第6話 恋愛をする資格


「秋谷が描いてる漫画のネームを見させてもらった」

職員室で権田先生は言った。ネームとは部室に度々持って来ていたコピー用紙に描いてたラフ絵のことだ。

「内容が独りよがりなんだよ。主人公が自己完結してしまっていて周りが見えてない。モノローグばかりだった」

「モノローグってなんですか」

「主人公の心情描写だ。小説だと字の文になるのかな。でも、秋谷が描いてるのは小説じゃなくて絵のある漫画だからな。登場人物が一人で云々考えてる姿を延々見せられても仕方ないだろ。会話をして相手を理解しようとしないといかん」


僕の前に置かれた湯呑からは湯気が立っている。それに口をつける気にはとてもなれなかった。


「……少女漫画家志望の女子は陥りがちって秋谷言ってたのに、自分でその穴にはまってしまってるんだよな」

「どんな話なんですか」

「好きな人を想って穴を掘り続ける話だ」

ちょっと言っている意味が分からなかった。まぁ秋谷らしいっちゃらしいが……。

「物語は、相手の見返りがないと完結しないのに、その見返りがないと思い込んでるんだよ。そんなのただの詩だ。物語じゃない」


先生はそう言って、湯呑のお茶をちびちびと啜った。


──たとえば、助けたいと思った人が助かるための力が自分に足りないと分かったとき、そっと身を引くのが相手のためにも正しいのだろうか?


