第7話 私も素敵な『変』がしたいです


こんな思いをするなら始めから出会わなければ良かったんだ


『一つ聞いていいですか、漫画とか描いてて楽しいんですか』

『えっ』

『別に、独り言です。特に少女漫画とか。恋愛とか告白とかくだらねぇなって、それだけです』


桜の木の下で君に勧誘を受けて、そしてなぞり始めた瞳未の少女漫画。


ほんとうにもう、漫画なんて全部くだらない。

恋愛とか告白とか。そんな訳の分からないものは脇役の僕には、はなから無縁だったのに。

なにをこんなに憑りつかれて、やってたんだろう。

あぁもう、疲れた。



「──くんのことが、好きです!」

勇気を出してラブレターを渡す主人公。

瞳未の漫画の主人公は、親の都合で離れ離れになって、その最終日に想いを告げ、バスで別れていく。それ、告白する意味ないじゃん。

朧げな記憶にあるもう二度と読めない漫画のラストシーン。ビリビリに破かれ、風に乗ってどこかに飛んで行った場面。

結局主人公の行動がしっくりこないままだった。


水たまりに枯葉が落ち、波紋を残す。どこに漂うことなく、通行人にぶちっと踏まれた。もう冬になりかかっていた。車の乾いた走行音が寒空に残る。何度飛び出してやろうかと車道を眺めたのち、イライラし出して、僕は秋谷のアパートに向かっていた。



どかどかと風邪薬とおかゆを見せしめのように買って、その足で無理やりアパートに乗り込んだ。

「学級通信持ってきた」とかいう訳の分からない言い訳だったが、何か諦めたかのように心ここにあらずといった顔でドアを開放した。

そして秋谷はすぐふすまの向こうに引っ込んだ。

「自分勝手なのもいい加減にしろよ!どれだけ巻き込めば気がすむんだよ……」

 廊下まで漫画道具が散乱していた。

「お前までいなくなったらどうしてくれるんだよ、お前の漫画までなぞらせる気か!」

 思わず叫んでそんなことを口走っていた。ふすまの向こうから鼻水をすする音とすすり泣く声が聞こえた。ハッとした。僕は何をまた、弱っている人間相手に……。


「……ごめん。八つ当たりだ。漫画描き直しになったんだ。瞳未の母親に死ねって言われた。秋谷もこんなだし、体調はボロボロだし……もう、ダメだ。間に合わない……」


なんでこんなことを語っているのだろう、と疑問に感じつつ止まらなかった。


「バレて原稿半分近く破かれた。道具も全部取り上げられた」


桜の下で誓った”漫画の運命”とかもうどうでもいい。最後は秋谷に委ねよう。ただ、その言葉を待った。

なんて彼女は言う?


「……林野くんは頑張ったよ。お疲れ様」


その言葉は静かに放たれた。焦げ付いたガスコンロ。中身のない冷蔵庫。そんなものに阻まれた狭いアパートの廊下で、部屋の主に嫌われたまま、僕は黙ってただ座っていた。


「私ね、先天性の病気で発作が起きやすいの。よく怪我するのは発作中にぶつけるらしいの。無理したりすると起きやすい。だから徹夜とかは本当は一番やっちゃいけないんだけど。でも最後に悪あがきさせて。漫画を描きたいから無理してるの。文化祭には間に合うようにするから。今までありがとう。あとは文化祭、よろしくね」


ふすまの向こうの秋谷はもう別人になっていた。桜の木の下で、夏のこの部屋で、僕の隣で笑っていた彼女はもういない。


「だから……もう私に関わらないでいいよ」


まるでこれが最後、のように彼女は言った。そうか、これで終わりか。

「そうか。後悔ないようにな」

全く何様だよ、と思いつつ見舞いの品だけ置いて、その部屋を去った。外は妙に晴天だった。車も一台も走っていない。のどかな午後だった。全く、なんでだよ。


その籠城は、思い当たる節があった。瞳未を亡くして閉じこもっていたときの僕に問う。本当にこれでいいのか?でも、本人が言ってるのならどうしようもないじゃないか。漫画に最後の熱を注ぎ込んでいるのは本当だし。

でも、もう何週間も一人ぼっちなんだぞ?

あほか。寂しいに決まってるだろ──。


いろんなものが邪魔をして言いたかった言葉を飲み込んでしまった。くそ、くそ、と僕はブロック壁を蹴った。


秋谷がいない前提でだんだん教室のことが進んでいく。おかしい。席が、席が。美術室が。秋谷が使ってた漫画道具の棚。中身がゴッソリなくなっていた。こんなの変だ。でもそれ以上に僕も変だ。


階段を下りてしゃがんで頭を抱えた。「あ~~~~~~」

言えるわけなかった。秋谷に会う名目がなくなるとか、前みたいにふざけたことで笑いたい、とかこの期に及んでもそんな想いが離れない。もう何もかもが戻れない。消してしまった原稿も、秋谷との関係も。



