第5話 トレース台に託す夢


──「私、漫画手伝うの辞めるね」


例えば、こういうときどういう反応をすれば未来が変わったのかな、なんてつい反省することが年齢を重ねるほどに増えていく。

夜更けまで机にかじりついたときに、ふとそんなことを考えてしまう。


墨汁で汚れたメタリックのGペン丸ペンと、引っこ抜かれたペン軸、柄が印刷されたスクリーントーンに、カッターナイフ、半透明のトレーシングペーパー、雲形定規、筆ペンに製図ぺン、羽根ぼうきに、デッサン用モデル人形、まだまだ画面の白い漫画原稿用紙が机に収まりきらず、床の至るところにばらまかれている。

これがいつのまにか僕の部屋の当たり前になっていた。

部屋の乱れが心の乱れなんだとしたら、僕の精神状態はもう何ヶ月もこんな調子だ。


──「私は私の漫画の続きを描こうかなって考えてるの。前見せたやつをちゃんと描き直そうかなって」


とぽぽぽ

透明の小瓶に純黒の墨汁を注いでいく。蓋をして振ってみる。

ちゃぽちゃぽ

こんな小さな世界に閉じ込められたものが、無数の夢を描いていく術となる。

そんな、静かに心が熱くなれる方法を教えてくれたのは君だった。

なのに。


「聞いてくれたら描き方とかはもちろん教えるから。そこは安心して。でも、ここからは正々堂々だよ。私、林野くんに負けたくないから」


夏の午後、薄暗い廊下の窓にもたれて、忙しない仕草で打ち明ける彼女。その姿を漫画の登場人物に落とし込んでみる。

コマ割りが細かくなり、歯切れが悪くなっていく様をバストアップで端的に現すのかな。

それとも敢えて表情は写さず、指先や足だけでその感じを演出するのもありかな。

もしくは、窓の外の空から俯瞰した、二人の姿を遠巻きに晒すのも……。

多分、悩んだ末にGペンを置いてしまう。

僕はどういう反応をして、そこに立っていれば、未来を変えることができたのだろうか。


「これからはライバルだよ」

言い残した台詞だけが、いつまでも僕の脳内に焼き付く。

ページをめくると、もうそこには君がいなくなって、僕だけがただ呆然と突っ立ったまま、そんな虚しいシーンだ。


僕はどこまでも相変わらず、傍観者だった。

もうなんか、全部。あらゆる漫画道具を使って、このシーンごと、墨で塗りつぶしたい。




十月になっていた。木々の葉が変色して、歩道の至る所にはらりと落ち始めていた。

プールの授業はとっくに終わっているのに、あのけだるく眠い感じが抜けなかった。


「林野、こいつの土曜日の話聞いてやってくれよ。こいつさー彼女いるんだよ。で、土曜日映画行ってきたんだって。ゴ〇ラ。彼女に見たいものを合わせろよ。ゴ〇ラで喜ぶ女子高生どこにいるんだよ」

