第4話 独りよがりのプロローグ

中学生のとき、一時期学校に行かなかった頃があった。

特に何かをしていたというわけではない。部屋に籠って動画を見たり、本を読んだりして過ごしていた。卒業まであと数か月だったからか、先生も親も、僕を咎めるようなことはしなかった。

 瞳未を亡くして数週間。全校集会の件があってから突然、アイツらにヒトゴロシと絡まれつつ、蹴られたり、煽られたりすることはあった。ただ、高校受験を目前にし、学年中が張り詰めた雰囲気だった。他の誰かが加担するような陰湿ないじめはなかったし、勉強や将来のことを考えるよう全員が強制されていたので、荒れる理由も分かり易かった。学年の人気者だった同級生の、亡くなった現場に居合わせた幼馴染の男。僕も標的として分かり易かった。それにどうやらアイツらは瞳未に好意を持っていたらしい。なおさらだった。分かっているのに、視線という視線が気になり、背中が痛みつつも学校には通い続けた。

だけど、冬休みに入るとプツンとその糸が切れた。年が明けて、めでたいテレビ番組や世間の空気と、もうすぐ学校が始まる現実についていけなくなった。自分そのものがなんだか虚しくなったのだ。昼間に布団の中で、どこかの学校から流れるチャイムの音を聞いて、暖房もつけず、寒さに震えながらぼうっとしていた。

そのタイミングで、水泳部の惜別パーティーがあった。中三の冬だったし、水泳部はもう引退していた。水泳部は仲良い奴ばっかりだったし、正直言うと会いたい気持ちはあった。向こうも、引きこもっている僕をこれを機に引きずり出そうという魂胆だったのだと思う。だけど、そこに僕は行かなかった。事情は誰もが知っていた。大丈夫か?とか、はやく元気になれよ、とか。そこそこの奴らが心配して連絡をくれた。でも、もらった連絡のすべてを絶った。大丈夫、なんて答えてしまったら壊れてしまいそうだった。仲間を僕はあしらったままなのだった。

 そのとき思った、期待に応えるのはあまりにもつらい、と。

 元気になんてなれるはずがないのに。

 とりあえず受けた高校に合格して、そのまま僕は通い続けている。

「弁当、ちゃあんと食べるのよ」

これでもう安心と、毎朝弁当を渡してくれる母の顔を見ると、今も詐欺をしている心地になる。

少量のうどんは食べれたけど、まだまだ弁当はキツかった。

隣の家だけじゃない。きっと僕の心もシャッターが閉まったままなのだ。






夏休みになった。木々にとまる蝉は、命を焦がして鳴きつづけている。

校内の廊下はほぼ無人で、美術室はエアコンなんてなく蒸し暑い。グラウンドから聞こえる運動部生の声以外は無音だ。

文化部はほとんどが夏休みの活動を控えているなか、今日も漫画研究部は精力的に活動をする。


「漫画を描くぞ!」秋谷の真似をして、Gペンを突き出してポーズをとってみる。

原稿を広げて机にかじつく僕は、できた一ページを添削してほしさに、秋谷のほうに椅子を寄せた。原稿を覗き込む間後ろから顔を添え、秋谷に話しかけたりした。


すると、パッと体を離された。

「し、集中して添削させてよ」「というか、熱いのよ。クールダウンさせてよ」

なんて、彼女は制服のブラウスをぱたぱたした。。

「というかなんで部室にエアコンないんだよ」「部員二人しかいない弱小部だから仕方ないでしょ!?」なんて、夏の暑さにさすがに参っているようだった。威勢が削がれた今くらいのほうが正直居心地がいい。



体育祭で使う旗の絵を仕上げる秋谷の背中を見送って、僕は一人、肩からカメラをぶら下げて校内散策に出かけた。



『いい天気だねぇ。今日はカメラで資料を集めてきて。その漫画は学校が舞台でしょ、私たち実は撮影セットに通ってるようなものよ』

瞳未の漫画は、中学校が舞台なんだけどと、口を挟むとこう言った。

『高校も建物の構造は一緒一緒。ここで撮影の心構え』

秋谷は僕のカメラを奪って片手に構えて、美術室を歩き回った。

『アップ、ロング、ふかん、あおり。いろんなところから交互にカメラを構えて。画面に遊びをもたせて。映画だってずっと俳優の顔ばっかり追ってないでしょ?』

カシャ、カシャ、と僕から奪ったカメラのシャッターを切った。そこにはきょとんとした表情の僕のまぬけな表情がその画面に切り取られていた。


『瞳未さんの下書きは、しっかり描き込まれていたおかげで、ほとんど林野くんのなぞり芸だけでここまでなんとか成立してきた。でも!背景だけはどうしても描き込みが甘い箇所があるの。それを補うために、作中で必要なシーンの背景をカメラで収めて来て、ねっ』


なぞり芸って。一発芸みたいで一気に格落ちした感じだ。

ともあれ、美術室を出て廊下に出ると、彼女は体育祭の旗制作の作業に戻った。床に四つん這いになるその横顔を、カシャッと一枚、隠し撮りした。ふ、と頬を緩める。垂れる髪から覗く眼差しがまっすぐに真下を捉えてる。カメラの音に全く気づいていないようだ。

僕も食らいついていかないと。その足で校舎の写真を一人彷徨って、撮り続けた。


かつて秋谷と行った食堂や保健室も訪れた。漫画を描く題材というフィルターを通してみると、見え方が変わってみえる。

人の少ない校舎は新鮮で、だけど、校庭に出ると、夏休みを各々が命を燃やすように、駆けまわっているのを感じた。

窓の外が眩しく、教室や廊下は対照的に薄暗い。上履きを踏みしめる音が、リノリウムの床に静かに響く。シャッターボタンを押し、その空間にある欠けた物語を切り取る。

そこに人を足して、漫画にしていくのだ──。


その日は蒸し暑い夏日で、僕はすっかり喉が乾いてバテていた。

日陰になる校舎裏の水道横で風に当たりながら、撮った写真を確認すべくデジカメの画像モニターを覗いていた。


ただの校舎かもしれない。でもそれは、瞳未が見ることのできなかった高校という景色でもある。ファインダーに収めて、カメラから顔をあげて、今自分がそこにいるんだよなぁと意識する。ふと、背中がちく、と痛くなる。画像モニターのボタンを押していく。すると、突然中学三年の夏の水泳大会の写真が出てきた。ぎょっとしたが、さらに送ると体育祭になり、中学の入学式まで遡った。すべての写真に僕か瞳未が写っていた。

これは、父から借りたデジカメだった。『スマホじゃ雰囲気が出ない、林野くんはきっと形から入るのがいい』と秋谷が言うので(なんか悔しい)渋々頼みこんだ。『生がデジカメを部活に持っていきたいなんて、青春だわ!』なんて母に変にぬか喜びさせて、持参したんだけど……。


そうだった。互いの親で、何かと行事の写真とか撮り合いしてデータ交換とかしてたなーと、忘れかけていた恒例儀式を思い出して呆れた。

特に瞳未の両親は共働きで忙しいから参加できないことも多いのにやたら写真は見たがるので、仕方なかったんだよな。にしても、瞳未がいっぱい写っていた。


グラウンドから運動部の人たちの掛け声が聞こえた。

桜として咲き乱れた木々は、青々とした葉を生い茂らせて、心地よさそうに風にそよいでいる。照り付ける太陽に負けじと、蝉は合唱を続け、そのざらついた感触の音が、夏の暑さを増長させる。汗が頬を伝うのを感じる。

僕は、その木陰に佇む、誰もいない屋外水道にもたれかかって、デジカメの画像モニターを食い入るように覗き込む。


アーカイブを細かく辿り、また時を進めていく。これは瞳未が亡くなる一年前、半年前……。やはり目に留まったのは、中学三年の夏の水泳大会の写真だった。

会場外の学校へ戻るバスに乗り込むとき、父親に呼び止められて振り返るメダルを持った僕と、ピースをする瞳未が手前に写るツーショット。

大きくなっても僕たちのツーショットを撮りたがる父親の策略にハマり、無理やり撮られた一枚だったが……。

写真を送るボタンを押すと、無情にもまぬけ面を晒す僕に切り替わった。

それはさっき秋谷に撮られた一枚だ。この二枚のシャッターが切られる間に、カメラが握られる一年の間に、瞳未はいなくなった。そして時は進んで、僕は高校生になってしまった。