「先生、もう文化祭の展示はできないです。退部します」


退部届をホームルーム後の権田先生に渡した。

「その怪我どうしたんだよ!」

「秋谷が学校に来ないこと、それがすべてです」

ぎょっとして退部届を受け取った先生に一礼して、自分の席に戻った。需要と供給なんてとっくになかったんだ。



「前から思ってたんだけど、幼馴染コンプレックスじゃないの。林野くんの瞳未さんへの気持ちって」

「え?……そんな言葉聞いたことない」


佐川と放課後、うどん屋に来ていた。唐突な意見に汁を吹きそうになった。


「俺もちっちゃい弟いるから分かるけどさ、ブラコンなんだよ。なんかその感じに似てるな、って思ったんだ。家族同然に大切だったんだろ?友達であり、姉貴であり妹である。それって全然変じゃないよ」

「え、でも僕。瞳未のこと好きらしいんだけど……」

「何ソレ。誰かに言われたの?」


呆れたように、麺を口いっぱいに頬張る。


「難しく考えすぎなんじゃないか。たとえば……林野くんプール好きだろ?」

「うん」

「なんで?」

思わず黙った。麺をちゅるちゅる啜った。


「俺は水の中で聞く音。景色。ゴールの瞬間が病みつきだから、泳ぐのが好きだ」

「あ、それ分かる」

「そうそれ。気づいた?一緒にいたいからいつもプールといるんだよ」


あっさりと佐川はそう言った。好きってそんな単純でいいのか?


「兄ちゃん、良く食べるようになったねー」店主が勘定時にそう笑った。そう、それでいいんだ。

店を出て、漫画を諦めた件を話すと、佐川はただただ寂しそうな顔をして、読みたかったなーと言われた。身体の至る所にある傷については触れないでくれた。優しいな、佐川は。


──バイバイ! 漫画の主人公は手を振って別れのバスに乗り込む。そう、こうやって、瞳未の漫画みたいに、終わらせてくんだ──






「私を誰だと思ってるのよ」

僕の部屋を訪れたあづさが大ぶりな荷物を抱えてやってきた。その手にはなんと、ボロボロになった漫画の紙切れがあった。

「破れてるページも十ページぐらいしかないし、今のいっくんなら繋げてなぞってなんとか出来るでしょ」

「なんで……?だって風で飛ばされて」

「公園の木に引っかかってた。全部回収してきたの。残りの原稿も道具も母さんに頼んで引き上げてきた」

紙袋に入れて、すべて回収したものを僕に手渡したのだ。


「あと一週間ちょっとだぞ。もう、疲れた……」

「これは、いっくんが始めたんでしょ?そんで全部変わっちゃったんだよ。頑張ってるのなら、私も負けずに小学校行くの耐えてるんだよ。私も、きっと秋谷さんも。いっくんが漫画を描くのに関わって来たすべての人が!責任取ってちゃんと終わらせてよ」



その覇気に圧倒される。ふと優しい口調になった。

「学校帰りにたまたま見つけたんだから」

「学校……?」

「また小学校通い始めたの。もう、何も知らないんだね!」


背負っていたランドセルを降ろし、その中から突然アルバムを取り出した。

「母さん悪くないんだ。今ちょっとずつ立ち直っていて治りかけの時期らしいんだ。前、食堂のシャッターを自分から開けたんだ。それに、セーシンカの先生に言われて、姉ちゃんの思い出アルバム作ってるんだ。すごい出来だよ」


見せてもらった。この世に生を受けてから、僕の知らない四歳までの乳児の頃の必死な写真。五歳からのいじっぱりな写真。家。僕がたくさん写り込んでいた。僕とあづさとのスリーショット。一緒に大きくなってきた。ずっと。十年間。ただ写真を貼るだけじゃなくて、色紙にコメントを残してあった。『大好きな生くんとの七五三だよ、よかったね瞳未』なんてコメントも。これ、ほんとに僕を怒鳴りつけた人がこの数か月で書いたものかよ、とずる、と目を疑った。秋谷家がなにか抜けようともがいているのが分かった。瞳未は学校でも人気者だったけど、家族にもこんなに好かれていた。僕の父のカメラにもすべてが残っていた……。


「私もいるのにな。私は変わらず生きてるのに。それが答えなんだろうな。でも、こうやっていなくなった人を思い出にして、人は受け入れてくのかなって思ったんだ」


まっさらになった、僕のものとなった少女漫画の原稿が、半分近く紙くずになってまでも戻って来た。


アルバムをいつまでも、いつまでも眺めていた。

思い出になった瞳未。

そうだ。あの母親にも、中学の奴らにも教えてあげないといけない。瞳未はすごいんだぞ、って可哀想なヒロインなんかじゃなかったんだぞって。

僕が助けてあげないと……。


そう思っていた矢先、あづさは買い物袋を持って、

「私さ、家の家事覚えるわ」と外出した。小学校の帰りに買い物に行くようになったのだ。その背中が、水泳を辞めたときの瞳未に重なった。



朝、寒くなった道は凍結していてその静寂にいざなわれるように僕は寄り道をした。

遅刻なんて構わなかった。ずっと避けていた道を通るために。

今だと思ったのだ。

歩道と車道の区切りは白線しかない、川の西岸に古くからある堤防道路。

ガードレールを曲がって、カーブミラーがある脇道。車が一台通過する。なにもない。動悸が止まらない。僕が左側に立って、瞳未は一歩後ろの右側。ここで車に挟まれて──。突っ込んだガードレールは大きく歪んだままだ。


