第三部「誰がために砲声は鳴る」1

 開け放した中隊本部のドアをくぐり、イアンは大股で机に向かった。

 隊員たちの視線が手から下げた荷物に集まる。束ねて紐でまとめた本だ。イアンはそれをおもむろに机に乗せると、部屋を見渡して声を張った。

「中隊傾注!」

 慣れない号令に、隊員たちがばたばたと立ち上がる。

「さあ諸君!これが俺たちの大砲だ!」

 イアンの言葉に、隊員たちからおおっと歓声が上がった。

 束ねていた紐を解く。ポケットに入るほどの、横に長い小さな本。表紙には「兵隊文庫」と印刷され、その下にタイトルと著者名、そして作品ごとに違う小さな挿絵が載っていた。

 隊員たちはそれを手に取り、感慨深げに眺める。

「想像してたより、しっかりしてますね」

 ダリミルが感心したように言う。

「ちゃんと背綴じだし」

「海軍から、これだけは頼むって要望があったしな。中綴じだと金具が潮風で錆びるんだと」

「あ!」

 ラティーカが声を上げ、束の中の一冊を掴みだした。

 赤茶色の表紙。タイトルに『荒野の朝』ヴィクトル・ユラーセクとある。

 ラティーカは頬を紅潮させ、本を捧げ持つようにしてそれを眺めた。上擦るようなため息が口から漏れる。イアンが苦笑した。

「実際のところ、お前さんの言うとおりだったな。やってみなきゃわからんよ」

「失礼します」

 開けたままのドアを叩いて、ヤーヒムが入ってきた。

「ああ、今呼びに行こうと思ってたところです。出来ましたよ」

 イアンがそう言って、中の一冊を振ってみせた。ヤーヒムが笑顔で応える。

「ついに出来ましたか…ああ、なるほど」

 イアンから本を受け取って、角度をつけて眺めたり、パラパラとめくったりして確かめる。

「いい作りだ。紙質もいい…ヒネクさんには随分無理を言いましたが、さすがですな。申し分ない出来だ」

 ヤーヒムの感想を聞いて、イアンが安心したように笑った。

「ヤーヒムさんがそう言うなら、大丈夫ってことですね。一安心だ」

 そう言ってから、改まって隊員たちを見渡す。

「兵隊文庫、第一弾五十二作品。これが俺達の最初の戦果だ。この本が陸海軍のすべての前線兵士に届く。きっとウケるさ」

 机においた本の束を、手のひらでぽんぽんと叩く。

「さあ、第二弾の準備もせにゃならん。引き続きよろしく頼むぜ、諸君!」

 元気のいい、だが全員まちまちの返事をして、隊員たちは自分の席に戻っていった。

「…やはり、目に見える成果があると意気込みも変わりますな」

 イアンのそばに残ったヤーヒムが感慨深げに言う。

「新しい本を手に取る、この瞬間が何より嬉しいもんです…いや、年甲斐もない話ですが」

「老け込まないでくださいよ。頼りにしてるんですから」

 イアンの言葉に、ヤーヒムは照れくさそうに笑う。

「っと、いけない。忘れるところだった」

 唐突にそう言って、イアンに向き直る。

「中隊長殿、連隊長殿がお呼びです」

「中佐が?」

 はい、とヤーヒムが答えて、いくらか声をひそめる。

「どうも、あまりご機嫌がよろしくないふうでしたよ」

 イアンの眉間に皺が寄る。

 あの鉄面皮が歪むほどの不機嫌とは、いったい何事だろう。嫌な予感とともにイアンは天井を見上げ、唸った。


「西方共和制が陥ちた」

 不愉快そうなランダ中佐の言葉に、イアンは声を失った。

 たっぷり十秒近くも呆然としてから、なんとか声を絞り出す。

「いや、だって、まだ開戦から三ヶ月も…」

 たどたどしいイアンの口調でも、言いたいことは伝わったらしい。中佐はうなずく。

「航空隊の支援を受けた帝国の機甲部隊が、西方の四個軍の間を突破して後方との連絡を絶った。彼らは中央の指揮を失い、統制された反撃ができない。その間に帝国軍は集結、首都を包囲にかかっている」