もう一度、写真を送るボタンを押すと、旗に四つん這いで跨る秋谷の横顔に切り替わった。

失ったもの、新しく出会った人。


その三枚を元に戻したり、時を進めたりを繰り返した。

そんな風に画面モニターのボタンを交互に押して遊んだ。

なんかもう、この大会も遠い昔の話みたいだな、なんて──。


「あ、林野くんだ。今日は何やってんの?」

「おわっ!?」


カメラの外から生身の人の声が話しかけてきた。

急に現実に引き戻されて追い付かず、思わずデジカメが宙を舞ったが、なんとかキャッチした。

渡り廊下に競泳水着姿の佐川が立っていた。僕が認識したのを確認すると、裸の肩にセームタオルをかけたままずんずんとこちらに歩み寄って来る。そうだ。この校舎裏にはすぐそこにプールがあった。水泳部の休憩中だろうか。


「林野くんみたいな人いると思ってみたらほんとに林野くんでビビッたわ。今日は秋谷ちゃんと漫画描かないの?」

「撮影だよ。背景の資料集め。これも秋谷のミッション。相変わらず無茶苦茶なことばっかり言うんだよ」


とりあえず冷静になろうと、デジカメは上に置いて、その場の水道で顔を洗った。

「あっはは、それ気分転換させるのが本音じゃないの? イイコだな秋谷ちゃん」

そんなことを言うと佐川も蛇口を捻り、ばしゃばしゃ、と僕の真似をした。

そしてセームタオルで顔を拭いながら、片手に持っていたものを僕に差し出した。


「はい、ポカリあげるよ。喉乾いただろ」

「え……いや、自分用に買ったんだろ部活してる佐川のほうが喉乾くし」

「馬鹿。俺は部活中、水と一緒に居るからいいんだよ。でも、林野くんは水がないと落ち着かないタチだろ?」


なんつー台詞を言うんだ。手に力を込めると、持っていたデジカメから、カシャ、と漏れた。

「あっ風景だけって言われてるのに思わず写真撮っちゃった」

慌てて画面を覗き込むと、ブレブレの佐川が写っていた。少女漫画だと胸キュン必死の場面だったのに。二人でそのブレ具合に腹を抱えた。


すると、プールのフェンスの向こうから、胸元のスクール水着の紐にゴーグルを引っかけた女の先輩がのこのこやってくるのが見えた。

「ちょ、あんた今女子の写真撮ったでしょ、覗き魔―!何年何組の男子よ、名前言いなさい」

あっという間にすごい剣幕で詰め寄られて、他にも水着姿の水泳部女子が甲高い声で騒いでわらわらと集まってくる。

わたわたする佐川を尻目に、僕は慌てて学年とクラスを述べて目をつむり平謝りするしかなかった。


遠くからあっはっは!と豪快な女子の笑い声が聞こえた。

その声の主は水着の女子の間をするすると通り抜け、僕の前に現れた。

「おーい何やってんの。全くすみませんね、ウチの部員が」

制服姿の秋谷だった。

「なんでここに……!?」

彼女は僕の肩を掴んで、美術室に帰るよう親指を指して促した。

事情をスクール水着の女の先輩に話してくれて、なんとか僕は無罪で返してもらえた。


肩の制服を掴まれたまま、連行される。

「こんなことになってる気がしたのよ。来て正解だった。女子の身体まじまじ見て、人物のパースとれるようになったでしょ。いい勉強になってヨカッタネー」

「無実だよ、さっきまで佐川と話してたんだ」

「ほんっとに、もう……」

汗が額に伝った。狂おしいくらいに暑い。プールのあった渡り廊下から校庭の昇降口近くの鉄棒の辺りにまで戻って来た。掴んでいた肩をパッと解放されたので、むっと不甲斐ない気持ちで秋谷を見下ろした。

なぜかもう片方の手には未開封のペットボトルを持っていた。

僕の視線に気付くと、わざとらしく蓋を開けて飲み始めた。


「私だって、喉乾いたからジュース買いに来ただけだもん。そうしたらたまたま林野くんを見つけただけ」


自動販売機と真反対にあることは指摘しないほうがいいのだろうな。

隠し撮り写真と、瞳未の写真と見比べていたなんて、浮ついた気持ちを抱いていたことから後ろめたさもありそれ以上口は開かなかった。

秋谷と漫画に向き合うこの時間を、僕は何より大切にしていて、その使命をただ純粋に応援してくれてるんだから。




学校がないのをいいことに、

夜遅くまで漫画をGペン丸ペンで好きなだけなぞって、部活のない日は午後まで寝ていた。完全に漫画中心でめちゃくちゃな生活を送っていた。

その日、まだ寝ぼけたままの状態で、市民プールへ向かった。


建物の玄関前に、肩幅のゴツい全体的にダボついた男が立っていた。シルエットのでかさにちょっとびびった。足元はまさかのビーサンの、私服姿を初めて見るその男におそるおそる話しかける。

「よぉ」

ついに来たか、という悪戯な顔で僕を待ってた。

「よし林野くん。うどん楽しみに汗流そ!」

がしっと僕の肩を掴み、そのまま僕たちは市民プールの自動ドアに吸い込まれた。


事は遡る。カメラ片手に校内のプールまで足を運んで出くわしたときのことだ。

『今度、一緒にプール行かない?』

『は?』

『市民プールとかどう?』

突然の提案に僕は面食らった。

『夏は水泳部もまずこないし、ダイエットやリハビリ目的で歩いてる人もいるから、泳がなくても目立たないと思うよ。それに近くに評判のいい、うどん屋があるんだ。どう?』

 佐川は一緒に風呂屋に誘うようなノリでごく自然にそう言った。

『や、僕泳ぐのは……』

『……じゃあなんでいつも学校のプールを眺めてるの?プール好きなんだろ、一緒に浸かろうよ』

 


そんな誘い文句あるかよ。なんとなく断れず。今日に至る。

回想していたそのときだった。

後ろからダダダダダ、と突進音がしたので振り返ると、

「お待たせ! ねぇ、私も着替えて泳いでいい?」

 プールバッグを持った秋谷が走ってやってきたのだ。


「……え?」

 白Tシャツにデニムのショートパンツ。ちょっと長めのカーディガンを羽織って黒いリュックを背負い、オレンジ色のキャップを被っていた。その手には、帽子と同じ色のナイロンのプールバッグを持っている。真っ白の脚はむき出しで、スポーツサンダルを履いていた。明らかに準備万端な格好だった。


どこでバレたんだ、いや、にしてもなぜ来た?