クラスメイトの男がこんな風に突然脈絡のないことを話しかけてくる。

体育祭が終わってからだ。佐川以外の男子もしれっと休み時間の僕に絡んでくるようになった。


「YouTube見せたときは喜んでたんだけどな」

「それとこれは別ジャンルだろー俺らだけだって。女には無難に感動できる恋愛モノとかにしとけよ馬鹿だな」

「……本当面倒だよな。苦労してるな」

適当に返事をすると、その男がガタガタと僕を揺さぶる。

「おお、わかってくれるか~」


秋谷は登校時間がまばらになり、休み時間も他の女子と過ごすようになっていた。

「秋谷ちゃん!耳たぶ怪我してるー」「いやぁちょっと祝日派手に踊ってて」「あ、でも分かる。ダンスするよね、祝日。私も動画見て永遠にやってた」

教室の隅でそんな調子でくねくねしている。制服は衣替えしたが別に変わらず一見普通だ。

本来、あっち側の人なんだよな……うん。友達とスマホを覗いてはしゃぐ様子を見ていた。


チャイムが鳴り授業が始まると、散らばっていた各々が決められた席に戻って行く。

均衡を保って、静寂を保つ。授業とその合間には、またどっと賑やかになる。

なるほど、こうやって人間関係は形成されていくのか、と冷静に観察していた。



秋谷は美術室には一応毎日来るけど、必ず自分の描きかけの漫画を持ち込むようになった。


ある日、丸ペンで丁寧に原稿の下絵をなぞっていたとき。

「へたくそ」

突然そんな独り言を言って、一個離れた隣の席に腰を降ろして、自分の漫画の束に目を落とした。

「え?なんて言った?」

思わず訊き返しまう。

「へたくそ。絵が可愛くない。線がガタガタすぎ」


三倍にして返された。秋谷は今までは絶対言わなかったような悪口を飛ばすようになった。かと思うと、どこからか取り出した白紙の漫画原稿用紙を広げて、部室の棚から見たことない小瓶を取り出す。机に憑りつかれたように前のめりになり、シャッシャッと美麗な絵をGペンで描き出すのだ。


「秋谷、そのインク何?墨汁じゃないよね」

「製図用インク。墨汁より早く乾くの。便利よ」


立ち上がるや否や、ガッと壁に持参したらしいヘアドライヤーのコンセントをぶっ差した。

ぶおお、と音を立て、原稿用紙に器用に風を当てていく。


「へ?」

「私は完成させるまで時間がないから、こういうところで省略させてもらうわよ」


そんなチートアイテム有りかよ。呆れるを通り越して、もはやそんな技を隠していたのか、と尊敬するレベルだ。そして何をそんなに焦っているのだろう。


「ネームの直しにずっとかけてる時間ないから、描けるページから潰していくわよ」


どうやら本気で自分の漫画を仕上げる気になったようだ。Gペンを振り回して、真顔でクールにポーズを決めた。に、似合わない。口には出さなかったが。要するに秋谷はスイッチが入り、別人になっていたのだ。


「へたくそなのは仕方ないだろ、初心者なんだから。どうすれば秋谷みたいに描けるんだよ」

丸ペンを置いて、伸びをしてそんなことをぼやいてみる。

「貸してみ。ほら、こう」ガッと奪った丸ペンで、僕の原稿をプロの手つきであっという間に美麗に変化させてしまったのだった。

唖然とする僕に、にやりとほくそ笑んだ。

「簡単でしょ?」こんなハイレベルな煽りをするようになったのだった。

「はぁーっ」


秋谷は春とは違う、別の意味でスパルタになった。


「週末の進捗っ五ページっなぞった」「私四ページ下書き描いた」

休み時間になると、挨拶代わりにそう言い合ったり、

美術室でも同じテーブルにたった二人っきりで座って過ごしているのに、テーブルの端と端でゴリゴリやりあって、ふと体制を緩めて肩を回すと、秋谷がすげぇ必死に僕の進捗を覗こうとしていた。

「おっそ」「秋谷に言われたかねぇよ!」

 腹が立ったが、その分、僕もなぞった。それに負けたくない。春、画材を買いに行った日、荷物に紛れていたクリアケースに入ったお転婆な主人公のはちゃめちゃな漫画の続きが読めると思うと燃えた。

