第二部「廃兵と異邦人」8

 船員街から南へ向かう車内で、髭面の中年男は疑わしげに言った。

「しつこいようですが、本当にルボシュ・パストレクと面会をとりつけたんですな?」

「ご心配なく。事実です」

 苦笑まじりにイアンが答える。

「タイノステフカ中尉…後の車に乗っていますが、彼女が仲介してくれました」

「信じられませんな…ルボシュ・パストレクといえば、アヴォネクを牛耳る銀猫の長老の一人だ。彼女、血縁かなにかですか」

「詳しいことはなんとも…親戚に知り合いでもいればと思って、ためしに当たってもらったんです。私も驚いてますよ」

 男はふむ、と唸って顎髭をしごいた。

 ダニエル・ヴァイダ警部補。アヴォネク市警に二十年勤めるベテランだ。地元の生まれで、この街のことなら裏も表も知っていると評判の男だった。今回の一件に、市警の担当者としてルドヴィクがつれてきた人物である。

「警部補が信じられないのも、無理はありません。私も驚きました」

 運転席からルドヴィクが口を挟む。

「私はまた、大尉殿が諜報部とつながっているのかと思いましたよ。ほら、伝説があるでしょう。片耳の氏族とかいう」

 イアンはかろうじて平静を保つことに成功した。

「ああ、聞いたことあるな」

「まあ伝説は伝説でしょうが…うちは任務上、諜報部との接触もそれなりにあるんですが、彼らの仕事は分かりませんね」

「秘密が商売の連中だ。敵を欺くには、ってやつだろう…ところで」

 さりげなく話を変えるつもりで、イアンは続ける。

「価格設定の見積もり、見てもらえたか?大雑把な査定だが」

「拝見しました。正直、助かります。我々にはああいうノウハウはありませんから」

「そりゃよかった」

「陸軍にも不届きな者がいるもんですな」

 ヴァイダ警部補が同情をこめて言う。

「エロ本欲しさに物資の横流しとは」

「趣味がからむと見境をなくす奴ってのは、たまにいるもんですよ」

「そんなものですかな」

「そろそろ着きます」

 ルドヴィクの声に、二人は会話を打ち切る。

 蔦の這う白壁の間に、優美に飾られた門が見える。その傍で、毛耳族の男が場にそぐわない剣呑な視線を巡らせていた。門衛らしい。

 門が開き、車は建物の前の駐車場に停まった。ドアを開けたイアン達の耳に、小鳥の囀りが聞こえてくる。木漏れ日の向こうに瀟洒なつくりの建物が見えた。

「たいしたもんだな」

 イアンが驚きを隠さずに言った。

「首都でもここまでの店はそう無いぜ」

 車を降りてきたラティーカが、横目でじろりと見る。

「首都のこういうお店に行ったことあるんですか」

「あけすけにそういう事を聞くもんじゃないよ」

 ルボシュ・パストレクから面会の場所として指定されてきたのは、市街南部にある La lynxという名の娼館だった。広く部屋数の多い店で、組織内の会合にもよく使われるという話だ。

 その筋では名の知れた高級店で、客もそれなりの人間が通っているという。もっとも、この時間帯に客の姿はない。

「用心のため、店の周りにウチと憲兵隊の私服を張り付けてありますが」

 ヴァイダ警部補が声をひそめて言った。

「この具合だと、バレてるでしょうな」

 屋敷と言っていい大きさの店は、白壁と木立に囲まれている。さほどの高さはなく、三階に登れば周囲の道路が望めるだろう。見慣れぬ車が停まっていればすぐにわかる。

「まあ、バレてるならそれはそれで。こっちが本気だって事が、向こうにもわかるでしょう」

 警部補は意外そうな顔でイアンを見た。いかにも文弱そうな風貌の彼から、鋭い言葉が出てきた事に驚いたようだ。

 全員で連れだって、店の正面玄関へ向かう。精緻な彫刻が施されたドアが、ゆっくりと開いた。

「お出ましですね」

 ルドヴィクが低くつぶやく。

 現れたのは、背の低い老人だった。ほとんど白髪になった髪から、白、黒、茶のまだらの耳が突き出している。皺だらけの顔に人の良さそうな笑みを浮かべ、黒い服を着た長身の美女を伴っている。耳は黒に近い銀。