記憶を探ったが考えるだけ無駄な気がした。

そのプールバッグには、まさか水着が入ってるんだろうか。え、まさか水着になって男二人と一緒のレーンで泳ぐ気なんだろうか。正気かコイツと困って、佐川と視線を合わせた。

秋谷は、なんかマズかった?とでも言いたげな顔で、首をかしげた。

「……あ、あの。そういう遊ぶ場所じゃないから」

「いや全然いいよ!夏休みで混んでるし一緒のレーンになっちゃうだろうけど」

 僕の声をかき消すように、佐川は声を重ねて秋谷を歓迎した。

えっと予想外の反応に焦る。いやいや。秋谷のことだ。浮き輪とかアヒルとか謎のアイテムをいっぱい持って来てるんじゃないかとか、服着てるときの距離感で引っ付いてくんじゃないかとか、介助するはめにならないか、とかぐるぐる思考した。

「そういや秋谷ちゃん、スイムキャップとゴーグルは持って来てる?」

「えっ!? 貸してくれるんじゃないの?」

「ここ、レンタルなしなんだよ」

佐川があちゃー、と言うと、秋谷がぷうと頬を膨らませた。

「……わかってますよ、男同士で泳ぎたいんでしょ、邪魔者は消えますよ。ハイハイ……いいもん。売店で新刊のコミックス買って読むもん」

「そんなん売ってねぇよ、コンビニじゃあるまいし」

僕の返事も聞かずに、ぷい、とそっぽ向いてどこかに行ってしまった。

心配で追いかけようとしたそのとき、


「「兄ちゃんつっかまえた!」」

後ろから猛ダッシュしてきた背の低い少年二人が、佐川に飛びついた。

「これ俺の弟。プール行きたいって聞かなくて連れてきちゃったんだ、ナハハ……」

小学校三年生と四年生だという。随分年の離れた弟だな。彼の日頃のおせっかいぷりに合点した。

僕たちは四人で更衣室で裸になり、水着を履いて屋内プールに出た。


そこは、辺り一面が青色の世界だった。屋外の学校プールとは違う、屋内特有の雰囲気に呑まれた。塩素の香りに鼻がツンとし、鈍い声の響き方に耳が詰まった。

全部で八レーンあり、小学生や親子で賑わっていた。端のウォーキングコースでは、水中歩行するおじさんおばさんがいた。真ん中辺りのレーンが、黙々と泳ぎたい人専用らしい。

そのどちらでもない、フリーレーンに佐川がどぼん、と入水したので、僕も後を続いた。昼頃だからなのか、人が順番に引き上げていってちょうど少し空いてきた。

佐川の弟二人は、キッズ専用の底が浅いレーンに飛び込んで、もう既にスイスイ泳ぎ始めていた。


「なんか申し訳ないことしたな」

 佐川が背面で器用にぷかぷか浮きながら、プールの二階にあるガラス張りの観覧席をチラリと見た。

普段は児童向けのスイミングスクールに使われている施設らしく、その観覧席は、保護者が子どもを見ながら待機するための場所として存在した。

秋谷があっかんべーして座っている姿が見えた。手にはどこで調達してきたのか、やはり新刊のコミックスを持っていた。子どもか。

「秋谷ちゃん、どんな水着持ってきてたんだろうな」

「さぁ……」

おそるおそる水面下へと足をつける。底が深いレーンに入水したため、高校生男子の僕らでも胸元まで浸かっている。

 佐川はゴーグルを目に装着すると、そのまま水中に潜った。

壁を蹴って、勢いよくスタートを決めた。水圧の波が僕に向かってきて、立っている足元がフラついた。

水中でドルフィンキックを軽やかにこなし、やがてだんだん浮き上がってきた。その身のこなしの輪郭がはっきりしてくると、十m地点ぐらいですくっと立ち上がり、広い肩幅の背中を水上に現した。

「ここまでおいでよ」

 ブンブン手を振った。佐川は僕のフォームを根気強く見てやると言った。

「泳がないって言ってんだろ」


 しぶしぶ潜った僕は、水中の世界に身をうずめる。やがて本能で、口を閉じ、鼻から息を吐き出す。ぶくぶくと泡が視界を遮り、そんな僕自身の生きている音が鼓膜を支配するようになる。慣れてくると、青い視界に佐川の立つ脚が判り、レーンの底の距離を示す横線が視えるようになった。仕方なく身体を水に預けて首を垂れて、壁を蹴った。

手は太ももに添えたまま、力なく、数回ドルフィンキックをして彼の近くまで浮いた。


なんだよ、オイと佐川が僕の頭を掴んで沈めるフリをしたので、僕も佐川にじゃれて掴みかかった。

「そうそう。学校の水泳の授業じゃないんだから、自由にプールと遊んでいいんだよ」

「遊ぶ……?」

ばしゃ、と水面上に頭を完全に出して水をはぐ。

後ろを振り返ると、まだ壁まで十五メートル以上ある。遥か奥のほうまで、何レーンも連なって立ちはだかっている。眼下に広がるプールは、この青い世界は、僕にとってなんだ?


佐川の目的はよく分からなかったが、本当に”プールに浸かること”を徹底し、そして僕に付き合ってちっともまともに泳がなかった。

なぜか他のレーンに入り込む客はいるのに、このレーンには誰も来ず、急かされることなく、水に抱かれることができた。

水のぬるい感触が心地いい。頭ごと水中に何度も押し戻す。あえて息を止め、耳を澄ませてみた。そこは静寂の世界で、ブーンという、管理するモーターか何かの機械的な音が鈍く響き始めた。ゴーグル越しの一人ぼっちの、青い世界。


じっと見つめていた。すると、同じレーンの前方にぽうと何か浮かぶものに気づいた。

それは人の足の裏だった。「ん?」とすかさず底に足をつき、立ち上がって確信したが、誰もいなかった。「どした?」尋ねる佐川の声が後ろからしたので、もう一度潜って確認したが、それは消えていた。「誰かこのレーンに来た?」「いや、俺らだけだぜ」「そう……」

 いや、確かになにか、人肌みたいなのが、通ったのだけど。

 一端、身体を休めるため、プールサイドに設置された冷水機で水分補給をすることにした。

「兄ちゃん、俺も俺もー」佐川の弟たちが気まぐれにやってきて、交代で水を飲むと、そのままぴょんとプールに飛び込んだ。「コラ!飛び込みは子どもはダメだぞ」注意したときには既に飛び込んでいて、水遊びを始めた。

すると、六、七歳ぐらいの子どもたちが、二十人くらい僕たちの腰辺りをばたばた通り過ぎていった。スイミングスクールの時間らしい。

プールの底にステップ台が敷かれた、一番向こうのレーンで、アームリングを両腕につけて、潜ってきゃっきゃと遊んでいる。子どもの甲高い声と先生の明るい声がこだまして室内プールはいっそう賑やかになった。

僕たちは対岸のプールサイドでストレッチをして、その様子を見ていた。

あぁなるほど。水中で見た人肌、あれは小さい子どもの足の裏だ。

スイミングスクールの子どもの誰かがフライングで先に泳いでたんだろう、と深く気に留めないことにした。

今気づいたが、レーン前方にカラーコーンが立てられていて、そこに注意書きが貼られている。僕たちがいた一番端のレーンは”ウォーキング専用※泳ぐ人は他のレーンへ”と書かれていた。なるほど、道理で誰も来なかったわけだ。あれぐらい小さくて自由な子ども以外はまぁ乱入しないだろう。

などと、その光景を見て思い更けていると、

いつの間にかプールサイドに上がってきた佐川の弟二人が、「退屈ー」と駄々をこねて、佐川の肩にぶら下がっていた。

ふと、佐川が二階を見上げる。僕も釣られて顔を向けると、秋谷は子どもの保護者に混ざって黙々とコミックスを読んでいた。多分誰かの姉だと勘違いされてるのでは……。

「じゃあ、先あがって着替えてあの漫画読んでる姉ちゃんと遊んでろ」

ふぁーいと返事した弟たちは兄の言いつけをよく聞いて更衣室へと走っていった。


僕はプールサイドのその辺のステップ台に腰掛け、適当に休むことにした。佐川は「ひと泳ぎだけしてきていい?」とわざわざ僕に断って”泳ぐ人のためのレーン”に入水すると、心地よく何セットか泳ぎ始めた。なんだよ、やっぱり泳ぎたいんじゃないか。まぁ、そうだよな。肩透かしを食らった心地になりつつも、その現実を観察した。

怖いもの知らずのその泳ぎっぷりは人の目を惹く。この屋内プールにいる人たちの何人かの注目をすでに集め、気づいていないのか解っているのか、切り裂くように水中を突き進んでいく。