『秋谷はちょっとした持病を持ってるんだよ。問題は、持病を治す気がないというところだ……たぶん持病だけが原因じゃないな、この登校拒否は』


歩道と車道の区切りが白線しかない道。接触事故が何度か起こっているのに改善されない危険な場所。


どっちもきっと一人の力じゃどうようもないことだ。でも、その渦中に巻き込まれてしまったとき、

人はどうするのが正しいのだろう。どうすれば全員が救われたのだろう──。






「文化祭のクラスでの出し物なんだけど、すみません。劇の抽選に落ちました」

教壇に立つ生徒は、教室中から大ブーイングを浴びていた。

文化祭まで一か月を切り、ホームルームの時間が増えてきた。

「代わりに同じように体育館のステージを借りられて、笑いあり涙あり。確実に劇より目立てるものを申請しといたから、みんなで準備するよ」

そうやって、準備が進められているるようだった。

秋谷がいない教室には興味がない。

でも、いなくても日常は進んでいく。

筆ペンを使う練習をしつつ、うたた寝をしてしていた僕は取り残さそうになっていた。

気候が涼しくなってき、校門前の街路樹の葉の色が、黄色に染まっていた。すっかり秋めいていた。


ふと我に返ると、僕以外の男子が全員立ち上がっていた。「そういうわけで男子は総動員で。人数が足りないから、じゃあ残りの男は全員敵役で」

「……で、林野くんはニキビ菌ね」

「はい!?」


黒板には”ヒーローショー”とでっかく書かれていた。





「話の流れが見えないんだけど」

後日配られた脚本に目を通しながら佐川と麺を啜る。


「アクションあり、変身あり、ダンスあり。劇じゃなくても体育館でも映えるだろ?」

場所は校門前の例のうどん屋だ。教室で置いてけぼりの僕を見かねて、息抜きに連れ出してくれたのだ。

男達が好き放題暴れまくる、明らか男子優位な内容に女子から反感が大きかったので、恋愛要素を盛り込んで、急遽脚本を作ったらしい。

好きな女の子を守るために降りかかる災難や教室の治安をパトロール(?)するとかなんとか。

で、敵役は、睡魔、体重計、元カノとかいろんなパターンがあるが、僕はニキビ菌役らしい。

なんとまぁ見事な脇役だ。

衣装は黒タイツで覆面。台詞も特にないが、アクションをする必要があるので、ヒーロー・敵関係なく、演者はほぼ男子だけで務めることになったらしい。

話を聞いていた店主がグラスに水を注ぎながら口を挟んでくる。

「兄ちゃんら青春してるな~」

「青春ってのは大変なんですよ」

佐川はやれやれ、と首を振った。

「ちなみに俺はブルー役だよ」

「ヒーロー側なのか!?」


汁をぷは、と飲み干して、しばらく扇風機に当たって二人黙り込んでいた。

「文化部はそっちの展示もあるし、忙しいよな……林野くんは漫画もあるし、嫌だったら断りなよ」

なんかデジャブだ。体育祭の旗のときを思い出す。そうだ。こういうとき秋谷なら、『おもしろそーじゃんやってやるわ』なんて、言うんだろうな……。

「いいよやるよ。いい運動になるかもしれないし。肩とかピキピキなんよ」

ストレッチをしながら僕は立ち上がり、勘定を済ませた。



ヒーローショーの稽古に顔を出し、誰も参加しない部活に出て、トーン貼りを黙々とし、そんな変な日々を過ごしていた。

そんなある日、隣の家の駐車場にちょうどおばさんがセーシンカから帰って来た。門扉の向こうに入院着のような白い服装で出てきて、ゆっくり歩き、僕の前に立った。


「あら遅いのね」

「ちょっと文化祭の練習で……」

「あらもうそんな時期なのね。いいわね、生くんは自由で、楽で。瞳未を置いて、どんどん成長しちゃって、羨ましい限りよ」


気配を感じない、かつての面影もない精気のない姿だ。ぼさぼさの黒髪の長髪をひとつにまとめて、……気味が悪い。

「お大事にしてください……」

辛うじて声を絞り出すと、何も反応せずすっと家の中に戻り、玄関の扉が静かに閉まった。


僕は息を止めていた。はっと思い出し息継ぎをすると肺が苦しく痛んだ。

瞳未に遺伝するほどの綺麗な顔立ちが、すっかりやつれて不健康さを際立たせていた。

僕は重く鈍くなった心をどうにか奮い立たせて登下校していた。



昼夜、筆ペンを持ち、漫画の主人公の髪を塗る。練習したツヤベタで綺麗に仕上げる。

瞳未の長くて美しいやわっこい髪を。秋谷の切り揃えられた瑞々しい髪を。どうにか再現したくて、

僕は命からがら紙面に吹き込み続けた。

 



というわけにもいかなかった。


「敵役こそ重要だよ。投げられるときにきちんと受け身取らないと怪我の元になるし。ストレッチや柔軟はもちろんコツを覚えてもらわないと」


練習で怪我をしたら元も子もないということで、急遽スーツアクタ―のプロの指導が義務付けられた。これにはクラスメイトもびっくり。ヤケクソに団結し、各々が張り切り出した。


