エピローグ 君の瞳に囚われた
冷気を浴びて、線路を走る
新幹線が駅に到着した。高層ビルが立ち連なっている。
僕たちは東京にやってきていた。
隣りの席に座って、くたびれた身体をのばして外の空気を吸った。
秋谷は今、僕の隣にいる
*
「秋谷さんは、通院ね。あんな無茶は絶対だめよ。生きてて奇跡って思いなさい」
看護師にそう押さえつけられ、数日の入院の末、秋谷は退院した。
病気を治す気がない、その言葉の真意は、秋谷が薬や通院を拒んでいたことにあるらしかった。発作が起きやすくなったのは、両親が離婚した十歳のとき。そして母との二人暮らしが始まり、始めは通院もしていたけれど、母が匙を投げた。秋谷も病気と向き合うのをめんどくさがるようになり、絵と漫画だけの世界に閉じこもった。中学の部活で知った漫画道具。通院費として振り込まれていたそれに多額のお金をつぎ込んだ。デジタルも使いつつ、アナログで絵を描き始めたらしい。
秋谷の入院を連絡しても、いい返事をしなかった母親に代わって、権田先生と僕で看護婦の話を聞いていた。
結論、秋谷は十六歳で一人じゃなにもできない。だから、成人するまでは周りの大人に必ず助けを求めて治療に真剣に向き合うことを義務付けられた。
「プールもだめなわけじゃないのよ。誰かが付き添っていれば泳いでいいのよ」
「そうなんですか!?」
看護婦の言葉に僕は嬉しくなった。
「それより、通院できる覚悟はある?治す気がないと、看護師の私たちが頑張ってもよくならないよ」
「あるよ、だって私、林野くんに愛を教えてもらったもの」
秋谷は子犬みたいな大きな目でこっぱずかしくもそう豪語した。
やめてくれ。バタ足をしたくなった。
その病室に、「すみません」と息を切らしたあづさがランドセルのまま駆け込んできた。
「ねぇ、二人とも。スクーリングって知ってる?」
「漫画雑誌編集部主催で開かれる出版社のイベントだよね?それがどうしたの?あづさちゃん」
「当たっちゃった。来週東京行ける?」
*
病室のカーテンがそよぐ。ベッドに背を預ける秋谷と、乱入してきてまだ息の荒い興奮したあづさが僕にマシンガンで説明をしてきた。
けど、よく頭に入ってこなかった。看護婦と先生の目が冷ややかだ。
それは漫画雑誌の紙面で漫画家デビューを目指している卵たちが
自分の描いている漫画の持ち込みをして編集者に見てもらえるイベントらしかった。おまけにゲストでプロの漫画家が来て、質疑応答、漫画を描く実演も見ることができるらしい。参加者はその雑誌への投稿経験者から抽選で選ばれるとのことだ。
「なんとなく姉ちゃんの名前使って申し込んじゃってたんだよね、そしたら抽選通ってた。すっかり確認するの忘れてたよ」
「なんで勝手に応募するんだよ!」
「いっくんの部屋で漫画見たとき、どうせなら姉ちゃんとおんなじところに見てもらったらいいのにって思ったんだよ!」
ジタバタしてるのを秋谷がなだめた。
プールサイドにクリアケースに入れたまま放置していた秋谷の漫画を、本人の許可取って読ませてもらったらしく、二人はほんの数日で良好な仲になっていた。
「そうだ、秋谷さん見せに行ったら?その漫画。だってプロみたいだもん」
「私はいいよ……」
遠慮する秋谷に、先生が口を挟んだ。
「行ってこい。もしかしたら自活できるチャンスに繋がるかもしれない。お前は十分その実力がある。林野も一緒なら東京ぐらい大丈夫だろう」
「えっ!?」
「そうだよ。いっくんも参加する名目として持っていきな、おんぼろの漫画!」
プールから拾い上げて、変に曲がってしまったり、一部トーンが剥がれてしまった漫画を一応大切に封筒に仕舞っていた。それはもう見れるものじゃない見た目になっていた。
「デートだよデート野暮なこと言ってんじゃないよ」
あづさはそう勝手に盛り上がった。なんだかんだ両親や看護婦の許可も降り、あっという間に東京へ行く準備が整っていった。
秋谷の体調のことがあるので、日帰りで無理はしないという約束になった。
