第3話 プールに浮かぶもの

瞳未の遺作の少女漫画は、梅雨が舞台だ。

部活中に捻挫して松葉杖で登下校をする中学生の少女。

部活は見学を強いられて、教室でも不便に過ごし、今まで当たり前に感じていたものとの距離を感じるようになる。母は仕事に没頭し、構ってくれない。単身赴任の父と文通を交わすことが心の支えの毎日。傘が差せず雨に打たれずに歩くことを諦めていた主人公に気づき、バス停までの道、自分の傘に入れて同じ速度で歩いてくれる、気に留めたこともなかったクラスメイトの彼に恋に落ちる。


 傘を差して空を見上げた。雨水が排水溝を叩きつける。枝葉を濡らす。僕は、まだ梅雨にあけないで欲しかった。主人公の少女の切ない気持ち。何度瞳未の原稿用紙を読んでも、完全には溶け込ますことができなかった。人と違うという寂しさをなぜ瞳未が描いたのか。だって著者はどこにいてもヒロインだったはずなのに。雨で薄暗い校舎、松葉杖で歩く少女の後姿を浮かべ、思いを馳せる。ほら、瞳未は太陽をまっすぐに浴びる向日葵で、彼女は物陰でひっそり枯れていくドクダミみたいな。

そう思っていても季節は無情にも流れていった。雨が嘘みたいに上がると、眩しすぎる陽射しが覗くようになった。

夏になった。



授業のプール開きが行われた。


気温は温かいけど、水温はまだまだ冷たかった。

その肌感覚にひゃあと声をあげる女子達。

この高校では水泳はレーンを分けて男女合同らしい。

プールサイドに並ぶのは、水着。水着。水着。普段隠れてるところが、まるだしになったあられもない姿を一同が晒す。男女で反対側に座り、レーンも左と右で分けられてたが、いかんせんプールはひとつしかないので、グラウンドと体育館で分けられる体育より近く感じた。

浮かれて飛び込んで遊ぶクラスの奴らもいる。「誰だ、浮き輪持ってきたやつー」先生に茶化されてプールサイド奥のパラソル下のベンチにいる見学の人に託し、水の中を逃げ回っていたり。

まぁ馬鹿みたいだなと思う。逆にちょっと羨ましいくらいだ。塩素の香りと、今すべき最適解を模索している僕にはどうも眩しい。

見学のベンチには秋谷もいた。体操服を着て、大股を開いて座っている。ははっと笑って白い脚にかかる水しぶきにもおかまいなしそうだった。

水は心地よかった。夜遅くまで瞳未の原稿に没入して疲れた肌を受け入れ馴染んだ。指についた墨汁がすうっと溶けていった。日常を忘れさせてくれる。ずっと浸かっていたい。

「林野、さっさと泳いで。後ろつっかえてるよ」

後ろの男子の腕が僕の足の裏にあたる。驚いて振り返るとそう言われた。

適当に水をかいで、僕はとにかく浮いて、水の流れに任せることにした。



水の中にいると瞳未を思い出す。

『私、水泳辞めるね』

瞳未は小学五年生のある日、そう僕に言った。

年齢を重ねて、僕が虫取りや釣りに夢中になっていた頃、瞳未はクラスの友達に感化されて少女漫画やイラストに興味を持つようになった。

『キラキラ!ヒロインってすごいんだよ』

どこからか調達してきた漫画道具を持って、すごいでしょ!私も漫画家だ!なんて言って、プール通いをサボるようになっていたのだった。


上半身裸の体育の先生が、ピーッとホイッスルを鳴らす。


「こら、林野。サボらず泳げ!」

どうも、現実は、僕と瞳未の時間を邪魔する。適当に壁までたどり着いて歩いた。


またもホイッスルが空気をつんざく。


「次はバタフライ25mな。見本として水泳部の佐川に泳いでもらう」

「はい」

佐川はぺちぺち、と裸足で歩いてプールレーン前に行くと、無人の水中にどぼんと身を沈めた。

ゴーグルを装着して、スタートの構えをすると、そのまま勢いよく水を切り裂いた。


プールサイドでの歓談は、しんと静まりかえった。

綺麗なフォームだ。生き生きと泳ぐその様。それはまるで、水と遊んでいるようだ。

なんのしがらみもない、その手足は、隣のレーンの人から頭一個飛び出るのが最高に気持ちよくて夢中でいられた頃のかつての僕に見えた。彼は透明で、まっすぐだ。これが、きっと佐川の処世の様。彼の足取りの軽さを表していた。水族館の水槽で展示されているような美しさ。希少性。触れていないのにきっと分かるあたたかさ。愛くるしさ。その舞台を降りた、僕にはもう手の届かない、その分厚いガラスの先にいる、そういう人だ。

佐川は、壁をタッチしてすくっと水をはぐと、湧き上がる男子女子からの拍手に「しゃーっ!」と拳を掲げた。格好いいなと思った。自信満々に歩いて帰ってくるときの努力に裏付けられた背筋も彼を象徴している。



それから後は、あらかじめ並んでいた背の順で、飛び込み台から水面へと跳び、各々がバタフライを泳ぎ始めた。

じゃあ林野、次な。と先生により割とあっさり飛び込み台の横へと呼ばれた。

なんてことはない流れ作業だ。「あ、漫研の林野だ。ヒョロガリだな」という声がちらっと聞こえたりもした。後ろがつっかえないように、早くいかないと。反対側の女子が体育座りで、まるだしの足をこちらに放りだして、なんか愉快そうに笑っている。男子側のレーンを見てなんか話してる。