『ウザイんだよ。お前なんかと比べられる脇役の身にもなってみろよ。なんで僕に、そんな愚痴零すんだよ。嫌味か?』

『違うよ、どうしたの?』

『それとも、それとも献身してるヒーロー気取りか?むかつくんだよ』


幼少期と変わらず「ねぇ」と後ろ手を掴む、その手を振り払った。その直後に事故が起きた。当時、人目のあるところでも子供の時同様に話かけてくる瞳未がうざかった。

僕はいつも瞳未にそっけない態度をしていた。死後、誰もが瞳未をかわいそうと庇い、いつしか僕は、その場にいたことから態度の冷たさが原因だと吹聴されるようになった。真実をついているのが辛かった。

なぁ、なんでお前みたいなスーパーヒーローが死んで、凡人の僕が生き残った?

おばさんの言うとおりだ。僕がそっちに行くべきじゃなかったの? 痛かっただろう。車とガードレールに挟まれて、僕の角度から見えたのは身体とぐったりした脚。頭からは血が噴き出て、ガードレールは赤くなっていった。突っ込んだ車の運転手は雪のスリップだった。運転手も全身を強く打ち、翌日亡くなった。誰も悪くないはずの事故。僕しか目撃者のいない事故。僕が救えたはずなのに。僕がそっちに行くべきはずだったのに──。ただ、つまらない嫉妬なんてしないで、手を伸ばして、引き寄せれば済んだ、それだけだったのに──。

怖い。怖い。怖い。生きているのが怖いよ。歪んだガードレールに右手を伸ばしてその空気を掴む。もう掴める物体はない。もう何もかも遅すぎた。

もう疲れた……。その奥の川の水面が光っていた。底を覗き込むととても綺麗だった。どこに浮きたい。とにかく楽になりたい──。


「待て」


左手を掴まれ、後ろを振り返ると大人の男がいた。

担任であり僕たちの顧問の……。

権田先生。


「先生、なんで……?」

「お前も中学から忠告もらってる生徒の一人だって言ったろう。大人から客観的にみてどんな経験をしてしばらく中学校に来なかったのかや、ここがその事故の場所だったことも聞いてる。その程度だが、それでも言わせてもらう」


先生は携帯片手に走り回った痕跡があった。息があがっていた。なのに、強く言い切った。


「新しく大切な人ができるっていうのは、亡くなった人を忘れるってことじゃないんだ」

「え……」

「生きてる限り始まる」


キィ……!

先生の真後ろめがけて乗用車が突っ込んでくる。ゆるやかにブレーキをかけた車はすれ違いざま、走行速度を丁寧に落とし、ドライバーが一礼してきた。

──権田先生はクラスに馴染もうとしなかった僕をパシったり、漫研に連れていかせたり、道具を秋谷と買いに行かせたり、旗の役割を押し付けられたときも、秋谷の住所のメモを持たせて、僕たちを引き合わせてくれた人だ。ずっとそんな二人を温かい目で見守ってくれてた大人だった。


「人は別れと出会いを繰り返すんだ。大切な人の手を離したり、見送ったりするんだ。そういうことの積み重ねだ」


雲から太陽が覗いて、陽射しが差し込む。それはプールから顔をあげた瞬間、耳から水が抜けて、わぁ、と湧き上がった歓声の圧がクリアに聞こえたときのようなときのような、清々しい朝だった。