先に描き始めたとはいえ、追い抜かされたくない。そんな気持ちが芽生えていた。やっと秋谷と対等になれたんだ、って。隣のレーンで並んで泳げてるんだって。


──思っていたのに。


「体育祭もひと段落したし、クラスメイトのこともよく覚えたよな。だからここから定期的に席替えをしようと思う。あみだくじな。ホームルームの間に終わらせるぞ」


突然だった。担任が作成した、クラス全員分のあみだくじに、

名前を書かされ、歯車を狂わされた。


あっけないものだった。

気が付けば席がどうしようもなく、遠くなってしまった。

僕は数席動いただけだったが、秋谷は、授業中、姿を捉えることがほぼ不可能な遥か後方の位置に配置された。


ふと前を向き、教壇と黒板を捉えると、視界がぐにゃりと歪んだ。

……あれ?教室ってこんなんだっけ。

ぼうっと時計を眺める。あれから、五分、三十分。三時間。

プールの底に沈んで、息を吐くのを忘れているときのような、機械的な音が脳に響く。


部活の時間を待って、待ち続けて、ようやく迎えたのに。

同じテーブルの端と端で、がつがつとお互いが作業をしているだけ。

何も話しかけることは出来なかった。




部室にて。ヤケクソになっていたペン入れもほぼ終盤に入り、

描くのが難しいカット、修正箇所だけが残っていた。

秋谷は手元の漫画原稿用紙を器用に回転させ、迷いのない丸ペン裁きで絵を描くと、ドライヤーの温風ででぶおお、と即座に乾かしていく。目がマジすぎて怖い。ものすごく話しかけづらい。


「あの、教えて欲しいんだけど……」恐る恐る尋ねたら、「何」秋谷はその眼光をそのまま僕にぶつけて来て、怯んだけれどなんとかしぶしぶ原稿を見て、忠告通りアドバイスをくれた。

「治せる範囲は修正液で治して、難しいところは一から白紙の原稿用紙に書き直して。トレース台とかあったら便利なんだけど」

「トレース台?」

「漫画描きならみんな憧れる漫画道具。人は利き手によって得意な顔の向きと不得意な向きがあるの。右利きの人は左向きの顔が描きやすい。でも、右向きの顔だと、手で絵が隠れちゃって超描きづらい」

「板書ノートもそう言うよな。左利きの人は手が汚れるって」

「でも、トレース台があれば絵を反転させられるのよ。原稿用紙の裏に左向きで描いて表向きにしてトレース台のライトをつけると、絵が透けて浮かび上がるの」

突然立ち上がり片足を椅子の上に乗せて、熱く語り出した。スマホを取り出すととんでもないスピードでスクロールし、その漫画道具の通販ページの画面を僕に見せてくる。

「でも値段が高い!物によるけど、一万円近くするの。電化製品だからね。だから、中高生の漫画家志望はみんな窓ガラスに貼りついてやるの。うちらもやるよ美術室の窓で」

「校舎の外から見たらホラーだな」

「なぞり屋さんの林野くんには、あれば強力アイテムになったかもね」


うん、と答えてふと考え込んだ。

その日の帰り、あづさに頼んで瞳未の部屋にあげてもらった。

物置の扉を開くと、記憶を辿り丁寧に調べた。目当てのものを発見し、被っていた埃を払った。


「いっくん。こ、今度は何をし出すの?」

怪訝な顔をし、廊下からその様子を覗いていたあづさに言った。

「あづさ、お前がくれた漫画道具あれが全部じゃないぞ。これ借りるな」

段ボールごと抱えて、自分の部屋へと持ち帰る。

開封済みの段ボールには、気泡緩衝材に雑にくるまれた製品が入っている。

何度も使っては大切に仕舞われた痕跡がある。

それは、秋谷にみせてもらったのと同じ、”トレース台”だった。


翌日、それを部室に運んだ。

「なんでこんないいヤツ持ってるの?」

秋谷はあんぐりとしていた。

「中学のとき、僕が宅急便受け取ったから覚えてた。親バレしたくないから、指定の時間になったら家の前で代わりに受け取っといてくれって頼まれてたんだ。編集部から荷物届くからって」

