第二部「廃兵と異邦人」1

 その日、イアンは首都大学の近く、楡の木通りの脇道にあるカフェにいた。

 大学時代に入り浸った店で、相変わらず美味い紅茶を出す。初夏のような陽気に軍服の前を開け、椅子にもたれて読みかけの本を開いていた。

 しばらく読書に没頭していると、前の席に人が座った。

「遅いぞ」

 本から目も上げずに言う。

「申しわけありません、大尉殿」

 予想外の声に本を下ろし、唖然として目を見開いた。

 そこにいるのは、大学時代の友人イグナーツ・スメーカルだ。それはいい。問題はその服装だった。

 旧友は軍服を着ていた。ベルトには弾薬入れや銃剣、雑嚢を吊るし、椅子の横には大きな背嚢。机の脇には小銃が掛けられていた。

 声も出せないイアンを眺めて、イグナーツはにやりと笑った。

「驚いたか」

 勝ち誇ったような旧友の前で、イアンはしばらく口を開閉させてから、ようやく言葉を絞り出した。

「何やってるんだ、お前!?」

 裏返った声に、イグナーツは今度こそ声を上げて笑った。

「復讐は成功だな。お前が軍隊に入ったときに、俺たちも同じ思いをしたんだぜ」

 嬉しそうに笑う旧友を見て、イアンは呆れ果てた。学生時代、ツイードのジャケットに中折れ帽でどこにでも行った姿からは、信じられないような変わり様だった。

 ウェイトレスにコーヒーを頼むのを待って、イアンは尋ねた。

「徴兵登録したのか」

「ああ」

 イグナーツはこともなげに答える。

「それだけじゃない。即時召集に志願したんだ」

 イアンは右手で顔を覆った。

 即時召集は、徴兵登録者のうち志願する者を、通常より早く兵役につかせる制度だ。とにかく早く人を増やしたい陸軍の策で、召集年齢も未婚者に限り二十七歳まで引き上げられている。

「俺のあとにもだいぶ人が入ってきてな、繰り上がりで一等兵だ。どうだ、似合うか」

 両手を広げて軍服を見せつける。イアンは大きくため息をついた。

「…なんでだ?」

 途方に暮れたような声が漏れた。

「わかってるだろ。兵隊なんかになったら西方の前線まで運ばれて、泥まみれで死ぬなんて事になりかねないぞ」

 イグナーツは居住まいを正すと、静かに言った。

「死ぬつもりで志願したわけじゃないが…何もしないのもどうかと思ってな」

「それにしたって、兵隊はないだろう!」

 イアンの声が大きくなる。コーヒーを持ってきたウェイトレスが、びくりとして足を止める。

 怯えるウェイトレスがコーヒーを置くのを待って、イアンは続けた。

「入営するにしたって将校か、せめて下士官だろう。それで後方勤務に回れよ。何のための卒業証書だ」

「親父みたいなこと言うな…まあ、お前の言うことも正しいよ。ただどうも、性に合わなくてな」

 コーヒーをひと口啜り、カップを置く。

「…原因じゃなく結果の方に身を置きたいと思ったんだ。この戦争で俺たちが何をしたか、それを覚えておきたい。紙の上の資料じゃなく、自分の体験としてね」

「そりゃ嫌味か」

 苦々しい表情のイアンに、イグナーツは笑って手を振る。

「違うよ!実際、お前のおかげで随分助かってる。駐屯地の図書室に本を入れてくれたのは、図書館連隊なんだろ?することがない時、みんな先を争って本を読んでる。なにせ娯楽がないからな」

「あれは市民の善意だ。俺たちは集めて割り振っただけだよ」

「それがどれだけの厄介事かぐらい、想像はつくさ」

「話を逸らすなよ。だいたいお前、家は」

 イグナーツは居心地悪そうに、ああ、と曖昧な返事をした。

「まあ、最終的にはわかってくれたよ。いや、諦めたのかな」

 イアンは苦虫を噛み潰したような顔で聞いている。やがて、はっとして言った。

「お前、ユーリアは」

「別れた」

 イアンは今度こそ言葉を失った。

「待つ必要はないと何度も言った…酷いことをしたのはわかってる。帰って来たら、なにか償いを考えるよ」

「馬鹿だ、おまえは」

 低くつぶやいたイアンに、イグナーツは笑顔を返した。

「そうかもな。まあ、説教は戻ってから聞くよ。それより、今日呼び出した用事なんだが」

 そう言ってイグナーツは背嚢に手を入れ、何かをつかみ出した。

 出てきたのは古びた本だった。装丁は所々が擦り切れ、金箔押しの題名も半分ほど剥げ落ちている。それでも、上質な作りの本であることはわかった。

「『旅行記』か」

 ボリス・ペカーレクの著作『旅行記』は、大内海西端から大陸極東にまでおよぶ、五年に渡る著者の大旅行を記した本だ。学生時代、イグナーツは必ずこの本を手元に置いていた。少年時代からの愛読書で、これをタネにして旅行もした。