先生は、張りつめていた僕の背中に喝を入れた。


「文化祭まで退部は許さん。秋谷を頼むぞ」




教室は文化祭が来週に迫り、ホームルームが盛り上がっていった。

「ねぇ、林野くん。秋谷ちゃん、部活来てないの?」

秋谷がよく弁当食べてた、教室でつるんでた女子だった。そりゃあ心配するだろう。ちゃんと彼女を覚えている人もいる。

そうだよ。何考えてんだ、僕。僕が漫画を描いてるのは、心の整理をつけたかったから。その時間が愛おしかったからじゃないのか。

秋谷になら、訊ける。瞳未に訊けなかったことが。死んでからでないと理解されなかったなんて、絶対にさせない

「絶対教室に連れ戻すから、僕に任せて」

女子にそう告げ、教室の扉を開けた。

秋谷は絶対に、一人ぼっちになんかさせない。うざくても、心のどこかで僕を支えとしてくれるのなら。

「サボりは厳禁だぜっ」

「ぐはっ」

クラスメイトから殺陣を唐突に降られた。敵役として練習したぶっ倒れるアクションをして、股をすり抜けて扉を出た。

「ちょ、林野くん、まだ稽古あるよ……」

「ちがうちがう、秋谷ちゃん連れ戻しに行ったんだよ」

「そうか、ヒーローになりにいったのか!」



彼女が住む街。その坂道を下って、大嫌いなはずのイチョウの並木道を駆けて伝える。

「秋谷!イチョウが綺麗だよ、やっと並木道できた!……あと、やっぱり僕も漫画描くよ!一緒に間に合わそう!」

顔を出した彼女が驚いて見下ろしている。

窓の奥の世界に籠城する彼女を、僕が連れ出す。

──僕が秋谷のきっかけになる。


着替えて降りてきた秋谷は

ニットのワンピースに身を包んでいた。冷たい気候のなか、むごんで並木道を歩く。

「銀杏」

手のひらの上に置いて唐突に見せつけてきた。指で転がして潰すように表面を押し始めたので

「臭くなるからやめろ」と制した。

にひひっと彼女が笑った。

「……秋だねぇ。秋谷の季節だよ」


くしゃりと音を立てるイチョウの絨毯の上を歩く。あたり一面黄色だ。そこに、隣に秋谷がいる。いたずらに笑って僕の隣を歩いている。夢みたいだ。


「見て、ちょうちょ捕まえた!」

「え、」

「へいパス!」

「ふぁ!?」

僕の掌に舞い降りたそれは繊細な羽でなく、固い黄の葉っぱだった。

「それイチョウだよ

なるべく柄の長い葉を拾って、わっかを作って、通して葉を二つに割いて、羽を作って最後に柄を縦に二つに割ってハイ完成」

「……器用だな」


子どもみたいにはしゃぐ秋谷。黄色のとのコントラストが眩しい。秋谷には黄色がよく似合う。


「小さい頃、これ教えてくれたの母親だったの。少ないけどちゃんとあった、楽しかったこと。生まれつき身体が弱くて愛想つかされちゃったみたい。そのくせこんなガサツだし」

ははっと笑って続けた。

「……漫画描きながら昔あったこととかいっぱい考えたの。私、昔好きな漫画家にファンレター出したことあるの。『私もこの漫画の主人公みたいなステキな「変」がしたいです』って書いたんだ」

開封した漫画家が呆気にとられる姿を想像したらまぬけで吹き出してしまった。

「どんな変だよ。秋谷は既に変してるよ。常に変してるよ!」

「うるないなぁ、九歳だったんだもん!恋って漢字がまだ書けなかっただよっ」


でも、恋と変って語源は一緒らしいよ。もつれた糸にけじめをつけようとするって意味で乱れると同じ意味らしいよ。……そんな風にしおらしい声で彼女は語り出した。


「それでステキな『変』はしたのか」

「……分からない」

「今は?」

「うん。漫画を描き終わったらけじめをつけるつもり」


さぁ、と風になびく、切り揃えられた髪。覗く横顔に僕はすべてを忘れた。どこまでも純で吸い込まれそうな茶の光彩。ぶれることのない真っ黒の瞳。なんて切ない表情で街路樹を見上げるんだ、

もう少女なんかじゃない、綺麗な女性だ。

なんというか、遠すぎて手を伸ばせない。

いちょうをびりり、と破るとこちらを見た。

「あー破った!ちょうちょが、」

「僕もちょうちょ量産してちょうちょまみれにしてやる」

「汚い、汚い」


「僕もけじめをつける。瞳未とじゃなくて秋谷と漫画を描きたいんだ。学校で待ってるからな」

秋谷は微笑んで、うんと頷いた。




その夜、玄関チャイムを鳴らしおばさんを呼び出し、すべてを明かした。

「もう少しでできます。負けない気持ちで描きました。

漫画だけは認めてください。あと、あづさの気持ちも。良ければ文化祭来てください」

そう言ってパンフレットを渡した。

その表紙の絵は、僕が描いたものだった。

漫研は美術部を引き継いでできた部であり、代々文化祭の表紙担当を担い続けている。その役割が、秋谷なき今、必然と僕に回って来た。

全校生徒に既に配布済みらしかった。

瞳未の絵をなぞって得た力が、何百分も刷られ、大きな渦となり動いている。


脚が震えた。でももう負けない。家に戻ると両親に渡した。跳んで喜んでくれた。



その週末、少し離れた地域のスポーツクラブが抱える温水プールに来ていた。佐川の水泳部の新人大会だった。

ホイッスルの音と同時に飛び込む佐川。

「いっけーいけいけいけいけ佐川」

「おっせー押せ押せ押せ押せ佐川」

応援席で部員から掛け声をもらって、どんどん加速する。僕はその光景の一部に今こうしていいる。

ただ自分を信じて泳ぐ彼はかっこいい。水しぶきをあげて力強いストロークで圧巻した。

泳いでるところが好きって言ってくれてた瞳未の目に映ってたもの。その場所に僕は初めて座った。ガッツポーズする佐川。ちょっと分かった。全然違う。僕は瞳未のこと全然知らなかった。でも分かった。漫画も水泳を見る立場も、疑似体験だけどな、全部。