不快だな、と視線を逸らした。

秋谷も他の見学の女子となにやら話して気持ちよさそうにパラソル下のベンチで風に揺られている。

よく晴れた朝だ。水面が透き通っていて、ばしゃ、という波の音もいい。


意を決して、片足を水面につけたときだった。眼光を投げかけられたのだ。水族館の水槽展示の、向こうの人から。

それは突然のことだった。


「まぁ、林野くんのほうが凄いけど」

プールサイドで繰り広げられていた談笑が、海の底みたいに静かになった。


「林野くんは、中学のとき、県大会で入賞した競合選手だったんだぞ! ねっ泳いでよ、今ここで」


佐川が、体育座りで僕を指さして大声で叫んだ。

止めていた呼吸をうっかり漏らし、ぶくぶく、と気泡が立ち上った気がした。

──なんで水泳を捨てたの?

いつぞやの佐川に投げかけられた台詞が頭を反芻する。

佐川はいつの間にか、僕の背後に回っていた。そして、身動き取れない僕の両肩に呪いをかけたのだ。

水槽に展示されるのは、君の番だよ、と。


──中学三年の夏。

はんなりとした物腰の柔らかい雰囲気で、瞳未は笑って言った。

『私、生の泳いでるところ、好きだな』

大会でコースで泳いでいるとき、ストロークをしたときに捉えた、目を惹くその容姿は、水を掻いた飛沫にも負けず眩しかった。僕の名前の横の電光掲示板に表示されるタイムと順位。湧き上がる歓声。プールの中から見えた景色だ。僕の記憶にしつこく鎮座している──


今、このプールサイドにいる聴衆の記憶に焼き付いて間もない、透明でまっすぐな力強く切り裂くストローク。水とひとつになるしがらみのない様を披露したその羨望の手のひらで、佐川は僕の肩にぽん、と力を籠めたのだ。

表情はただ、にこりとしていた。

耳元で彼は囁いた。

──「言葉で否定できないなら泳いで魅せてよ」

荷物を受け渡されたように肩が重くなるのを感じた。


秋谷みたいな声が聞こえるけれど、どんどんそれも遠くなっていった。

視線が一気に僕に集まり、僕はガラスの向こうの世界に閉じ込められた。



「えっじゃ泳いでよ。本気で」

「見たい!見たい!」

「なんだよ知らなかったよ、言われてみれば引き締まっててアスリート体形だわ」


佐川の言葉は威力を持ってクラスメイトを支配した。

僕はもう一年近く泳いでいない。漫画修行で忙しくて机にかじりついて過ごしているので身体は相当鈍っているだろう。見なかったことにしようと思ったのに、過去は僕を離してはくれない。

分かってる。練習も全くしてない僕が乗る勝負なんかじゃない。そもそもこれはなんの勝負だ?

多分、佐川じゃなくて。過去の僕との──

水面には中学時代の僕が写っていた。

『ヒトゴロシ。林野は犯罪者だ』『償えよ瞳未のこと。クソが』

廊下で叫ばれて、先生が来るまで身体全身を蹴られて悶えながらも、当時の僕はアイツらの気が済むまで一方的にやられていた。とくに誰も助けてくれなかった。僕が感情を捨てたからだ。身体から血を流して制服が破けても、瞳未のほうがもっと痛かったんだと思うと。それでも歩けている自分の脚に申し訳なさを思った。


なぁ、謝るんだろ。観衆に。見せつけるんだろ。瞳未に報いる覚悟を。記憶に刻むんだろ、もうプールとは決別したその無様な姿を。


「そこまで言うんだったらよく見とけよ」

飛び込み台に載った。

佐川の声が聞こえた気がした。

「え、いや、ちょ、林野く──飛び込み台は授業では使っちゃだめだ──」


僕にはもう、プライドも体裁も何もないんだ。だって僕は瞳未を助けられなかったんだ。脇役として全うするしかないんだ。

降りた舞台に引き上げられた僕は、もう投げやりだった。たとえば、エサに釣られて、飼育員に引っ張り出された水族館のの生き物。身体に深い傷を負っているのに、拍手をされて多くの人前に晒されて泳ぐことを強いられている。拒むことはできない。その瞳には絶望が映る、そんな面持ちだ。

僕は両手を広げて、そのままその体制で下に飛んだ。

迫りくる水面を見た。どこまでも青く、透明で。

うんざりだ。

あっという間に急降下し、お腹から水面についた。

パーンという、切なく切り裂く音が響いた。全員分の視線が突き刺さった。見事な腹打ちだった。

そのまま沈みかけたが、腹を抱えて底に足をついて立ち上がった。ゴーグルを外して、手で顔の水をはいだ。

水族館の生き物は、深い傷をさらにえぐる。生きているけれど、心は死んでいる。円らな瞳で覗きにきたガラス越しの観客をきっと嘲笑う。


「佐川。僕はもう、どうしようもなくダサくて、泳げないんだよ」

僕はもう、処世を泳がない。余計なお世話なんだよ。

直後、脚にぴん、と電光のようなものが走るのを感じた。

仰向けに水の中へと僕は倒れていった。

脇役の僕には逆転のクライマックスなんて存在したい。プールに沈んでいく。どこまでも、どこまでも。そうやって遵死するのが僕の役目だ──。

一瞬見えた佐川の顔に、してやった快楽を忘れた。

切なくて寂しい表情だった。


瞳未と僕は、決まった曜日の小学校終わり、ランドセルを背負ったままプールバッグを提げてスイミングスクールに通っていた。プールをさぼって漫画道具を集めるため遠くの文具店まで調達に行くのが瞳未のマイブームになっていた。もちろん親には隠して。でもその日は間が悪かった。まだ小学生になったばかりで姉ちゃん子だったあづさが、瞳未に気づき、遠出するその後をこっそりつけていたのだ。あづさは案の定迷子になり、夜遅くに発見されたときには、道端の隅っこで高熱を出して倒れていた。