 中佐は淡々と続ける。

「じき報道されるが、西方の首都は無防備都市を宣言した。帝国軍は無血入城、晴れて西方共和制を支配下に置くというわけだ」

 そこで、一つ大きくため息を付いた。

「帝国のこの戦果は、軍事的な奇跡と呼べるものだ。参謀本部は混乱の極みだよ」

「…混乱している場合じゃないでしょう」

 つい身も蓋もない事が口をついて出た。だが中佐は口元を歪ませるだけだ。

「まさしくそのとおり。陸軍も海軍も、新たな現実に対処しなければならない。何もかもがやり直しだ。混乱している暇など無いな」

「最悪ですね」

 うんざりとつぶやく部下を、中佐は暗い目つきのまま見据える。

「最悪なのはね、大尉。この話が最悪のニュースではない、という事なのだよ」

「…まだ悪い話があるっていうんですか」

 うなずく中佐を見て、イアンは乾いた笑いを漏らした。

「首相と閣僚が正体不明の伝染病で全員死んだ、とかですか」

「そのほうがはるかにマシだ。山岳同盟でクーデターが起きた」

 イアンの顔色が変わる。

「何処です?」

「タルムレーツとナレブの両公国だ。言うまでもないが、どちらも帝国の息のかかった政党が臨時政府を立ち上げている」

 愕然とするイアンの顔を見ながら、中佐は低い声で続けた。

「これで帝国は、我が共和国に攻め入るための回廊を手に入れたことになる。兵力の再編が済み次第、確実にこちらに攻めてくる。この半島は戦場となるだろう」

 イアンは右手で顔をおおう。

「大丈夫かね」

 しばらくうつむいてから、イアンがようやく声を上げる。

「…あまり大丈夫とは言えませんね」

「事態がここまで急変するとは、私も予想外だ。無理もない」

 イアンは頭を振り、一つ息をついてから中佐に尋ねた。

「それで、俺たちは?」

「我々の任務に変更はない。引き続き、兵隊文庫の作成と供給をおこなっていく。連隊から人員の引き抜きなどはさせないから、安心したまえ…ただ、仕事は増えることになる」

 中佐は机の上から書類を取ると、イアンに差し出した。

「…兵隊文庫の翻訳?」

「そうだ。今後発生するであろう帝国軍の捕虜に供給する。国際戦争法規に基づく権利保護のための措置だ」

「始まる前から、気の早いことですな」

「何事も事前の準備が肝要というわけだ」

 書類に目を通して、イアンは顎を撫でながら続ける。

「翻訳と言っても、まさか陸軍で新訳をやるんじゃないんでしょう?」

「もちろん、そんな事は不可能だ。翻訳版を出している出版社に協力を仰ぐことになる…そこでだ」

 中佐の口元に、小さく笑みが浮かんだ。

「兵隊文庫には、帝国の作品もいくつか収録されていたね」

「七作入ってます」

 兵隊文庫には、国外の名著も多く収録されている。著者には出版社を通して掲載交渉が行われたが、ギャラなどほとんど出ないその事業に、すべての作家がが二つ返事で了承した。なかには激励の手紙を送ってきた者や、逆に寄付を申し出た者すらいたほどだ。

「その中で、帝国で焚書目録に載せられたものは」

「全てです。ついでに言うと、著者は全員、新大陸や王国連合に亡命しています」

 そこまで言って、イアンは眉をひそめた。

「中佐、まさか」

「そのまさかだよ、大尉」

 中佐の笑みが大きくなる。面白い冗談を思いついたような表情だ。

「捕虜に供給する兵隊文庫は、帝国で焚書されたものを中心に選定したまえ。彼らには、本当の文学というものがどんなものだったか、ぜひ思い出してもらうとしよう」

「捕虜虐待になりませんか、それ」

「彼らが訴えを出せば、そういう事になるだろう。出ると思うかね」

 イアンの方も皮肉っぽく笑う。

「マンハイムを読んで文句を言うやつがいたら、俺が反論しますよ。大学じゃよくやってましたから」

「頼もしいことだ。詳しい調整は、出版社と戦時図書委員会を交えて後日おこなう。日程は追って知らせよう」

 了解しました、とイアンが踵を鳴らす。中佐はうなずき、再び重苦しい表情になる。

「事態は風雲急を告げている。次に何が起こるかわからないが、やるべき事はわかっている。それを見失わないように…君も、君の部下たちもな」

「はっ」

 イアンは敬礼し、部屋を出る。

 慌ただしい司令部庁舎の廊下を歩く。階段の手摺を掴んだ時、違和感を感じて足が止まった。

 手摺を掴んだ手が震えている。それを見てイアンはようやく、自分が怯えていることに気づいた。

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