泳ぎ終わってベンチに戻って来た佐川に話しかけた。

「立場が逆になっちゃったな」

「ほんとだよ。でもこうやって僕は林野くんの中学の大会見て、本当に感動したんだからな」

「僕だって感動したよ」

グータッチした。

「林野じゃん!」

振り返ると、中学の水泳部で一緒だったかつてのチームメイトがやってきた。

「夏の大会でいなかったって聞いて、びっくりしたんだよ。林野が水泳辞めちゃったって」

「今日はただの客だよ。実はな、ちょっと泳げなくなっちゃって」

はは、と頭をかいて言った。

「でも、今日分かった。僕はやっぱりこの大会の雰囲気、好きだ。しばらく別のレーンで戦ってたんだ。文化祭で、僕が描いた少女漫画を展示するんだ。もし興味あれば来て欲しいな」

その、かつての仲間たちのあんぐりとした顔は忘れない。


「すごいな、林野くん。あんなことサラッと言えないよ」

「やっぱりカッコいいよ。君は僕のヒーローだよ」

 ──僕は、主人公なんかじゃない。ただの脇役──

「きみこそ、そんなことサラッと言うなよ」

佐川と肩を組んでうなだれた。




ここからはもう時間がなかった。破れた紙を貼り付けて、トレース台に翳して、新しい漫画原稿用紙に直でペン入れしてなぞっていった。トーン貼りをして、

完成を延期していた漫画にとりかかった。

終わらせるのは怖いけど、ちゃんと向き合わなきゃいけないと思った。自分が巻き込んで始めたこと、すべてに。

トーン貼り、ベタ、全てに集中してカッターナイフに向き合い続けた。

漫画を描くと瞳未と一体化できる気がするよ。でも、同時にはがれてく気もするよ。だってニセモノだもん。この原稿。

主人公が、手紙を渡す。家族の元に転校し、好きな人にそれを渡してバスに乗り別れる。打撲が治り、前を向く主人公。これはもう一人の瞳未であり、秋谷であり、僕だ。



そして週明け、秋谷が教室と部室に現れた。

「おかえり、秋谷ちゃん~~~」

「やるよっみんな。なっさけないなぁ!」

「無理すんなよ」

「佐川くんには言われたくないわ」

「文化祭前だから来てくれたの?」

「違うよ。ちょっとね、素敵な”変”がしたくなったんだ」


秋谷が教室にいると華やかになる。空気が変わる。

淀んだ水面が朝の陽を浴びる。教室が暗転して、すべてが秋谷を中心に咲く。

笑顔を見るだけで、疲れがスッと飛ぶ。なんでなんだろう。空気を変える力がある。

目で追ってしまう。

「ん?」

たとえば、暗い廊下で彼女が歩いていて、振り返ったとき、

プールに光が差すみたいに、手を伸ばしたくなる。

空色のスクリーントーンを貼りたくなる。大切に大切に、その輪郭をなぞりたくなる。

愛おしくって、見ている人にこれはヒロインだわって思わせるような、でも、本当は誰にもそれを教えたくないような……


「久しぶり。私がいなくて寂しかったでしょ」


髪を耳にかけて振り返った。どこまでも澄んだ眼はすべてを見透かしているようで、やわらかい髪は、異性だと僕に教える。

その脚は、健康的で不気味なんかじゃない。君は生命力の象徴だ。

ああそうか。君は木漏れ日だ。

この景色を大ゴマで一ページに納めたかった。僕の心の中だけの漫画原稿用紙に。

とっくに僕だけの、特別だったんだ。



その数日後、すべての工程を終えた。空を見ると、よく澄んでいて朝日が昇っていた。おなかが減った。

「終わったぜ」

連絡を、秋谷に入れた。既読がついた。今頃寝巻のままやってるのかな、とあの寝ぼけまなこを思い出して、くすっと笑った。


そして文化祭の日になった。

「十三時頃に行くからね。美術室の場所も連絡するから教えてね」

父と母が支度をしている。

今日も手作りの弁当を受け取って、元気よく玄関を開けた。


「いってきます」



*********


「教室では冴えない普通の男!でも放課後には愛する人を守るためヒーローに変身する!」

「戦え、正義の味方、我ら、教室戦隊レンアイスルンジャー」

「ヒーローは強い!ヒーローは最強だ」