冷静に腰を据えて傍観者にまわってしまったからこそ言える。僕はもう、ああはなれない。そんな気力はない。


やがて満足してあがってきた佐川は、水を滴らせながら、開口一番こんなことを言い出した。

「そういや、秋谷ちゃんって結局7月の間ずっと水泳休んでたよね?」

「あー……そうだな」

「夏休みまでの一か月間、週2のペースで授業があったけど、確か一回も」

「それがどうした」

 佐川は持参したセームタオルで顔を拭いて、目をしょぼしょぼさせながら答えた。

「女子に水泳の見学理由を聞くとか野暮なことは出来ないよな、んーでも秋谷ちゃんの水着姿知らないなぁって。でも、今日は持ってきてるんだよね?」

佐川の後ろを、スクール水着の小学校高学年っぽい女の子がたまたま通る。

胸元にゴーグルを引っかけて、無邪気に紐を揺らして親の元へと、太ももを交互に動かして元気に走っていく。


「絶対いいよなぁ……。 キャップやゴーグルなんて窓口で買えるし、俺なら断らなかったな。やっぱり誘えばよかったとかぶっちゃけ後悔してない?今からでも降りてきて着替えてもらうよう催促する、どうする?」

「いいからシャワー浴びよう」

急に改まって何を饒舌に喋り出すのかと思うと呆れた。シャワーまでその背中を押すと、佐川は「なんだヨー」とキャップを剥ぎ取ってわしゃわしゃ洗い出した。


更衣室で水着の水を絞って、私服に着替えてロビーに出た。

建物を出ると、セミの鳴き声が響いて、木々の新緑がそよいでいた。ぶわ、と汗をかいてきたが、濡れた髪がまだまだ冷やっこくて心地よかった。

すると、どこからか調達したレンタサイクルに跨った秋谷が横切った。僕たちに気付くと、飼い主を見つけた大型犬みたいに、地に足をついて突進してきた。

「兄ちゃーん!秋谷ちゃん道端で寝てたんだよ。僕たちが来ないときっと起きなかったよ」

「えへへ、ありがとうね弟くんたち」

いつの間に仲良くなったのだか、合流した佐川の弟二人を引き連れて、僕たちの前で急停車した。

「寝てたってなんだよ」

「いやぁ木漏れ日が心地よくて」

ナハハと笑う秋谷は、自転車のカゴに入っていたレジ袋をさぐった。


「水どう?きもちよかった?これ、ご褒美アーイス」

それはカップアイスだった。僕たちに木のスプーン付きで差し出した。

蓋をめくると、アイスクリームは既に半分溶けていた。

「……いつ買ったの?」

「わーんごめんなさーい」

秋谷は半べそをかいて、自転車をレンタサイクル置き場まで跨って返しに行った。

勿体ないから、僕はパクッと先に食べた。

「「「「甘っ!」」」」

同時に口に含んだ僕たちは、情けない秋谷の後ろ姿を見て、おかしくって笑った。

夏だなぁ、と思った。


佐川は弟二人と両手を繋いで家まで帰っていった。その立派な兄の姿を見送って、残された秋谷にふとぼやいた。

「やばい、今日まだ何も漫画やってないや。というか忙しなくてそれどころじゃなかった。だけど、だるくて眠い……」

プール終わり特有のけだるさが襲い、あくびをした。すると秋谷はこう答えた。

「静かになりたいのなら、うち来る?」


電車に乗って、秋谷の後ろを歩いている途中で違和感に気付いた。

夕方になってもまだまだ蒸し暑い気候と漫画漬けのルーティンに浸りきった夏休みの時間間隔で頭が麻痺していたのだろうか。

うちとは……もしかして秋谷の家?徐々に近づき、見えてきた。このアパートは……。突然ぶっ倒れた秋谷をおぶって来たあのアパートじゃないか。

考える間もなく、秋谷は鍵をぶっ指して扉を開いた。「ただいま~」

人のいる気配のない奥のほうからは何も返事がない。

「あの、誰かいるの?」

「誰もいないよ。癖癖。親もどーせ帰ってこないし」

靴を脱ぎかけたその足を止める。意味を理解すると、つま先が震えた。なにを、どういうつもりで、彼女は、男の僕にそんな台詞をわざわざ言ったのか

靴を脱ぐのをためらってUターンしようとしたその腕を掴まれた。


「合宿合宿。うち幸い部屋余ってるから」


振り返ると、僕の知らない顔をした秋谷がそこにいた。

表情から感情が一切読み取れない、不敵な笑みをゆっくりと浮かべている。

たとえば、初めて部室で、僕の背後から手を重ねてGペンの使い方を教わった日、

初めて前後の席でツヤベタやスクリーントーンの切り方を教わった日、

初めて保健室で寝てる僕を覗き込んでくれた日、

それらなんかとは全く違う、僕の分からない気持ち。他人が何を考えているかなんて分からない。秋谷だって、瞳未だってそう。

玄関を上がると、そこは秋谷のプライベートルーム。

プールの水中に潜るように秋谷の領域へと誘われて、拒む術の分からぬまま、僕は足を踏み入れた。


秋谷は、スポーツサンダルを脱ぎ散らすと、目もくれずに、デニムのショートパンツから覗く白い脚を裸足で放り出して、ザッと襖を開けた。

「こことか合宿にぴったりじゃない?」

その光景に僕は言葉を失った。

その薄暗い部屋には、床から天井に至るまで膨大な本が蔵書されている本棚がお化けのように立ちはだかっていた。しかも驚くことにそれは全て漫画だったのだ。

「父親が使ってた書斎。少年向けの漫画も含めて古今東西の漫画があるよ」

愛おしそうに、本棚に身を委ねている。そこに収まる背表紙を秋谷は指でなぞった。

父親。初めて聞くワードだ。

「随分古いものもあるな。タイトルしか聞いたことないものばかりだけど」

ふうん、と取り出してそのページが黄ばんだ年季の入った様を眺めてみると、

「え、」と秋谷は持っていた漫画の単行本を裸足の上にぼとりと落とした。

なんか地雷踏んだ?古いアパートのカーテン越しの夕日に照らされた秋谷はびっくりという風に固まっていた。壁の電気のスイッチをパチンと入れ、視界を急にえらく良好にすると、棚から勢いよく何冊か漫画をかき集めて表紙を見せびらかしてきた。


「ま、まさか。この少年漫画読んだことないの!?こっちの漫画も!?男の子なのに!?」

「や、だって漫画なんてほとんど読んだことないし……結構いるっしょそういう奴」

「君それ野球やる人がテレビ中継観たことない、ピアノやる人がプロの演奏聞いたことないって言ってるのと一緒だよ!?やばくない?」


今度は恐ろしい剣幕で詰め寄って来た。僕は負けじと、黄ばんだ古い漫画の単行本で秋谷の顔面の接近をカバーする。でも紛れもない事実だから仕方ない。


「……言われてみれば、瞳未のしか実質、読んだことないないかも」

「絶好の機会じゃん、これを機に読み漁れ!……私はお風呂に入ってくるから」

と言って、ぷい、と立ち去ってしまった。


書斎は妙に古めかしかった。父親の書斎といったな。この年季、おそらく父親が少年だった頃に集めたものではないだろうか。少女漫画は逆に新しいものばかりだ。秋谷が新たに買って足したものだろう。親子の血筋を感じる棚だが、父親がこの家に出入りしている形跡が全くない。靴も、干されている服も。

というか……部屋全体が、薄暗くなにか淀んでいる。色彩たっぷりな秋谷が住んでいるというのが信じられないくらいちぐはぐな印象だった。


漫画を順番に手に取ると、シャワーを浴びる音がし始めた。つーか、お風呂って。気まぐれだな。男を上げるだけ上げといて自分はシャワー浴びるからお前は漫画でも読んで待ってろってか。勝手な女子だな。

『──秋谷ちゃんの水着姿見たことないや、絶対いいよなぁ。やっぱり誘えば良かったとかぶっちゃけ後悔してない?』

昼間の佐川の言葉が悶々と頭をよぎる。


確かに、秋谷は一か月間もの間、水泳の授業をすべて見学していた。女子には色々事情があるとはいえ、ちょっと不自然だ。

秋谷は水着にならない女子だった。プールに頑なに入らないその姿は、水だけでなくプールに囚われている僕をも拒絶しているように感じていた。

いつからだろう。あづさとの惨めな喧嘩に巻き込まれてしまった辺りからだろうか。秋谷は、漫画には付き合ってくれるけど、水泳や僕自身とはなんとなく距離をあけて接してくれてるように思う。それ自体は有難いのだけど……。