「そう、ヒーローに攻撃された場所は観客から見て分かり易いように空けておく。もちろんやられるときだって攻撃しようとしてやられたという概念を忘れちゃだめだよ!」

「「「はい!」」」


ヒーローだけでなく敵役たちも、稽古の頻度がどんどんあがっていった。柔道場にマットを引き、基礎を重ねていく。

もはや文化祭というか修行だ。

漫画に割ける時間と体力がどんどん削られていった。

なんだこれ、秋谷がいないとどんどん流されていく……。


「林野くんってさ、漫画描いてるんでしょー」

水を飲んで壁にもたれかかっていると突然近くにいたクラスメイトに話しかけられた。

「へ?」

「漫画研究部に入ってるんだろ。どんなの描いてるの?」

興味を持ってくれるのはありがたいのだが、どう答えていいのやら……。

「スポ根?」

「いや、ちょっと少女漫画を……」

「いいじゃん!」

「えっ意外なジャンル」

これには驚いた。立ち聞きしていた他の生徒も混ざって来る。顔をしかめる人がいなかったのだ。


「こっちは完成度上げとくからさ、敵役は最低限のリアクションさえ頑張ってくれたらいいから」

「文化部は文化部の発表優先してくれていいからね。絶対完成させてね!」

なぜか人が、みんなが応援してくれていた。

誰も僕をほっといてくれなかった。

なんで?それが……うざいって思いつつも心はあったかかった。


「林野、ちょっと聞きたいんだけど」

隣に腰を下ろしてきたのは同中出身の女子だった。小泉という、瞳未ともまぁまぁ仲のよかった女子だ。


「秋谷さんに訊かれたことがあるんだ。瞳未ってどんな人だったって。秘密主義の努力家だって答えといたよ。間違ってないよね?」

「はい?」

「いや、学校もう十日も来ないからさすがに心配で」

「……秘密主義は間違ってない。秋谷はよく分からん」

ぶっきらぼうにそう答えた。


「……林野といえば水泳だったじゃん。なんで、漫画研究会なの」

「それは、瞳未が……」

「幼馴染の遺品整理をしてて、その彼女の名誉のためにラブストーリーの漫画を描いて戦ってるんだ」

衣装合わせで、どこかから仕入れた既製品の戦隊ブルーユニフォームに身を包んだ佐川が口を挟んだ。

「佐川!?」

「中学の水泳部の林野くんやっぱりカッコよかったよね?でも今はそんなわけで漫画に生きてるんだ」

それは見事なネタバラシだった。


「えーじゃあ主人公は幼馴染?!」

「そう、幼馴染の描きかけを、形にするために林野くんが引き継いだんだよ!」


きっと馬鹿にされるから言いたくないって瞳未は言ってたのに、こんなあっさりと知られてしまった!

おい、佐川!

……しかしその反応は想像していたものと違った。

「えー何それ素敵!」またもや聞き耳を立てていたクラスメイトが寄って来た。

みんなが応援してくれる。それが嬉しいなんて、こんな世界線があるなんて思いもしなかった。

「そんなことしてたのか……秘密主義とはいえ、それほどとは。教えて欲しかったな。応援できたのに」


小泉は、ちょっと悔しそうに笑ってた。なんだよ、通じるじゃないか。瞳未、通じたよ。隠さなくても良かったんじゃないか……?

──『ヒロインは涙は見せないのよ。努力してる過程は隠すものよ!』

勿体ないよ、そんなに一人苦しまなくても分かってもらえたはずなのによ。


バン!という乾いた音が柔道場に響き渡る。敵役の一人がマットに投げ飛ばされた音だ。窓の外は冬の訪れを予感する、午後の陽射しが差し込んでいた。ぼうっと僕は考えた。



ああそうか。違う。

死んだからだ。瞳未は死んだからみんな各々解釈してくれただけなんだ……。


「瞳未といえば、この写真マジ?中学の同級生のグループチャットで回ってきたんだけど。これ、やっぱり林野だよね」

 小泉のスマホには、ひでぇ男三人と、僕がピースしてる春頃無理やり撮られた写真が映っていた。画材を買いに行った日の、あいつらが撮ったものだろう。秋谷は男に比べると背が低いおかげか手以外写り込まなかったみたいだった。ラッキーだ。

「あの三人マジで荒れてるらしい。北高が勉強地獄で土日補習ばっかりなんだってさ」

小泉は僕のいじめを知っている傍観者のひとりだった。大抵の同級生は自分の進路に関する中学三年という時期だから遠巻きに見ていただけで、僕に同情的ではあったのだ。


「ヒトゴロシーって理不尽に蹴られてたのに、強いよね。林野は」

小泉はそう笑って去って行った。




殺陣の練習が始まると文句を言っていた女子が黙った。衣装の調達やなにかと細かいやることが多い。

スーツアクターに教わり、側転、

武器のスムーズな奪い方など、授業中柔道場を借りてひたすら練習だ。そして、跳び蹴りの練習。股関節を痛めやすいからよくストレッチ。

「着地の足は捻らないように。筋肉の量が足りてない。軸がブレてる。腰で蹴ると威力がある蹴りに見える。脚の回転をかけ続けてると骨盤がここまでくるから。勝手に脚が追い付いてくる。脚は伸ばすんじゃなくて、折る!」