ヒーローたちは練習したアクションを音楽に合わせて格好良く決めていった。

ニキビ菌の僕は、黒い全身タイツで覆面を被って、舞台上で立ち往生した。

「好きな女の子の悩みを解消するのが僕の役目だ、お前なんか消えろーどこか行っちまえ!」

颯爽と現れるレッドに武器を振りかざして、殺陣シーンが始まる。

やがて、蹴り飛ばされ、拍手喝さいを浴びるレッドから逃げるように退いた。

教室で愛する女子のために治安をパトロールする戦隊ヒーロー。ただただぼこぼこにやられる哀れな脇役だ。


蹴られるのは痛かった。中学のときも、こないだも。でも、脇役にだってプライドがある。

瞳未も秋谷の気持ちも分からない。だけれども、みんな痛い思いを抱えているのはわかる。みんな一人ぼっちで何か、自分だけの熱いものを求めているんだよ。

その信条に従っていったらきっと、別の物語でヒーローになれるんだ。


「はっ」戦隊ブルーの佐川に、負けん気で武器を振りかざす。

「なんのっ……」音楽と共に、僕たち敵役はぶっ倒れた。

「睡魔も体重計も元カノもニキビ菌も……やっつけだぞ!」

ヒーローたちが拍手喝さいを浴びているのを、床でやられたフリして這いつくばって眺めた。その光景が、みんなお客さんが笑っているその場面が、なんか綺麗だった。

「信じていれば、お前ら全員がレンアイスルンジャーになれるんだ!」

「信じていれば、愛が勝つ!」

大団円で終え幕が下りた。

袖から見ていた権田先生が「良かったぞ」と全員をねぎらい、僕の肩に手をそっと添えた。

覆面の中で顔が熱くなった。

時間が押し、衣装のまま教室まで撤収した。

「アオレンジャー♡こっち見て~」 佐川が女子に手を振って颯爽と歩く。そんな光景の脇役として僕は役割を全うした。



着替えて美術室に戻る。何かと忙しかった僕の代わりに先生が、作品展示を一人で準備してくれていた。だから展示を、僕たち漫画研究部の集大成を、本番にして初めて目の当たりにする──。

秋谷の漫画は結局展示されなかった。間に合わなかったのか?そう顔を伏せると、見たことのある絵が目に飛び込んできた。今まで描いた無数の秋谷の絵が、端から端まで貼り付けられていた。僕の漫画に華を添えるように、謙虚なものだった。なんで。なんでなんだよ。

泳いだり、絵を描いていたり、それを僕を描いた絵ばかりだった。


展示されている僕の漫画を人々は興味深そうに見てくれた。


「わぁすごい連作!?」

「少女漫画だ。男の子が描いたの?描きかけの遺作を素人の僕が引き継ぎましただって」

「えー、なにそれドラマみたい」

「絶対素人じゃないでしょ、そういう体で展示してるんだって。上手すぎだもん」


女子が大賑わいではしゃいで、男子も茶化すように見始め、次第に食い入るようにストーリーに没入し出した。知らない誰かの保護者も、腕を組んで鑑賞し、口コミで広まったのか、入りきらないくらいの人が押しかけていたのだった。


「作者の人ですか? 漫画感動しました!」なんて握手を求めてくる人も稀にいた。


──そして、

僕の母が足を踏み入れた。隣にはおばさんがいる。その後ろにあづさも一緒だった。

長い時間かけて言葉を失ったように一同は眺めていた。もう十分だった。──でも、

「秋谷がいないんだ、探さないと。あづさ店番頼めるか」

「いや、私小学生だけど!」

「俺もいるから大丈夫だよ、行っておいで」

展示を見ていた佐川があづさの肩を持つ。

僕は秋谷を探しに校内を走った。


嬉しい。完成したものを見てくれる。この湧き上がる気持ちを、一番に伝えたい。

秋谷。秋谷、どこだ。君の漫画が読みたい。

文化祭の仮装や人ごみを分けて、君を捜す。

どこだ?秋谷が居そうな場所?

もしかして、同じ気持ちなら──僕の行きそうな場所にいる?


渡り廊下を抜け、屋外プールに行くと、フェンスの向こうにいた。プールサイドに腰をかけていた。靴下を脱いだ脚は水中に浸けている。その手にはB4のクリアケースを持っていた。

