第一部「マーチが聞こえる」2
玄関をくぐり、門衛にいい加減な答礼をしながらイアンは外に出た。
路面電車の駅まで歩くつもりだった。一応は陸軍中尉であり、一声かければ車を出せる身分ではある。だが連隊に車両部は存在せず、車を出すとなれば第一師団のものを借りることになる。師団司令部の居候としては、言い出しにくい。
しばらく歩き、公園通りとトリースカ通りの交差点で路面電車に飛び乗る。
車内には数人の乗客がいたが、イアンのことは気にも留めない。ここ数年で兵士の姿が日常に溶け込んだ首都では、誰もが軍服に慣れている。一人、帽子を上げて挨拶をしてくれた老紳士に敬礼を返して、イアンは席につく。
首都は春の盛りだ。日差しは暖かく風もやわらかい。
(まさしく世は春、平和そのものだ)
イアンはしみじみとそう思った。とても、明日にでも戦争が始まろうという風景ではない。
だが少し注意してみれば、かつての風景とは異質なものが、そこかしこに見て取れる。とりわけ目につくのはポスターだ。徴兵登録や国債の購入、物資の節約などを呼びかけるポスターが、いたるところに貼り出されていた。書籍の寄付を呼びかけるものも少なくない。
そんなものをぼんやりと眺めるうちに、車内にベルが響いた。電車は首都の中枢部に入りつつある。
百貨店や高級店が並ぶきらびやかなクレメント公通りを抜けて、商業地区と官庁街の合間にある駅についた。イアンは電車を降りる。目的地はすぐ目の前。共和国中央図書館だ。
石造りの建築は、第一師団の瀟洒な司令部よりはるかに巨大で、威圧感のある建物だった。その蔵書量は共和国最大は言うに及ばず、大陸全土でも屈指の規模を誇る。首都大学と並んで、共和国の知識と学問をつかさどる重要な施設だ。
正門前、館の顔である大階段には、その日も行列ができていた。老若男女、様々な人々が階段に並び、なごやかに談笑しながら、なにかの順番を待っている。
彼らは皆、本を持っていた。
一、二冊をそのまま手に持った者もいれば、数冊を紐でまとめて提げている者もいる。大きな鞄に何十冊も入れて持ち込んだ者もいた。
イアンは彼らを横目に、階段を登って正門に向かう。そこには横断幕が張られ、こう書かれていた。
『共和国防衛図書運動』
正門前には長机が置かれ、図書館連隊の隊員たちが並ぶ。彼らは持ち込まれた本を受け取り、仕分け、書類を書き、また本を受け取る。その背後には、受け取った本が城壁のように積み上げられていた。
共和国中央図書館は、図書館連隊が民間と共同でおこなっている書籍寄付運動の中心だ。市民たちが自宅の本棚で眠っていた本を、こぞって寄付に訪れているのだ。
広大なエントランスに入り、イアンは受付の中年女性に声をかけた。
「独立図書館連隊のプロヴァズニーク中尉です。クルハンコヴァ館長と面会の約束があるのですが」
受付の女性がにこりと笑う。
「うかがっております。どうぞ、こちらへ」
女性は席を降りると、そのままイアンを案内する。
重厚な石造りの外観からうってかわって、館内は木製の本棚がどこまでも続いている。書架の迷宮とでも呼ぶべき景観は、学生や研究者だけでなく、国内外の観光客をも集めているという。
本棚の合間を通り抜け、風格のある階段を登り、傾きはじめた陽光でセピア色に染まった廊下を歩いて、二人はようやく足を止めた。目の前のドアには「館長室」というプレートが掛かっている。
受付がドアをノックした。
「はい」
ドアの向こうから返事が聞こえる。
「館長。プロヴァズニーク様がお見えです」
「ああ!入ってちょうだい」
受付がドアを開け、イアンは館長室に入った。
部屋は広い。中隊本部の倍はあるだろう。家具や調度も美しく磨き込まれている。
年代物の重厚な机から、一人の女性が立ち上がった。
「お待ちしてました、プロヴァズニーク中尉」
「お時間をいただき、ありがとうございます。クルハンコヴァ館長」
敬礼するイアンを見て、ニコラ・クルハンコヴァ館長はくすりと笑った。
すらりとした長身で、品のいいスーツを颯爽と着こなしている。五十歳は過ぎたはずだが、三十代といっても通用しそうなほど若々しい。
「アネシュカさん、悪いけどカフェに言って、紅茶を二杯、部屋までお願いできるかしら」
ニコラが受付の女性に言った。わかりました、と答えて彼女は出ていく。
「紅茶党は肩身が狭いわ。下のカフェでも、私が館長になってからメニューに入ったのよ」
「そんな横暴をはたらいてるとは知らなかった」
軽口をたたきながら、イアンは応接用のソファに腰掛けた。ニコラもその向かいに座る。
「横暴だなんて!私が勝手に淹れてるのを見かねて、メニューに入れてくれたの。気を使わせてしまったけど、ありがたいわ」
「さすがは共和国最大の図書館だね。ウチの庁舎の食堂なんか、俺たちのことなんざハナもひっかけない」
「第一師団ね。あの綺麗な建物」
「最近は人と車が多くてね。おおいに景観を損なってるよ」
ニコラは不意に黙り込むとイアンの方に顔を寄せ、声を潜めた。
「…やっぱり戦争になりそうなの?」
「最近、そればっかり聞かれるな」
「そんな服を着てるんだもの。諦めなさい」
イアンはため息をつき、肩の上で光る七芒星を恨めしげに見た。
「で、どうなの?」
「…十中八九、そうなるだろうね」
ソファに背を預け、ぼそりと言った。