ただ、そんな秋谷が、今日は水着を持って市民プールに現れた。

似つかわしくない行動だ。本当にどうしたのだろう。子犬ような秋谷が肌を晒してこっちに来る姿が想像できず、つい、怖さが勝った。

まぁそんな秋谷も今は裸になって、拒絶してると思ってた水を、シャワーを存分に浴びているみたいだけど……。


秋谷が言っていたこともまぁ一理あるので、とにかく漫画は適当に流し読みをした。

すると案外早くに秋谷は上がって来た。


「お待たせー」

「早かったな、ちゃんと湯舟浸かって来たか、え……」

秋谷の濡れた髪はまっすぐに伸び、ショートパンツから火照った脚が伸びている……ここまでは見たことのあるものだけど、上半身はシンプルな単色のタンクトップらしきものを着て、女性らしい柔らかなラインが弧を描いていた。 

その無防備さに呆然とし、慌てて目を逸らした。

「いつもそんな格好で寝てんの?なんか羽織れば。……冷えるよ」

「……湯舟入らない主義なんだよ。だから私はお風呂早いの。どうかな」

肌の出ているところを変に意識してしまう。なんでこう、女子は見せびらかすように露出したファッションをするのだろうか。特に秋谷は、イチイチ距離感が近すぎる。

「どうって……合宿なんだろ。二人だけどよ。ちゃんとやろうよ」

吐き出すように思わず口走った。すると、悪戯に触れようとした手を秋谷はハッとひっこめた。間もなくしゅん、として、部屋の隅っこで体育座りしてしまった。どうしたんだ本当に。

「……親は本当に帰ってこないんだよな?」

流れで、念押しで僕は聞いた。

「私、実質一人暮らしだからさ」

「えっ」

思わぬ回答が返ってきて振り返ると、秋谷は破れた障子に指を突っ込み、目を合わせることなく力なく、一息に語り出した。


「父親と母親が七年前に離婚しちゃって、一応母親に引き取られたんだけど、あんまり帰ってこなくてさぁ……まぁでもお金は女子高生が暮らすには十分なくらい口座に入れてくれてるから案外贅沢な暮らしはしてるんだけどね」


人の家のことをどうこう言うつもりはないけど、薄暗いアパートの部屋は、改めて見ても、あまり裕福なようには見えなかった。人が住んでいる気配がないのも頷いてしまう。

障子は眩く、憂いを帯びた顔でもたれかかる秋谷を照らす。外は夏でまだまだ明るいのだろう。この部屋の中は、むんとどんよりした空気が漂っている。露出された秋谷の健康的な脚でさえ、ちょっと気味悪く思えた。

「……いつからここに?」

「離婚してからだね。だからかれこれ6年くらいはこんな生活だよ」

僕は訊いちゃいけないことを喋らせてしまったのではないのだろうか。誰にだってそういう話題のひとつふたつはあるものだ。僕はすくっと立ち上がって伸びをした。


「……僕も風呂入っていい? どこ?」

「え!どしたの急に」

「脱いだものとかちゃんと片づけたよな?」

「洗濯機に入れた。開けて覗かないでよ~」


ようやくいつもの悪戯な口調で喋ってくれたので、胸を撫でおろした。

なんかその場にいたくなかったのだ。というか顔を洗いたくなって脱衣所へと行こうとした。

が、どうやら洗面台はお風呂の中らしく、しぶしぶ戸を開けた。

一人が座れるのがやっとぐらいのこじんまりした小さなお風呂だった。カウンターに置いてある、女物のカラフルなシャンプーや洗顔のボトルなんかが妙に浮いている

洗濯機は随分型が古いものがそこにあり、この家は、6年前で時が止まっているのだと改めて実感した。秋谷は、こんな生活をずっとして育ってきたのか。変人っぷりの由縁と、点と点が結びつくようで結びつかない。なんだか信じたくなかった。


「ちょ、秋谷。洗剤ある?浴槽洗う」

「え、なんで」

「女子が使ったあとに、そのまま男が入る方が気持ち悪いだろ」

「きゃっ林野くんったら家庭的~」

適当に答えて、ブラシと洗剤を受け取った。風呂の戸を閉めると、洗剤をブラシに大量にまぶし、それで浴槽を一筋こすった。浴槽は入らない主義と言っていたけど……本当に全く入っていないらしく、長年の蓄積を思わせる汚れが付着していたのだ。こすったところだけ、本来の白い浴槽の壁が姿を現した。

……親も、本当に全く帰ってきてないんだ。秋谷はよく怪我をしたりぶっ倒れたりするけれど、そういうときどうしてるんだろう。

前、僕がおぶってここまで送ったとき、玄関の鍵は開けっ放しだった。そもそもなぜ住所を僕が知っていたか、先生が住所を書いたメモを僕に渡してきたからだ。”なんかあったときのため”なんて。

なんか、どういう気持ちでお風呂場から出ていいのか分からなくなった。浴槽をこすり続け、シャワーで水を出して、汚れが落ちていく様を棒立ちで眺めていた。水の流れるシャワーヘッドはそのまま僕の足を濡らした。水と一緒に考えたかったんだ。


しばらくして「やっぱ風呂、いいや」と戻って告げると、

「そっか。はい、この話終わり。私らしくないよね、へへ」

秋谷はいつの間にかパーカーを羽織って、ミニテーブルで漫画を読んでいた。


そろそろ帰るな、その一言が言えなくてはや三、四時間。しおらしい秋谷をあまり見たくなかったので、本棚の漫画に関する質問を適当に羅列してみた。すると、簡単なものだ。みるみる語りだし、秋谷の口はもう誰も止められなかった。


「少女漫画ってのはねー。読者層の購読を始めてから卒業までのスパンが短いから、少年向けに比べると短期連載のものが多いの。特にローティーン向けは」

「要するに、男は単純……ってこと、か?」

「いや、少年ものは年齢を選ばない読み物が多いってことかな。女の子の心は秋の空だから。成長と共に移り変わりやすいのよ……。あ、ここテストに出るから」


いつの間にやら秋谷先生による少女漫画の歴史教室が開講していた。受講生は僕一人。

頼んでもないのに勝手に熱血教師を演じて、巨大本棚の前をウロウロして語り始めたのだ。

僕はとりあえずあぐらをかいてテーブルでメモを取っていた。(途中でうたた寝してたら張り倒された)

しかし、ここまで漫画オタクだったとは知らなかった。


「先生、質問。瞳未が投稿していた漫画雑誌はローティーンに入りますか」

バナナはおやつに入りますか、みたいなノリで適当に質問すると、間髪入れず燃えて答えてくる。

「君ぃ!いい質問だね。そう、まさにローティーン。10代前半の女の子向けの雑誌だよ。林野くんが前見せてくれた瞳未さんの批評シートに雑誌名のロゴが入ってたでしょ?」

「あぁ……そうかも」

「ほとんどは小学生向きで、中学生、ましやて中学三年生なんて年齢になると、大抵の子は読者を卒業しちゃうんだ」

「大人になる通過儀礼みたいだな」

「そう、まさにソレ!」

秋谷は棚の奥から、その雑誌の古い号を取り出して僕に見せてくれた。

瞳未はそんな月刊の少女漫画雑誌に投稿していた。一か月後に発売される雑誌の後ろに投稿ページがあり、投稿者全員の結果が掲載される。僕も何度か見せてもらったことがある。

どうやら少女漫画界隈は、ストーリーの展開よりも瑞々しい感性のほうがが問われるからか、中学生高校生でデビューする人は決して珍しいわけではないみたいだ。秋谷が見せてくれたそのページにも10代の年齢が記載された作者がゴロゴロいた。