「ようこそ、お客人」

 しゃがれ声で老人が言った。

「わざわざお運びをいただきまして、恐縮にございます。ルボシュ・パストレクにございます…こちらは使用人のアネタ」

 慇懃に頭を下げる老人と女に、イアンも帽子を取って挨拶する。

「陸軍大尉、イアン・プロヴァズニークです。こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます」

 イアンに続いて、全員が挨拶する。ルドヴィクは敬礼しかけた手をぎこちなく動かして帽子を取った。今日は全員が私服だ。

 カルラは一歩進み出ると、ルボシュの前で片膝を突き、右手を胸に当てて頭を下げた。

「知恵深き三毛耳の長よ、あなたとその氏族に健康と幸運がございますよう」

 厳粛な口調の挨拶だったが、イアンはルボシュの笑顔に一瞬、警戒が混じるのを見た。

「…勇気ある黒耳の戦士よ、汝の脚に武功があるように」

 カルラが一礼して立ち上がる。ルボシュは改めて一同を見回した。

「さあさ、どうぞお入りください。粗末ながらお茶などご用意しております。店の準備がございますので、いささか慌ただしくございますが…」

 アネタと呼ばれた女がドアを開ける。一同はぞろぞろと店に入り…全員が言葉を失った。

 店内の調度に驚いたのではない。確かに、床を覆う深紅のカーペットや輝くシャンデリア、磨き抜かれた家具や手摺は、目を惹きつける絢爛さだ。だが問題は、そこを闊歩する人間のほうだった。

 子供だ。

 様々な歳頃の子供たちが、駆け回り、ソファで居眠りし、階段の踊り場で遊んでいる。十歳かそこらの少女が二人、赤子を抱いてあやしている。暇を持て余していた何人かは、見慣れぬ客を物陰からじっと眺めていた。

 子供たちの声を意に介さず、ルボシュはホールを通り抜けていく。なんとか衝撃から立ち直ったイアンが、それを呼び止めた。

「あー、パストレクさん?」

 愛想のいい笑顔をそのままに、ルボシュが振り向く。

「どうぞ、ルボシュとお呼びください…いかがされました」

「ええと、聞いてきた話によると、この店はいわゆるその…娼館だという事でしたが」

 顔色ひとつ変えず、ルボシュは答える。

「左様にございます。アヴォネクいちの美女が集いましたる、『La lynx』にございますれば」

「なるほど。じゃあその、この子供たちは、どういう…」

 ルボシュは言われて初めて気づいたように、ああ、と声を上げた。

「難民にございます」

「難民?」

 ルボシュがゆっくりとうなずく。

「帝国はもはや、私らのような者が生きておられる場所ではございません。いくさの始まる前から、逃げ出してくる者は後を絶ちませんで…共和国にはアーモス一世殿下の治世より続く、私ら毛耳族に対する保護法がございます。加えてこのアヴォネクは港街で交通の便もよく、流れてくる難民も数多くおるのです」

 話しながらホールを見渡す。勝手気ままに過ごす子供たちを。

「街の東には宿泊地ができ、定住した者の家に厄介になる難民もおります。しかしながら、彼らのほとんどは着の身着のままで逃げてきたようなもの…まずは先立つものが必要でございます」

「難民には生活支援と配給制度があったはずですが」

 ルドヴィクの指摘にも、ルボシュの表情は変わらない。

「配給品だけで生きていくのは、例えて言うなら修道僧のような暮らしに耐えるということでございますよ。誰もがそのように生きられるわけではないということですな」

 ルボシュは身振りでイアンたちを促すと、歩きながら続けた。

「男どもは、仕事に困ることはそうございません。今の御時世、港の仕事はいくらでもございますからな。問題は私のような老いぼれと、女子供にございます。老いぼれはまあ、日向ぼっこでもさせておけばよろしい。親族への給金に色をつけてやっております。では、子供はどうか」

 階段をゆっくりと登る。途中、数人の男の子が一同の脇を駆け下りていった。

「人も車も多いこの街で、外に放ってはおけません。乳飲み子を抱えた親もおります。ですので店を開ける時間までは、うちで働く料理人やら掃除婦やら洗濯女やら…そういった女どもの子を、ここで預かっておるわけです。昼の仕事が終わった者が、今度は夜の仕事につく女どもの子を連れて、まとめてねぐらへ帰る事になっております」

「…なるほど」

 相槌を打ちながら、イアンはホールを見下ろす。豪奢な娼館で遊び回る子供たちの姿には、どこか非現実的な妖しさがあった。

「あまり教育にいいとは言えませんね」

 何気ないイアンの軽口に、ルボシュはしゃがれ声で笑う。

「この屋敷は、もとはさる貴族様の別邸だったと聞き及んでおります。革命で持ち主が国を追われ、宙に浮いておりましたのを買い上げたのだとか。一時期は人に貸したりしておりましたが、先代からこの商売に使っております」