「お姉ちゃんなのに!どういうことよ。プールはサボるわ、お年玉は無駄にするわ、妹をこんな苦しい目に遭わせて」おばさんにぶたれて、瞳未はお年玉を没収された。もう二度と家族を巻き込む嘘をつかないことを約束させられた。

泣きながら「ごめんなさい…」と悔しそうに謝っていた。購入した漫画道具だけは、どこかに巧みに隠したのか無事だったらしい。

僕に、水泳を辞めると告げたその表情は切ない表情だったけど、覚悟があった。

【嘘を貫き通す】恐ろしい覚悟だ。

そうだ、何かを成し遂げるために犠牲にするのは瞳未だってやっていたことだ。僕はもっと強い意思でやり遂げないと、追い付けない。君を償うことはできない。


水の中で僕は、考える余裕もなく沈んでいった。


 


「……んのくん、林野くん!」

目を覚ますと、誰が僕の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?」

僕を覗く彼女のまっすぐな眼差しと目が合った。彼女は前髪から覗く眉尻を下げて、ショートカットの髪の襟足を耳にかけ、ふわりと揺らした。

口角が上がり、形のいい歯をみせる。目は純で、吸い込まれそうだ。

「ほんとに大丈夫?ちょっと怖かったよ」

「……瞳未?」

ぼんやりと頭に浮かんだ名を呼ぶ。しかし彼女の手の甲には絆創膏が貼ってあった。……秋谷だった。

無機質な白い天井が目に入る。ここはどこだ。淡い色のカーテンの向こうには白衣の女性の先生がいる。……保健室か。初めて来たな。

身体がどっと疲れていた。うなされていたのだろうか。

秋谷は見学のときと同じ体側服のままだった。時計を見ると授業終了から二時間経ち、とっくに昼をまわっていた。

「ずっとここにいたのか?」

「うん。……ダメ?」

その甘える子犬のような顔は木漏れ日のようだ。ちょっと思い出してきた。そうか、自らプールに落ちたんだった。こんなに情けなくていいのだろうか。長いため息をついた。

何も関係ない秋谷だけは巻き込みたくはないだけだ。

「なんか林野くん私みたいにドジになってきたねぇ。お揃い~」

秋谷は、いたずらな声で僕の腕を指さした。そこには大きな絆創膏が貼ってあった。

「何これ」

「体育の先生と一番背の高い男子がラクロスの選手みたいに両脇に担いでここまで運んでくれたんだよ。みんなぎょっとしてた」

想像したら冷や汗がでた。また迷惑をかけてしまった。

「ね、痛いでしょ」

絆創膏のパッドの部位を秋谷はぷに、と押した。ベッドに肘をついて、いひひっと笑う。

痛みに即座に秋谷をはねのけ、腕を抱えた。なんというか、寝転がってグースカ寝ていた自分が情けない。

先生と背の高い男子がプールサイドへ引き上げてくれるときに、壁にこすって負傷したらしかった。懐かしい記憶と混ざってまだ寝ぼけていたが、少ししゃんとした。僕は紛れもない現実にいた。目の前には瞳未じゃなくて秋谷がいる。

保健室は暑く、汗がつたう。秋谷は汗で顔に貼りついた髪を払うべく、フルフルと頭を振る。体操服をパタパタとして風を通し、僕の目を気にして欲しいと思ったが、脚をバタバタする様子はどうも子どもっぽくてチグハグだ。


「……林野くんは水泳得意だったの?」

やがて落ち着くと、下を向いたまま、おそるおそるという風に尋ねてきた。

「……昔の話だよ。今はあの通り運動不足だしもう忘れたよ」

「私、知らなかった。林野くんのこと。何も全然」

しおらしい秋谷が、らしくないな、と思い、垂れた髪に手を伸ばそうとする。急に澄んだ目で見つめ返してきて、少しどきりとした。

保健室は静かだった。壁にかかる時計の針がコチコチと時が過ぎていていることを知らせてくれる。やはり疲弊していたのか、寝起きだからか、頭がだるい。視界に入る秋谷をぼうっと観察している自分を特に何も思わなかったが、そろそろ変だと律した。自分を気持ち悪く感じた。


「それよりさ秋谷」

静寂を破り、切り出した。

「僕、瞳未の漫画を本気でなぞりたいんだ。お願いがある。ペン入れに入らせてくれ。また、教えてほしい。耐えてついていくから」


そうだ。僕は過去でない今を生きているんだ。温かい布団を剥ぎ、そう言った。

明るい反応を期待し、語尾を強めた。……だけど、秋谷はそっぽを向いて乗ってはくれなかった。

「え、……いいよ。協力するけど……」

指をいじって、ぶっきらぼうにそう言ったのだ。なぜかその姿が妙にしょんぼりして見えた。





僕は秋谷にペン入れをきちんと教わり、瞳未の原稿についにGペンを正式に乗せた。

消えそうな儚いその下書きの鉛筆の線を捉えるように、丁寧に、慎重に。

自室での夜も、太陽が昇ってカンカンに照り付ける部室でも同じ作業を繰り返し続けた。

不安定で不器用で不細工な震える手つきとそこから紡がれる線。

手の甲を紙から離す度、不甲斐なさを感じた。

漫画の少女、君は誰なんだ?


