第二部「廃兵と異邦人」9
アネタに連れられてホールに戻った二人は、壁際の長椅子に腰を落ち着けていた。
「日によっても違いますが、だいたい二十人ほどの子供たちを預かっています」
二人の前に丸椅子を置いて座り、アネタが説明する。
「年上の子には、簡単な仕事や赤ちゃんの世話などをさせていますが…ほとんどは、ここで親の仕事が終わるのをただ待つだけです。手の空いた者がなるべく顔を出すようにはしていますが、つきっきりというわけにもいかず…本当なら学校に行ったり、放浪氏族の子なら文字や歌を教わったりする年頃なんですが…」
アネタのやりきれない言葉は、突然になだれ込んできた嬌声で遮られた。
勝手口から入ってきた三、四人の少年たちが、はしゃぎながらホールを横切っていく。中心にいる一人が、両手で包み込むように、小さな生き物を慎重に運んでいる。野ネズミかなにからしい。
アネタが突然立ち上がり、大股で少年たちの方に歩いていく。
「あなたたち!そういうものを屋敷に持ち込むなって、何度言ったらわかるの!」
初対面の薄幸そうな印象を打ち砕くような、堂々たる怒声だった。顔色を変えた少年たちが、もと来た道を駆け戻っていく。
「待ちなさい!」
少年たちを追って駆け出すアネタを、二人は呆然と見送った。
「…どうする」
すぐには戻って来ないと見て、カルラが隣のラティーカに聞いた。
ラティーカはふと立ち上がると、ホールの隅の方へ歩き出した。カルラもそれに続く。
重厚なつくりの椅子に、女の子が座っている。七、八歳だろうか、身体に合わない椅子の上で足を投げ出して、ぼんやりと辺りを眺めていた。
ラティーカは少女の前にかがみ込み、微笑む。
『こんにちは』
その一言を聞いて、カルラは驚いたようにラティーカを見た。
少女の目に、わずかに光が宿る。目の前の知らない人物が、自分にわかる言葉を口にした事への驚きだ。
『わたしはラティーカ。あなたのお名前は?』
『…ビアンカ』
『すてきな名前ね、ビアンカ』
『おねえちゃん、おはなしできるの?』
『すこしだけ。昔、友達に教わったの』
ビアンカの表情に、徐々に興味の色が見えてくる。ラティーカの顔を見つめて、言葉を探している。
『その子にも、耳があるの?』
『もちろん。あなたの耳もかわいいね。雪みたいに真っ白』
ビアンカがはにかむように笑い、白い毛皮に覆われた耳をぱたぱたと動かした。
『あなたは、旅をしてる子?どこから来たの?』
『ニヒナム』
帝国南部を代表する都市だ。共和国から見て、山岳同盟を挟んで北に位置する。
『オレグ大叔父さんの所に行ったの。でも、いなかった』
『いなかった?お留守だったの?』
ビアンカが首を振る。
『おうちが、からっぽだったの。机も椅子も、本棚の本もなくなってた。カーテンもないの。おとなりのおばさんが、いなくなった、つれていかれた、って言ってた』
ラティーカとカルラの表情が強ばる。ビアンカは続けた。
『おばさんが、逃げなさいって言ったの。知らないおじさんが来て、その人と一緒に山を越えて、ここに来たの』
『…そう』
ラティーカが小さく息をつき、どうにか笑顔を作り直す。
『大変だったね。ここはどう?』
『たいくつ』
眉間に皺を寄せ、椅子から下げた足をぶらぶらさせた。
『パパもママもお仕事だし、来たばっかりでともだちもいないし』
『そっか…なにか、ほしい物とかやりたい事とか、ある?』
ビアンカはしばらくうつむいて考えていたが、やがてぽつりと言った。
『…文字』
『ん?』
『ここの文字、わからないの。街の看板とか、新聞とか、なにが書いてあるのか知りたい』
ビアンカは顔を上げ、ラティーカの目を覗き込んだ。ラティーカは少女の手を取り、顔を近づけてうなずく。
『わかった。じゃあ私が教えてあげる』
『ほんとに?』
『もちろん!ちょっと待ってて』
ラティーカは立ち上がると、周囲をぐるりと見渡した。
「ええと、何か書くものを…受付の方に何かあるかな」
「私が探してくる」
カルラが唐突に言った。驚いたラティーカに構わず、背を向けたまま続ける。
「お前は、その子と一緒にいてやれ」
「あ、ありがとうございます」
礼の言葉にも答えず、カルラはそのままホールを横切っていった。背中を見送るラティーカに、ビアンカが尋ねる。
『あっちのお姉ちゃんは、こわい人?』
『え、うーん…』
ラティーカが首をひねる。中佐のことや「片耳の氏族」という言葉が頭をよぎるが、言ってもわからないだろう。
『…そんな事ないと思うよ、たぶん』
ビアンカが訝しげに見上げる。ラティーカは自分に言い聞かせるように、繰り返し言った。
『たぶんね』
「毛耳族の言葉がわかるなら、もっと早くに言っといてくれよ」
ホテルへ戻る車内で、イアンは恨めしげに言った。
