第二部「廃兵と異邦人」3
「今日この日、この場所にお集まりの皆様は、まさに歴史に名を残されたのだと思います」
首都中央図書館の大講堂で、ニコラ・クルハンコヴァはそう呼びかけた。
「私たちは今、未曾有の危機を目前にしています。戦争は現実のものとなり、ついに大陸に戦火が上がってしまった。軍隊のみならず、社会のあらゆる立場の人々が、これに備えなければならない事態になってしまいました」
大講堂に響く鮮烈な声に、イアンは舌を巻く。二百名を超える共和国言論界の要人たちを相手に、堂々たる弁舌だ。
「このような時、言論の徒である我々に、一体何ができるでしょうか。皆さんにはそれぞれのお考えがあったでしょう。しかし我々は今まで、それを一つにする機会を持ちませんでした。そうした中、名誉ある共和国陸軍の将校であり、私の若き友人でもあるイアン・プロヴァズニーク大尉が携えてきた事業は、我々の取るべき行動の道しるべとなりました…皆さん、どうか彼に拍手を」
拍手が沸き起こり、イアンは立ち上がって会釈する。苗字を聞いた人々の好奇の視線は不愉快だったが、どうにか押し隠した。
プロヴァズニーク出版の社長、つまり父親が出席せず、代理人をよこしてきたのは幸いだ。もし本人が来ていたら、断固として出席を断っただろう。
腰を下ろすと、ニコラの演説が再開する。
「前線に赴く兵士たちに贈る、新しい本。それを作るために、私たちは今日ここに集まりました。本日より発足する『戦時図書委員会』は、陸軍独立図書館連隊と協力し、困難の最中にある兵士たちに、この『兵隊文庫』を届けるのです」
ニコラの声が、わずかに硬くなった。
「皆さん、思い出してください。帝国がその領内で繰り返した、あのおぞましい蛮行…焚書を」
会場の空気がわずかに重くなるのが、イアンにもわかった。
「過去、焚書によって失われた書籍の数は、六千万冊を超えると言われます。一体なにが、これほどの悪行を可能にしたのか…彼らは帝国大宰相の著作『闘争録』を胸に抱いて本を焼きました。そこに書かれた思想こそが、彼らをあのような蛮行に駆り立てたのです。皮肉な話ですが、これは書物が、人に行動を起こさせる力を持つという事実の証明でもあるのです。ならば」
ニコラの声がひときわ高まる。
「人を焚書に駆り立てる書物があるのなら、それに立ち向かう力を持つ書物も存在します。それも一つではない。個人に勇気を与える書物なら、どんなものでもその力を持つのです。聖典でもいい。詩集でも、随筆でもいい。様々な小説、ルポタージュ、旅行記、思想書、ミステリやSF。祖父母から受け継いだ日記でもいい。人の心を暖め、奮い立たせる力を持つ本を、私達は無数に知っているはずです」
ニコラの声が熱を帯びる。イアンの隣に座った週刊誌の編集長が、しきりに首を縦に振っている。
「今や共和国の兵士たちは、敵の砲火のみならず、その思想的武器…様々なプロパガンダにも晒される、困難な戦争を戦おうとしています。彼らの心を、自由を愛する精神を守るため、私達は本を贈るのです。為政者から押し付けられるのではなく、彼らが選べるようなかたちで」
ニコラは一度言葉を切り、壇上から聴衆を見渡した。
「お集まりの皆さん。皆さんこそが、兵士たちを守るのです。彼らが銃を持って私達を守るのなら、私達は本をもって兵士たちを守るのです。それが私達の戦いです。そして皆さんの力があれば、私達は必ずや勝利を収めるでしょう。焼かれた本が灰から蘇るように…今日はどうもありがとう」
ニコラが壇上で一礼する。割れんばかりの拍手が大講堂に響いた。
「いいスピーチだったよ」
会議の参加者達を見送った後、イアンとニコラの二人は館長室で紅茶を飲んでいた。
「政界進出もいいかもよ」
「冗談はよしてちょうだい。誰が政治家なんかなるもんですか」
そう言ってカップに口をつける。一口すすって、ほうと息をついた。
「でも正直、ここまで反響があるとは思ってなかった。委員会のメンバーは、ほぼそのまま共和国出版界の首脳メンバーよ」
「つまり先生は、いまや共和国全土の言論を左右するドンってわけだ」
「茶化さないの」
戦時図書委員会の会長は、満場一致でニコラ・クルハンコヴァに決定された。携わってきた寄付運動の実績を考えれば当然と言える。
「それにしても、こんな大事業を持ち込まれるとは思わなかったわ。すべての兵士のために本を作るなんて。ヒネクさんのところに頼んだんですって?」
「こんなわがまま、おじさん以外に頼める人がいなくてね」
「印刷機材の支払いを折半だなんて。図書館連隊って、そんなにお金持ちなの?」
「それに関しちゃ俺も驚いてる。予算はともかく、こんなに早いとは思わなかった」
イアンからの報告の後、中佐は十日足らずでヒネク出版への支払いの稟議を通した。経理畑に長く居たヤーヒムなどは呆然として、連隊長殿は魔法使いでしたか、と真顔で言ったものだ。
「ちょっとした会社なら丸ごと買える額だ。どんな魔法を使ったのか見当もつかないよ」
「怖いところねえ、軍隊っていうのは」
しばらく雑談をしてからイアンは席を立ち、紅茶の礼をいう。
「これから忙しくなるわね」
ニコラが決然たる笑顔で言った。イアンはそれに苦笑いで返す。
「図書館連隊は気楽な部署だと聞いてたんだけどね。まったく、迷惑な戦争だよ」
「でもきっと、あなたは、これをやるために軍隊に来たのよ」
イアンが訝しげに片眉を上げた。
「運命ってこと?先生らしくないな」
「もちろん、私は運命なんて言葉は大嫌い。でも、今この時期に、あなたがこの仕事に携わる地位にいたことは、きっと幸運だったと思うわ。私、運命は信じないけど、幸運って言葉は大好きよ」
「そりゃ俺だってそうだけど…誰にとっての幸運なんだい?」
「決まってるでしょ。共和国のすべての人たちよ」
イアンはしばらく恩師の笑顔を眺めて、ふむ、と息をついた。
「その中に、俺は入ってるのかね」
「それはあなた次第」
イアンはふたたび苦笑し、ニコラも笑った。彼女はイアンの手を握る。
「スピーチでも言ったけど、この仕事はきっと歴史に残るものになるわ。私が保証します。胸を張っておやりなさい」
「歴史はともかく、先生の仕事を無駄にしないようには努力するよ」
軽口で答えて、ニコラの手を握り返した。
「ありがとう先生。それじゃまた」
帽子を被り、部屋を出る。春の終わりの長い夕日が、廊下を照らし出していた。
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