「編集部?……って」

「少女漫画雑誌の新人賞に入賞したときの副賞らしいよ。ときどき話して原稿とかアイデア見てくれる編集部の人から送るからって連絡来たって言ってた」

「……それって担当さんじゃない?……すごいなぁ瞳未さん。ある程度の賞を取らないとつかないんだよ。やっぱいるんだ、中学生でそういう人」

なんか秋谷はシュンとした。たったの中学生で東京からの荷物なんて、確かに現実味ないよな。


ともかく僕はトレース台を瞳未から拝借した。

電源を入れると、ぽう、と明るくなって裏の絵が透けた。暗い夜の部屋に浮かぶそれはなんか幻想的で、僕は夢中で、照らされる絵をGペンでなぞった。



また、夢を見ていた。プールで僕は泳いでいる。前方を足の裏がひらひら、と泳いでいる。今日はその足は逃げなかった。一定の距離で追跡して観察した。足が小さい。子どもの足だ。女の子だけど、誰かは分からない。

こうなったら、と強引に足を掴んだ。体制を崩した子どもが水の中で身体をよじらせて振り返った。スイムキャップとゴーグルがその瞬間にパンッとはじけた。腰まである長い髪が浮遊する。ゴーグルがふうっと外れた。

──その少女は、「秋谷?瞳未?」小ぶりな顔立ちで髪に隠れてよく見えなくて分からなかった。

「え、ちょ、」もうひとかきして、腕を掴もうとすると、腕が雪となって溶けていった。プールの中に吹雪が湧いていた。うわ、と目を逸らすと、もう目の前には何もなかった。ただの真っ青な水の世界。

真っ白の光に包まれて──


顔をあげると、短い時間の寝落ちだった。ぺかーっと白い光が手元から発光していた。なんとトレース台をまくらにしていたのだった……。壊れていないか、よだれが出てなかったか、瞬時に焦ったけど大丈夫だった、よくこんな眩しいところで寝れたな、と自分に呆然とした。なんだったんだ、あの夢。


やがて、僕はトレース台を持ち歩くようになった。B4サイズの漫画原稿用紙と同サイズで厚さもあるその電化製品を壊さないように、大事に大事に保護ケースに仕舞い、鞄に入れて相棒のように手放さなくなった。利き手と反対向きの顔を描くときだけでなく、残りの下書き部分も白光に照らすと、瞳未の頼りない下書きがはっきり浮かび、段違いになぞりやすくなった。

それはまるで、今まで見えなかった何かに導かれるようだった。つけペンを持つ僕の手が一切迷わなくなったのだ。不安定でヘタクソな僕が描く線が、瞳未の華麗な絵を台無しにしてしまうんじゃないか、という恐れが、すっと消えた。


水をかいていたその動きを止めて、はっと、自分が既に水流に乗っているのに気付いたとき、プールの底のなにもない世界に見入ってしまったときのような。底のラインテープが、次々と僕より後方に流れていくのを、ただ無抵抗に浮いて見送っている、あの空虚な感じに似ていた。

ぶくぶくと泡が温かく鼓膜に響く。いつまでも水中から顔を上げたくないような……。

自室でも部室でも、無言で発光させた手元にかじりつくようになった僕に、秋谷はふ、と微笑んだ。


「なんだよ、そんなに僕がおかしいか」

驚いて、そう問うと、短い髪を揺らして額に貼られた絆創膏を覗かせた。

どうやったらそんなところ怪我するんだよ。訊いてもいつもはぐらかされてきちんと訊いたことはなかったが、秋谷は元々謎の多い女子だった。

今まで逆光だった窓から入り込む陽の明かりが、彼女の表情を照らした。

人形みたいに大きい目、どこまでも純だった。吸い込まれそうな茶の光彩と、ぶれることのないまっ黒の瞳は、変わらず、僕のすべてを見抜いているようで怖くなった。まっすぐの鼻筋に、口元をきゅ、と上げ、喋り出した。


「いや、逆。安心したの。これでもう、私はいらないね。やっとお邪魔虫が消えられる」


不自然な作り笑顔で秋谷はそう言った。



「秋谷も林野も、二人ともいるよな~」

ガラッと扉が開くと、もはや何ヶ月ぶりに顔を出したか分からない、顧問の権田先生が入って来た。バサッと手渡してきたのは文化祭出展の手引きだった。しぶしぶトレース台のスイッチを切り、その手引きの冊子を開く。