最初の話し合いは、ひとまず上首尾に終わった。買取金額や「銀猫」側の取り分、窓口になる場所の候補など、大筋の方針は出揃っている。後日、末端部署とのすり合わせをするとして、今日のところはお開きになった。
ルドヴィクとヴァイダ警部補は、そのままそれぞれの部署に戻っていった。車はカルラの運転で、夕暮れの街を走っていく。
「連中、口には出さなかったが、けっこう怪しんでたぞ」
会談を終えてイアンたちが部屋から出た時、ホールはちょっとした教室のようになっていた。
ラティーカとビアンカが文字の練習を始めると、すぐに他の子供達も集まってきた。そのうち、仕事に区切りがついた者や、「夜の仕事」に就いている女達も混ざって「授業」を受け始め、ホールはちょっとした騒ぎになってしまった。男たちが唖然となったのは言うまでもない。
「まあ、おまえさんは会談の席にいなかったから、かえってこっちの誠意をアピールする結果にはなったがな」
「誠意ですか」
「でなきゃ間抜けさ、かな」
イアンはそう言って肩をすくめる。実際、ルボシュ本人こそ顔色を変えなかったが、側近らしき数人は明らかに不可解な表情でイアンたちを見ていた。
「…なあ、一つ聞いていいか」
隣に座るラティーカに、イアンは尋ねる。
「おまえさん、今日は明らかにおかしかったよな。なんだって突然あんな事を言いだしたんだ?」
ラティーカはしばらく黙り込むと、きまりの悪そうな顔で答えた。
「その、ほんとにすみません。突然に勝手なことを言い出して」
「まあ、結果的には上手くいったんだ。それはいいさ…だが理由は聞いておきたいね」
ラティーカはしばらくためらっていたが、あまり面白い話じゃないですが、と前置きして話し始めた。
「子供の頃、毛耳族の友達がいたんです。シルヴィエっていう。放浪氏族の子だったんですけど、うちの隣に定住者のおじいさんが住んでて、その人の所に毎年来てたんです。わたし、彼女が来るのが待ち遠しくて」
顔を上げ、思い出をたぐるように窓の外の景色を見る。
「二つか三つ年上だったと思います。毎年遊びに来て、私の知らない話をたくさんしてくれました。外国のものや、海や山で拾ったものを見せてくれたり…優しくて、頭のいい子だった。彼女が大好きでした」
ラティーカの横顔を眺めながら、イアンは黙って聞いている。彼も初めて聞く話だ。
「カルラさんと同じかたちの耳でした。銀色に黒縞の模様があって。わたし、小さい頃はその耳がすごく羨ましくて。自分もあんな耳がほしいって駄々をこねて、母を困らせたのを覚えてます」
イアンは運転席にちらりと目をやる。カルラの方に変わった様子はない。
「そんな時、彼女がどこからか端切れやなんかをもらってきて、カチューシャみたいなつけ耳を作ってくれたんです。すごく嬉しかった…それ以来、一緒にいるときはいつもそれを付けてました。まだ実家にあるんじゃないかな…」
ラティーカは懐かしそうに笑う。
「今も会ってるのか」
イアンが横から尋ねた。彼女は首を振る。
「十ニ歳の時、そのおじいさんが亡くなったんです。それ以来、こっちに来ることは無くなってしまって、それっきり。何度か手紙も出しましたけど、放浪氏族宛の手紙は届かないことも多いし、時間もかかりますから」
膝に置いた手を握り、続けた。
「帝国があんな事になって以来、考えちゃうんですよね。まさかシルヴィエたちも捕まってないかって。あっちにはあまり行かないって言っていたので、大丈夫だと思うんですけど…」
「大宰相にへつらって足並み揃える連中も、結構いるからな」
イアンは吐き捨てるように言ったが、ラティーカが暗い顔になるのを見て、慌てて取り繕う。
「いや、大丈夫さ。放浪氏族もヤバいところには近づかないだろう。彼らが一番よく解ってるはずだ」
「…そうだといいんですけど」
ラティーカが力なく笑う。車が角を曲がり、夕日が強く差し込んできた。
「まあ、昔のことになっちゃいましたし…年上だったから、もう結婚でもしてるかもしれません。私のことなんて、とっくに忘れちゃってるかも」
重くなった空気に気を使ったのか、ラティーカがことさら軽い口調で言った。イアンは返答に窮する。
「…サバトラは義理堅い奴が多い」
突然、運転席から声がした。
驚いた二人が目をやるが、カルラは前を向いたままだ。黒い毛皮の耳だけが、運転席から覗いている。
「覚えてるさ」
それだけ言って、カルラは黙り込んだ。
ラティーカは運転席の背中を眺めて、微笑む。
「うん…ありがとう、カルラさん」
カルラは答えない。イアンは苦笑いしながら二人を眺めた。
車が減速し、ホテル前のロータリーに入っていく。夕日の最後のひとかけらが、それを照らしていた。
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