「お前の座右の書じゃないか。これがどうした」

 イグナーツは本をテーブルに置くと、イアンの方に押し出した。

「俺が戻るまで、預かってくれないか」

「おい、よしてくれ!」

 イアンは顔の前で手を振り、叫んだ。

「あのな、これから戦争に行こうって奴がそういう事すると、死ぬ確率が跳ね上がるってジンクスがあるんだよ。それを俺に確かめろっていうのか?御免こうむる。実家にでも置いとけ」

 まくしたてるイアンに、イグナーツは困ったように笑う。

「そうもいかなくてな…両親にしろユーリアにしろ、安心して預けられる保証がない」

「お前の責任だ」

「そう、俺の責任だ。だからお前に頼むんだよ。お前ならこいつを捨てたり、俺の墓に一緒に埋めようなんて考えないだろ?」

「やっぱり死ぬ前提じゃねえか」

「万が一の話さ。それにな」

 イグナーツの視線が、傍らの背嚢に向く。

「なってみてわかったが、兵隊ってのは、大荷物を背負ってひたすら歩くのが仕事なんだ。荷物は軽く、小さくしたいんだよ。こういうハードカバーは、兵隊には不向きなんだ」

 ブーツのつま先で背嚢をつつく。微動だにしない。

「もっていきたいのは山々だが、それで歩けなくなったら本末転倒だからな…頼まれてくれないか。必ず引き取りに戻るからさ」

 不機嫌そのものの顔で、イアンは旧友を睨みつけた。イグナーツも視線をそらさない。

「必ず戻るんだな」

「ああ」

 イアンは視線を落とす。舌打ちをして、髪をかき回す。

「しょうがねえな…預かるよ」

「恩に着る」

 イグナーツが心底ホッとしたように言った。

「条件がある。こいつを返したら、ユーリアの所にヨリを戻しにいけ」

「むこうにその気が残ってたらな」

「行くんだよ。でなきゃこれは返さん」

 わかったわかった、と言って笑い、腕時計を見た。

「そろそろ行かなきゃ」

「配置はどこだ?」

「オメルナーズ。そこから国境を越えるか、北西戦線に就くかは状況次第だそうだ。船旅が楽しみだよ」

 立ち上がって背嚢を背負い、イアンに手を伸ばす。

「会えてよかった。またな」

「ここは払っとくから、安心して行けよ」

 イグナーツが苦笑する。イアンは立ち上がり、旧友の手を握り返した。

 店を出て大通りに向かう背中に、イアンは声をかける。

「イグナーツ!」

 振り返った顔を見ながら、イアンは続ける。

「いま、前線の兵隊向けの本を作ってるんだ!こいつを候補に入れとくよ!」

 預かった『旅行記』を掲げてみせる。

 イグナーツは踵を合わせ、目の醒めるような敬礼をした。イアンが答礼を返すと、大きく手を振り、歩いていく。

 その背中が大通りに消えるまで、イアンはそれを眺めていた。


「お疲れさん」

 真新しい「九〇一中隊」というプレートのはまったドアを開ける。何事か話し合っていた中隊の面々が、振り返って迎えた。

「お疲れさまです、イアンさん」

「賑やかに何の話だ?」

 机に鞄を置く。ヤーヒムが書き付けていたメモを手渡した。

「収録作の候補です。ちょうど出揃ったところで」

「ああ。どれどれ…」

 イアンはメモに目を通した。名著、傑作がずらりと並んでいる。

「『オスタル橋の樹』、『丸太小屋』、『或る漁師街』、『アイゼーネフ随想録』…なるほど、いいですね。『碧海の決斗』』は海軍むけだな」

「今回の本、海軍にも卸すんですよね?やっぱり必須じゃないかと」

 ダリミルの言葉に笑ってうなずく。

「これがなかったら連中、この部屋に三十八センチ砲弾を叩き込むだろうよ…おい、『黒薔薇城の殺人』に『遊星艦隊』シリーズって、こりゃお前らだな?ちょっと趣味に走りすぎだろ」