「といわけで文化祭が十一月の末にあるんだが、展示用の作品作ってるよな?」

「いや、聞いてないんですけど」

「あれ、言ってなかったっけ」

この先生は事前告知するという発想がないのだろうか。

文化祭。

それは文化部にとっては年に一回の大行事だ。部室に静かに籠り、どんな活動をしているのか外野からは得体の知れない部活がベールを脱ぎ、花開く。他の生徒にも絶好の部員募集アピールチャンスだ。

でも、文化部にここまで縁がなかった僕にはせめて事前に教えておいて欲しかった気もする。もう一か月半しかなかった。なるほど、だから秋谷は焦っていたのか。

先生と秋谷は神妙な面持ちでどんどん先の話題に進む。


「あの、作品つっても、僕瞳未の漫画しかないんですけど……」

「いいじゃないか。展示するのが嫌じゃなかったら。どうだ、林野」

「……別にいいですけど」

そう答えると、秋谷は突然む~~~~っと呻り出した。

「じゃ、本番までに必ず仕上げるように。申請出しとくな」

そうして先生はさっさと帰ってしまった。


すると、ぽつりと秋谷が漏らした。

「……展示、嫌だったら辞退していいんだよ」

冊子に顔をうずめ、そっぽを向く。

「なんで?嫌じゃないよ。頑張ってやるからには見てもらいたいし。それに瞳未のこと可哀想だって言ってる連中に瞳未のやってたことを知ってもらいたいじゃないか」

「何も知らない人たちも見に来るよ。面白おかしく余計な詮索されちゃうかもしれないよ。だって、亡くなった女の子の描きかけの少女漫画を引き継いで男の子が完成させたなんて」

「いや、今更どうしたんだよ」


僕から逃げるように、顔を背けて言った。


「林野くんの故人を思う、神聖な気持ちが汚されちゃったりしたら、嫌だ」


まさか秋谷からそんな発言が飛び出すなんて。どうしたんだ本当に。

全く僕をみてくれない。

「私、もう部活来ない」

「なんで」

「私がいたら、林野くん、瞳未さんと二人きりになれないでしょ!?」

「は?なんだそれ、」

「だって、林野くんは瞳未さんのことが好きだもん!」


秋谷は扉を押し開け、そのまま鞄を持って出て行ってしまった。

なんでその文脈で瞳未が出てくる。

しかも瞳未が好き?なんだそりゃ。

やがて、下刻時刻を知らせるチャイムが鳴り、長い時間立ち尽くしていたことにようやく気付いた。意味分かんねぇ。なんで秋谷が泣いてるんだよ。




校門を出て、帰路につく。振り返ってもどこを捜しても秋谷はもういない。

坂道を下って、あぜ道、堤防、古い橋、河川敷。嫌になってしまうほど見た、何もない田舎道を歩く。

途中見上げた街路樹が、色褪せた葉をはらり、と落とした。


──“舞い落ちてくる花びらをキャッチすると、幸せになれるんだよ!早く早く!”

秋谷は春、そう言った。それを運命だと呼んだ。


ふと、待つことなくそっと手を伸ばしてみる。

掴めた葉は、ぐしゃ、と音を立てて手の中に収まった。

閉じ込めたそれをおそるおそる開くと……ばらばらに潰れていた。


背筋が凍った。張り詰めるように寒気がしたのだ。

デッサン用モデル人形が割れたとき、瞳未が大型トラックとガードレールに挟まれて命を落としたとき、

僕のひとつの挙動で、壊れてしまったものたち。

手から滑り落ちた枯葉は足元にはらはらと落ちていった。


なんだよ、キャッチしても幸せになんかなれないじゃないか。

秋谷、君は嘘つきだ。


眼前には車が行き交う道路。情けない僕の姿なんて、誰も気付いてないみたいに、速度をゆるめることなく飛ばしている。そんな通勤通学の時間帯だった。やがて信号は青になる。肩を丸めてただうつむいて、もう何も踏みつぶさないよう歩いて帰った。