「はい!」白熱していた。


放課後そのまま残って二人になっていた。

アオレンジャーこと佐川と殺陣練習を柔道場でしていた。

「はっ」「はっ」

ふと我に返る。

「いや、何やってるんだろ……。人生ってこんなんでいいのか?だって一年前まだ瞳未生きてるぞ?秋谷だって不登校なのに、なんで僕、漫画じゃなくて、殺陣練習してんだよ……この話崩壊してるよ……」

「しゃーない、しゃーない。日常ってそういうもの!」

十一月だ。水泳部は屋外プールの練習を終え、陸トレ一本の時期に入ったらしい。部活が退屈だからちょうどいいよ、と笑っている。

「なぁ、一個聞きたいんだけど、明らかな悪役っているじゃん。どう思う?どう思って人を虐めたりするんだろうって」

「林野くん、まさかニキビ菌の役作りしてる?」

「うん」

「……寂しいんじゃないの。だから暴力に出る」

「スーツアクターの人に言われたんだ。やられたことを明確に表現する。リアクションの幅を広げるんだ。あと、感情を忘れるな。アクションも演技のひとつ。気持ちでやれって……感情ってなに?」

「うーん……悔しいとか、不甲斐ないとか?」

「うん。ただ棒立ちじゃ敵にはならないって……」


瞳未が死んだとき、秋谷が漫画の手伝いを辞めると告げてきたとき、ただ棒立ちだった僕に何ができる?殴られても蹴られてもなにも思わなかったのに。交差点で言われても、秋谷が動くまでなにをするでもなかった。

感情を、感情を大切にするってなんだ?


壁にもたれて脚本をパラパラした。


水を飲んで、自分の出番の流れのひとつひとつを見ていた。

「おっ林野くんの給水タイム!」

「うるさいうるさい」



“好きな女の子の悩みを解消するのが僕の役目だ、お前なんか消えろーどこか行っちまえ!”

颯爽と現れるレッドに蹴り飛ばされ、拍手喝さいを浴びるレッドから逃げるように退く僕。

教室で愛する女子のために治安をパトロールする戦隊ヒーローにただただぼこぼこにやられるニキビ菌の哀れな姿がそこに描かれていた。


「ブルーも格好いい台詞あるじゃん。いいよな。好きな女子を守るんだろ……?」

「ああ、んなもんいないけどな。でも、林野くんは違うでしょ?」

「……僕には恋愛する資格なんてないよ。ヒトゴロシだから。色んな人の悪役だから」

佐川もペットボトルで給水するついでに、マットに腰掛けた。


「瞳未さんのことは事故でしょ?そんなに気に病むことなの?」


「……ヒトゴロシは、あながち間違いじゃないんだ。つまらない意地を張って、ちゃんと聞いてあげなかったんだ」



瞳未は、弱いところを決して見せない人だった。だから、強い人だと信じて疑わなかった。

夢自体なくて、熱くなれるものもなくて、「瞳未に比べてお前は」なんて勝手に比較され、不釣り合いカップルだと罵られることに疲れていた中学三年生の冬。

冬は屋外プールで泳げないし、急に寒くなってイライラしていた十二月。プールに浮くみたいに世を俯瞰して見てた僕に、テストだの進路だの、急に降りかかってくる現実が雪のように積もる。それは塵のように汚く、泥だらけで、かいてもかいても進めない道に閉ざされている心地だった。


遅くなった瞳未が待っててというのに、無視して先に帰り、暗い夜道を走って追いかけてきたのだ。

『生、なんで逃げるのよっ。私こう見えても落ち込んでるんだから……私もう、ここまでかもしれない。夢なんて所詮。おとぎ話なんだよ。担当さんにこのままじゃデビューできないって総ボツにされちゃったんだ。悔しくて新しく書きなおして下書きまでしてやったわ』

進路も余裕で、おまけに夢を語る純真さまである瞳未はあまりに眩しくて、一番うざかった。昔から聞いてた夢物語は、そのときの僕にとってはそんなの、どうでもいい贅沢な悩みだった。