通学途中の信号が点滅し、横断歩道を急いで渡る。ふと安堵し、車道を振り返ると、さっきまで僕がいたはずの場所を忙しなく車が行き交っている。日常も、そんな急ぎ足でどんどん過ぎていった。





『生、今日はスーパー寄らないから荷物持ってくれなくて大丈夫だよ。だから先帰ってるね』

瞳未はそんな風に放課後、中学のプールで泳いでるときにしれっと話しかけてきた。

『今日は生徒会ないの?』

『うん。だから早く帰って作業やっちゃおうかなって』

鞄を持ってローファーのまま、グラウンドからフェンスの隙間ごしに声をかけにやってきた。作業とはもちろん漫画のことだ。

瞳未は生徒会のない日はいつも直帰だった。

小学生のときと変わらず僕を名前の「生」で呼ぶ。

僕がからかわれるのを見越してやっているのか疑うくらい潔かった。

外から下の名前で女子に呼び止められて、プールサイドで困惑する僕は、イチイチ部活内で格好のネタになった。

長い髪をなびかせて姿勢良く立ち去る瞳未を見送り、振り返ると、上半身裸の男どもがむかつく顔をして、大抵立ち聞きしてた。

『千葉さん、すごいな。あれで美人で頭もよくて、家では料理とかもやってるんだろ。欠点ないじゃん』

『強いて言うなら高嶺の花すぎて近寄りがたいんだよなあ』

『なんで家が隣ってだけで林野には普通に親しげに話しかけてくるんだよ』

『ちゃっかり手料理食ってるんだろ』

『なんならお風呂一緒に入りこんだり~!』

『今度着替えてる写真撮ってきてくれよ』

『羨ましいぞ、この野郎』

 そんな風に小突かれて、羨ましがられた。

学年が上がるたびに同級生たちの下種な妄想は捗り、そういう話題になる度、いつの間にか僕と瞳未の話になった。ドラマや映画でもよくあるけれど、男女の幼馴染の宿命なんだろうか。

顧問のホイッスルが鳴り響くと、慌てて僕らは話を切り上げ、プールに飛び込んでスタートした。

背泳ぎなんかをして、空を見上げているとき、ぼうっと僕は考えていた。

 そんなんじゃない、と。

瞳未は夜中に漫画まで描いてるんだぞ。

投稿もしてるんだぞ。

隠してるけど、本当はもっと手の届かないはずの存在なんだぞ、と誰かに弁解したかった。

同級生の妄想ヒロイン像なんて、とっくに限界突破していた。

僕を腕を入水し、脚をばたばたさせていたけど、

こんなときいつも、心はぷかりと浮いていた。

 思い知らされるのだ。

選ばれた主人公ってこういう人を言うんだな。

すげーな、と。

僕は、様子をただ傍観しているただの幼馴染Aなんだ。

背泳ぎ用標識のカラフルな旗がゴーグル越しに見え、すぐに手の甲が壁に触れたので、頭を打たないようにすくっと水中で立ち上がった。

すると、顧問が飛び込み台の横にしゃがんで座ってこう言った。

『お前も、大会入賞したんだから、幼馴染の千葉に負けないように高校では全国大会だな!』

瞳未のことを信じて疑わない、満面の笑みだった。

どの先生にとっても、しっかりものの生徒会の瞳未は自慢の生徒なんだろうなと思う。

でも、僕は所詮『冴えない幼なじみ』だ。

比べられても仕方がない。僕は何者にもなれない普通の人間なんだから。



あぁ、そうだ。これが現実だ。

所詮僕は──。

でも、それでも僕は君をなぞる。もう瞳未を一人ぼっちにはさせない。一人寂しく死なせたりなんかしない。諦めずにGペンを墨汁の入った小瓶に浸した。そこは暗黒のプールだ。そこから拾い上げた墨汁の雫で、まっすぐな線を引く。それは、瞳未の長い黒髪のように強く──。




玄関ポーチの段差につまづいて、わ、と前のめりで倒れそうになるのを片足で踏ん張った。その瞬間、真ん前を、木々に隠れて見えなかったバイクがびゅん、と通過していく。「危な……」

呟いたものの、考える気力なく玄関を後にして鞄を抱えて通学路へといく。

「……いっくん、怪我してない?」

「ああ、なんともないさ」

傍から自分がどう見えているのかなんて、考える余裕もなかった。



夏の暑い日差しに煽られ、すっかり緑の葉をつけた桜の樹木が風にそよぐ校門を出ると、暗いチェック柄のワンピースを着たランドセルの小学生を視界に捉えた。高校の校門の横で、誰かを待ち伏せしているようだ……とうか、それはあづさだった。

あづさは僕に気付くと、つかつかと歩き、僕の正面に立ちはだかった。


「いっくん。今すぐ漫画描くの辞めて!」

 僕はため息をついた。

「あづさ。高校まで来るなよ。いくら徒歩で来れるからって……小学校と反対方向だろ」 

「だって、朝の何!? 最近のいっくんおかしいよ。フラフラだし、朝話しかけても気づいてくれないし、ずっとうわの空だし、高校でもどーせやらかしてるんでしょ?」

まさか、ついこないだプールで腹打ちして脚を攣って、保健室でぐうすか寝ていたとは口が裂けても言えなかった。

「全部あの女の人のせいだ……」

その目が子ども特有の、仕返しをしてやるという猜疑心に満ちていた。

ジャージを着た運動部の生徒たちが二列に並び、ランニングして向かってくる。校門前の、横断歩道までの狭い歩道だ。明らかに僕たちは通行の邪魔をしているし、注目を浴びていた。