「帝国の敵は西方共和制と、そのむこうの島嶼王国連合だ。だから開戦しても、すぐ共和国が戦場になるわけじゃない…けど、西方も王国も共和国と同盟を結んでる。あっちがおっぱじめたら、こっちも知らん顔はできないよ。始まるとすれば、そういう流れだ」
「つまり、最初は軍の国外派遣になるわけね。王国の大陸駐留軍みたいに?」
「あそこまで大規模じゃないだろうけどね。ただ、大内海は王国の庭だ。帝国としちゃ当然、南から下腹を突かれる危険を考えるし、そうなったら共和国は王国の最大の橋頭堡って事になる。いつ矛先がこっちに向くかは、西方の粘り次第ってところだね」
イアンは腕を組み、息をついた。
「西方共和制も、手もなくやられはしないだろう、ってのが軍の見方だ。少なくとも一年はかかる。その間に、北部山脈に沿って防衛線を敷いて備える。これがまあ、当面の陸軍のスケジュールだね」
「そう上手くいくの?」
「たぶんね」
「他人事みたいな言いぐさね」
イアンは肩をすくめた。
「実際他人事なんだ。俺たちはただの図書館員だからね。参謀連中なんか、目も合わせない」
「卑屈にならないの。わたし達の仕事は、意義のあるものよ」
ニコラの表情は自信に満ちていた。
「兵士たちに、市民の手から本を手渡す。それも戦争に必要な本ばかりじゃない。心を暖かく豊かにするたくさんの物語を、戦場に行く兵士たちに届ける。これが素晴らしい仕事でなくてなんですか」
「役所の仕事にしては気の利いてる方だと思うよ」
「またそんな言い方して!」
ニコラのあきれ声に、イアンは笑いで返した。
「べつに嫌々やってるわけじゃないよ。仕事がうまくいってるならいいことさ。ただ実際、図書館連隊だけじゃできないことも多いからね。ポスターにしろ、ラジオの告知番組にしろ。先生に頼めて良かったよ」
「これでもそこそこ顔は広いのよ。まかせなさい」
ドアをノックする音が聞こえ、ウェイトレスが紅茶を置いていった。イアンはカップに口をつける。
「美味いね。自分で淹れるのとは雲泥の差だ」
「あら。中尉さんともなれば、部下に淹れさせるものなんじゃないの?」
からかうようなニコラの言葉に、イアンは苦笑する。
「うちは半軍半民みたいなもんさ。兵隊が市民をアゴで使うなんて、感じ悪いだろ?」
今度はニコラが苦笑する番だった。それから、どこか懐かしそうにイアンを眺める。
「あなたは変わらないわね…軍隊なんかいちばん向かないと思ってたけど、安心したわ」
「先生の薫陶の賜物さ」
口元は笑っていたが、イアンの声は真剣だった。
「先生とおふくろの書庫がなかったら、俺は今頃、馬鹿なボンボンとして酒と女に溺れてたと思うよ」
「そう言ってくれると嬉しいわ。あの生意気な頭でっかちに手を焼いたのも、無駄じゃなかったわね」
ニコラはカップに口をつける。ゆっくりと味わうように飲んだあと、呟くように言った。
「もう十五年にもなるのね」
イアンの眉が動いた。視線は手元に据えたまま、ニコラを見ずに口を開く。
「毎年、花を供えてくれてるよね…ありがとう」
「当然よ。フィオナは大事な友人ですもの…もっとそばに居てあげるべきだったわ」
イアンは頬杖をついてニコラの方に向き直る。
「結局、こっちの気候に合わなかったって事なのかね」
「どうかしら。王国よりこっちの方が気候が悪いとは思わないけど…まあ、病気のことなんて、誰にもわからないのよね」
カップの中に視線を落として、ニコラは続ける。
「いつだって残された方は、もっとなにかしてあげたかったと考えてしまうものね。彼女のような人ならなおさら…あなたのお父様だって、きっとそう思ってるわ」
イアンの表情が凍りついた。機械的な動きでカップを下ろす。
「そんな話をしにきたんじゃないぜ」
急に人の変わったような、低く冷たい声だった。だがニコラは動じない。
「私はね、あなたが軍隊に入ったのは悪くない選択だったと思ってる。驚きはしたけどね。現に今、わたしたちは素晴らしい仕事をしているのだし。でもイアン、あなたは?まさか将軍になりたいわけじゃないんでしょう?」
「…親父のところに戻る気はない」
こわばったイアンの言葉を、ニコラは笑顔で受け止めた。
「それならそれでいいの。他にいくらでも道はあるわ。でもね、お父様から逃げることだけを考えて、時間を無駄にしちゃいけない。和解するにせよ決別するにせよ、いつかは答えを出さなきゃ」
「…あいつに復讐するといったら?」
「本気でそうするって言うなら止めないわ。なんなら手伝いもしてあげる。分け前はもらうけど」
イアンの眉が八の字に曲がる。口元がほころび、笑い出した。
「やっぱり先生にはかなわないな」
「あたりまえよ。人生の先輩をあなどっちゃいけません」
イアンはソファに背を預けて、参った、というふうに両手を上げた。少し考えて、ニコラの目を見る。
「先生の言うことはわかるよ。ただ、もう少し時間がほしい。まだちょっと踏ん切りはつかないし…それに、なにしろ戦争だし」
「もちろん。あなたの人生よ」
にっこりと笑い、ニコラは冷めかけた紅茶を飲み干した。
「さて、それじゃ仕事の話をしましょうか!春分祭でやる寄付運動のイベントの話だったわね?」
「そう。俳優のボフミール・パジョウトを呼んで朗読をやってもらおうと思うんだけど…」
取り出した書類を手渡す。目を輝かせてそれを読むニコラを、イアンは心底頼もしく思った。
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