第二部「廃兵と異邦人」2

「ヒネク印刷の社長にアポを取れるなんて」

 郊外へ向かう車内で、ラティーカは意外そうに言った。

「面識でもあるんですか?」

「まあな」

 外を眺めながら、イアンが曖昧に返事をする。

 丘や林の間に真新しい家々が寄り集まった、どこか中途半端な風景だ。鉄道路線が伸びて宅地化が進む、首都郊外の典型的な眺めだった。

「…あそこの社長は親父の友人でな、ガキの頃はよく遊んでもらったよ」

 イアンの説明はそれだけだった。

 林が途切れて、コンクリートの壁が現れた。壁にはめ込まれた「ヒネク印刷 首都第一印刷所」という看板を眺めながら、イアン達はゲートをくぐる。守衛に案内され、駐車場に車を回した。

「広いですねえ…」

 車から降りたラティーカが感慨深げに言った。

 駐車場は広大な荷積み場の隣だ。ずらりと並んだトラックの間を作業員が行き交い、梱包された本を積み込んでいる。

「業界二位は伊達じゃないな…行くぞ」

 荷積み場を横切って印刷所に入り、受付に向かった。

「陸軍独立図書館連隊のプロヴァズニーク大尉です。ホンザ・ヒネク社長とお会いする約束なんですが」

 受付の美女にそう告げる。相手は礼節そのものといった完璧な笑顔で答えた。

「承っております。ご案内いたします」

 二人の前に立って歩き出す。

 応接室か社長室か、そういった所に案内されると思っていた二人は、一歩ごとに大きくなる印刷機械の騒音に、だんだんと不安を隠せなくなってきた。

「あの、どちらに向かってるんでしょう?」

 耐えかねたラティーカが、受付の美女に声をかけた。

「応接室とか、そういう所では…?」

 美女がすまなそうな顔になる。

「申しわけありません。当印刷所は本社社屋も兼ねているのですが、ヒネクは普段そちらにはほとんど居ないものですから…こちらにご案内するよう、申しつけられております」

「こちらって、印刷工場?」

 美女が困ったような笑顔でうなずく。

「変わってないな、あの人」

 イアンはそう呟いて、ラティーカの肩を叩き先を促す。

 工場へのドアを開くと、騒音はひときわ大きくなった。戦車よりも大きい輪転機が並び、頁を刷っている。イアンはその一つを覗き込んだ。

「『レディ・グラフィカ』の来月号だ」

「あの雑誌、ここで刷ってるんですね」

「ファッション誌はカラー印刷のクオリティ要求が高くて、なかなか大変です」

 雑談をしながら歩くうち、輪転機の前で話す二人の男が目に入った。

 片方の男は、恰幅のいい巨漢だった。頭部はつるりと輝き、大きな鼻の下には口髭。

「社長、陸軍のプロヴァズニーク様が…」

「おお、イアン!」

 言い終わらないうちに、社長、ホンザ・ヒネクが胴間声を上げた。大股で二人に歩み寄る。

「ひさしぶり、おじさん」

「ひさしぶりだなイアン!いつ以来だ?」

 輪転機の轟音をも貫く大声と共に、ホンザはイアンの肩を叩く。イアンはよろけた。

「大学の入学式以来かな。卒業の時は手紙だけだったから」

「ああそうだ、そうだった。それにしてもお前、勝手に軍隊なんぞ入りおって!」

 イアンの制服を眺め回して続ける。

「しかも大尉殿とはな!お前みたいな頭でっかちが、軍隊で上手くやれるとは思わなかったぞ!」

 イアンは苦笑いでごまかす。ホンザの視線が、となりのラティーカに移った。

「こちらのお嬢さんは?」

「ラティーカ・スプルナ軍曹相当官。俺の助手みたいなもん」

「は、はじめまして」

 明らかに気後れしているラティーカの手を、ホンザの巨大な両手が強く握った。

「はじめまして。ここの社長をしてるホンザ・ヒネクだ。こいつのお守りは大変だろうが、よろしく頼む」

「はあ、いや、そんな」

「おじさん、わかってると思うけど、今日は仕事できたんだ」

 イアンが仕切り直すように言う。

「おお、そうだな。どこかに移るか。俺はここが好きだが、話し合いにはちょいと不向きだ」

 そう言って二人の背中を叩くと、先に立って歩き出した。ラティーカが目を白黒させながら、イアンにささやく。

「なんだか、すごい人ですね…」

「あれで親父と友達なんだから、人間わからねえよ」

