第一部「マーチが聞こえる」3

 打ち合わせが終わったのは、夜になった頃だった。

 イアンは注釈の書き加えられた書類をしまい、ニコラに礼を言って図書館を出る。冷たい夜風に、コートを置いてきたことを後悔した。

 路面電車を降りて、駆け込むように庁舎に入る。一昨年に暖房機器を最新型に入れ替えた庁舎は快適だ。第一師団さまさまだ、とイアンは思う。

 中隊本部のドアを開けると、予想に反して明かりがついていた。机の一つにいた男が、立ち上がって敬礼する。

「おかえりなさい、中隊長殿」

「ヤーヒムさん、まだ残ってたんですか?」

 ヤーヒムは、皺の目立つ顔に柔和な笑みを浮かべた。

 ヤーヒム・マレチェク上級軍曹は、もともと第二十一師団の主計下士官だった。退役後は大型書店の経理をつとめ、その後、自宅の一階を改装して古本屋を開業した。その翌年に図書館連隊の公募を知り、軍に復帰したのだった。

 経理畑での長年の経験を持ち、書店業務にも携わってきたヤーヒムは、中隊にとって欠かすことのできない人材だ。イアンにとっては右腕と言っていい。

「店の方は?開業したてで、まだ忙しいでしょう」

「女房が張り切ってますから。それに、息子の嫁が友達を連れて手伝いに来てくれますんで。私は出る幕なしです…書類、いただきましょう」

 朗らかに笑いながら書類の束を受け取る。素早く目を通すヤーヒムに、イアンは声をかけた。

「明日でいいですよ…他の連中はもう?」

「ええ、少し前に切り上げてもらいました。私はちょっと用があったものですから」

「用?俺にですか?」

 ヤーヒムはうなずき、声を落として言った。

「連隊長殿が部屋に来るように、と。一時間ほど前です」

 イアンの眉が上がった。

「連隊長が?俺に?」

「はい」

 エリク・ランダ中佐は、先週着任したばかりの新任だ。初日に面通しはしていたが、引き継ぎに忙しいのか、それ以降は姿を見せていなかった。連隊長室にもまず現れない。

 イアンは天井をちらりと見上げ、ヤーヒムに尋ねる。

「つまり今、上にいるんですか?」

「はい。戻るまで連隊長室で待つと」

 そう言ってから、ヤーヒムは心配そうな表情になる。

「何かあったんですか?」

 イアンは首をひねった。

 一〇二中隊は首都の人口密集地に配置され、今回の寄付運動でも一、二を争う数の書籍を受け取っている。図書館連隊でも中核と言っていいだろう。その指揮官と話をしておきたいというのは、わからないではない。しかし、そんな事なら通常の勤務時間に呼びつければいい話だ。こんな時間まで帰りを待つ必要はない。

 上官の意図は読めないが、無視して帰るわけにもいかない。イアンはため息をついた。

「妙な話じゃなけりゃいいけど…まあ、行ってみますよ。ここは閉めとくんで、ヤーヒムさんも上がってください」

「…わかりました」

 イアンは鞄を置き、敬礼するヤーヒムにそれじゃ、と言って部屋を出た。

 階段を登って廊下を歩く。間取りは一階と同じで、中隊本部の真上が連隊長室だ。

 ドアの前に立ち、深呼吸してノックする。

「プロヴァズニーク中尉であります!」

「…入りたまえ」

 ドアを開け、中に入る。

 中隊本部の部屋と間取りは同じだ。だが書棚と事務机が詰め込まれた下の部屋と違い、連隊長の机と応接用のソファがあるだけなので、いくらか広々として見える。

 連隊長席に一人、その脇に立つもう一人。

「呼びつけてすまない。待っていたよ」

 連隊長、エリク・ランダ中佐は微笑んだ。

 中肉中背。秀でた額と落ち窪んだ眼窩で、青い瞳には常に影がかかっている。

「楽にしたまえ。すぐコーヒーも来る」

 立ち上がると、空っぽの袖が揺れた。

 彼には、左腕がない。

 演習中の事故だと言っていたが、詳しい話は誰も知らない。なにしろ着任からまだ半月も経っておらず、そのほとんどを留守にしているのだから、彼のことを知る人間は連隊には一人もいなかった。