『はぁ?』

『な、何』

『それ、僕に何か求めてる?はいはい、って慰めてもどうにもならなくない?』

『え……』

『ウザイんだよ。お前なんかと比べられる脇役の身にもなってみろよ。なんで僕に、そんな愚痴零すんだよ。嫌味か?』

『違うよ、どうしたの?』

『それとも、それとも献身してるヒーロー気取りか?むかつくんだよ』

『そんなんじゃない!聞いて欲しかったから話しただけなの』

『じゃあ初めからそういう奴の家の隣に引っ越してくんなよな』


たいして何も考えず言った八つ当たりだった。

車輪の後の滑りやすい道を大股で踏みしめ、事故の多い脇道へと走り出した。待ってよ、と慌てて駆けだしてついてきた」。その脚が、滑って転んだ。間が悪かった。そこは街灯がたったひとつの暗い道で、何も見えずおまけにしゃがんでいた瞳未めがけて滑ったトラックが突っ込んだ。それが、十年来一緒に過ごした幼馴染への最期の言葉になったのだった。


今だったら絶対こんな言葉言わない。

後悔が残るから?そんなんじゃない

最後に悲しい思いをさせて、頼ってくれたのに本音を聞けなかったのが悔しいんだ


「なんで後先考えず、冷たい言葉ばかり言ってたんだ。そのときの僕を、この手でやっつけたいよ」


ふつふつと闘志にあふれていた。

「来い来い、かかってこい!」


その日、佐川はヒーロー役なのに、敵役の僕の無理くりな暴力を華麗な受け身すべて受け止めてくれた。




それは、今思うと初めて瞳未が零してくれた愚痴だった。

へとへとになっても、夜になるとやはり足は自室の机の漫画に向かった。

なぞってみたから分る。瞳未も不安でいっぱいだった。

そもそも完璧な人なんて、少女漫画を描かない。

人に漏らすことのなかった本音や不安を全部漫画にぶつけてた。マイナスの力をプラスに見せる場所を人よりはやく見つけていた、それだけのことだったんだ。


瞳未の漫画は、中学生の女子が主人公だ。運動部の部長をしている。部活中打撲してしまって、部活を休みがちになってしまうとところから物語は始まる。松葉杖になり歩く速度が合わなくなって、友達や部活から疎外感を感じたところ、日直で一緒になった男子がバス停までの道を歩調を合わせて歩いてくれることから恋に落ちる。親が仕事に明け暮れ、ひとり病んでいく。その隙間を支えてくれた男子だ。でも、親が明け暮れていたのはもうこんな寂しい想いをさせないため。引っ越し先で定住する夢を叶えるためだった……。主人公は両想いになれた男子と離れ離れになってしまう。痛切な想いのためがその漫画に籠められていた。

 少女漫画だな、と思う。

 でも。だからこそ、瞳未と重ねずには読まずにいられない。怪物討伐とかのファンタジーなら全然感情移入なんてしなかったんだけどなぁ、と思った。

 なんでこんなものを遺してしまったんだ、と。

 叶えられなかった妄想、みたいで余計読んでて苦しい。

 キャラが能天気に浮かれて、好きな人に悩んで、友達と話して、

 少女漫画なんてちゃんと見たことなかったけど、結構女子の当たり前が描かれている。

 一歩外れた何かが恋を始め、加速させる。それは別に男だから女だからとかはない。

 瞳未が描いてたものが少年漫画だったら、僕は別に何とも思わなかっただろう。

 でも少女漫画だから、いとおしくて狂おしい。

 それは、瞳未のまぎれもない本音だから。叶えられなかった、知ることのなかった歓びが描かれているから。

 読んでる対象読者は小学生とか中学生とか高校生もいるのかな。

恋愛に憧れて、人は少女漫画誌を手に取るのだろう。

恋愛なんて、と男だから思ってしまうが、それでも。 

今を我慢した先にきっと、恋人ができて、恋をして、やがて遠い将来に結婚して、子どもができて、そういう未来があり得るのだろう。

そうやって男と女は栄えてきた。

 少女漫画は夢、その可能性だ。

 可能性を夢見て、瞳未は少女漫画をひたすら紡いできた。

 なんで?