「見つかっちゃった」

「展示しなくて良かったのか?そんなクオリティ高いもの。」

「考えたんだけどどうしても初めは林野くんに読んでほしくて、」

「だって僕は、きっと多くの人の人生にとっての悪役だ。主人公じゃないのに?午前中はニキビ菌で、ヒーローにぼこぼこにやっつけられてきたんだぞ」

ふはっと笑う。

「君がいい。君が私の唯一の読者でいい」


展示の時間が終わり次第、剥がした僕の漫画を持って再びプールに来た。

分厚い紙束を封筒とクリアケースから取り出して交換して読んだ。


初めてちゃんと読む秋谷の漫画だった。

前読んだ話にアレンジを加えてきた。

前の学校で抱えたストレスという魔物を追い払って新しい学校に転校してくる主人公。そのトンネルを抜けると男の子が野菜を持って待っていた。

悩みを解消しようと好きな男子と穴を掘ってる。

『君と一緒だと、どんなに泥や汚れても女の子は楽しいんだよ。穴に落っこちちゃってもへっちゃらだもん!』

その主人公の台詞が秋谷の声で脳内再生された。不器用でジェットコースターみたいな恋がまっすぐで素敵だ。破綻してるけど伝わる。秋谷と主人公が重なって伝わった。

「……すごいな、やっぱり」

ぷはっと息継ぎした。忘れていた。僕は没入していた。

秋谷もちょうど読み終わったようで横顔がほころんでいた。

ちゃぷ、とプールが揺れるの音がした。夕焼けを見上げてプールサイドにひっくり返った。

「まぁともかく終わったぁー!嬉しい。めっちゃ嬉しい。みんな読んでくれてた」

瞳未の本当のすごさをいろんな人に分かってもらえた。千葉家もまわり始めた。僕もやりたいことやった。これで心置きなく……

すくっと上体をあげる。

水面に裸の木々と、僕たち二人の姿が映っている。とんぼがやってきてその水面にとまった。

「これで心置きなく、漫画描くのやめられるよ」

「……辞めるの、漫研」


「だって、もう描きたいものなんてないし。僕はそもそも絵ヘタだし、漫画家志望でもないんだよ」

「せっかくうまくなったのに勿体ないよ」

「本気の人を知ってるからこそ、なおさらけじめをつけたいんだ」

「そんな……」

「始めから、そうだったじゃん。僕は瞳未の漫画をなぞるためだけに入った」


秋谷の漫画を丁寧にケースにしまって脇に置いた。プールだけが気まずい僕たちを知っていた。水面に浮かんでいる落葉にとまっていたとんぼが飛び去った。


「じゃあ私たち、もう……一緒にいられないじゃん!」


立ち上がった秋谷。そのときプールサイドに勢いよく強風が吹いた。漫画が数枚風に飛ぶ。わっと追いかけた秋谷はよろけてプールに傾く。

「危ない!」その手にあった瞳未の漫画が風に煽られ、プールにばらまかれてしまう。僕は迷わず秋谷を抱きしめた。

「ぷは」水中から顔を上げた。十一月の屋外プールはかなり冷たかった。

壁まで誘導し、そのときふと気づいた。秋谷の身体が妙に重たかったのだ。腕に力が──ない?

『私、後天性の発作が起きやすいの──』

ふと頭にその言葉がよぎった。

無理に彼女を引き上げて横に寝かせた。口から、ゴフ、と何かを吐いた。

「秋谷?」

引き上げた秋谷は、脚をだらんとさせ、水がしたたったままだった。生気のない顔で一点を見つめて吐物をぬぐうことなく、ふるふる震えていた。

「え、え、え、?」


プールには三十二枚の漫画が浮いたままだ。

そんなのおかまいなしに、震える手で、辛うじて防水で保たれている携帯を操作し、先生に電話を繋いだ。

すると血相を変えてかけつけてきた。佐川とあづさまでついてきた。

権田先生は顔を青さめていた。


「秋谷!秋谷!……これはマズイ。やばい、救急車呼べ!」

ここからの音は、耳に水が詰まったみたいに聞こえなくなっていった。

「秋谷はプールがだめなんだよ。発作を起こしやすくて、水中で気を失ったら──水を誤って飲んでしまったら──」

まもなく担架が到着し、彼女はのせられた。先生と保健室の先生だけを連れて、救急車は遠く去っていった。





僕は溺れている。


助けないといけないのに、腕が動かない。

どれだけもがいても、水面を目指して水をかいてもだめだ。これは溺れている悪夢だ。プールの底から湧き上がる水流に足をとられて息が続かない。

「ごめ……」言葉を発しようとすると、

赤黒い血が濁流のように僕をめがけてやってくる。


秋谷は、集中治療室にいる。

その廊下で息をひそめて僕たちは待っていた。親には連絡したけどすぐには行けないとのことだ。暗い。怖い。悲しみをまた繰り返すのか?


ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。目を開けることも叶わず、脚の自由を失くした僕は、呑まれて吸い込まれて流されていく……。


泳いでいる。彷徨っている。その先に見つけた足の裏の少女がこちらを振り返る。



ここはどこ?


白い光に包まれると、水の気泡の音のはるか彼方で歌声が聞こえた。幼い子供の声だ。

……このメロディーはバースデーソング?

『ハッピーバースデーディア瞳未──』

僕と両親とおじさんおばさんとあづさの昔の声。

これは幼少期の記憶?

瞳未はまだぽっちゃりしていて、その手元には大きなケーキがある。嬉しそうに頬を赤らめていた。

『瞳未、誕生日おめでとう』

僕は過去の自分に入っているようで、勝手に手が動いた。箱を開封すると漫画道具の初心者セットが入っていた。

『ありがとう。大切にするね』


電撃が走った。──これが、瞳未がアナログで、紙で漫画を描きたがった理由?僕ですらすっかり忘れていた記憶だ。

そうだ、瞳未はいつも大切なものから一度も目を逸らさなかったんだ。逃げて見ないフリしていたのは僕のほうだったんだ。

変わってしまったのは、僕のほうだったんだ。

ずっと、大切なものを大事にしていただけだったんだ。


僕は激しい渦に飲まれ、水面へと上がっていった。


水上に顔を出すと、そこは中学三年生の夏の水泳大会があった屋内プール場だった。目を疑った。水中に潜ると、十五歳の瞳未が中学の冬の制服を着たまま泳いでこちらを見て微笑んでいた。時を止めて僕たちは話しているらしかった。


──それ、高校の制服?似合ってないねぇ

──瞳未?


