第二部「廃兵と異邦人」11

 受話器を置いたイアンは、案内してくれた駅員に礼を言って部屋を出た。

 駅員詰所の外は喧騒にあふれている。アヴォネク中央駅では日常の光景だ。人でごった返す広大な駅舎を、急ぎ足で通り過ぎてゆく。

 首都方面行きの列車は、すでに白煙を上げていた。発車を告げるベルがホームに響き渡る。イアンは間一髪で最後尾の客車に滑り込んだ。

 列車はすぐに走り出す。揺れに気をつけながら、イアンは前の客車へと進んでいった。五つ目でようやく、椅子の背からはみ出した黒い毛皮の耳を見つける。

「おまたせ」

 並んで座るラティーカとカルラの前の席に、イアンは腰を下ろした。

「乗り遅れたのかと思いましたよ」

 呆れたような口調でラティーカが言う。

「なにを長電話してたんです?今日の便で帰るってヤーヒムさんに言うだけじゃなかったんですか」

「ちょっと驚くような話が入ってきたぜ」

 首をかしげるラティーカに、イアンは続けた。

「ランダ中佐が、ユラーセク先生から掲載許可を取り付けたそうだ」

「えっ!」

 ラティーカが大声を上げて身を乗り出す。

「ホントですか!?」

「本当だ。どんな手を使ったのかは知らんがな。こりゃいよいよ魔法使い説が信憑性を帯びてきた」

 ちらりとカルラの表情を見る。普段と変わらない無表情だ。

「掲載作は!?なにを載せるんですか!?」

「帰ったらそれを決めるんだよ。安心しろ、出版社との調整には連れてってやる」

 ラティーカは頬を紅潮させ、胸の前で祈るように両手を握りしめた。

「…やった…!」

 そんな様子を苦笑いで眺めてから、イアンは車窓に目を移す。

 窓から海が見えた。陽光にきらめく水面を、大小様々な船が行き交っている。左手の埠頭には第三艦隊の軍艦が停泊していた。ふと、イグナーツのことが頭をよぎる。

「…どうかしましたか?」

 急に黙り込んだのを不審に思ったか、ラティーカが声をかけた。イアンは視線を戻す。

「なんでもない…それより中尉、今回は色々と世話になったな」

 そう言ってねぎらうが、カルラの表情は変わらない。

「任務ですので」

「それでもさ。感謝するよ」

「…恐縮です」

 椅子の上で背筋を伸ばし、カルラは一礼した。

「軍隊の仕事としちゃ規格外だったが、何とかなってよかったよ。あとは市警と憲兵隊、それに銀猫に任せればいい…それにしても」

 ラティーカの方を見てにやりと笑う。

「ずいぶん人気者だったじゃないか、ラティーカ先生?」

「やめてくださいってば…」

 ラティーカはそう言って、右手で顔を覆った。

 彼女の始めた共和国語教室は、最終的に「La lynx」の子供たち全員と、数人の大人たちも交えておこなわれた。店の女達の要望で、ラティーカは滞在中ほぼ毎日、真昼の娼館に足を運ぶ事になった。

「駅まで見送りに来てくれるとはね。泣いてる子もいたぞ」

「うう」

 恥ずかしいような、申しわけないような表情で、ラティーカが呻く。

「あんなに反響があるなんて…本当なら、ちゃんと学校で教わるのがいいんですけど。中途半端なところで終わっちゃったし」

「いいじゃないか、みんな喜んでたんだから。ルボシュ氏にも好印象だったしな」

 始めこそ戸惑っていた銀猫の面々だったが、女達の好評が伝わり、回を重ねるにつれ男たちも笑顔で迎えてくれるようになった。黒板やチョークなどをどこからか調達してくる者もいて、ラティーカも大いに助けられた。

「アヴォネクの印刷所とは今後も行き来があるから、その時には顔を出してやるといい」

「それだと、もう少し教材が欲しいですね…」

 ラティーカはアヴォネクの古本屋をまわり、子供向け教材や児童文学の本などを買い集めて授業に使っていた。帰る時にはそのまま置いてくるつもりだったが、ルボシュは律儀に代金を支払った。カタギを相手に不義理をするわけにはいかない、という事だという。