 君はそんな方法でなくても、素敵な恋愛を夢見れる女子だったじゃないか。

 あの頃はよかったなんて言えるのは喉元過ぎた大人だけだ。きっと子を持つようになって、子と自分を比べて初めて言えるんじゃないかな。

 大人はそう言うけど、そこに辿り着くまでが長いんだよ、暗くて怖いんだよ。

 高校生ってもっと大人なんだと思ってたよ。

 だから、きっと大人になりきれない人達のために、大人を夢見る人たちのために、少女漫画は今日も紡がれていく。

 少女漫画の、死骸。

 卵から還って雛のまま死んだような無防備さ。たとえば路傍に転がってても、汚いな、とか青いな、とかその程度で誰も足を止めない。無慈悲な靴が行き交うだけだ。

 でも。そうじゃないだろ。僕は手を合わせていたい。その儚さをちゃんと覚えていたいんだ。どんなに青くて僕は、僕たちは知ってる。それは必死にもがいた証だ。

 君は完璧なんかじゃなかった。だってまだ子どもだった。どうにもできない夢を紡ぎ続けた。僕はそれを無下にはしたくない。君は素敵だ。それを誰よりも誇ってほしかった。


ツヤベタとトーン貼りに明け暮れた。

主人公の髪を瑞々しく染め、服は柄いっぱいの生地にしたて、空白部には一面の青空を貼った。少女の笑顔には花を咲かし、涙には星を降らせ、振り返った景色には夕焼けを燃やした。

その漫画を彩る日々、どうか、君の人生で幸福であったように、祈って僕は上書きし続けた。

秋谷。

彼女は、どうして漫画を描き出したんだ?そこに何を籠めてるんだ? 




「生、ここ数週間ご飯よく食べるようになったわね」

「え……」晩御飯時、母親に急にそう言われた。確かに苦痛に感じることが少なくなっていた。というより何も考えず食べていた。

「それでいいのよ。それが普通なのよ。お友達が家に来てくれたときは気を遣ってたのかあんまり食べなかったもんね」

「あの遠慮してた女の子、普段はちゃんと食べてるのよね?なんか、疲れてそうだったから。元気してる?」


秋谷は、何を食べてるんだろう。あの誰も帰ってこない家で。あの漫画馬鹿が。食欲をなくした状態だと、まさか飲まず食わずな……そんなわけ、な。




噂をすれば、秋谷は美術室に突然現れた。でかいトートバックを持ってきた。初めて画材屋に行ったときのものだった。尋ねるまでもなく、棚に積んでた漫画道具を次々と回収しだした。