根を詰めたのか、秋谷は次の日倒れ、保健室で寝込んでいた。

送ってやれよ、とクラスメイトに言われ、かついで保健室まで運んだ。なんでこんなことしなきゃいけないんだよ。秋谷の苦しそうな寝顔を見ると腹立たしくなった。

「こっちはめちゃくちゃ心配したのに……もう、勝手にしろよ。お前なんか知らねーよ!」

声を荒げて保健室を出た。病人にすることではない。

きっと、いや間違いなく傷つけた。ドアを勢いよく閉め、通りすがりの先生に注意された。やがて雨が降り出した。

秋谷はそのまま体調を崩し、学校を休みがちになった。



以前見た、父のデジカメに残っている写真。

何枚かを僕のスマホに転送していた。

スクロールする。

プール大会の日の瞳未との最後のツーショット写真。

夏休み、旗制作に真剣に向き合う秋谷の横顔。秋谷のいない、運動会の昼ご飯の様子。

全部、まだ一年ちょっとの間の出来事だ。


「もういい、もういい。瞳未の漫画のことだけ考えてよう」


と自分に言い聞かせて、頭を漫画一色にする。…という風に切り替えられるはずがなかった。


空は曇天模様だ。

まだ小雨だが、運動部は変わらず部活をしているようだった

プールサイドでのミーティングを終えシャワーを浴びにいこうとする佐川にフェンスの端から声をかける。どうして、いつもこうプールと佐川の元に来てしまうんだろう。

「林野くん、どうしたの!?」

「や、ちょっと……部室行ってもどうせ一人だし……遊びに来た」

悶々としてしまうだけだったから、涼みたかったというのもあった。


「良かったら、練習終わったから、ちょっとだけ浸かっていきなよ」

「え、でも……」

「先輩!いいですよね、水浴びしたい友達がいるみたいで、付き合って残ります」


佐川は先輩に手を振って、許可を取ると、男子更衣室に常備されているという予備水着を貸してくれた。仮入部として春頃数回ここに来て以来久しぶりに水泳部の空間に足を踏み入れたけど、先輩と良好な仲を築いている姿にさすが佐川だなと思った。