「…そちらの方は」

 イアンの質問に、中佐は思い出したようにああ、と言った。

「カルラ・タイノステフカ中尉。私の副官だ」

 そう呼ばれた女は、不動の姿勢まま頭を下げる。

 イアンが驚いたのは、燃えるような赤毛ではない。その両脇に大きく張り出した、獣を思わせる大きな黒い耳だった。

「ご覧の通り、彼女は毛耳族…もとい、自由放浪民の出身だ。今は定住しているがね」

 彼女は顔を上げ、濃い金色の瞳でイアンを見る。彼らは目の作りが自分たちと少し違うという話を、イアンは思い出した。

「自由放浪民の女性将校は彼女が初だが、今後は増えていくだろう。活躍に期待したいね」

 気楽な口調で話しながら、中佐がソファに腰を下ろす。イアンも従った。

「自由放浪民からの義勇兵受け入れも決定だそうだ。定住、非定住を問わずね。いま陸軍にいる定住者の兵士たちは、その中核として再編されるとか。人事部は大わらわだよ」

「…徴兵登録が始まって以来、あそこが暇だった日はないでしょうね」

「まさしく。誰も彼もが大変だ」

 ノックの音が聞こえ、カルラがドアを開けた。コーヒーの盆を受け取り、中佐とイアンの前に置く。

「それで、どのようなお話でしょうか」

 イアンが水を向けると、ランダ中佐は口をつけていたカップをおろし、副官に声をかけた。

「中尉、あれを」

「はい」

 カルラが手渡したものを、中佐はそのまま机に置き、イアンの方に押し出した。

 本の上に、一組の肩章が乗っている。銀色の七芒星がそれぞれにふたつ、照明を受けて光っていた。

「まずは事務的な話を済ませてしまおう。イアン・プロヴァズニークくん。君は明日付で大尉だ。これに伴い、君には一〇二中隊を離れ、別任務に就いてもらうことになる」

 イアンの眉間にしわが寄った。

 数秒、探るように中佐の顔を眺めてから、テーブルの上に視線を落とす。

「理由はこの本ですか」

 中佐がうなずく。イアンは肩章を脇に置き、本を取り上げた。

 表紙の写真は、何かを訴えるような男の姿。今や世界中で知らぬ者のない、帝国大宰相その人だ。その上に、赤く印象的な字体のタイトル。『闘争録』。

「読んだかね?」

 中佐が尋ねた。イアンは本を開き、パラパラとめくる。

「ざっと目を通したくらいですが」

「感想を聞いても?」

 イアンは本を閉じて机に置くと、そのまま中佐の方に押し戻した。

「…妄想と差別意識の醜悪なタペストリーであり、およそ紙資源の無駄としか言いようのない駄文である。帝国の文学史、出版史における最大の恥部にほかならない」

 一度言葉を切り、中佐の方を見る。さも面白そうにこちらを見ていた。

「しかしながら現今の情勢下において、わが共和国でこの駄文が出版されることは大きな意味がある。すなわち、警鐘である」

「『民主日報』の書評だね。あいかわらず辛辣だ」

 中佐は満足げな笑顔で、コーヒーを口に運んだ。

「帝国では、この紙束を結婚祝いに贈っているそうだ。背筋の寒くなるような話だね」

「暖炉の焚付にでもするんじゃないですか」

 イアンの身も蓋もない冗談に、中佐はくつくつと笑った。

「私もそれに賛成だが…実際は、この本を意図的に破損させた者は罰せられるそうだ。自分たちで本を焼いておきながら、勝手なものさ」

 中佐の表情から笑みが消える。

「軍上層の一部では、『思想戦』という言葉が流行っていてね」

 右手を『闘争録』の上に置き、指で叩く。

「つまるところ、この本に象徴される帝国現体制の差別主義から、わが共和国を守るということだ。それは陸軍においては、前線で敵と対峙する兵士たちを守る、ということになる」

「砲弾や爆弾だけでなく、敵の思想からも兵士を守れ、と?」

「砲爆撃からは、穴を掘れば身を守れる。だが頭の中はそうはいかない。思想を縛る帝国のやり方に対抗するには、思想が自由でなくてはならない。だが残念ながら、自由な思想を育む方法は、歩兵操典には載っていない」