「もし秋谷ちゃんがお風呂に入りたいって言ったときはそばにいてあげるんだよ。ちゃんと脱衣所で見張っててあげないとな!」
「だから、日帰りだって!」
佐川は冷やかしてきた。僕たちが付き合ったのが嬉しくてしょうがないらしかった。
ストレスや、呼吸器を圧迫しがちな水場が危険になりがちな秋谷を気遣って、
僕たちは細心の注意を払って新幹線で出かけた。
東京についてからの移動は、病み上がりの秋谷が体力を消耗しないようタクシーを使った。
「林野くんは車、もう大丈夫なの?」
交通事故がトラウマになっている僕を気遣ってくれた。
「うん……秋谷が一緒だから。大丈夫だよ」
「すごい東京だ!」
「高いところはだめだかんな。東京タワーとかスカイツリーとか」
「新幹線疲れちゃったの。風呂風呂」
「入る時間ないから我慢して!」
「築地!もんじゃ焼き!原宿!クレープ!」
「元気になったらまた来ような!」
騒ぐ秋谷をなだめつつ、僕たちは知らない景色をたくさん歩いた。色んな話をした。僕が水泳をしていたときの話、秋谷が中学校までをどうやって生活していたかの話なんかも。
そして、出版社のビルの受付を経て会議室に集められた。出席者名簿を持って立つスタッフの人に呼び止められる。
「二人?」
「はい」
「ペンネームは?」
「千葉瞳未です」
「あぁ、共作なのね?」
「はい、二人合わせて千葉瞳未です」
会場に入ると、他に二、三十人程度の参加者が着席していた。高校生大学生ぐらいがほとんどだったが、稀に年下っぽい少女もいた。少女漫画雑誌主催のイベントだから当たり前だけど、僕以外全員女子だった。
場違い感にきょどっていると、プロフィールシートが前から配られた。そこに瞳未の投稿歴を、二人でなりきって埋めた。
時刻になると、拍手に包まれ大人の女性が入場してきた。どうやら雑誌の看板漫画家らしかった。
手元を照らされた、カメラがスクリーンに映され、Gペンを持ち、下書きをなぞる実践教室が始まった。格が違う美しい生原稿が秒であがり、会場全体が恍惚のため息をもらした。
そしてすぐさま質問大会が始まる。
「スランプに陥ったときはどうしてますか?」
「漫画を書いていて楽しいと思った瞬間はありますか?」
全員が積極的に手を挙げ、回答もぽんぽんと進んでいった。漫画家も的確に返答を返す。質問は結構具体的な内容にまで及んだ。投稿経験者しか参加できないイベントというのも頷けた。
「男の子を書くのが苦手なんです」
年下っぽい少女の質問にはこう答えた。
「男の子は、リアルな男の子をよく観察することね。例えばそこに座っている少年。まゆげがりりしいわ。目元は涼し気なのに。唇なんかもやっぱり女の子と違うのよ」
その場にいる全参加者の女性が注目してきた。秋谷は笑いをこらえて他人のフリだ。
僕は赤面した。
せっかくの二度とない機会だ。
僕も負けじと質問をした。
「なんで、先生は少女漫画を描くのですか?」
すると、ここまでポンポンと会話のリレーを楽しんでいた漫画家は、しばらく考え込んだ。
「そうね……きっかけは、小学生のとき、好きな人に気づいて欲しい気持ちがあったけど伝えることが出来なかったから、かな。奥ゆかしい初恋を大事に大事にして忘れたくないって思っているのが少女漫画家なのかもしれないわね」ふふ、と笑い、
「少年いい質問するじゃん恥ずかしいわね!」と会場を笑いの渦に誘った。
質問大会も終わり、漫画家が退場すると会議室をあとにし、ブースへの案内を受けた。
「編集部からの面談は受けられますか?原稿かネームかなにか持ってこられてますか?」
「お願いします」
二人並んで、机を挟んで座る編集者の前に案内された。
「はいはい、次は、ってさっきの少年じゃないか」
まずは、秋谷の原稿を食い入るように編集者は見た。
「画力が安定しているね。華やかだね。」など、時々厳しいだめだしもあったが、秋谷はとても嬉しそうだった。
これ、スクールに回していいの?と話す。本当に初投稿?と驚いていた。