「どうしたの? 林野く──」

最悪のタイミングで……秋谷が現れた。


「あなた何様?このままじゃいっくん、姉ちゃんみたいに壊れちゃうよ!責任取れるの!?」


あづさは秋谷のシャツの胸倉をつかんだ。ぎょっとする。なにを小学生が、見よう見真似に熱くなってるんだ。

怒り感情に見舞われた人ほど、そんなのおかまいなしでエスカレートする。

慌てて間に入る。

「僕が好きで描いて、部活に入ったんだから秋谷は関係ないだろ!」

「とにかくもう部活行かないで。気づいてる? いっくん、姉ちゃんみたいになってるよ。夜、憑りつかれたようになって漫画やってたもん!」


車道に法定速度を優に超えた車がザッと通り過ぎていった。

……憑りつかれている?僕が?

あづさの瞳は少し震えていた。怯えた眼差しだ。そりゃそうだろ。小学生が一人で見知らぬ高校に乗り込んでるんだぞ。その瞳の奥で、僕が高校生になれなかった瞳未に重なってるんだろうか。

──笑わせないでくれ。僕はヒトゴロシだぞ。


何も言わずほくそ笑む僕に、あづさは金切り声をあげた。

「……もういいよ、好きにしたら!馬鹿いっくん!」

 あづさはスッと前を通り抜け、先に行ってしまいそうになったので、反射的に肩をつかんだ。泣きながら謝り、プールを犠牲にした瞳未の気持ちを……踏みにじるなよ。

「夏といえど、もう時間も遅いし一緒に家まで帰ろう。また、迷子になるつもりかよ。一人で帰るな」


振り返って、秋谷には一言言った。

「悪い、秋谷巻き込んで。でも、瞳未のことだから」

どんな表情をしていたか、とくに確認もせず、一目散にあづさの元へと寄り添った。

「ふん!」

「ちゃんと学校行けよランドセルは?」

「家」

それに、僕だって一緒にいる人の前を歩いて帰るのはもうこりごりだった。

人生はいつどこで何かが滑り込んできたり、水へと飛んだり、ヒトゴロシになるか分からない。

悪いけど秋谷を振り返らず、あづさの手を取ってまっすぐ家に帰った。

信号が変わると、僕たちは横断歩道の白線を歩いて、横並びで帰った。幼い頃三人でした、どうでもいい遊びの話なんかをしながら、家までの道のりを二人で帰った。




期末テストも終わり、夏休みまであと一週間だ。校庭のどこかの樹にとまった蝉の鳴き声がじりりと響き、蒸し暑さを増長する。

僕は、教室でデッサン用モデル人形をグネグネして遊んでいた。

秋谷に、僕の描いたペン入れした漫画原稿用紙を修正液で修正して補正してもらっていた。少々気まずかった秋谷も、目の前に原稿や漫画道具があるとやはりスイッチが入るのか、元の調子に戻ったように見える。ほっとした。いつもと変わらない光景だった。

「だーかーらぁー、女子と男子は筋肉が違うの。あと腕を広げた長さってだいたい身長とイコールなのよ。バランス悪すぎ」

自分の腕をバッと広げて、実例をその場で示す秋谷。

「私のデッサン用モデル人形をよぉく見てみて」

でくの坊みたいなそれは、いつぞや僕が破壊してしまった木製人形で、先生のお金で再購入したものだった。

「え、これ動かせるんだ」

「そう関節が動くの。人間ができないポーズの方向にぐねらせようとすると壊れるのよ」

「へぇよく出来てるんだな」

「今日、水泳の授業で見たでしょ、女子の身体を!鮮明に思い出しなさい」


黒板に委員長がカツカツとチョークを走らせた。

秋谷優生

林野生

と文字が並んでいた。


「しつもーん、それなんですか?」

「クラス旗の係よ。入場時に掲げるのよ」


今はちなみにホームルームだ。各々が自由に歓談しつつ黒板に着目する。

夏休み明けにある体育祭の役割決めの話らしかった。委員長が説明する。クラス入場時に旗を委員長が先頭で持って行進するという。そのときに掲げる旗をどのクラスも絵を描いたりして作りあげないとといけないという。

顧問……もとい担任は、教室の隅にパイプ椅子を広げて捕捉に口を挟むだけでほぼ委員長に任せていた。


「漫研の二人、やってくれる?」


その声にクラスがしん、と静まり返った。黒板に書かれた、僕と秋谷の名前を委員長が指差した。

プールでキレて以来、怖い人として遠巻きにされていた僕と、授業中居眠りばかりで変な寝言ばかりの秋谷はすっかり変人コンビとして定着し、クラスから浮いていた。今だっておかまいなしにデッサン用モデル人形をいじっているのだ。


これを引き受けることで、他のリレーなどの種目には混ざらなくて済むことになる。たぶん関わる羽目にならず済むことを願って委員長は情けで役割を与えてくれたんだろう。あと夏休みを潰さなくてよさそうなことにも。絵はとにかく時間がかかる。


