第二部「廃兵と異邦人」5
アヴォネク行きの列車は、午前八時三十分に定刻通り出発した。
一般の乗客に混じって、イアンたちの一団も列車に乗り込んでいる。イアンとラティーカのほか、陸軍の経理と戦時図書委員会の代表が一人ずつ、あとは連隊に詰めていたヒネク印刷の技術者たちが数人、合計で十名ほどの道行きだ。
今回は陸軍の鉄道隊ではなく、共和国鉄道の路線を使っている。軍の車両に民間人をぞろぞろ乗せるのは防諜上問題があるし、停車駅からも便が悪いということで、普通に席を取ることになった。軍用列車の劣悪な乗り心地を知っているイアンとしては願ったりだ。
「わたし、アヴォネクって初めてなんですよ」
いっぱいに空けた窓の外を眺めながら、ラティーカが感慨深げに言う。
「ていうか、そもそも旅行の経験があんまりないんですけど」
「そうかい」
付箋や書き込みで分厚くなった手帳を眺めながら、イアンはぞんざいな返事を返した。
「イアンさんは行ったことあるんですか?」
「何度かはな」
明らかに浮かれているラティーカを横目に、手帳を閉じてポケットに仕舞う。
「港町だからな。世界中からいろんな人間が出入りする街さ。なかなか面白いところだよ」
アヴォネクの歴史は首都よりも古く、四千年も前から貿易都市国家として栄えた街だ。共和国第二の都市であり、今も大内海諸国の物流を支える要地でもある。
「船員街はいろんな建築様式が混在しててな、眺めるだけでも楽しめる。それに、魚も美味いぞ」
「へえ」
「印刷所の開設式は早々に済むだろうから、遊びに行く時間はあると思うぜ…『ついで』の方にどれくらい手間取るかにもよるが」
そう言って、斜め後ろの席をちらりと見る。
赤毛から突き出す黒い毛皮の耳が見えた。茶色の略帽が、その間に乗っている。
「タイノステフカ中尉、でしたよね」
ラティーカが声を潜める。
「連隊長の副官さんですよね?なんで同行してるんですか?」
「中佐がな、護衛だとか言って」
「護衛が必要な所なんですか、アヴォネクって?」
ラティーカのもっともな質問に、イアンは肩をすくめるしかない。
アヴォネクへ出発する直前、ランダ中佐に呼び出されたイアンは、そこで意外な命令を受けた。曰く、アヴォネクに駐留する憲兵隊から、相談にのってほしいという要請があったという。
(相談、と言うと?)
(詳しい事は会って話したい、ということだそうだ)
雲をつかむような話だった。眉をひそめるイアンを見て、中佐が鷹揚に続ける。
(先方も、無茶は承知の頼みではあるようだ。もし手が回らないようなら連絡したまえ。私から断りの電話を入れておこう)
(そういう事なら、まあ)
そう言って、イアンは現地の担当者の名前と連絡先を受け取り、手帳に挟んだ。
(可能な限り、顔を出せるようにしますよ)
(無理はしなくていい…ああ、それと)
中佐が目で促し、脇に控えていたカルラが一歩前に出た。
(今回の出張、彼女にも同行してもらう。そのつもりでいてくれ)
無言で敬礼する中尉を前に、イアンはさらに怪訝な顔をする。
(いや、同行するのは構いませんが、なんでまた?)
(護衛と考えてくれたまえ。アヴォネクは外国人が多い。未確認だが、帝国の第五列が潜んでいるという噂もある)
(第五列って…あの街には、俺なんかより先に殺すべき人物がごまんといますよ)
アヴォネクには共和国海軍第三艦隊が根拠地を置いているほか、各国の海軍が連絡所を置いている。また、物資の船舶輸送にあたる担当者も頻繁に出入りしており、開戦が現実のものとなった今、国籍、軍種を問わず様々な軍服が入り乱れる街になっていた。
(本を刷ってるだけの大尉風情なんぞ、帝国のスパイも相手にしないでしょう)
(そう考えるのももっともだが、まあ用心のためと思ってくれ。腕は私が保証する…中尉、君はプロヴァズニーク大尉の安全を守り、その任務を全力で支援したまえ)
(了解しました。微力を尽くします)
そう言って金色の瞳をイアンの方に向ける。
(よろしくおねがいします。大尉殿)
無感情に言うカルラの顔を眺めて、イアンはため息混じりに答えた。
(…殿はいらない)
その時と全く同じ無表情で、カルラは席に座っている。猫科の捕食獣を思わせる張り詰めた空気を纏わせ、あたりの警戒に余念がない。
「中佐の思惑はわからんが…まあ戦時に違いはないし、本人の気の済むようにしてもらうさ」
「はあ」
生返事で答えてから、ラティーカは中腰で立ち上がると、椅子の背越しに斜め後ろの席を覗いた。
「気になるのか」
「まあ、ちょっと」
「なんなら声でもかけてきたらどうだ」
振り向いて席に戻ると、イアンに非難するような視線を向ける。
「できるわけないじゃないですか!」
「なんでだよ。女同士だからできる話もあるだろ」
「無理ですよ!いままで口きいたこともないんですから…イアンさんこそ、今後の仕事のために親睦を深めてきたらどうですか?」
「怖いこと言わないでくれ」
「自分が嫌なことを他人に押し付けるなって教わりませんでした?」
「あー言われたなあ先生に」
雑談を続けるうちに列車は市街地を抜け、田園と新興住宅地が交互に現れる郊外の景色へと変わっていた。
アヴォネクまでは半日かかる道程だ。本格的な仕事は明日からになるだろう。
列車の中ではすることもない。雑談のタネが尽きれば本でも読むか、居眠りするか。食堂車でビールもいいな、とイアンは考える。ともかく、今はのんびりするのが最優先だ。
目的地についたら、またぞろ厄介事が待っているに違いないのだから。
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