「てか水浴びって……」

「泳いでばっかだと疲れるよね、お互い。休憩休憩」

佐川はプールの淵を持ったまま、腕を伸ばしてそのまま水に預けた身体を仰向けに浮かした。大股を開いて大の字で、水と平行に寝ころんだ。

しぶしぶ僕も真似して、隣に身体を浮かべた。


「今度、ホームルームで文化祭のクラスの出し物決めるらしいよ。何になるかな」

「劇になるんじゃねーの。誰か言ってたじゃん」

「だよなー。でも人気だろうし取り合いじゃないかな……漫画研究部も何かあるの?」

「あるよ」

「水泳部は何もないわ」

「そりゃそうだろうよ」


水のベッドか。悪くないし感触も心地いい。

修学旅行みたいだな、なんてふと思った。

スクリーントーンでは追いつけないぐらい広大な空と雲の数だ。


「いい悪いなぁ」

「うん」


頭上では排水溝の音が忙しなく鳴っている。

防災無線の夕焼け小焼けのメロディーもどこか遠くから聞こえる。

いつも通りの夕方のはずなのに。


「今週秋谷ちゃん、学校ちっとも来ないね。漫画研究部どうなってんの?」

「こっちが聞きたいぐらいだよ」

「権田先生なら事情知ってんじゃないの。顧問だし担任だし」


そうか、先生か……。その線があったか。肩の荷が下りたのか、ふと言葉が漏れた。


「……僕、秋谷泣かした」

「え!?なんで」

「わかったら苦労しねーんだよ……需要と供給が一致してんじゃなかったのかよ……」


雲が敷き詰められている、眼前に広がる空。肌が水と触れあって心地いい。佐川の返事が水の音越しに聞こえた。

「……女心と秋の空、秋谷ちゃんの空、か」

ふはは、と何がおかしいのか笑い出して、不愉快になりなgらあも

施錠の時間だからと追い出されるまで、僕らはそうして浮かんでいた。




そして、そのときは突然来た。

もはや何も考えないために漫画をなぞっていた。

なぞって、なぞり終わったページを置いて、次に手を取ると、もうそれが最後の一枚だった。

なぞる下書きがもうなかったのだ。


「あ…」

舌打ちをする。Gペンをしぶしぶ置いて蓋をした。

なんで今なんだよ。


庭が踏み荒らされ、枯れ果てた植木が倒れている家。すべてを拒むように窓のシャッターが下りている。まるで人が住んでいる気配のない隣の家。

そのインターホンを鳴らす。しばらくすると、解除音がしたので、ドアノブを引くと玄関が開いた。真っ暗の家に上がろうとすると、


「ハイハイ、おかずね」

あづさが奥から現れた。ほれ、と催促するその手に僕は応えなかった。

「違う。瞳未の文字と絵、全部消すから。一緒に消そう」



僕の部屋に足を踏み入れると、

あづさは言葉を失っていた。部屋中に並べられた描き上げた三十二ページの漫画原稿用紙がそこにあった。

「姉ちゃんの漫画だ……ほんとにいっくんが描いたの?嘘」

その圧巻の光景に立ち尽くし、一枚一枚を手に取って食い入るように眺めていた。そんなたいそれたもんじゃないんだけどな……。この時が来たらこうすると決めていた。けれど、こうもしっくりこないものなのだろうか。

「元が良かったからな……でも、このタイミングで消さないと、ベタ塗りや修正やトーン貼りの仕上げ作業に入れなくなるんだよ」

ここまで僕を導いてくれた瞳未の肉筆。死後もなお迷う僕をここまで連れてきてくれた。


数か月前までシャーペンで描きこまれたまま中途半端に終わっていた漫画原稿用紙。指で触ると、線がもやがかかったみたいにぼやけて、今にも消えてしまいそうだった。

そんな頼りなかった線が、墨汁でしっかり上から描きこまれ、息を吹き返した。ひとつの漫画作品へと生まれ変わった。


消しゴムを、あづさにもひとつ渡す。


「ほんとに消すの?怖くないの?」

「……怖くないよ。ちゃんとなぞったからな」

座って、消しゴムの角を紙に触れさせようとしたとき、ぽつりと言った。


「いっくんってもう、姉ちゃんを過去にしちゃったんだね…」


振り返ると、あづさは漫画原稿用紙の束に顔をうずめて床にうなだれていた。そして、こう言った。


「私は今でも待ってる。ただいまって、全部嘘だったって姉ちゃんが笑って帰ってくる日をね。そんな日は来ないなんてもう分かってるよ。でもそれでも過去になんかしたくないんだよ。姉ちゃんは生きてる、って言ってよ!この気持ち、いっくんなら分かってくれるでしょ!」


──あづさの住む、もう十ヶ月掃除をしていない家。瞳未の漫画原稿用紙で散乱した僕の部屋。


「……分かるよ」

同じ大切な人を失ったもの同士、欠落はきっと同じ種類だ。


「漫画なんて嫌い。姉ちゃんが命がけで描いてたの見てたからこそ、飲み込まれて死んじゃったんだって思ってたの。だから不吉だって思ってたのに……」


違う。膝まづいてあづさの顔を覗き込んだ。


「生きてる! 瞳未は生きてるよ。この漫画の中で。必ず文化祭までに完成させる」


顔を上げたあづさは、落とした消しゴムを震える手で掴んだ。




瞳未の生前の肉筆。

それらの全てを僕が丹精込めてなぞった。

もう、なぞれるものは、ない。


指先に力を籠めて、紙をこする。

一文字消えて、五文字なくなって、その用紙すべてを消去した。

こうして、綺麗になり、瞳未の痕跡がなくなっていく。


──中学三年の夏。

『私、生の泳いでるところ、好きだな』

人をえり好みしない、背筋のよい綺麗な立ち姿で、瞳未はそう告げた。

入賞を成し遂げ、学校へと戻る送迎バスに乗り込もうとしたときのことだ。カメラを構えた父に呼び止められ、メダルを首からぶら下げたまま声の方向を振り返ると、そこに瞳未がピースをして乱入してくた。