「寄付運動の方から、使えそうなものを回してもらえませんか?」

「あれもそろそろ下火だからな…軍隊に合わない本は持ち込むなって告知してきたし、あまり期待はできないかもしれん」

「そうですか…やっぱり自分で探すしかないか」

「領収書は切っとけ。経費で落とす」

 ラティーカが意外そうな顔をする。

「いいんですか?仕事とあんまり関係ないんじゃ」

「そんな事ないさ。現地協力者との活動を円滑ならしめるための出費ってやつだ」

「それじゃ、お言葉に甘えて」

 列車がカーブする。市街地が途切れ、窓の外は一面の海だ。初夏の風が車内に吹き込み、三人の髪を揺らす。

「いいところですね、アヴォネク」

「まったくだ。中隊本部をこっちに移したいくらいだな」

 イアンの軽口に苦笑して、ラティーカが続ける。

「教材にした本の中に『ぶちいぬ一家の冒険』があったんですよ。久しぶりに読みましたけど、なんだか昔と印象が違いました」

「ああ、そりゃあな」

 『ぶちいぬ一家の冒険』は、嵐で住処を失った犬の一家が、新天地を求めて旅をするという物語だ。一家は、行き場のない様々な動物たちを仲間に加えて旅をする。旅は苦しく、途中で命を落とすものさえ出るが、最後には新たな住処にたどり着き、そこで幸せに暮らすという筋書きだった。

「このご時世だ、大陸は行き場のない人間で溢れてる。こんな戦争、さっさと終わる事を願うね」

「共和国が、最後にたどり着く新しい住処、っていうひともいるんでしょうね」

 イアンはラティーカの横顔を見る。窓の外の海を見ながら、考え込むような表情だ。

「違う言葉を学んで、違う国に住んで、生きるためにそうしなきゃならなくて…みんな喜んでくれたけど、本当にいい事だったのか、ちょっと自信がないんです。単に自分のエゴだったんじゃないかって…どうにもできない事ですけど」

「言葉を学ぶのが悪い事なわけはないさ」

 イアンの言葉は何気なかったが、確信に満ちていた。

「なにが幸せかなんてのは、一人ひとり違うもんだ。でもあの授業に来てた人達は、それが自分の人生を良くすると信じて来てたんだろう。お前さんはちゃんと、その後押しができてたよ。だからあんなふうに、見送りにまで来てくれたんだろ」

 ラティーカは窓から視線をもどし、イアンの方に向き直る。

「…そうですかね」

「そうさ。それに彼女らにしたって、仕方なしに教わりに来てたってわけじゃないだろう」

「どういうことです?」

「どうって…授業に出てた『夜の仕事』のほうに、特に熱心なのが二人いたろう」

「カロリーネさんとレティシアさん?」

「そうそれ…本当に気づいてないのか?」

 怪訝な表情のラティーカに、イアンは言葉を選びながら説明する。

「あの二人、その、あれだ、女性客相手のほうだったんだが」

「…は?」

 今ひとつ飲み込めない顔で、ラティーカは首をかしげる。

「え?だって、みんな女の人で…」

「だから、そういう趣味の女性客専門って事だよ…中尉」

 イアンがカルラに水を向ける。カルラは珍しく困ったような顔で答えた。

「ラティーカの事をしつこく聞かれた。私も知らないからそう答えたが…明らかに、興味があるふうだった。トラブルになっても困るから、軽く釘をさしておいた」

「な?お前さん、本当に気づかなかったのか?」

 ラティーカはしばらく、呆然と二人の顔を見比べていた。みるみる頬が染まり、喉から絞り出すようなうめき声が漏れる。

「…ええぇ…」

 そのまま両手で顔を覆い、うずくまってしまった。

「スキンシップが多いとは思ってたんですけど…外国の人はそうなのかなって…てっきり…」

 ぶつぶつと独り言を言うラティーカを眺めながら、イアンは苦笑交じりに言った。

「中尉に感謝しておけよ。でなきゃ押し倒されてたかもしれんぜ」

「やめてくださいよ!ああもう…次にどんな顔して会ったらいいんですか…」

 煩悶するラティーカをそのままにしておいて、イアンは窓の外に目をやった。

 翡翠のような海はどこまでも続き、いくつもの船が行き交っている。そのほとんどが戦争に関わるものだという事を知らなければ、美しく、平和な景色に見えただろう。

 自分の仕事は、ひとまず目処がたった。だが戦争の行方は混迷の度を深めている。ふと首都を出る時、自分で言った冗談を思い出した。

 帝国の爆撃機がアヴォネクに飛んでくる前には…

「あまりたちの良くない冗談だったな…」

 苦く呟いた独り言は、列車の音に紛れて、誰にも聞こえないようだった。

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