「ミステリこそ現代文学の生んだ至宝です!外すわけにはいきません!」

「SFは人類に必要ですよ!絶対です」

 ハヴェルとミロウシュが鼻息荒く反論する。

「わかったわかった。一応残すが、中佐のチェックでハネられても文句言うなよ。で、それから…」

 不満顔の二人を放っておいて、イアンはメモに目を戻す。

 その表情が凍りついた。

 視線がゆっくりと動く。その先には、澄まし顔で席についているラティーカがいた。

「…ラティーカ」

「譲りませんよ」

 イアンが言いかけたところを、ラティーカは先手を打った。

「誰がなんと言おうと、これだけは譲れません」

「あのなあ…」

 イアンが途方にくれる。ダリミルとヤーヒムが苦笑いをしているのは、似たような問答を先にしていたからだろう。

「言いたいことはわかる。共和国の兵士に送る本の中にヴィクトル・ユラーセクが入らないなら、片手落ちもいいところだ。それには同意する。だがな」

 ラティーカの鉄仮面のごとき仏頂面に向かって言いつのる。

「お前も知ってるだろう、彼の軍隊嫌いは有名だ。自分の名前を軍の記事と同面に載せるなと、新聞社と契約してるくらいだ。俺たちに協力してくれるとは思えないぞ」

「やってみないとわかりません」

 決然たる口調でラティーカは断言した。

「『荒野の朝』も『孤児』も、絶対に必要です。なんとか交渉して、掲載するべきです!」

 身を乗り出して熱弁する。難しい顔で頭を掻いてから、イアンはヤーヒムに水をむけた。

「どう思います?」

「私も、ご本人にお会いしたことはないですからねえ…出版社に仲介を頼んでみることはできるでしょうが」

 イアンはうーむ、と唸ってから、ラティーカに向き直る。

「ともかく、候補には入れておく。あとは先方次第だ。あまり期待するなよ」

 顔には不満が残っていたが、ラティーカはわかりました、と言って座り直した。

「よし。それじゃあ、第一弾はこの方向で行く。リストを作っておいてくれ」

 ダリミルと若者三人が、早速仕事に取り掛かる。棚から出版年鑑を取り出してめくり、メモをとっていく。ヤーヒムが、わからない事があったら聞いてください、と言ってから、イアンの机に歩いてきた。

「中隊長殿。判型の事ですが」

 その言葉で、イアンは厄介な問題を思い出す。

「ああ、そうだ。それも決めないと」

「先程、ラティーカさんからこういう提案が」

 そう言ってメモを手渡した。ラティーカがあっと声を上げる。

「ヤーヒムさん!それはまだアイデア程度で、まとまってなくて…」

「私はいいと思いますよ、よく気がついていて。いかがです、中隊長殿」

 メモに目を通して、イアンはほう、と声を上げた。

「軍服のポケットのサイズに合わせるわけか。なるほどな…よし」

 受け取ったメモをラティーカに渡す。

「そのメモ、清書してよこしてくれ。ミルシュカさん、書式を見てやってもらえますか」

「はいはい。じゃあラティちゃん、こっちいらっしゃい」

「は、はい」

 ミルシュカに教わりながら、ラティーカは書類作りに取り掛かった。それを横目に、イアンは腕を組む。

「版型はあれで行くとして、問題は印刷だな、やっぱり」

 眉間にしわを寄せたイアンに、ヤーヒムがうなずく。

「アルファ版からは完全に外れます。ラインを空けてくれる印刷所があるかどうか」

 軍服のポケットに合わせたラティーカ案は、当然、一般的な製本規格から外れることになる。印刷所には、専用のラインを組んでもらう必要があった。

 顎を撫でていたイアンが、歯切れ悪くつぶやく。

「アテが無いわけじゃないんだが…」

「融通の効く印刷所に、心当たりでも?」

 ヤーヒムの言葉に、なぜかイアンは渋い顔をした。

「中隊長殿?」

「いや、もう少しはっきりしてから話しますよ」

 気を取り直すように、イアンは一つ息をつく。

「とりあえず、若い連中を見てやってください。俺は中佐に上げる書類を作ります」

「わかりました。何かあったら、いつでも言ってください」

 ヤーヒムはそう言って、資料と格闘するダリミル達の輪に入っていった。

 イアンはタイプライターを前に置く。紙を挟み、なにか考えるように空中を数秒見つめてから、リズミカルにキーを叩き出した。

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