だから決して、瞳未が特別早熟というわけではなかったそうだ。


瞳未は漫画を描いていることをとにかく隠したがっていたけれど、幼いと思われるのが嫌で隠していた側面もあるのかもしれないな、と考え直した。


部屋中にいつの間にか散らばっていた、膨大な数の少女漫画をパラパラ見てみる。

主人公の女子は男に恋をして、おしゃれや告白をして強くなる。男の一挙一動で顔を赤くして泣いて落ち込んで、でかい瞳がそのたびに映す世界をコロコロ変える。

なんとまぁ、きまぐれだな、と思った。

投稿漫画は、一般的に読み切りと呼ばれ、32ページの既定のページ数で納めるのが一般的らしい。32ページ内で展開できる話は限りがあり、話もほとんどが学校が舞台。男は不良だったり飄々としていたり女子に軟派だったり、つっこみどころ満載だったけど、ヒロインが恋する世界がやたら瑞々しく描かれていて新鮮だった。


「先生はなんでそんなに詳しいんですか」

「知識先行型だからよ。情報に溢れている今の時代、投稿せずとも漫画を描くことに興味ある子はこれぐらい知ってる子多いよ」

「そうなんだ、あんなに絵だって上手いのに。もったいないな」

ぽつりと呟いて、姿勢を崩した。秋谷はうーん、としばらく考え込んで、また喋り続けた。


「まぁでもそんな人なんて少数でしょ。やっぱり瞳未さんは特別なんだよ。私は単純に漫画が好きなんだ。だから、小学生向けでも好きな漫画家の新作出たら読むし、ハイティーンも全年齢向けも、少年も読むよ。オジサンでも、ワンピース読んでる人いるじゃん。それと一緒」

「なるほどなぁ」

ここまで何かを語れるものがあることがちょっと羨ましい。

「じゃあ、瞳未にとって、少女漫画はきっと大事なものなんだったんだろうな……」

瞳未は文字通り、魂を削って漫画を描いていた。漫画雑誌だってこっそり購読して、読み終わると売っていたそうだ。


「原稿持って来てる?」

「ん、もちろん」

カメラも手元にあった。せっかくだから前撮った学校の景色の資料を元に、背景を描き込むことになった。難しい背景のシーンを先に描く手伝いをしてくれるとのことだ。

ローテーブルに漫画道具をばらばらと広げた。

秋谷が「あ」とケラケラ笑って不敵な笑みを浮かべた。

「そうだ、主人公が部屋にいるシーンもこれで描けるね? 女の子の部屋のセットじゃんここ」

「あぁ、そうだね。まぁ女子の部屋は瞳未で慣れてるけど。先週も行ったし」

背景を丸ペンでなぞりながら僕はサラリと言った。

カメラのボタンを押して、画像モニターに廊下の写真を表示させる。参考にして定規を動かした。

しばらくして黙り込んでしまった秋谷に気付いて「どうした?」と声をかけた。


「ハイハイ、出たよ幼馴染」

 ぷい、とそっぽを向いてしまった。ついでにカメラを奪われた。「いいショット選んであげるよ」と、画像モニターに履歴写真を表示させて勝手に辿っていっている。ともかくようやく静かになってくれたので、墨汁のついた丸ペンを原稿に走らせることに集中することができた。

秋谷はカメラから目を離し、ちらと僕の原稿を覗いた。

「瞳の描き方が変だよ」

と口を挟んできた。

「ん、瞳未?」

「ちがーう。目の瞳孔。少女漫画は目が命っていうでしょ。恋してる主人公の目を通してみる世界はフィルターがかかってんの。少女漫画の魔法がね!瞳見るだけで、作家の特徴って出るんだからね。間違っても目の中ベタ塗りとかしないでよ」


背景絵をなぞっているときになぜ人物絵のダメ出しなのか。僕は、定規を構え直して校舎と校庭のシーンもなぞった。


「瞳、瞳、瞳~」

「うるさいなぁ。集中させてくれよ」

口だけそう言って秋谷は画像モニターの履歴写真をずっと見入ってた。

ふう、やっと大ぶりなカットが終わった。墨汁が乾いているのを確認して、サッと定規をどけた。

「あ、できた?お疲れ様」秋谷はカメラを置いて、すくっと立ち上がり、レトルトの白米に冷蔵庫の卵を割って、即席のたまごかけご飯をつくるとぐにぐにとかき混ぜ始めた。

全く何を見ていたのだか。テーブルに置きっぱなしの、父から借りた僕のカメラ。ボタンを押して画像モニターを起動させると、ぎょっとした。

表示されたのは、小学生のときの僕と瞳未の写真だった。なるほど。だから”ヒトミ”ね。恥ずかしくなり、電源をオフにして鞄に仕舞った。

二人でたまごかけご飯を食べて、世の少女漫画の話をぐだぐだした。やがて時間を確認するのもめんどくさくなった僕は寝落ちていた。



夢を見ていた。プールで泳ぐ僕の遥か前方に、足の裏が見える。その足の持ち主は、心地よさそうに優雅に泳いでいる。僕は追い付こうと、手を伸ばそうとするけど、微妙に届かない。泳いでも泳いでも離される。その人は水中で一回転する。わずかに見えたが、胸元まで覆われたスクール水着を着ていた。女子だった。


そこで起きた。それはなぜか、市民プールで見た光景と同じだった。

いつの間にか僕は和室で寝てしまっていたようで、膝にはタオルケットがかかっていた。

破れた障子の隙間から日が差していて、外が明るいことが判った。

携帯で時間を確認すると、時刻はとうに朝だった。




結局全然出来ていない。ペン入れの続きをやろう。

小瓶にGペン先を浸して、墨汁をつける。

僕の手は、昨日の続きの背景絵の下書きでなく、なんとなく主人公の女子の下書きまで伸びた。その輪郭線を丁寧になぞりはじめた。

今度は、丸ペンに持ち変える。主人公の繊細な髪を、一本一本丁寧になぞって、最後は瞳を描き込む。こうして主人公の彼女に命を宿す──。


台所から音が聞こえる。鍋に何か入れてゆがいているような音だ。グツグツと煮立つとじゃー、とシンクの水を流して、何か洗っているようだ。ふと顔を上げると、襖の隙間から、まっすぐに伸びたむき出しの白い脚が見え、秋谷が何やら作業をしているのだと思った。コーヒーでも飲んでいるのだろうか。


しかし、密かに傍観していた秋谷が危行に出た。

秋谷は突然そのままフラッと椅子に座り込んだのだが、椅子がその重力に耐え切れず、ふらりとそのまま後ろに倒れ込んだ。

ガンッと音を立て、秋谷は椅子と共に床のマットの上にぐったりと頭を打って、寝転がったのだ。


え?


立ち上がり、襖を開けて、その光景を見に台所へ行く。一点を見つめて、脚をピンと伸ばして手をもぞもぞしている。

コンロの火をとりあえず止めた。マットの上に倒れていたので、そのぼうっとした姿を見る。

あまりに無防備だ。その脚や、めくれて覗いているお腹をみて服を整えてあげた。タンクトップの肩がはだけてしまっている。パーカーをきちんと羽織り直してあげた。甘い香りがした。シャンプーかな。自分が結局そのままお風呂に入っていないことを思い出した。臭いだろうな。パッと秋谷から離れた。やばい。改めて冷静になった。ひと晩一緒に過ごしたのか。なんか後悔のようなものが押し寄せた。先に寝て後に起きた。自分が寝てる間のことを知らない。

テーブルの上には、めんつゆとお皿。氷がめんつゆに浮かんでいた。朝ごはん作ろうとしてくれてたのか。氷がじーっと溶けるその様と部屋を見た。二人暮らしなんだよな、一応と心配になった。

見ちゃいけないものを見てしまった感じだ。人間なんだな、秋谷も、と。部屋はそもそもあるのだろうか。破れたふすまや壁を見て、生活感あるな、と。こんな顔でこの家のどっかで寝てんだな、とその頬をぷう、とつまんだ。