「もちろん!任されたからにはピカソ超えてやるわ」


割とアッサリ秋谷がそう立ち上がって答えた。手にはGペンを構えて、委員長に突き出した。失笑や安堵のため息が聞こえて、軽い拍手があちこちから聞こえた。

そして僕たち抜きで会議は進んでいった。


秋谷は「いいじゃんWinWinじゃん」と力強くウインクした。「度肝抜かしてやろうよ」とにんまりして、僕の絵の訂正を淡々と続けた。

相変わらず絵や漫画に関してはすぐ燃える、漫画馬鹿だ。前の席に座る秋谷は、いつも通り短い髪を揺らして、僕の机上の原稿にまっすぐ視線を落とす。その鼻の形や繊細な指先はやはり秋谷で、僕の心強い相方の女の子だ。


「ん?何見てんの?」


前髪から覗く、澄んだ眼差しが僕を見上げる。はっと我に返る。これは、蹴りが跳んでくる合図だ、それともビンタか?思わず身構えるが、

「ま、いいけど」と視線を元に戻した。垂れた髪を耳にかける。

うん。まぁ、いいか。秋谷もようやく僕との距離感を掴んでくれたんだろう。


先生はパイプ椅子に前かがみに手を組んで座り、そんな僕たちを、目を細めて見守っているだけだった。




その日の放課後、美術室で続きの作業をしていると、ガラッと部室の扉が開いた。

「ごめんください」

 朗々とした声で入って来たのは、先生、ではなかった。美術室に来客があるのは初めてのことだった。


「佐川……?」

彼は、プールバックを小脇に抱えつつも、髪はちっとも濡れていなかった。大柄な図体で、やってきた。部活はサボリだろうか。何しに来たんだろう、とむっとした。

「僕、誰かに呼ばれてたりする?」

「違う」

言いたいことが奥歯に挟まったような、まだ言い足りないという顔をやはりして、僕を見つめてきた。持っていたGペンをしぶしぶ机に置いて、彼の方向に向き直った。

それを確認すると、佐川は突然大きな声をあげた。

「先に断っとく。謝罪をしに来た」

 佐川は手をぴし、と伸ばした。どうするのかとしばらく見守っていると、勢いよくお辞儀をした。

「悪かった。晒上げるような形になってしまって……すまなかった!」

美術部中、三人しかいない、ただっ広い教室にその声はこだました。 

僕と秋谷は思わず顔を見合わせた。

佐川は、呼吸がハァハァ荒れていた。百メートル泳ぎ切った後みたいな息の切れ方だった。


「あんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ……林野くんに泳ぎで悔しがって欲しかったんだ。それか、みんなの前で泳げるって否定して欲しかったんだだけなんだ……」


うつむいてぽつりと呟く。


「……別に。どうでもい……」なんだそれ、意味わかんねぇよ。そっぽを向いて原稿に再び顔を戻そうとすると、僕の左肩に秋谷の手が触れた。

「彼、勇気をもって来たんでしょ。それに、どうでもいいならあんなにうなされるはずがない。逃げちゃだめ」

ふっと低い声で落ち着いてそう返答してきた。勝てないな、と思った。

僕は、一端前を向いて深呼吸をした。


手元には漫画がある。瞳未も見てる。



ふと見ると、僕以上に眼前の佐川はふるふる震え出して、あんまり黙っているので心配に思って顔を覗き込んだ。

すると、ぐわっと顔を僕に近づけた。


「実は、林野くんのずっとファンだったんだ!!」

 彼の目には星が浮かんでいた。


「え、」

 場の空気が弛緩した。

 彼はプールバッグを足元に置くと、僕の手をガシッと摑んで喋り出した。


「中学の、夏の大会見て惚れちゃった。二回戦のバタフライ。俺の中学も一応出てて、ただ俺は選手から漏れちゃったから観客席から応援して見てたんだけど、別格だった。速くて力強いストローク、すごかった。だから、僕も高校でも水泳続けて、いつか競泳できたらなって思ってたらまさかの同じ高校で、クラスも一緒で、嬉しくって声をかけたんだ、それで仮入部も一緒に行って……」



ピキリ、水族館の水槽に閉じ込めていた、生き生きと泳ぐ彼のイメージ。それにヒビがはいった気がした。

佐川は、はちゃめちゃにマシンガンで語り出した。

水槽の向こうから僕を心配そうに伺う顔。

隣の席で笑う佐川、去るバスを見送る僕に手を振る佐川、秋谷と言い争う佐川。

君は誰だ?

泳いで、笑って、僕に駆け寄って、全部佐川だ。


あれ?これって……。

──瞳未のことを何も知らなかったんじゃないかって思ったんだ。だから知ろうと思って漫画をなぞって──

同じじゃないのか?

彼を水槽に閉じ込めていたのは僕のほうだったんじゃないのか……。

 

「だから、自分の憧れの人とせっかく同じ学校でしかもクラスメートで席も近くで仲良くなれたのに、一番カッコイイ瞬間を封印しているのをすごく残念に思ってたんだ。僕の目標をなくしてしまったというか……」


図体のいい身体から発する声がデカすぎてキンキンする。

というか、大会を観客席で見てた?あの大会を?