「なにしてんだよ」

「もう来ないから、家で描くし」

「なんだよ、この膝の怪我」

「ほっといてよ、関係ないでしょ。」

「ちょ、待」

ガシャン、墨汁の小瓶が割れた。秋谷の靴に墨汁が飛んだ。真っ黒に

「もう、いい」

ガラスと墨汁が散らばった。その振り向きざまに、手をどうしても伸ばせなかった。

「病気って本当か?」

「…先生か。死にはしないわ」

「需要と供給が一致してるんだろ、僕たち!違う?僕は漫画を描く方法を教えて欲しい、秋谷は居場所として漫研が欲しいって言ってたじゃないか……」

「……もう、一致してないよ。だって林野くんはもう一人でも漫画を描けてるじゃん」



確かにそうだった。もう僕は一人で漫画を描いていた。


コンビニまで続く坂道を下って、あぜ道、堤防、古い橋、河川敷。嫌になってしまうほど見た、何もない田舎道を歩いて、家がある住宅街へと帰る。

クラクションの音がどこか遠くで鳴り響く。救急車だって週に一回は必ず見る。登下校時、うざいと思っていた瞳未がいなくなった途端、こんなにも息がしづらくなった。


瞳未は死んだから理解を示してもらえるようになった。でも、生きてる人はそういうわけにはいかない。秋谷、彼女は一体何を考えてるんだ……。


足は、秋谷の家に向かっていた。いつ行っても空き家のような家だ。両親はいない、一人暮らしだ。本当は母親がいるけど、帰ってこないという。

──『違うんだよ、愛されて育った林野くんの家とは』

年季の入った部屋。離婚した父親が使っていたという和室の棚。

──『ちょっとした持病を持っていて、治す気がないんだ』



あの日、部室に漫画道具を取りに来たとき、持参したクリアケースから秋谷の漫画の一部がちらっと見えた。

それは、男女が学校の裏庭に穴を掘り続けているシーンだった

ヤマアラシかよ。

どんな話だよ。妙にそのワンシーンが離れなかった。


夢をみた。

秋谷が水着を来ていて、脚をむきだしにして座っている。水着姿、初めて見た。

「おいでよ」

誘われてプールの水中へと僕も降りる。

ひゃっは~。そんなまぬけな声を出して 秋谷が水中で身体を抱えて一回転する

「私に追いつけるかな?」

待ってよ、

床には誰かの足跡がべったりとついている。

ふと泳ぎを進めると、誰かが突っ立っている太ももが見える。女の人の水着の形だ。

「誰?」

ふと前方を見ると、ひらひら泳いでいた秋谷の脚が見えない。

「秋谷?」

太ももの正体が知りたくて水面に頭をあげた。

そこは血の海だった。どこまでも赤黒く、正面には、プールの壁に大型トラックが突っ込んでいた。女性が壁との隙間に挟まっていた。もがいていたのは、その剥き出しの太ももと脚だった。生々しい、生々しくて、僕は血を吐いた。

「あああああああああああああああああああああ」


目が覚めると、そこはたった一人の部室だった。

中途半端にデコられたへたくそなトーン貼りが施された滑稽な汚物がそこにあった。




ヒーローショーの練習に適当に参加し、冗談じゃないくらいフラフラの足取りで帰路につく。

家が見えて安堵したとき、電柱にぶつかり鞄を落とし、うっかり数枚、ばらまいてしまった。

「何やってんの、馬鹿」

通りすがったあづさが拾うと、

「あづさ、何やってんだ──」

乗用車から降りてくる、おじさんおばさんが目の前にいた。セーシンカ帰りだった。

「それ、何?」

瞳未の漫画原稿用紙。僕が勝手にペン入れして汚く仕上げて台無しにした遺作。道路にばらまかれて、少し折れてしまった。肌身離さず持ち歩きすぎた。あまりに雑な扱いだ。顔を上げた僕は血の気が引いた。呪われたように動けなくなってしまったのだ。


「生くん、いつもあづさと瞳未がお世話になってるわねぇ。そうこれよやっと、証拠を押さえたわ」

それを拾い上げると、もう我慢ならないわ、と僕の鞄をひっくり返し、道具や原稿をあますことなく取り押さえた。

「これ、瞳未のでしょ。生くん、うちの家にコソコソ入ってるらしいわね。なんか瞳未の部屋のものが次々なくなってるのよ。親はなんでも知ってるのよ?なんで勝手に持ち出すようなことしたの?」

「母ちゃん、私がやった、」

「あづさは黙ってなさい!」

急に金切り声で言葉を荒げた。

「瞳未がコソコソ気持ち悪い作業してることも。隠したがってたことも。両親共働きだからバレないって?ふざけんな。親はなんでも知ってるのよ。年中シャッターが閉まった家だから知られてないって思ってた?大間違いよ。あんたが持ってたのね。返して、私の分身を」