──やっぱり生は水着がお似合いよ

──なんで?


──お別れを言いに来たの。大切な人が出来たんでしょ?

──また、守れなかった。もうあんな悲しい思いはしたくないのに。……でも不思議なんだよ。なんでこんな悲しいはずなのに、彼女のことを考えるとあたたかい気持ちになるんだろう?


ひと思いに吐露した。

ふ、と十五歳の瞳未が笑う。


──馬鹿。なんて顔してるのよ。そういう感情をなんて言うか知ってる?


瞳未が耳元で、その単語を囁いた。


驚いた僕からごふっと気泡が上がった。


そうだ。僕はあの子を守りたかった。あの子と一緒にいたかった。

傷つけるだけだとしても。一緒に漫画を描いていたかったんだ。

ちがう、ただ隣で笑ってて欲しかったんだ。こういう気持ちをどう伝えたらいいんだろう。


ゆっくり瞬きをすると瞳未が遠くなっていた。


──でも、その感情を持ったら瞳未は……

──人は死ぬ。この国だけでも何人もの人が死んで来た。そのうえに生まれてきたんだよ。

──忘れたくない。一日たりとも君を忘れたくないんだ。

──縛り付ける重い女にさせないでよ。ときどき、年に数回思い出してくれる、お盆とか命日とかそんなんでいいよ。私があなたの生きる糧になれるのなら。


十五歳の瞳未はくるっと一回転した。


──生。好きだよ。生が幼馴染でよかった。生の隣に引っ越してきて十年間幸せだったよ。


そう、君にだけはその言葉を言って欲しかった。だってかけがえのない、家族のような友達のようなたった一人の存在だから。僕の五歳から十五歳までの十年間のすべてを肯定してくれる人だから。



「瞳未? ひとみぃぃぃぃぃ!!」


渦は白い光となって再び包まれる。水面を目指して水をかいて溺れていく。プールの底から湧き上がる水流に足をとられてもう息が続かない。最後の気力を振り絞り、右腕を伸ばす。消えかけるその灯。

瞳未の影は最期の輝きを放ってぷつんと消えた。


カタン、

乾いた音を立ててリノリウムの床に遺されたのは、Gペン。

墨にまみれた、ただの木の軸とメタリックだ。

「ここにいたのか……」

僕はそれを拾い上げ、歩き出した。




「林野、林野起きろ」

目を覚ますと僕は車の後部座席にもたれかかっていた。

「秋谷は?」

ガバッと起き上がり、運転席でハンドルを取る権田先生に詰め寄った。

「俺らは一端引き上げたんだよ。処置の邪魔しちゃ悪いからな」

僕は重度の寝不足で十七時間も寝ていたらしい。

「今から秋谷に会いに行くぞ」


先生と一緒に受付を済ませて病院のエレベーターに乗る。引率の看護婦が行き先を示すボタンを押した。

ふと目を閉じると、薄暗い廊下の映像が流れ込んでくる。ここはどこ。霊安室……?ひんやりとした空気、肌を凍てつく生気のなさ、そんな暗闇が僕の脳を支配する。


エレベーターが到着を告げる音を鳴らし、おそるおそる目を開ける。扉が開いたその先は、あたたかく清潔なフロアだった。

僕は走り出し、相部屋のドアのネームプレートを見て回った。

「林野!105号室!」

先生の朗々とした声でその部屋に辿り着き、その姿を見つけると、迷わず抱きしめた。


「生きてる……死んだかと思った……」

「え、ちょ……どした?」


秋谷は綺麗な入院着に包まれ、窓辺のベッドで点滴を受けていた。でも手元にはパンがあった。愛おしい。すべてが可愛い。

そうか。僕はとっくに知っていた。

こういうときに伝えるべき言葉を。

理解できなくて馬鹿にしていた台詞を。


「もう漫画なんてなくていい、口実なんていらない」


漫画の主人公は伝えたかったからバスで別れる前に男の子に伝えたんだ。意味のない行為なんかじゃなかったんだ。ぎゅ、とその小さな背中を抱える手に力を籠めた。


「漫研はやっぱりやめる。ただ君と一緒にいたいんだ」

「え……」

「秋谷が好きだ。僕と付き合って、ください」


少女漫画は人を動かす。

その湧き上がるあたたかい気持ちが作者も読者も巻き込んで、うねりとなり世界を変えていく。


窓の外には雪が舞っていた。やがて積もり、すべてのわだかまりごと溶ける。そうして、春がやってくるのだろう。


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