『なにやってんだよ─』

周囲の目もあり、そう邪険に言うと、瞳未ははんなり笑った。

黒くてやわっこい長い髪を揺らして去っていった。その写真を最期に数か月後、この世を去った。


瞳未の肉筆が、遺作が、遺言が。

あのシーン、このシーンも。思い出が剥がれていく、

手先は止まらなかった。


やがてあづさも、紙を折らないよう慎重に、消す作業の手伝いをしてくれた。

こうして、瞳未は過去になった。



瞳を閉じて、そっと開けた。そこにあったのは、白く綺麗になった原稿だ。

──あれ?

違う。これは、ニセモノだ。

瞳未の漫画じゃない。もう、僕の漫画になってしまっている。線も何もかもが。



「……これ、ほんとにいっくん?あまりにも上手すぎるよ。あの人に教えてもらったんでしょ?」

「そりゃそうだよ。おんなじ部活だしな」


あづさは疑いの眼差しで言った。


「いっくんは姉ちゃんとあの人、一体どっちが好きなの?……どっちのために描いてるの?」


やりきったはずなのに。しっくりこないものがあった。僕は瞳未をなぞる。でも、これはどこまでいってもニセモノだから。

じゃあ、何のために今日まで描いてきたんだ?

これ全部描き終わったら僕はどうするんだろう。

──秋谷は?

秋谷といる理由がなくなってしまうんじゃ……?

ふと我に返る。

あれ?何を考えているんだろう。


「これは誰の漫画?」


僕たち二人の漫画だろ?

それは瞳未?秋谷?

どっちだったっけ……?

散らばった消しカスを集めてごみ箱に捨てた。

もう、預かっていただけの頃には戻れなかった。とっくに描き加えられて、原稿も関係も変わってしまっていた。

それは紛れもなく僕の意志で始めたはずのことだった。




雨が上がった日、枯葉が煽られ、排水溝に貯まって落ちている。


まだじめっとしたリノリウムの廊下を歩き、職員室を訪れた。、担任もとい顧問の権田先生に問いただした。

「単刀直入に聞いていいですか、秋谷は病気か何かなんですか」

 びっくりした顔をされた。

「なんでそう思った?」

「少女漫画ではそういうフリが多いんです。相場が決まってるんです。でも、担任は知ってたりするんです」

「は?」

「……というか、不自然だと前から思っていたんです。常にどこか変な場所を怪我していて、ぽんと不定期に意識をなくして倒れて、やっと起きたら覚えてないって言うし、あと、他にも……」

「よく見てくれてるんだな……場所を変えよう」

先生は給湯室から茶瓶を持って来て、湯呑に注ぎ、パーテーションの向こうの談話スペースに僕を案内した。


「ありがとな。秋谷とつるんでくれて」

「まぁ、絶交状態ですけど……」 

「俺は担任だから、お前らの通ってた中学から引き継いで林野の事情も、秋谷の事情も知ってるわけだ。そのうえで二人で漫画を描き始めたのは客観的に見て、本当に嬉しかったんだぞ」

穏やかな表情だった。

「秋谷の事情……?」

声を潜めてこう続けた。

「ちょっとした持病を持ってるんだよ。本当は徹夜なんか一番やっちゃいけないんだ。問題は、持病を治す気がないというところだ……たぶん持病だけが原因じゃないな、この登校拒否は」

「……治す気のない病気?」

なんだそれ。

プールに入らなかったのも、一人暮らしも、寂しい家も全部、そのせい?

そんな厄介な彼女を、忘れたいのに……忘れることはもうできなかった。


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