「秋谷、秋谷」声をかけると、

うーん?とようやく声らしきものをあげた。

「どうした、大丈夫か」と囁くと、

「林野くん……なんでここにいるの?」

ぼけっとした顔で問われた。こっちが訊きたい。ぼーっとしてるのか煮え切らない感じだ。

「ありがとな、朝ごはん準備してくれてたんだな」僕はコンロにかけられた、そばの水を切ると、ざるに移してテーブルへと運んだ。

秋谷は上体を起こして僕の様子を見ていた。やはりその様は交信しているみたいだ。

「椅子に座らせて」

「はい!?」

「立てない」

ぼけっとしたその様はどうやら甘えているようにも腰が抜けているようにも見えて、ため息をついた。どこ触っても文句言うなよな。後ろから背中を掴んで抱きかかえる形で介助して、座らせた。

「分かった。秋谷、また創作の世界にいったんたんだろ?」

「あ……ばれた?」

とふにゃふにゃ笑った。

まぁ夏バテだろうな。机に置いてあった麦茶をグラスに注いだ。

そうめんの氷がカランと鳴って、溶けた。




僕の漫画制作は着々と進んでいった。

秋谷が旗を全面的に請け負っていることで、隣り合って漫画を描く機会がめっきり減った。教室にも行かないし、前後の席に座ることもないので、なんだかつまらない。


白くて細い腕を絵具で汚して、今日は体操服でかじりつくように向き合っている秋谷に、

「力作業とかあれば言えよ」と隣にしゃがんでその旗を覗き込んだ。

「馬鹿っ近いのよ、汚れるよ」

「秋谷のほうがよっぽど服とか汚れてるよ」

「ともかく暑いのよ、しっしっ」と一定距離の継続を指示された。


秋谷の股下の旗には、

牙を向いて襲い掛かるサメと狩猟人の男が銛をついて戦う、一瞬の油断も許さない緊迫した場面が、大迫力で描かれていた。

「これは……美術館に寄贈したほうがいいレベルなのでは」

青に様々な色を大胆に塗り重ね、額縁風に描かれた枠組みを、今にも飛び出してきそうな立体感だ。サメのギロリと睨む様と、狩猟人の豪胆な後ろ姿が、観る者の心に訴えてくるものがあった。


「何を言うのよ、これを泥んこにして体育祭で振り回すんでしょ。それに……この絵は今の私の気持ちだから」

秋谷はちょっと顔を赤めてそっぽを向いた。

いや、どんな気持ちだよ!!!!


サメにも狩猟人も負けぬよう、四つん這いになり、食いつくように修復作業を施していた。少女漫画の主人公とはほど遠い、乙女のカケラもない姿だぞ、お前。

なぜか秋谷は、あの朝の出来事を記憶していないらしい。

気づいたらそうめんを食べていたらしい。ほんとかよ。

乱れた服を直したこととか、抱きかかえたときの手の感触とか、いちいち覚えられてたらマズいことが多いから、それは思わぬ幸運なんだけど。

そんなことあるか?と思う。

でも、現に近づきすぎるとあしらう同一人物の行動にはちょっと思えない。女心はよく分からない。


ただ、こんな風に二人でちょっと気まずいときにすごいタイミングでいつもあの人がガラッと扉を開けて現れる。

「助っ人参上!」

プールバッグ片手に佐川が現れる。旗に関する雑用を買って出て、週に数回、部活終わりに覗きに来てくれるのだ。

秋谷はキッと上体を起こすと、

「佐川くん。夏休みも今週で終わりだし、再来週には体育祭。私、なにがなんでも今日中に仕上げちゃう。絵の具足りないっ買ってきてっ」

どこからか取り出した買い物メモを、サッと手渡した。

「あいあいさっ」

「あ、領収書は、権田先生で切ればいいからねっ。顧問だし担任だしなんとかしてくれるでしょ」

佐川はウキウキでプールバッグを置いて、その足で文房具店へと走っていった。

二人も僕には手伝わせない、という共通認識の元動いている。

僕は漫画に集中させるため。手を汚させないため。

でもなぁ、なんだかなぁ……。蚊帳の外感がつまらなかった。



そして作業が終わると、朝から始めたにも関わらずすっかり遅くなってしまった。

「おなかすいた~」

「じゃあうどん……」

「うどんじゃお腹膨れないよ」

秋谷は、ぴしゃりと佐川の意見を即座に却下した。

二人の妙なナイスコンビネーションに呆れる。

そんなとき、僕はふと閃いた。スマホでメッセージを送ると、”歓迎”と母からスタンプが返って来た。

「良かったらウチで食べない?」


ともかく僕は二人に感謝していた。

だから、日頃の感謝を伝えたく、家に招待することにしたのだ。


「あらいらっしゃい。生から、お世話になってるから何かお礼がしたいって連絡きたのよ。いいからいいからウチでお鍋食べていって!」

玄関で迎えて待っててくれた母の歓迎に、佐川は素直に喜び、靴を脱いで上がっていった。秋谷は「はぁ」と少し困惑しつつ、その後を続いた。

すると、隣の家の玄関の戸が開いて、ひょこっとあづさが顔を出す。

「なんか、騒がしいね」

「あら、あづさちゃん?今日お父さんお母さんはまだ連絡ないの?」

母は大慌てでスリッパを履いて、外まで行き、

「繁忙期って言ってたし、ザンギョーかもです。冷蔵庫に作り置きあるんで適当に食べようかなって思ってたところで」

「良かったら、久しぶりに一緒にどう?」

 なんと、あづさまで拉致ってきた。

そして気が付いたら、父、母、僕、佐川、秋谷、あづさという謎メンツで食卓を囲んでいたのだった。


テーブルの真ん中で、IHヒーターに乗っかる鍋のしゃぶしゃぶが音を立てて煮込んでいる。「肉が固まらないうちに食べちゃうのよ」なんて、初めて家を訪れる客人にとあっては遠慮してしまいがちな晩御飯のメニューに、冷や汗をかいたが、

佐川が「じゃあお言葉に甘えて」と箸を突っ込み、初めはむっとしていたあづさも「あったかい肉、久しぶりに食べたいかも……」とお玉で具材ごとがっついたので、母に入れてもらったお玉の具を啜り、箸のペースを速めていった。まぁいいかと僕も辛うじて掬ったスープを啜った。


秋谷がぽかん、と傍観していたのが意外だった。あれ、食べないんだ?おなかすいてたって言ってたのにな?と思った。

彼女は箸に手を置き、なにか言いたげにあわあわしていた。

食べ物にありついたとき、何よりも至福の表情をする秋谷が、だ。

「どした?」

話しかけると、

「秋谷ちゃん、大丈夫?肉、冷めちゃうよ」

隣に座っている佐川が、おたまで掬った肉と野菜を、秋谷の取り皿に当然のように大量に注いだ。

すると、ますます表情をひきつらせた。


それでも肉はどんどん追加され、野菜は消費されていく。

佐川がいつの間にか鍋奉行を勝手出て、父母あづさと機嫌よさそうに話していた。

場の雰囲気が、どんどん形成され、流れていく。


「俺、林野くんには叶わないっすけど、一応水泳部なんすよ。あの中学の大会の決勝は客席で見てましたし」「やだ、そうなの」「ところで鍋、締めにうどん入れないんですか。僕んち、うどん一家なんですよ。兄弟多いんで嵩ましできて便利っす」「香川さん、ぽんず取ってくれます?」「香川じゃなくて佐川っすよ、妹さん!うどん好きだけど、確かにうどんといえば香川県ですけど!」「素で間違えた……」


珍しくあづさが喋っている。

四人でどんどん食べていき、僕はただただ、秋谷が心配で、おたまを手にしていたが、すぐ誰かに奪われてしまった。それにここで事情を尋ねるわけにはいかない気がした。


「いや、ほんとよかったね、生。高校に入っていいお友達ができて。ここ最近やっと残さず食べてくれるようになって。生は瞳未ちゃんが亡くなってから、ごはん食べるのが難しかった時期があったから。お母さん、幸せで」