 中庭の景色を見下ろしながら話す。イアンがつられて目をやると、無数の洗濯物が風にはためいていた。

「子供の寄り付く場所でないことは承知の上でございますが、ほかに預けるあてもなく…目の届く所に置いておきたいというのが、母親の情というものでございましょう。ああ、そういえば」

 ルボシュが肩越しに振り返る。

「いつだったか、難民の子供ら向けに学校を作ると言って、お役人様がいらっしゃいました。以来三ヶ月ほど、なしの礫でございますが」

 兵士と警官が気まずく沈黙するのに構わず、ルボシュは廊下を進んでいく。

 若い男が二人、ドアの前に立っている。こちらに気づくと無言で頭を下げ、ルボシュが鷹揚にうなずいて見せた。

「さ、ではこちらの部屋で」

 ドアを開け、イアン達を促す。ふとラティーカが足を止めた。

「どうした?」

 イアンが声をかける。ラティーカは何か逡巡するふうだったが、やがて向き直って答えた。

「あの、ルボシュさん…私、何かお手伝いすることはありませんか?」

 全員が怪訝な顔をした。ルドヴィクとヴァイダ警部補がイアンの顔を見る。イアンは首を振った。

「お手伝い、と申されますと?」

 三人に劣らず戸惑った様子のルボシュが聞き返す。

「いや、その、大変そうだなあって…イアンさん、話し合いの資料はまとめてありますし、ほら、私がいなくても」

「いや、そりゃそうだが…」

「それならその間、なにか手伝わせてくれませんか。なんでもいいです、人手が必要な事があれば」

 男たちが揃って顔を見合わせた。ヴァイダ警部補が髭をしごきながら言う。

「まあ、積極的に女性に聞かせたい話ではないですな」

「皆様が良いというなら、かまいませんが…」

 ルボシュが、隣に控えているアネタを見る。

「どこか手の足りないところはあったかね?」

 彼女はわずかに首を傾げると、初めて口を開いた。

「厨房は足りていますし、洗濯は終わったところです。あとは個室の掃除とベッドメイクになりますが…」

「…部屋を手伝ってもらうわけにはいかないね」

 ルボシュが注意深く言った。重要人物の顧客も多い店だ。何かを仕掛けられる危険は常に警戒しているのだろう。

「そうなると、あとは子供たちの相手ぐらいしか」

「あ!それで!それやります!やらせてください!」

 ラティーカが勢い込んで答える。ルボシュが探るようにイアンの目を覗き込み、それにつられるようにして、全員の視線が彼に集まった。

 イアンは顔をしかめ、ため息をつく。

「タイノステフカ中尉。ラティーカを見ててやってくれるか。粗相の無いようにな」

「了解」

「しっかり手伝えよ。自分で言いだしたんだから」

「はい!」

 子供相手のように言うイアンに、ラティーカは勢いよく答えた。

 ではこちらに、とアネタが二人を連れて廊下を戻っていく。男たちはそれを見送った。

「変わったお嬢さんでございますな」

 ルボシュが不思議そうに呟いた。イアンは苦笑いで答える。

「ウチはちょっと特殊な部署で。なかなか軍隊調にはいかないんですよ」

「独立図書館連隊ですな。新聞などで拝見しておりますよ」

 所属を名乗った覚えはなかったが、その程度の調べはついていると言う事だろう。あるいはカルラが先に紹介していたのかもしれない。

「さあ、どうぞお部屋に…ヴァルトル、厨房にお茶の用意があるから、持ってきておくれ」

 部屋の前にいた男の一人がうなずき、足早に去っていった。

 部屋は明るい。大きな窓から陽の光がふんだんに差し込んでいる。中央に置かれた大きな円卓を見る限り、会議室として使われているらしい。

「お掛けください…さて、本日はお忙しい時節にわざわざお越しいただきまして、恐縮のいたりにございます」

 全員が席に着いたところで、ルボシュが改めて挨拶した。部屋の前にいたもう一人の男が脇に控え、剣呑な目つきで三人を睨んでいる。

「本日はわたくし、ルボシュ・パストレクめが、お相手を務めさせていただきます…良い話し合いにいたしましょう」

 ルボシュはそう言って、人の良い笑みを顔いっぱいに浮かべる。イアンは昔読んだ童話の、にやにやと笑う猫を思い出していた。

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