そして僕はしわくちゃの原稿を気まずいながらも、鞄から差し出した。
「馬鹿野郎、原稿をこんなにしわくちゃにすることがあるか、そしてこんなのを持ってくるな……ん?”千葉瞳未”ってなんだ」
「あ、ペンネームです。千葉瞳未。本名は違いますが」
「何をふざけたことを言ってる。この住所、年齢、名前の子を俺は顔まで知っている。俺が担当をしているからだ」
ガラの悪そうなおじさんは、最終ページの裏に記入した応募要項を見て急に声色を変えた。
「……は?」
「彼女、なんか用事があって来れなかったのか?もう一年以上連絡がないんだ。ネームもらってダメ出ししてそれからどれだけ携帯にメールや電話しても返事なし。それになんだこのしわくちゃの原稿。きったねぇ線。ああ確かにこの物語だよ。どういう事情?」
信じて疑わないまなざしだ。
嘘だろ、そんなことあるか?
この人が瞳未の担当さん?一緒に漫画を作っていたという?
たばこ吸ってるしいかにもガラ悪そうなおじさんだ。
でも、僕はひるまないし逃げない。東京まで来たのだから。
意を決して告げた。
「千葉瞳未は、去年の冬に亡くなりました。彼女の原稿を引き継いで、僕と秋谷の二人でこれを完成させました」
ぽろっと煙草を落とし、狼狽し出した。
「嘘だろ、そんなこと、なぁ、……なんで、」
「事故で即死でした」
男は原稿をバッと流し読みすると、
席を立ち、足をぶつけたのか、あぁ……とうなだれて、ペットボトルの茶をぐびっと飲み干した。すると一息に喋りだした。
「馬鹿野郎、そんなことあっていいはずねぇだろ。四年前。まだ小学生だった頃だな。へったくそだったんだよ。初投稿で端にも棒にもかからなくて、そんときだってお小遣いためて編集部まではるばる持ち込みでやってきたんだよ。なんちゅー意思の強い目をしてる子だ、って。そしたら二回目、三回目立て続けに投稿してやっと入賞したんだ。そして晴れて俺が担当になったんだ。四回目で惜しいところに入賞した。知らねぇだろうけどよ、これでも二人三脚で頑張ってきたんだよ。このイベントだって一回参加しに来たよ。あぁ厳しくしたよ、何回もネーム再提出させてコンビニでファックスさせてな。画力めきめきと上がってやんの。面白くって。中学生デビューも夢じゃねぇなって俺も燃えちゃって。あと一歩だったんだよ。なのに、こんなことってねぇだろ」
男は目頭を押さえて、頭を抱えた。
間違いない、この人の熱さが瞳未を育てていたんだ。生前影で瞳未を支えて、彼が、瞳未が夢に邁進できた理由だったのだ。大の大人が狼狽しているのを見て、愛らしい人だ、と不謹慎にも感想を抱いた。その感情にまっすぐな様子を見て、僕の胸も熱くなっていた。
「……僕は漫画初心者だけれど、瞳未の漫画の素晴らしさを遺族に知ってもらいたく、代理で原稿を引き継ぎました。文化祭でも先日これを展示しました」
「なんちゅー滅茶苦茶なことしてくれるんだよ。いい話がへたくそな絵で台無しじゃないか……ほんとうにもう……」
突然笑い出した。いとおしそうにページのひとつひとつを吟味し始めた。
「でも、いい漫画だな。想いがたくさん詰まってる。……あの子は恋をしたから強かったんだ。あぁそうだ。それはそれはええ恋バナだったぞ。君だろ。一人だけ漫画のことを知ってて待っててくれる男がいるって言ってたよ。それはもう嬉しそうに言ってたよ」
「え……嘘だろ」
「嘘ならこの漫画自体誕生してない。……千葉瞳未は、いい友達を持ったな」
視界が溢れる。なにこれ。プールに入っているわけじゃないのに。
鼻がツンとする。
背中を秋谷がさすってくれてる。でもその表情がよく見えない。涙が溢れていた。ボロボロで、鼻水まで出てきた。男がポケットティッシュを「ん」と手渡してくれる。
「すみません……」
そうか、これは涙だ。
