第一部「マーチが聞こえる」1
路面電車を降りたラティーカは鞄を肩にかけ直し、公園通りを歩き出した。
暗緑色の車が行き交う道路沿いを進んでいくと、大きな門が見えてくる。鉄製の扉は開け放たれ、軍用車と軍服の男たちが絶え間なく出入りしている。
直立不動の門衛に身分証を見せ、ラティーカは門をくぐった。
建物の姿には、いつも圧倒される。左右に広がる三階建ての白壁と、その上に乗る藍色の屋根。彫刻された柱。その瀟洒な美しさは、かつての貴族の屋敷か、あるいは美術館のような印象を受ける。
これが軍の施設、それも首都防衛の要である陸軍第一師団の司令部庁舎だということを、彼女はいまだに信じられない気分だった。
ラティーカは足早に庁舎に入る。広大な舎内では、兵士たちが慌ただしく行き交っていた。人の合間を縫うように歩き、庁舎の隅にある資料室のドアを通り過ぎて、目的の部屋にたどり着く。
『独立図書館連隊 第一〇二中隊指揮所』
古くかすれた文字盤に、そう記してある。
「失礼します」
ノックをして中に入る。
向かい合わせに置かれた事務机が六つ、その向こうの窓際に中隊長の机。両側の壁は本棚が並ぶ。それで一杯になってしまうほどの部屋だ。
机の二人が顔を上げ、お疲れさま、と挨拶する。それに答えながら、ラティーカは窓際の席に向かった。
中隊長席の人物は新聞をいっぱいに広げ、窓から差し込む陽光でそれを読んでいた。『共和国時事新報』。国内三大手紙のひとつだ。机の上には他にも七、八紙が積み上げられている。
ラティーカはそれを一瞥し、憮然とした表情をしてから、書類鞄をその上に置いた。
「中隊長。西部三区、七ヶ所からの寄付書籍のリストです。確認をお願いします」
新聞紙の向こうから、不明瞭な唸りのようなものが聞こえた。
「後で見とく。置いといてくれ」
ラティーカの眉が動く。おもむろに右手を振り上げると、勢いよく鞄に平手を叩きつけた。
「イアンさん!」
「わかったわかった」
彼女の剣幕に押し切られて、イアンが新聞をおろした。
痩せ型で面長の顔。細い肩は軍人らしいとはとても言えない。長い指で新聞を折りたたみ、鞄の傍に置いた。
「どうしてそういくつも新聞を持ち込むんです?一紙で十分でしょう」
ラティーカの小言に、書類鞄を開きながら答える。
「情報収集は将校のつとめさ。普段の習慣ってのもあるがな」
はあ、と言ってラティーカは、改めて新聞の束を眺めた。
大手紙のほかにも、保守派最右翼の『竜の歯』紙から連邦共労党の出先機関と言われる『前衛日報』まで、多様な新聞が積み重ねてある。北方島嶼王国連合の『ジャスト・タイムス』紙まであった。
「王国語、読めるんでしたっけ」
「まあな」
取り出した書類をしかめつらしく眺めながらも、軽口は絶やさない。
「おまえさんも、任期が明けて大学入ったら、王国語はやっとくといい。つぶしが効くぜ」
「ご親切にどうも」
ラティーカは机の上から一紙を取り上げて自分の席についた。
「おいおい、人に働かせといて自分はサボりか?」
「私はこれから昼休みです。外回りでお昼を取りそこねましたので」
私物入れから紙に包んだサンドイッチを取り出した。隣の同僚が注いでくれたコーヒーを笑顔で受け取る。
仏頂面で書類に向かうイアンを尻目に、昼食をぱくつきながら紙面に目を落とす。『帝国、西方共和制と断交』『帝国軍、国境付近に展開。外務省は演習と発表』『難民の流入つづく』。
「戦争になるんですかね…」
ラティーカがぽつりと言う。隣席のダリミルがああ、と答えた。
「政府も徴兵登録を復活させたしね…郊外の方じゃ、急ピッチで新しい基地を作ってるそうだよ」
「その基地の図書室に入れる本を、私たちが集めてるわけですよね。出版社から買い上げた方が早いのに」
「罰当たりなこと言わないの」
向かいに座るミルシュカが口を挟む。
「軍の予算だって税金なんだから。節約できるところはしてもらわないと」
「その通り」
書類から目を離さず、イアンが言う。
「それに、全国的な寄付運動は、市民の連帯感を醸成するにも好都合だ。君も自由と共和主義のために、一冊の本を手渡そう!ってな」
「共和国防衛図書運動」のポスターに書かれた一節を引用して、皮肉っぽく笑う。
「そのわりに、寄付は減ってきてますけど」
「ご家庭にある本には限りがある。無尽蔵に出てくるもんじゃないさ」
ラティーカの疑問に、イアンはこともなげに答えた。
「それでも、この調子なら秋までには定数を満たせるだろ。そうなりゃ任務完了、気楽な図書館員に戻れるわけだ」
「だといいんですけどね…」
ダリミルの声には不安が滲んでいた。イアンは気楽な調子で答える。
「心配するな。俺たちが小銃かついで前線に出る頃には、戦争は負けさ。そうなる前に、上の方で話をつけてくれるだろうよ」
「安心していいんですかね、それ」
軽口を聞き流しつつ、ラティーカは紙面を眺める。ふと、小さな記事に目が留まった。
『帝国でふたたび焚書デモ』
眉間にしわが寄る。それに気づいて、ダリミルが紙面を覗き込んできた。
「どうかした?…ああ、これか」
紙面を見た彼も苦い顔をする。
「しばらく無かったけど、またやったね」