 ぼやきを聞いて、ラティーカがふと顔を上げる。

「イアンさんのお父様って…」

「おおい!こっちだ!」

 ラティーカの問いかけは、ホンザの大声に遮られた。二人は急ぎ足で向かっていく。


 案内されたのは、印刷所内のカフェテリアだった。

 大きな窓のある広々としたスペースで、ちょっとした会議室がわりにもなっているらしい。何組かが机の上に書類を広げて議論している。

 社長のホンザが通りがかっても、手を上げたり会釈する程度だ。ホンザの方も、それに気楽に応じている。

「いい職場だね」

 イアンは心底から言った。

「軍隊もこんなふうなら楽なんだけど」

 ホンザはガハハ、と豪快に笑った。

 カウンターで飲み物を受け取り、三人は窓際のテーブルにつく。

「大体は、電話で話した通りだけど…」

 そう前置きして、イアンは図書館連隊の作る本の事を説明した。ホンザが感心したように言う。

「兵隊さんに本をな。陸軍もいろんな事を考えるもんだ」

「上司が言うには、思想戦、だってさ。帝国のうんざりするようなプロパガンダから兵士たちを守るんだとか。おじさん『闘争録』は読んだ?」

 ホンザの顔が歪んだ。眉間と口元に皺がより、凄まじい表情になる。

「あんなひどい本は見たことがねえ。装丁だけは凝ってるが、中身はハナ紙以下だ。ドレクスレルも、よくあんなもの引き受けたよ」

 半ば軽蔑、半ば同情といった口調で、ホンザは印刷業界最大手の名を口にした。

「ウチの会社にゃ、いろんな奴らが働いてるんだ。大陸の西から東まで、ロマニアもいりゃあ南方大陸の出も、定住した耳付きだっている。あんな本が刷れるかよ」

 「耳付き」は毛耳族の呼び名の一つだ。最近は忌避されつつある表現だが、市井ではいまだに支配的だった。

「そう悪く言ったものでもないと思うな。少なくとも警鐘の役割は果たしたんじゃない?ドレクスレルはちゃんと仕事をしたよ」

「まあな…つまりイアン、お前らはあの本を相手に戦争をするってわけか」

「そういう事だね。俺たちの当面の敵は『闘争録』だ」

 ホンザはにやりと笑う。

「いいじゃねえか。鉄砲撃つだけが戦争じゃねえってことだな」

「で、その戦争に、おじさんにも手を貸してほしいんだよ」

 隣で聞いていたラティーカが、鞄から書類を取り出した。

「私たちが作る本の資料です。ぜひご意見を」

 ホンザは真剣な顔で書類に目を通していく。二人はそれを緊張の面持ちで見つめた。

「…これを、ウチで刷れって事なんだな?」

 イアンがうなずく。野牛のような唸り声をあげ、ホンザは腕を組んだ。

「…この判型、どういう意図があるんだ?」

「軍服のポケットに合わせてあるんだ。大きくて重い本は、兵隊には荷物になる」

「ああ、なるほどな」

「考えたのはこいつ」

 ホンザは片眉を上げてラティーカを見た。緊張し、居心地悪そうに赤面している。

「面白い話だし、他ならぬお前の頼みだ、引き受けてやりたいが…」

「やっぱり判型?」

 イアンの質問に、ホンザはうなずく。

「解ってるだろうが、ウチの機械はアルファ版に合わせて設定してある。この本を刷るには、機械のラインをまるごと設定し直して、そこを占有しなけりゃならん。できない事じゃないが、その分の皺寄せが他の出版社に行くって事だ」

 じろりとイアンの顔を見る。

「本を刷るからには、出版社とも話をしてるんだろう。印刷スケジュールを締め上げちゃあ、あちらの印象も悪くなるんじゃないのか」

 イアンの表情が渋くなる。

「もちろんそれは俺も考えた。考えたんだけど…俺たちじゃどうにもできないんだ。まさか今から陸軍専用の印刷所を作る時間も無いし」

 三人の間に沈黙が流れた。

 しばらく考え込んでいたホンザが、ぼそりと言った。

「アヴォネクのほうなら、なんとかなるかもしれんが…」

「アヴォネク?」

 イアンは不審げに、共和国西海岸にある貿易都市の名を口にした。

「ウチは今度、アヴォネクに新しい印刷所を開くんだ。規模はこことほぼ同じ。王国連合製の最新設備を導入してな、来月には稼働開始だ。仕事の割り振りはまだ調整中だが、上手いことやれば…」