 母が妙に浮かれてそう零した。父もうんうん、と噛み締めていた。

脳内に当時の自分の映像が、電撃のように浮かぶ。

瞳未が亡くなって、学校に行かなかった数か月間、膝を抱えて蹲っていた頃の僕。

情けなくて不甲斐なくて、食をする意味が見いだせなかった、苦痛の時期。

ふと目の前の秋谷に重なった。

汁を啜って、ちびちび食べてはすぐ飽きたように、箸を止める。


ただ、親のその指摘に少し寂しくなった。

弁当だって夕食だって、僕は心配させないよう、頑張って残さず食べてる。

本当は、そこまで食欲もないけど、頭も使わなきゃいけないし、体力もつけないといけないから。二、三か月もまともな食事を拒んだことが、妙に過保護になるほどの心配を与えてしまったことだって理解してる。僕の身体だって元に戻ろうと半年以上かけて順応しているんだ。でも、普段多くを語らない母の、僕への解釈をこんな形で聞かされ、申し訳ない気持ちと憂鬱な心地になった。

もう、食べられなかった頃は”過去”なのかよ。苦しみは過去になんか、ならないのに。


そのとき、ふと見た秋谷が後ろを向いて、鞄のポーチから取り出した錠剤をごくっと飲んだ。見逃さなかった僕はすくっと立ち上がった。


「秋谷、送るよ。最寄り駅、ここからじゃちょっと遠いから」

荷物を抱えた秋谷を玄関まで促した。

なんだかんだまた倒れたら厄介だから送るつもりではいた。女子だし早いに越したことないだろう。そう思っての配慮だったが、


「ここでいいよ」

と玄関前で僕を制した。

「悪かった、体調あんまりよくなかったんだよな?薬まで飲んで。ごめん、なんか巻き込んじゃって。でも、だから駅までは……」

「謝らないで。その台詞嫌い。それに、放置されるより、構ってくれるほうがマシだよ」

「え?」

秋谷は見たことのない表情で、口元をぬぐうと、くるりと背中を向けて玄関ポーチを降りて夜の道へと踏み出した。お邪魔しましたー、と佐川とあづさもいつの間にか、荷物を抱えて出てきて、各々の帰路へとついていった。

静まり返ってから、秋谷は言葉を続けた。

「林野くんのご両親、優しい家族だね。なんかホームドラマの撮影みたいだった。……お鍋なんてもう長いこと食べたことないから」

あっ……とあのアパートを思い返した。

六年前に親が離婚して──。冷蔵庫の中のシンプルな食材と卵かけご飯とそうめんを思い出した。

でも、それはそれだ。だからこそ鍋を、あったかい肉を食べて秋谷に欲しかった。なにせ、初めて出かけたとき、顧問の権田先生の鐘で肉をたらふく食べていた女子なのだ。


「でもそれは──」

「林野くんは!」口を挟もうとしたが、すぐに遮られてしまった。

「林野くんと私は、あまりにも違いすぎるよ。それに……」

 なんで急にそんなこと言い出すのか分からなかった。秋谷は震える背中で、声を荒げて話していく。

「瞳未、瞳未、瞳未って。みんなそればっか……」


言葉の意味を理解するより先にプルル、と僕のスマホの電話が鳴った。

「もしもし? あーあづさ? え、ゲーム機ソファに忘れたって?部屋まで持ってこい?わかった行くわ」

思わず電話に出てしまって、ふと我に返ったときには秋谷の発した言葉をすっかり忘れてしまった。

「悪い、秋谷なんか言ったか?もう一回言ってくれる?」

「なんでも」

振り返ると、秋谷は玄関ポーチのライトの横で、悪戯に微笑んで荷物をきちんと整えていた。きゅ、と口元を結んで、うんうん、と頷くと、何も言わず駅まで歩いて帰ってしまった。

なぜか、僕はその背中を追うことはできなかった。





そして夏休みが明けて、練習や準備に明け暮れる日々を数日繰り返すと、あっという間に体育祭の日がやってきた。

完成した旗を初めて見たクラスメイトは仰天した。

「これだけで目立てるんじゃ……加点狙えるかも」

「いやぁ」

秋谷はえへへ、と頭をかいて笑っていた。

いつも通り……にはとても見えなかった。


クラス行進では、委員長が先頭に立ち、旗を持つ。

僕たちのクラスが通ったとき、わあっと歓声があがるようになった。

競技がみるみる進んでいく。リレーのとき、僕と佐川で旗を振り回した。

「やりぃ」とクラスメイトが囃してくれて応援の声が加速しているのを感じた。

リレーで僅差を制した僕のクラスは、昼休憩前に集合写真を撮ろう、という委員長の提案に巻き込まれ、どさくさに紛れて色んな人の写真に、旗と共に混ざることになった。

「林野って結構ノリいいんだな」

男子に絡まれ、

「秋谷ちゃんすごいっ!」

変人として扱われていた秋谷が、色んな女子に囲まれていた。

「良かった、本当に。楽しいね」俯瞰した大人みたいに言って、佐川はワッと僕と肩を組んできた。


「生~!」

保護者席のブルーシートを陣取る父と母が僕をデジカメに納めていた。

その隣には、いつの間にやら親しくなったのか、佐川の弟たちが佐川の家族と一緒に座っていた。

「兄ちゃんカッコよかった!」叫んで変なポーズを二人で決めていた。

それを冷ややかそうに見ているあづさまで、しれっと両親の後ろに紛れていた。

「おばさんおじさんに呼ばれたんだよ。それにいっくんの高校生活とやらを見てあげようと思ってね」三角座りで上から目線な物言いをするその隣に、僕も腰を降ろした。おにぎりを頬張る。


「またあの日、あの人と話しちゃってたね。一体何なの?」

「だって、体調悪そうだったろ……」

「ひょっとして、姉ちゃんよりも、あの人のことが好きなの?」


ぐしゃり、と手に力が籠って、おにぎりが崩れた。

あづさは小学生らしからぬ、冷ややかな声でそう言い放った。


「ハイ、あづさちゃん、生、佐川くんもハイチーズ!」


両親が不意打ちに叫び、シャッターを押した。

幸せなはずの体育祭のその写真には、秋谷が不在だった。それにとても違和感を覚えた。


そそくさと食べ終わり、校庭のブルーシートを練り歩くと、他の女子の家族に混ざって昼ご飯を食べ終わったばかりの秋谷の後ろ姿を見つけた。

ふと気付く。そうか。秋谷は家族が学校行事に来ることすら、ないのか……。

発見したものの話しかけることはできなかった。




後日、部室になかなか来ないのでどうしたものか、と廊下に出て捜しに行こうとすると、その隣の美術準備室から、顧問の権田先生との話し声が聞こえた。


「これじゃイカンぞ」

「久しぶりに描いてみたんですけど、やっぱり率直に言ってダメですか……?」

「違う、そうじゃない。このネーム、独りよがりのモノローグばかりじゃないか。これは少女漫画で一番のご法度だろう?」


随分厳しく叱られているようだった。

分厚い紙束を抱えて、美術準備室から出てきたのは、やはり秋谷だった。

当然目が合ってしまう。


「いや、何それ」

「関係ない」

「ないことないだろ、僕、部員だろ!?」


近頃重なる心配がピークに達し、肩を思いっきり揺すって壁に追いやった。

秋谷は傷ついたような顔を背けて紙束をぎゅっと抱え込んだ。


「そっか。じゃあ言うべきだね。……私、漫画手伝うの辞めるね」

「は!?」

「私は私の漫画の続きを描こうかなって考えてるの」


秋谷が放った一字一句が耳を通り抜けていく。

夏が終わっていく予感がする。もう美術室も汗だくになるほど暑くなく、ひぐらしの鳴き声がうるさい。二人で桜並木を走ったり、二人で食堂で絵の練習をしたり、二人で買い物に行ったり、二人で秋谷の家で過ごしたり、ちょっと前までのそういう秋谷じゃない。

愛おしくって頼りになって、誰よりも強かったはずの、秋谷が分からない。秋が近づいている。

肩を掴んでいたはずの手にこめる力を、そっと諦めた。


「だって、林野くんの心には瞳未さんがいるもの」


秋谷は僕を見上げて、寂しそうに微笑んだ。

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