「前はたしか年末でしたよね?」
眉間のしわをそのままに、ラティーカが言う。
「燃やされた本が新聞で紹介されてました。有名な本や作家ばかり…なんの目的でこんな事…」
「そういうのが嫌いな連中が、今の帝国のてっぺんにいるのさ」
書類をまとめながら、イアンが言った。
「で、それを見世物めいて焼くことで国民に共犯意識を植え付け、結束を高める…プロパガンダの基本だな」
そう言いながら立ち上がり、メモをちぎってミルシュカに手渡す。
「この分だけ、図書館の班に仕分け直させてください。あとはそのまま」
「はい、わかりました」
ミルシュカはメモを受け取り、電話に手をのばした。ラティーカが驚く。
「もう終わったんですか?」
「仕事はしてるぜ?俺は中央図書館まで打ち合わせに行ってくる。時間かかるだろうから、定時になったら勝手に上がれ」
そう言って鞄と帽子を取り、部屋を出ていった。
「…その気になれば早いんですけどね」
サンドイッチを飲み下して、ラティーカがつぶやく。
「まあご実家があれだし、素質みたいなものはあるのかもね」
ダリミルの相槌を聞いて、ラティーカが不審な顔をした。
「ご実家?」
「知らない?中隊長の名字、ほら、プロヴァズニーク」
「プロヴァズニーク…」
ラティーカは数秒間考えて、突然椅子を蹴って立ち上がった。
「プロヴァズニーク出版!?『自由新聞』の!?」
受話器を握ったままのミルシュカが指先で机を叩いた。電話中に騒ぐな、ということらしい。あわてて声を潜めて続ける。
「え、だって、三大紙のひとつですよ?なんで軍隊なんかにいるんです?」
「なにか事情でもあるのかなあ」
ダリミルも詳しくは知らないらしい。
ラティーカは中隊長の机を眺めた。筆記具や書類、新聞などが放り出されたままだ。読みかけらしい本も数冊ある。
「いいトコのぼっちゃん、て感じはしないですけど」
苦笑するダリミルを横目に、電話を切ったミルシュカが言う。
「親の敷いたレールを嫌って軍隊に、なんてよくある話よ。配属先がここっていうのも、いかにもじゃないの」
「たしかに、弾に当たる心配はまず無いですからね」
「ウチの部隊で戦死って、ちょっと想像つかないですよね。ありえるのかな」
「入隊時の誓約書には、『適当と判断される場合は、これを戦死扱いとする』って書いてあったよ。具体例は知らないけど」
「地震で本棚の下敷きになるとか?」
ラティーカの冗談に他の二人が笑う。手元の書類にチェックを入れながら、ミルシュカが続けた。
「撃ち合いよりはありそうな話だわね」
「でも、共和革命の時には図書館連隊からも戦死者が出たそうですよ。連隊史によれば」
「ダリミルさん、そんなのまで目を通してるんですか?」
「ちょっと興味があって」
ダリミルは照れくさそうに笑う。
ラティーカとダリミルは、どちらも奨学金目当てに入隊した受験生だ。ダリミルは首都大学への入学を目指しており、去年失敗した浪人生だった。二度目の挑戦のため図書館連隊の奨学金制度に申し込み、軍の増員もあって入隊がかなった一人だ。勤務の合間にも、本を読んだりノートを付けていたりと勉学に余念がない。
一方のラティーカは、同じく奨学金制度に当選して南東部の地方都市から出てきた身だ。裕福なわけでもない雑貨屋の娘で、一度だけのチャンスだからと両親を拝み倒して首都までやってきた。仕送りも心もとない身としては、俸給の出る図書館連隊はありがたい。
二人とも、図書館連隊の隊員としては珍しい経歴ではない。連隊員の半分以上は、二人と同じような奨学金目当ての若者たちだった。二年の任期を満了して得られる奨学金は、進学を望む裕福でない若者たちにとって絶好のチャンスなのだ。
「革命の頃は、陸軍における共和主義教育の担い手とかいって重んじられてたらしいね。今じゃ見る影もないけれど」
「いいのよ、それで」
ミルシュカが重々しく断定した。
「革命だの戦争だのは、偉い人や怖い人に任せておけばいいの。図書館員の仕事は、本を読んでもらうこと。たとえ陸軍の図書館連隊だって、それがいちばん大事なんだから」
ミルシュカ・スカロヴァは初等学校の教師を引退したあと、地元の小さな図書館で働いていた。昨年、図書館連隊の人員募集を見て志願したという。ラティーカ達から見れば母親ほどの年齢だが、誰よりもエネルギッシュに任務にあたっている。
「さあさ、おしゃべりはこのくらい!仕事はまだたくさんあるわよ!」
そう言って手を叩く。ラティーカはサンドイッチをコーヒーで流し込み、昨日から残っている書類の束に目をやる。
ふと、その向こうの中隊長席に、カップがそのままになっているのに気がついた。
そのままにして出ていったのだろう。あとで自分のとまとめて片付けておこう、そう考えてから、あることを思い出した。
イアンはコーヒーを飲まない。自腹で買ってきた紅茶を、人に頼むでもなく自分で淹れている。
(事情ねえ…)
ダリミルの言葉を反芻しながら、ラティーカは中隊長席のカップを眺め、それから仕事にとりかかった。
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