「だからって、固執してみっともないよな、本当」


僕は目を疑った。

ぽた、と佐川は涙を流していたのだ。でも、ちょっと嬉しそうだった。それはまるで、ずっと抱えていたものをやっと吐露できたかのような、清々しい笑顔だった。


「ちょ、……分かったから。そんなに叫ばなくてもここ三人しかいないから!これだから、現役運動部はッ!」

いつまでも引きずり泣きするその大柄な背中に喝を入れた。ヴッとよろけて、そうしたら今度はけらけら笑いながら喋りつづけた。


「でも、それを超えるぐらい、したいと思えたものに出会えたんだったらそれってすごいことだよな。試すような真似して悪かった。二人を……漫研を応援するよ!!」

「……そんな大声でこっぱずかしーこと言うなよ」

「俺が、林野くんを晒上げてしまったから、二人が立場悪くなっちゃった。旗、嫌だよね。大事にしてる漫画を描く貴重な時間がなくなっちゃう。俺がもっかい委員長に話通しとくから。だから……」

 急に声を小さくする佐川。体躯に似合わないデリケイトな声だった。

そこに関しては、僕は間髪入れずに返事した。

「それは気にすんなよ、だってウチの部長は生憎やる気になってるんで」

振り返ると、秋谷は「がってんだ」と制服のブラウスの袖をまくり、ない筋肉を披露した。


「それより、なんで言ってくれなかったんだよ、前から僕を知ってたなんて。水臭いな」

「だって水泳部、嫌がってたから」


手を差し伸べると、佐川はうるんだ表情をキッと切り替えて、がしっとその手に応えた。


中学の夏の大会のとき。伸ばした手が壁をタッチしたとき、

水中から頭をあげた瞬間、耳から水が抜けて、わぁっと湧き上がった歓声の圧。僕の名前の横の電光掲示板に順位とタイムが表示される。

プールの中から見えた景色。

応援席で僕を応援して立ち上がる一同。チームメイト、両親、瞳未。その景色のどこかに、きっと他校生の佐川がいたんだ。なぜか、見たことがある景色のように、彼がそこにいる姿が想像できた。僕の忘れられない、あの景色のどこかに。


美術室をすう、と心地いい風が吹き抜けて、ミーンミンミン、と蝉の鳴き声が響いた。

額を汗が滴ったので、腕で拭って、佐川が笑った。



「なんかよく分からないけど、出待ちのファンに摑まったみたいになってるぞ~熱いね~!」

 静寂を破るように、秋谷の平和なヤジが飛んできた。

「出待ちのファン!あぁ確かに俺そんな感じかも」

佐川は秋谷に指でグッと示した。

「秋谷さん。今から林野くん借りていい?もし良ければうどん食べに行かない?奢るよ」

「「え?」」


校門を出て向かいの道に、薄汚れたのれんのかかった、こじんまりした飲食店があるのは知っていたが、いかんせん見た目が古臭い。

しかしここは、どうやら佐川の行きつけのうどん屋らしい。

秋谷を美術室に放置して、僕は佐川に連れられてここにやってきた。

のれんをくぐると、カウンター席に通された。既に入ってる客は五人程度のこじまりした店だ。カウンターの上には小型テレビが置かれ、ケーブルテレビで高校野球の予選の中継が写されていた。

佐川はカウンターの椅子に座って、「おっちゃんいつもの二つ~」と言った。

どうやら常連らしかった。こんな高校生いるんだな。

「おっ友達連れか?」

「そうそう」

「あの、出来たら量少なめで……」と小さな声で頼むと、「りょーかい!」と店主はニカッと笑った。

 おしながきの横に置かれてたグラスとピッチャーを取ると、水を並々注いで、僕にくれた。

「うどんっていいよな、安いし、旨いし、早い。あと、ここの店は場所もいい。部活とかクラスで嫌なことあっても逃げ込めるだろ?」

「佐川でもそういうことあるんだ」

「とーぜん。俺の持論なんだけど、腹がすいてると胃腸が寂しい。ハートと近いからそういうの連動するんだ」

 へいお待ち、とうどん二鉢が店主から手渡れた。

 店名が側面に刻まれた黒い鉢に、麺と出汁。卵とかまぼこと三葉が浮いていた。

ずずっとすすると、熱い出汁が身体に染み渡った。ほっとする味だった。確かにこれなら、食欲がなくてもぺろりといけそうだ。

食べた後、ぶわと汗が噴き出した。今は夏だ。よくこんな熱いものを、男二人でカウンターに並んで食べているな、と冷静になった。

壁につけられた扇風機がぶん、と首を振って、僕に心地よい風をくれたので、ひとまず冷水をすすった。

「どうして、漫画を描き始めたの?中学のときはきっと部活に手いっぱいで描いてなかったよね」

 鉢に顔をうずめたまま、佐川は淡々と切り出した。

 出汁をすすって、真似して大口を開けて麺をかきこんだ。

野球中継のピッチャーの放った球が打たれた。実況が声を張り上げる。スタンドに入った打球はそのままホームランになった。テレビ画面には盛り上がる客席と対照的にうつむくピッチャーの姿が晒されていた。

ぼうっとそれを見ながら卵をすすった。

ちゅるりと音がして、つるんとひっかかってた言葉が、こぼれた。


「中学の同級生が事故で死んだんだ」

「え?」

 思わず口走っていた。

 「もう中学の同級生なんかから訊いてるかもしれないけどな。僕が泳いでるところが好きってよく言ってくれた子だったんだよ。のうのうと泳いでるだけなのが、無性にむなしくなったんだよ」

「え、でも、林野くんは入賞……」

 その声を遮るように言った。

「彼女はもっと凄かった。ちゃんと夢も持ってたし、明確に努力してた。僕は目的なんてなんにもなかったんだよ。ただ言われたままにメニューをこなして、たまたま結果が得られただけだよ。入賞なんかしたくなかった。本心から望んでやってたわけじゃないのに、ただの暇つぶしなのに」


