第三部「誰がために砲声は鳴る」2

 薄暗い倉庫の中で、イアンは仏頂面だった。

 隣には、気まずそうに沈黙するラティーカがいる。二人の目の前には、紐で縛ってまとめた兵隊文庫が、まるで城壁のように積み上げられていた。数万冊はあるだろう。

 イアンが重い溜息を吐き出した。

「前線から受領書が来ないと思ったら、こういう事か」

「ここで滞ってたんですね…」

 二人が立っているのは、アヴォネクから少し西、アロードという町にある物資集積基地だ。陸軍で最も大規模な集積所で、戦争が始まってからというもの、昼夜を問わず稼働している。ほとんど混沌と言っていい慌ただしさのなか、二人は兵隊文庫の担当者を見つけるために、二時間以上も基地をさまよう羽目になった。

 いま、その担当者である軍曹は、二人の背後で下士官らしく控えている。

「悪いほうの予想が当たっちまった」

 暗い顔でイアンがつぶやく。

 先日、完成した兵隊文庫が軍の各部隊へと支給された。だがしばらく経って、妙なことが起こり始めた。現地部隊から戻ってくるはずの受領書が、いつまでたっても届かないのだ。

 すべての受領書が戻ってこないのなら、書類の方になにか問題があったとも考えられる。だが実際には、海軍からの受領書は滞りなく到着した。いっぽう陸軍の方は、届いたのは全体の二割程度というありさまだ。

 中隊全員で考えた挙句、結局、現地に行ってみないとわからないという事になり、保管庫があるアロード基地に出張ということになった。そして今、その原因がイアンたちの目の前に積み上がっている。

「受領書が遅れてるだけなら、持って帰ればすむ話だったんだがな。配布そのものが滞ってるとなると…」

 帽子を取って髪をかき回す。それから背後を振り返った。

「なあ軍曹」

「はっ」

「これは本来なら、半月前には部隊に到着していなければならない予定のものだ。それが何故まだここにあるんだ?」

「作戦変更のためです」

 わかりきった事を聞くな、と言わんばかりの口調だった。

「情勢の急変により、部隊と物資の再配置が行われております。急な話で、あちこちで遅れや誤配が起こっとります。ここも例外ではありません」

「しかしな、この本は優先度1Bだ。このランクのものが目的地に到着していないのは、いくら状況が混乱しているとは言え問題じゃないかね?」

 軍曹が小さく鼻を鳴らした。

「優先度1B。個人向け支給品の優先度第二位ですな…そうおっしゃるからには、より優先されるべき物資が何かもよくご存知でしょう」

 前に出て、兵隊文庫の束を軽く叩き、そのままイアンに向き直る。軍隊で二十年以上飯を食っている人間だけが持つ、鋭い、底光りする眼光がイアンを射抜いた。

「大尉殿、こいつが、糧食メシ弾薬タマ燃料ガスより重要だと、まさかそうおっしゃるんじゃないでしょうな」

 イアンに反論の余地はなかった。

 がっくりと肩を落とし、ふたたび大きなため息をつく。やがて顔をあげると、軍曹に向かって力なく言った。

「わかったよ。俺が悪かった…それじゃ、せめて電話を貸してくれ」


 陸軍兵站部北部方面総監タリボル・チーハル少将は、好々爺然とした笑顔で訪問者を眺めていた。脇に立つ副官の、隈を作った両目から放たれる険悪な視線とは対象的だ。

 執務室の窓は開け放たれ、柔らかな風がカーテンを揺らしている。美しい初夏の日だったが、執務室の空気は重苦しい。

 その重心は、机の前に立つ訪問者の、仮面のような表情にあった。

「無論、閣下と兵站部が、任務に当たり最善を尽くしていることに、疑義を差し挟む余地はありません」

 訪問者…ランダ中佐は不動の姿勢のまま口を開く。

「むしろ、このような情勢の大転換を受けてなお、この程度の混乱で済んでいる事こそ、兵站部の統率よろしきを示すもの言えましょう」

「なにを偉そうな」

 副官が食ってかかろうとするのを、少将は軽く手を上げて止めた。

「お褒めに預かり光栄だ。てっきり、文句を言われるのかと思っていたよ」

 穏やかな笑顔のまま、冗談めかして言う。

「ここ最近、兵站部に届くのは苦情ばかりだからね」

「ご苦労のほど、拝察いたします」

「なに、慣れたものさ…アロードの滞留物資の件だったな?」

 白い顎髭を撫でながら、少将が促す。

「はい。先日、我が独立図書館連隊が作成しました兵隊文庫の第一弾が、配布の運びとなりました。が…それが現在、アロードの物資集積所に、いたずらに留め置かれているのです」

 淀みない口調で、中佐は説明する。

 アロードからの報告を受けた彼は、即座に兵站部との面会を取り付けた。作戦転換に忙殺されている兵站部がこれに素直に応じたのは、中佐と、彼を組み込んでいる組織の力によるものだ。その証拠に、脇に立つ副官は中佐への苛立ちを隠そうともしない。

「物資輸送の混乱は、広範囲で発生している。先程君が言ったようにな」

 副官が皮肉を込めて言い放った。

「部隊と物資の優先度を吟味し、順に発送しているのだ。この順序は変えられん。ましてや、兵の娯楽のための本など…」

「おっしゃる通り、優先順位の厳守は重要です。しかしながら」

 中佐は視線を副官の方に向け、続ける。

「帝国と事を構えるにあたって、軍と国防省は思想戦の領域を重要視しております。その領域において、兵たちを帝国の悪質なプロパガンダから守るのが、我が兵隊文庫なのです。なればこそ、1Bという高い優先度を与えられております。参謀本部と、もちろん兵站部の了承あって、です」

 副官が反論に詰まり、顔を歪めて中佐を睨んだ。中佐の方は気にもとめず、少将に向き直る。

「加えて、自分たちの任務が無下に扱われていると知れば、我が連隊の士気にも関わるでしょう。どうか閣下にご助力をいただきたく、お願いする次第であります」

 ランダ中佐が頭を下げた。少将は髭を撫でながらそれを眺める。

「しかしな中佐、無い袖は振れぬというものだ。兵站部のあらゆる輸送手段がフル稼働なのだよ。いま、民間の輸送業者による業務委託を調整中だ。それが整い次第、兵隊文庫の輸送も始まるだろう。それまで待ってもらうわけにはいかんかね」

「可能な限り、速やかな対応を望みます」

 ふむ、と少将が息をつく。

 椅子に背を預け、何かを考えるように腕を組む。やがて、抽斗から数枚の書類を取り出した。

 注意深く眺める中佐の前で、少将はそれを副官に手渡す。渋々ながら、といった表情で、彼はそれを中佐の前に突き出した。

「ヴォヤチェク・フラデツの兵器廠倉庫に、それが保管されとる。どうしてもと言うなら、それを使いたまえ。今してやれるのは、そのくらいだよ」

 ランダ中佐は、受け取った書類に目を落とす。読み進めるごとに、中佐の眉間に刻まれた皺が、だんだんと深くなっていった。

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