いんですか?」
驚いたように顔を上げ、イアンは部下の顔を見る。
「なんだ、やぶからぼうに」
「お父さんの話が出ると、いつも嫌そうな顔するじゃないですか。何かあったんですか、やっぱり」
「なんだってそんな事が聞きたいんだ」
「わたしの話は聞いたじゃないですか」
イアンは舌打ちし、憮然として紅茶をすする。適当に煙に巻いてしまおうかとも考えたが、それも面倒だった。
「…面白い話でもないぞ」
うなずくラティーカに溜息で応じてから、独り言のように話し始めた。
「俺のおふくろ、王国連合の出身なんだよ。しかも一応は貴族様だ。四人姉妹の末っ子…ただ、生まれつき身体が弱くてな、十二歳の頃からずっと、こっちの療養施設に預けられてた。アンゴローヴの郊外でな、いいところだったよ」
イアンは紅茶に口を付ける。カップをおろし、しばらくそれを見つめる。
「親父とは、十九の時に知り合ったらしい。親父はその頃、自分の会社を立ち上げたばっかりで、あちこちを売り込みに歩いてた。自分の所の本を療養所に寄付しに行って、お近づきになったんだそうだ。よくやるよ」
「いいお話じゃないですか」
どうだか、とイアンは吐き捨て、口元を歪める。
「でも、よく結婚までこぎつけられましたね。お母さん、貴族だったんでしょう?よくその…これからの人?に嫁がせてもらえたな、と」
ラティーカなりに気を遣った表現に、イアンは苦笑した。
「会社は、ぽっと出の割には上手くいってたそうだ。ホンザおじさんもいたしな。ただ…本当のところは、おふくろの実家が早々に片付けたがってたんだよ」
「え」
「社交界にも出られず、外国の保養地に引きこもりっぱなしの娘…外聞がいいわきゃない。母親の密通の噂もあったらしいしな。多少出自が怪しくても、羽振りのいい相手に押し付けられるならそれでいいと思ったんだろう。現に俺は、母方の親戚の顔なんざ見たこともない」
「そんな…」
言葉を失うラティーカを前に、イアンは淡々と続ける。
「親父にとっちゃ好都合だったし、おふくろも自分の境遇はわかってたんだろう。話は滞りなく進んで二人は結婚、俺が生まれたわけだ。けど、おふくろの身体は良くならなくてな、首都で親父の仕事に付き合えるような調子じゃなかった。結局、少女時代を過ごした療養所に戻されちまったよ。俺が六歳の時だ」
じっと話を聞いているラティーカの視線を避けるように、イアンは目をそらし、林の暗がりを眺める。
「俺はおふくろについて行った。寄宿学校への入学も、駄々をこね続けてご破産にした。乳歯二本を引き換えにしてな」
「殴られたんですか」
「俺も親父の置き時計を粉々にしてやったよ」
暗がりに目をやったまま、かすれ声で笑った。
「今になってみりゃ、親父にも色々と考えがあったんだろうとは思うが…あの時の俺には、おふくろが捨てられたようにしか思えなかった」
「お母さんは、その後」
「俺が十の時に死んだよ。子供を生んで、その歳まで生きられたのは奇跡だって医者が言ってた。ケチな奇跡さ」
二人の間に沈黙が降りた。焚火が爆ぜ、イアンは手元の枯れ枝を火の中に差し込む。
「その後は全寮制の学校に入って、そのまま大学。親父と顔を合わせたのは数える程度だ。軍隊入りも手紙だけで知らせた。いちど戻ってこいと言われたが、無視したよ」
息をつき、ぬるくなった紅茶を飲む。
「親父は首に縄をかけてでも俺を連れ戻すつもりだったらしいが、なだめてくれた人がいてな」
「誰です?」
「お前も会ってる。ニコラ・クルハンコヴァ女史だ」
「ああ…」
ラティーカは挨拶程度の面識しかないが、それでもあの溌剌とした笑顔は印象に残っていた。
「あの人はおふくろの読書友達で、本業は言語学なんだ。初等学校に入りそこねた俺の家庭教師を引き受けてくれた。自分の仕事も忙しいのに、毎日俺のところに来てくれたよ。それ以来、先生には世話になりっぱなしだ」
そう言ってから、イアンは大きくため息をついた。
「そのあたりも、今回の仕事で気にくわない事の一つだな」
「え、どういうことです?」
「先生にしろ、ホンザおじさんにしろ、本来は俺のプライベートだ。先生は今のポストがあるから仕方ないところだが…こういうのは趣味じゃない。個人的なつながりを仕事に持ち込むのは嫌なんだよ」
ラティーカの呆れたような顔を見て、取り繕うように続ける。
「まあ、中佐にうまく乗せられたんだな。おっかないよ、あの人は」
「イアンさん、ときどきすごく子供っぽいこと言いますよね」
「うるせえ」
イアンのしかめ面を見て、ラティーカはくすくすと笑う。紅茶を飲み、なだめるような口調で言った。
「でも、今日でわかったじゃないですか。私達の仕事、すごく上手くいってますよ」
「たしかにな。こんなに歓迎されるとは思わなかった」
「あの少佐さんが言ってたじゃないですか。兵隊文庫が部下を救ってるって。これって、きっと凄いことですよ。プライベートを切り売りしただけの価値はありましたよ」
「お前、他人事だと思って…」
イアンの抗議の声は、途中で途切れて苦笑に変わった。本を受け取る兵士たちの笑顔が脳裏に浮かぶ。たしかに、それだけの価値はあったかもしれない。
「まあ、そういうことにしておくか」
「そうですよ」
イアンはうなずき、立ち上がる。紅茶の飲み残しを草の上に捨て、ティーセットを片付ける。ラティーカは火の始末をはじめた。
「そういえば、あの兵長さん、『黄金航路』は手に入りましたかね」
ブーツで焚火を踏み消しながら、ラティーカが思い出したように言った。
「憲兵隊には他のトラックが行ってる。やり手そうな奴だったし、上手いこと手に入れてるだろ」
「そうですね」
始末を終えて、キャンプの方へ歩き出した。小さな明かりがあちこちに見える。まだ帝国軍の空爆はなく、灯火管制はされていない。だが時間の問題だろうと、イアンは思う。
「明日は早いぞ。もう寝ろよ」
「はい。それじゃ」
ラティーカは自分のテントの方に歩いていく。彼女は、装甲書架車の女性運転手たちと寝起きを共にしていた。屈強な彼女たちは、娘のような歳のラティーカに色々と気を配ってくれている。護衛隊の少尉が歩哨をつけるかと聞いてきたとき、そんなものはかえって危ない、自分たちに任せろと言い放ったほどだ。
おしゃべりをしていた運転手たちと笑顔を交わして、ラティーカはテントに潜り込む。それを見届けてから、イアンは自分の寝床に向かった。
慣れないキャンプの夜は寝付きが悪く、ここ数日は寝不足気味だ。だが、今夜はよく眠れそうな気分だった。
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