ずっと無にしていたものが溢れだしてくる。僕は瞳未を亡くしてから、一年経ってようやく泣くことができた。大人の男に励ましてもらって、好きな子に背中をさすってもらって。なんのゆかりもない東京で、よく知らない出版社のブースで、色んな人が見てるのに。止まらなかった。ああ、なんて情けない。鼻水で顔までぐしゃぐしゃだ。
「……これ千葉瞳未に見せてないだろう」
鼻水が落ち着くと、男は手帳を開いてそう言った。
「どういうことですか?」
「命日はいつだ。」
「十二月の……」
「もうすぐじゃないか。見せてやれよ。こんなオンボロで大事なもの、投稿作品として受け付けられない。だから、ちゃんと燃やしてやれ」
そう言われると確かに一周忌が迫っていた。
「人ってのは、踏ん切りがつかないと前を向けないようになっているのさ」
ん、と原稿用紙を返すと、立ち上がり、男は僕たちをブースから追い出した。
*
夜遅くになったが、地元になんとか無事に到着した。
翌日朝起きると、食卓のテーブルの上にはがきが置いてあった。
「一周年法要やるんだって。千葉さん、あづさちゃんと話して、ちゃんと決別しようって決心したみたいよ。行くでしょ?」
「おばさん元気になったんだ?」
「見てみ」
母が窓を開けると、隣の家の駐車場に一台の車が止まっていた。助手席に座るあづさが買い物袋を抱えている。運転席のおばさんがそれを笑顔で受け取っている。
「最近、二人でよく買い物行ってるのよ。すっかり仲良しね」
あづさは幼稚園児に戻ったように甘えて笑っていた。
*
一周忌の日を迎えた。亡くなってちょうど一年の冬。それはお寺で行われた。
瞳未の母と父とあづさと。遺族が正式に仕切ってそれは執り行われた。
葬式は身体が変形した遺体を受け入れたくなくて、家族だけの形式的な簡易葬数時間で済ませたため、非公開だった。通夜も拒んだ。仏壇も墓もなかった。だから、今日が初めての参列者を交えた式典となった。おじさんおばさんは精神的に参りすぎて、喪中はがきを出しそびれたままで、親戚になかなか怒鳴られていた。
遺族の挨拶はなんとおばさんだった。
「私たち夫婦の身勝手で、みなさんの悲しむ時間を一年間も奪って申し訳ございませんでした。今日は存分に瞳未を労わって、お別れを言ってあげてください」
想像を絶するほどたくさんの人が参列した。
遠い親戚、なぜかゆかりもないはずの高校のクラスメイト、佐川や権田先生、編集部の担当さん、中学のときのクラスメート……そして秋谷に至るまで。
拾い上げたボロボロの漫画原稿用紙を封筒ごとあづさに託し、持って行ってもらった。
「これを燃やしてください」あづさの頼みにより、お坊さんの手に渡った。
紆余曲折してなんとか完成させた三十二枚の漫画原稿用紙は、境内でしっかりお清めを受けた。そして、外部の庭にて一枚ずつ燃えたぎる炎の中に放り込まれていった。
お経を唱え始めると、
その黒く逞しい煙が空へと上がっていった。、僕と秋谷は参列者に混ざってその光景を手を合わせて見ていた。
「ああ綺麗だなぁ。綺麗になったなぁ……」
お焚き上げの最中、瞳未の両親は僕をみかけると、小声で頭を下げた。
「改めて酷いことを言ってごめんなさい。生くんが描いてくれた瞳未の漫画を見て、目が覚めたの。いつまでもくじけてちゃ、瞳未に笑われちゃうって。生くんも、もう自分のために生きていいの」
「いや、僕こそ本当に勝手なことをしました。ご両親に許可もなく、描き上げてしかも燃やして」
おばさんは別人のようにしゃきっとしていた。
「話して欲しかったわね。最も聞き入れる余裕もなかったと思うけれど。でも、生くんのおかげで見れるはずのなかった景色が見れたわ。本当あの子は意地っ張りなんだから。一ページたりとも絶対見せてくれなかったもの。感謝してる」
その姿は、なんだか懐かしく、幼少期瞳未と遊んだときのように甘えたい気持ちにまでなった。でも、僕ももう高校生のいい歳の男だ。グッとこらえた。
「母さん。姉ちゃんの代わりにはなれないけど、私もいるよ」
あづさがおばさんの服の裾を掴むとおばさんはあづさの頭を撫でて抱きしめた。