「…なあ、おじさん」

 イアンの目に不敵な光が宿るのを、ラティーカは見た。

「その王国製の機材って、やっぱり高価いの?」

「ああ?そりゃあそうさ。ガードナー&クレランドの最新機種だ。社運をかけた事業ってやつさ」

「その代金を、陸軍が折半するって言ったら、どう?」

 ホンザの目が丸くなった。ラティーカも隣で同じような顔をしている。

「お前、分かって言ってるのか?ガリ板買うのとはワケが違うんだぞ?」

「あながち無茶な話じゃないと思うよ」

 イアンの口元が歪む。悪い顔だな、とラティーカは思った。

「なんたって俺たちゃ、共和国市民の血税を使ってるんだから」

 ぬけぬけと言い放ったイアンの顔を、ホンザは呆れたように見つめた。それが、いかにも人の悪そうな笑みに変わる。

「つまり、払ったぶんは使わせろってことだな。どのくらいだ?」

「まずは一年。それ以降は、まあ戦争の成り行き次第だね」

「…ちょっと待ってろ」

 そう言って席を立つと、カフェテリアの一角に並んだ内線電話の受話器を取った。

「ルジェフか?俺だ。アヴォネクの機材関係の資料を持ってカフェテリアに来い。今すぐだ。なに?先月の経費?後にしろ!会社とお国の一大事だぞ!わかったらすぐ来い!」

 そう言って電話を切ると、大股でテーブルに戻ってくる。

「いま経理のルジェフを呼んだから、詳しい話はそいつとやろう」

 コーヒーのマグを持ち上げ、一口飲む。

「久しぶりに会ったんだ、一杯やりたいところだが、社員食堂だからな」

「変わらないようで、安心したよ」

「お前の方こそ、親父に似てきたぞ。そういう悪知恵の働くところがな」

 複雑な表情で黙り込んだイアンを見て、ホンザは笑った。


 翌日、ヒネク出版から提出された見積書を見ても、ランダ中佐は眉ひとつ動かさなかった。

「…わかった。急いで稟議を通すよう、私からも働きかけよう」

「よろしくお願いします」

 上官の言う「働きかけ」がどんなものか見当もつかなかったが、イアンはひとまずそう言った。見積書の金額は目が眩むような桁数だったが、彼には問題にならないらしい。

「連絡はそれだけかね?」

「あともう一つ。名称についてですが」

 イアンはつい先程に決定した案件を切り出した。

「今まで、本の件、とか例の本、とかで済ませてましたが、そろそろ名前がいるだろうってことで、中隊で話し合いまして」

「なるほど。いい案は出たかね」

「覚えやすく、『兵隊文庫』と」

「ふむ」

 ランダ中佐は舌触りを確かめるように、兵隊文庫、と小さく口にした。

「そうだな。上級大将から一兵卒まで、つまるところ我々は兵隊だ。それら全てに送る本か」

 そこまで考えたつもりはないが、イアンはもっともらしくうなずいておいた。

「よろしい。これを正式名称とする。今後はこの名称を使うように」

「はっ」

 イアンが踵を鳴らす。ランダ中佐は机に肘を付き、少しくだけた口調で続けた。

「戦況だが、どうもはっきりしないらしい。帝国側が優勢というのが大筋の見方だが」

 イアンもそれは聞いていた。状況が目まぐるしく変わって追いきれないのだという。

「帝国軍は、側背の守りを無視して突出を繰り返している。西方はこれを捉えられず、部隊間の連絡を絶たれて孤立しつつあるらしい。所帯の大きさが裏目に出ているな」

「まずいんじゃないですか、それ」

「大いにまずいね」

 そう言いながらも、中佐の表情は冷徹なままだ。

「すべての兵隊が、その本分を果たすべき時が近いのかもしれないよ…報告ご苦労。任務に戻りたまえ」

「失礼します!」

 敬礼し、連隊長室を出る。

(その本分を果たすべき時?)

 廊下を歩きながら、苦々しく顔を歪める。

(冗談じゃないぞ)

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