そうだ。Gペンで真似する度思っていた。なぞっても僕は瞳未にはなれない。

うどん鉢に顔を落とした。箸をぎゅっ、と握りしめた。


「そういうことをわーっと考えてたら泳ぐのって本当くだらねぇなって。そんなこと考えてたらもう、泳げなくなっちまったんだ。とにかく今は泳げない。そういうタイミングじゃない。それだけのことだ」


でもその埋まらない溝を塗りつぶしたいんだ。瞳未をなぞりたい。今からでも追い付きたいんだ。


「佐川。お前、トラウマを植え付けてしまったとでも思ってるのかもしれないけど、それ以上のものを見ちゃったから、あんなの何でもないよ。僕は事故のとき、居合わせたんだ。瞳未が亡くなったときにな」


ひと思いに喋ると、

佐川は色々察したのか、しばらく黙った。うんうん。そっか。と汁をすすった。

 扇風機がぶんと回転して、テレビの実況の男がにたにた笑い声を上げているのが聞こえた。店主は後続で入って来た客の分のうどんの出汁を、太い腕で鍋から注いでいる。

なんかまぬけだ。

こんなところで、こんな感じで話していい話だったのか? と急に不安になった。

「大変だったんだね」

 噛み締めるように、箸を止めて両手の甲をテーブルに乗せた。

「うん……」

「でも、林野くんはすごい」

「なんで?」

「次やりたいことを見つけてるじゃん。なかなか踏み出せることじゃないよ、高校で全く違う部活に入るなんて。それも全然違うジャンルの漫画研究会。前向きだよね。普通の人はなかなかそんな風に出来ない」

 傍から見たらそう見えるのだろうか。

「尊敬、するよ」

佐川はにかっと笑うと、水をぐび、と飲み干して僕のグラスと乾杯と音を鳴らした。

「いやいやいやいや、めっちゃ絵下手だし、それにもう実際水泳も腕落ちてると思うし。泳げる自信もない……だから尊敬なんてしなくていいんだよ。ごめん、こんな話」

「なにいってんの」

すると、出汁を飲み干し鉢をどんと置くと、佐川は勢いよく言った。

「なにを、だってただのクラスメイトじゃないでしょ、林野くん」

そうだ、たった三か月だけど、ずっとずっと僕を見ていてくれていたじゃないか。

うざくなんかない、おせっかいでだけど、それがどうしようもなくいい奴なんだ、きっと。

「改めて言うけど水泳部はまた今度な」

「分かったよ。これからもよろしくな」

細い目を三日月のように吊り上げると、目尻に皺ができた。それを、とてもいいと僕は思った。


荷物を置きっぱなしにしていた部室に戻ると、秋谷が叫んでいた。

「旗のテーマは命っ!」

 その辺にあったデカい画用紙を地面に敷き、制服のスカート姿のままで、なぜか裸足になり、四つん這いになっていた。水彩絵の具をパレットに広げると、ほぼ水で薄めることなく、筆でがつがつ描きこみ、文字通り荒れ狂っていた。

「秋谷ちゃん、どうしたの?」

「あ、おかえりー。アイデアが思いついたから忘れないうちに描いておこうと思って。あと、佐川くん、秋谷ちゃんって呼び方いいじゃん、気に入った!」

 というか部屋が暗くなっているのに電気すら付けてない。スイッチをパチ、と入れた。

「彼女は、いたこなの?」

「さぁ……」

 呆然とする佐川に、こっそり聞かれて僕も返事に困った。

「面白い師匠だねぇ、そりゃ林野くんも漫画描くの夢中になるな」

 余裕を噛ました笑顔でそう評した。

電気に照らされたその絵は原色を塗りたくったこともあり、ビビッドカラーだ。最近白黒の漫画の原稿ばかりを見ていたので、目に優しくなかった。

「林野くん、うちら何組か知ってるよね?」

「青組だけど」

「そう、だからサメと狩猟人だよ」

そう、の意味が分からないが、ともかく彼女は地面に敷いた画用紙から抜き足差し脚でそっと離れ、裸足のまま、床までつま先を運ぶと、ひとつくるっと回りださいポーズを決めた。

「二人が食べてる間に頑張って考えたんだ。いいでしょ~」

頬には原色の絵の具が、手には絵筆が。スカートから伸びる真っすぐな素脚が一部汚れていて、ひひっと悪戯に笑っている。それすらも秋谷だ、と微笑ましくなった。


 

 佐川が、ふ、と笑みを浮かべ、僕に囁いてきた。

「正直林野くん、ちょっと可哀想だなって時折教室で見てたんだけど、満更じゃなかったんじゃないの」

「どういう意味だよ」

「や、傍から観たら、水道で水をかけられたり、ビンタされたりしてたから……」

照れ、と頭をかいて佐川が呟く。きょとんとした。そうか。慣れてしまって、それが可哀想に見えるのだと、今更気付いた。そう見えることもあったのだろう。

「秋谷曰く、需要と供給が一致してるとか云々」

わはは、佐川が笑う。「なんじゃそりゃ!」

「いや、訂正。満更じゃないよ。秋谷のおかげで、僕は漫画が描けるんだ」

 そう素直に僕は告げた。美術室から引き揚げ、下校のメロディーが流れるなか、蛍光灯だけが白く光った廊下を三人で帰った。

先ゆく彼女の溌溂と駆ける後ろ姿を忘れないよう目に焼き付け、後ろから二人で見ていた。

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