「うん。誰も誰の代わりなんかじゃないわ。あなたはあづさ。私達の可愛い娘よ」
もう千葉家は大丈夫なようだった。
今日までの感謝の気持ちを、お焼香で真摯に瞳未に伝えた。
お寺の廊下で他の参列者とすれ違ったとき、その中に、中学のアイツら三人の姿もあった。高校の制服で来ていて、参列者の誰よりも馬鹿みたいに声をあげて泣いていた。そんなしおらしい姿を見ると許すしかなかった。僕に気付くと急に粋がって、
「見てんじゃねーよ」「クソが、クソが」と取り繕ったように暴言を吐いた。
悪役の気持ちはもう分かってるんだよ。僕は嬉しくなって感謝を告げた。「来てくれてありがとう」
*
秋谷の漫画は初投稿ながら、画力の高さとこなれた構成から奨励賞には行くだろうと告げられ、なんと瞳未の担当さんがそのまま秋谷の担当さんになった。ただ、デビューまではそれ以上の勢いとセンスと努力が必要だから覚悟しろよと言われたとのことだ。一度東京まで持ち込みに来たときの話や、瞳未がどうひたむきだったかなど、この間の電話で教えてくれたんだ。と秋谷は教えてくれた。
「あと、あの少年は法要の後、元気か?って林野くんのこと心配してたよ」
ふふ、と笑って僕たちは桜の並木道を歩いていた。
「変わっていくねぇ」
「生きてるからなぁ」
「私にはきっかけがあるから、林野くんが作ってくれたからもう大丈夫だよ」
ちゃんと漫画を描きたいならなおさら通院や薬にきちんと向き合って自分の身体を大切にし、はやく自立できるようにする。なにかあったら近くの大人を頼る。権田先生でも医者でも担当さんでもいいから。という約束の元、秋谷はそのままの生活を続けられるようになった。
「家が裕福でも貧しくても自分の信念を曲げるなって。担当さん言ってた。これは瞳未さんも信じて描き上げられるわけだ。信じていい大人もいるんだね」
「全部終わったらどうなるんだろう、俺って思ってたんだ。変らなきゃ戻らなきゃって」
「そのままでいいんだよ。この漫画は苦しんでもがいた林野くんそのものだよ。そのままのかっこ悪い君が好きだよ」
桜の枝に止まっていたヒヨドリが鳴き声をあげて飛び去った。
「瞳未さんへの真剣な気持ちに漬け込んで私最低、って思って気持ちなかったことしようって思ってたのに。もう!私ははどうしようもないくらい林野くんが好き!分かれよっ馬鹿っふ~やっと言えた」
「あほか、他の人に聞こえるだろ」春はどいつもこいつも僕たちも浮かれていて馬鹿みたいだ。
瞳未の母はよく笑うようになり、あづさはあまり僕の家に来ることはなくなった。中学で生徒会に入って、なんなら生徒会長目指す、姉ちゃんは副会長だったしと言いだし、それなりに勉強に励んでいるようだ。
「よく考えたら姉ちゃんだって小学生までは凡人だったんだ。漫画読んでその辺で寝転がって恋に夢見てたただの女子だ。死んだから無敵に見えるんだ。今からでも勝てる」なんてほくそ笑んでいた。
漫画研究会を退部した僕は、水泳部に入った。
朝練後の授業はだるいし退屈だったけど、同じように眠りこける徹夜明けの秋谷がいた。お互いの酷い寝顔に休み時間腹を抱えて笑った。
担任の権田先生には変わらずパシられ、佐川とも相変わらず部活終わりに校門前の店でうどんを食べた。
季節はめぐり僕たちは二年生になっていた。
秋谷と出会った春を過ぎ、そして夏がやってきた。
そして、プール開きが行われた。
「やるか」
「うん。泳ごう。もう泳げる」
「林野くん市民プールでだいぶ練習したもんな」
「人に見せるのは緊張するけどな」
誰もが一目散に飛び込みたいはずのその青い水面。ひと冬待ち望んだその光景の一番乗りを、水泳部の一同は僕に譲ってくれた。
佐川と隣のレーンに並び、そのスタートの様子を水泳部やいろんな人が見てくれていた。復帰後初めて人前で泳ぐ50メートルだ。
僕みたいな、ただの一生徒の復帰戦なのに、特別に両親やあづさ、秋谷まで招待されていた。パラソルの下でみんな僕を見守っている。
──位置について、用意、どん!