 中佐がわずかに身を乗り出す。

「誰かが、彼らを守らねばならないのだ」

「我々がそれをやると?自分らはただの図書館員です。自由意志に関する講義なんてできっこない」

 中佐の口元がわずかに綻ぶ。

「なにも兵士たちに哲学の講義をしろというわけではないよ。仮にしたとしても、効果のほどは疑問だ。より単純で、はるかに効果的な方法がある」

「どのような」

「本だよ」

 中佐は『闘争録』の表紙を、強く指で叩いた。

「わが共和国の優れた文学、翻訳された世界中の傑作。これらは、読者に自由な思想をもたらすものだ。それを恐れるがゆえに帝国大宰相は、各地で焚書を繰り返している」

「つまり、前線の兵士に本を読ませることが、彼らを守ることになる…」

「そのとおりだ。そしてそれが可能なのは、この独立図書館連隊をおいて他にないと、私は考えている」

 イアンはしばらく無言で考え、やがて言った。

「お話はわかりました…一つ質問をよろしいでしょうか」

「もちろん」

「なぜ、自分なんですか」

 当然の質問だとでも言うように、中佐はうなずく。

「君の資料は見た。首都大学の文学部を好成績で卒業。今回の任務には願ってもない人材だ。それに…君は不愉快だろうが、ご実家のことも」

 やっぱりか、とイアンは思う。思わずため息が漏れてしまった。中佐が宥めるような声になる。

「気を悪くしないでくれ。使えるものは何でも使うというのが軍隊だ…まして、この情勢下ではね」

「…父とは折り合いが悪いんです。ご期待には沿えませんよ」

 不信感の滲むイアンの口調にも、中佐は動じない。

「今回の人事はあくまで、君のこれまでの成果をもとに決定されたものだ。それを忘れないでほしい。君のご実家を最初からあてにするような事はしないと約束しよう」

 そう言ってから、中佐はわずかに口の端を持ち上げた。

「その上で、全力で任務に邁進してもらいたい」

「全力で、ですか」

「君の判断する限りにおいてね」

 この野郎、と心中で毒づく。実家のコネを使うのはあくまで俺の判断って事かよ。

「正式な辞令は明日届く。必要な人員を選んでおきたまえ。引き継ぎ後、来月までには新任務に取り掛かれるように」

 話は終わりとばかりに、中佐は命じた。心中苦々しく思いながらも、イアンは了解しました、と答える。

「中隊本部をそのまま連れて行くような形になると思いますが」

「構わない。新人員はもう見繕ってある。引継ぎだけしてもらえればいい」

 中佐が立ち上がり、イアンも続いた。カルラがすばやくドアのそばに移動する。

「今日は話せてよかった。これからよろしく」

「微力を尽くします」

 儀礼的に答えるイアンに、中佐は片方しかない手を差し伸べた。イアンはそれを握る。

「…個人的な感想を言わせていただければ」

 手を握ったまま、イアンは皮肉に笑った。

「この仕事が無駄骨になることを祈ってますよ」

「同感だ」

 中佐もまた、同じように笑う。

「だが、楽観論にすがる段階は去ったと考えるべきだ。我々も腹を括らねばならん」

 イアンはうなずく。手を離した中佐は、カルラに声をかけた。

「彼を車まで」

「かしこまりました」

「では、良い夜を」

 イアンが敬礼し、中佐が応える。

 廊下に出て、背後でドアが閉じたところで、イアンは大きくため息をついた。

「こちらです」

 ほとんど機械的な口調で、カルラが促した。イアンは帽子をかぶり、赤毛と黒い毛皮のコントラストを眺めながら、彼女について歩く。

「なあ」

 半ば独り言のように、イアンは声をかけた。

「あんたは何を言われて、あの中佐に引き込まれたんだ?」

 カルラは金色の瞳をイアンに向けたが、何も答えなかった。

 中隊本部の鍵を閉めて玄関に行くと、すでに車が停まっていた。若い兵士が敬礼し、ドアを開ける。イアンは居心地悪くそれに乗り込んだ。

「お気をつけて」

 無表情で敬礼する中尉に、いいかげんな答礼を返す。

 車が動き出し、ヘッドライトが正門を照らした。そのまま道路に出て車の流れに乗る。

 イアンは窓の外を眺める。暗闇に沈んだ公園は樹の一本も見えず、ガラスに映った自分の顔だけが浮かんでいた。

「…何に巻き込まれたんだろうな」

 小さくそう呟く。運転手が怪訝そうに振り向いた。

「何か?」

「なんでもないよ」

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