「僕は、その秘密を、瞳未の本当の姿を知ってもらおうと思って、やった。返せ、僕の漫画だ」

「何かアンタのものよ、ただ隣に住んでるだけなのに、ふざんけんじゃないわよっ!最初から最期にまで一緒にいたくせに、守れなかったくせに」

それはまるで老けてヒステリーになった瞳未だ。永久に見ることの叶わないその顔で、そんな言葉遣いをしないで欲しかった。

「なんで瞳未なのよ、うちの子が死ななくちゃいけないのよ。もう……アンタが死ねば良かったのに!」

こんなときに限って道路に車は通らない。

エスカレートする言葉を止める術はもうなかった。


「あの子はもう、年をとらないのよ、中学生のままなのよ」

コンクリートに膝まづいて、泣きじゃくるおばさん。「死ね!!もう来ないで!!こんなことになるなら、アンタの隣の家に引っ越してくるんじゃなかったわ!!」


びり、びり、びり、


命よりも大切に描き上げて、守ってきた、瞳未の原稿が、遺作が……。

母親に取られて、破られた。

桜のように儚くて、プールで見た陽炎のようにゆらめいて、落ち葉のように脆く、雪のように溶けていく……。


「やめてくださ…」


地面に跪いて僕は崩れた。

強引に奪い返しても意味がなかった

もうおしまいだ。これまで半年の間、秋谷とやってきたことも全て。

僕は瞳未と出会わなきゃ、良かったんだ。


これはきっと、瞳未と秋谷を中途半端にした。

僕への罰だ。

”漫画の運命が君にめぐってきたんだよ”

僕の手に渡っちゃだめだったんだ。僕なんて、いちゃだめだったんだ。


騒動に気付いた近所の人が集まって来てるようだった。出てきた僕の母になだめられ、おばさんは大人しくなると家に引きずりあげられたらしかった。ひっくり返された道具と残りの原稿は気づいたらなくなっていた。もう、何も分からない。

破れ落ちた漫画の原稿をかき集めようと地面に這いつくばった。無残にも一瞬の不注意で、風に流されて飛んで行ってしまった。



ああ、本当に。

死んだのが、僕のほうだったらよかったのに。




***


「よぉーヒトゴロシ。なんでお前から連絡してくるんだよ」


僕は、同中の小泉の画面越しに知ったアカウントのSNS通じてアイツ等に連絡を取った。夜の公園に呼び出された僕は、有無を言わず向かった


「ヤケになりたくなったんだよ」


トーン貼り用の瞳未のカッターナイフを手渡す。

身体を広げて秋の月夜の光を浴びる。


「殺したきゃ好きにしろよ」

この際だ。お前らもヒトゴロシにさせてやるよ。


男らは瞳孔が見開いていて、躊躇しているように見えたが、

顔を見合わせるとニヤリと表情を変えた。


「どうなっても知らねーよ?」


僕はごみ置き場に散乱するごみ袋の上に突き飛ばされた。男のボスが、馬乗りになり、カッターナイフで周囲を僕の顔の横をザクザクに切り刻んだ。


「ふざけんな、ふざけんな、くそが、くそが…」


悲痛なほど叫んでいる。感情むき出しだ。

もう、このまま殺されても構わなかった。

なのにトドメは差してこず、カッターは後ろに捨てられ、グーで殴られ続けた。


悪役の気持ちなんて知るか。人の感情なんて計り知れない。僕が知らないだけで慣れない環境に絶望して色んなものと戦ってるのだろう。

『……寂しいんじゃないの。だから暴力に出る。悔しいとか、不甲斐ないとか?』

そうなのだろうか。

月と背の高い遊具だけがこんな僕を知っていた。


三人にそうして殴られ続け、意識が遠退いてきたとき、飽きたのか「似合わねーんだよくそが」と蹴とばして帰っていった。


土足で踏まれて泥にまみれた僕は、しばらく月を眺めて夜風にあたっていた。


起き上がると、節々が痛んだ。頭と足の数か所から血が出ていた。なんだ、この程度かよ。手加減されていたのか怯んだのか。ともかく僕はカッターナイフをごみ置き場から拾って足を引きずって帰った。


所詮脇役なんてこんなもんだ。

瞳未も秋谷も助けるヒーローになんてなれるはずもない。

寂しくても泣き叫びたくてもどうしようもない。悪役は救われないのだから。

僕はどうしようもない、非力なただのクソガキだ。




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