ホイッスルと同時に二人で鋭く水面に潜りこんだ。
水面下は青く透明で、ゴーグル越しの世界はどこまでも孤独だ。頭をひっこめてドルフィンキックをする。水面を見上げると、向こうの世界から差し込む眩しい光に包まれた。僕は浮かんでいく。腕をスクロールすると、鼻と口と耳が水から解放され自由になった。口でしっかり空気を吸い、鼻から息を吐き出した。
「いっけー行け行け行け行け林野」
「おっせー押せ押せ押せ押せ林野」
屋外プールに歓声が鳴り響く。
後ろから佐川の声も聞こえた。スタートの構えだけしてきっと彼はハナから泳ぐ気などなかったのだろう。
ぶくぶくと泡が視界を遮り、そんな僕自身の生きている音が鼓膜を支配する。頭ごと水中に何度も押し戻す。水上に反して、そこは静寂の世界だ。ブーンというモーターの機械的な音が鈍く彼方で聞こえる。
水の中は、死の世界だ。
君の脚はもう見えない。
だけれど、隣のレーンには確かに感じる。幼少期の僕のヒロインの影を。そしてもう反対のレーンには、秋谷が僕をにっこり見つめて泳いでいる。今は水の中だからそんな幻影が見える。
僕はもう一人じゃない。
僕は生きてる。どんなに辛くてもきちんと息継ぎができる。もう教室で溺れたりなんかしない。苦しくない。きっとどこにいても泳いでみせる。
──そういう感情をなんて言うか知ってる?
かつてのヒロインは僕に囁いた。
“楽しいっていうんだよ”
そうか、僕。今楽しいんだ。好きなものは好きって言って手にいれていいんだ。罪悪感なんてなくていいんだ。生きていることが楽しいんだ。泳ぐことが、秋谷の隣にいることが。
──林野くんは今、どういう気持ち?
そうか、これが答えだったんだ。
折り返しの壁を蹴り、ターンで影を振りきった。秋谷の腕を掴んで、ゴールまで一直線めがけて泳ぐ。もう離さない。やがてもう反対のレーンの影は泡となり、消えた。さようなら、瞳未。
君をなぞって、混ざって浮かんで、解けていく。
伸ばした手が壁をタッチしたとき、
水中から頭をあげた瞬間、耳から水が抜けて、わぁっと湧き上がった歓声の圧が鳴り響いた。
「おかえり、林野生くん」
本物の秋谷が水着でしゃがんで、手を差し伸べて僕を待っている。
そのとき、季節外れの桜の花びらがふわりと舞い降りた。どこか枝に引っかかっていたのだろうか。それを迷わずキャッチした。
「私に今度プールの泳ぎ方教えてくれる?」
吸い込まれそうなくらいまっすぐな瞳で、彼女はそう微笑んだ。
過去も現在もすべて乱れてほぐれていく。笑っちゃうくらい変だな。いや、それが恋か。そうだ、僕は今恋をしている。
僕はどこまでも泳ぐ。こうして、生き続ける。【了】
そして、僕たちはプールに少女漫画をばらまいた @sakuma_minoru
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