第2話 僕と一緒に少女漫画を描いてくれませんか



一緒に中学校まで登校していた朝、僕は瞳未に聞いたことがある。

部屋の奥に道具や原稿を隠して、中学校では漫画が好きなことすら伏せて過ごしていた。

『お父さんお母さんにも内緒にしてるから、生徒会の仕事をしてごまかしているのよ。結構うまくいってる』なんて微笑むので、

『なんでわざわざアナログの紙の原稿用紙で描いてるんだ?デジタルでタブレットとかで描いたほうが隠すなら便利なんじゃねぇの?』

率直に尋ねたことがある。

『それはね』瞳未は人差し指でシーッとポーズをして、内緒ね、と言った。

『こっちのほうが忘れられないからよ』

あれは、どういう意味だったんだろう。



──


懐かしい夢を見た。朝起きて制服に着替えて降りると、ご飯の支度をしていた母が声をかけてきた。僕の顔を見ると、パアッと表情を明るくした。

「生っ!昨日持って帰って来た紙袋、何?ひょっとして買い物に行ってたの?」

秋谷が買った大量の画材を代わりに持ったままうっかり持って帰ってきてしまったのだ。両手が塞がるその量は確かに目を惹いた。

「買い物して帰ってくるのって久しぶりじゃない。嬉しい! 高校に入ってよかったわねぇ!」

「別に」

違うんだけどな。ほとんど秋谷のものなんだけど。母は、張り切ってお茶碗にやたら白米を盛りつける。

「こんなに食べれるわけないだろ」と僕はしゃもじを奪ってその半分を炊飯器へと戻す。そもそも滅多に外出しない僕が瞳未の死後、初めて学校以外でまともに外出したのだ。感激している母に水を差すわけにもいかないので、僕は少量の白米をなんとか胃に流し込むと、複雑な気持ちでその紙袋を持って学校に向かった。

「やっぱりアナログだと面倒くさいじゃねぇか……」




月曜日、桜はほぼ完全に散り、部活勧誘の花道も落ち着いてきた。朝練をしているところも本腰を入れて始動したようだ。グラウンドの活気あふれる声を聞いて、平和でいいな、と横目で見て、すぐに教室へと向かった。午後の照りつける太陽の下で思いっきり泳ぐプールみたいに、心地よさそうに身体を動かしている彼らをみると少し羨ましく思った。出席番号表を見て、後方扉近くの秋谷の席に向かったが、そこはもぬけの殻で、他の人の鞄が置いてあった。面倒なことになる前にさっさと土曜日に買った荷物を返してしまおうと思ったのだ。

あれ?と姿を探したのもつかの間、背後のほうから殺気立ったオーラを感じたので、そちらを向くと、僕の席の一個前に秋谷が座っていた。


「何で鞄ごと前の席に座ってるんだ」

「いやぁ、あの子この席嫌そうだったから変わってもらったんだ」

 ことのあらましを聞くと、僕が以前墨汁を零してしまった、前に座っていた女子に「席代わろうか?」と声をかけたところ、喜んで承諾したので交換したとのことだった。

「こんな中途半端な席、授業中絵描けるかな」

「僕は気にせず描いてるけどね」

「そうなの?」ノートをバッと広げると、繊細で芸術的なアートを繰り広げたイラストの数々を見せつけてきた。

「じゃあ、もう逃がさないからね?」彼女はひたすらに恐ろしかった。


 教室は、授業と休み時間を繰り返し、静寂と歓談を交互に挟んで今日も時間が流れていく。先週配られた入部届のこともあって、部活動一覧みたいな本を誰もが覗きあっていたからだ。誰とどの部活に入るかが、三年間の高校生活を左右すると言っても過言でないだろう。人間関係の探り合いに神経質になり、結局は馬が合うかでどれか一つを選ばないといけない。

まだかなり時間があるが、僕は教科書を取り出して、机の上に置いた。

見せつけているわけではないが、あくまでいつも通り、筆箱から墨汁の小瓶とGペンも置いた。

先週は色々あった。美術室に行って、ノートで注意を受けて、墨汁をこぼして、道具を壊して漫画道具を買いに行って、同級生に絡まれて……。

「持つ角度がちがーう。で、もっと頻繁に墨汁つけて。てかこの墨汁、腐ってはないけど鮮度悪くない?」

「うるさいよ、秋谷……浸らせてくれよ、色々と」

「あ、ゴメンネ、続きどうぞ、どうぞ」

回想に乱入してくる秋谷は置いておく。

でも、新しく新調したGペンの書き味は、滑らかだった。

──『漫画、やりたいんでしょ? 漫画を描くことで、高校に通ってるじゃん。変わりたいって思ったからでしょ?』

秋谷の言葉が耳に残る。そしてド真ん前の席を陣取ることになった彼女の後ろ姿を凝視する。

変わりたい、か。


掃き溜めになった学校プールは、風で飛んでしまったのか、散った桜もどこかにいってしまい、もぬけの殻になっていた。「まだ、間に合うのかな……」

お手洗いから帰り、自席に戻るとなんかとんでもないことになっていた。



席が斜めになった佐川と秋谷が何やら言い合いをしていた。

中学の男どもの股間を蹴り上げた秋谷のあの光景を思い出し、慌てて佐川側に仲裁に入ろうとした。

「ちょ──」


「林野くんはなんてったって、うちのクラスで最後の無所属の生き残りだぞ。仮入部だって僕と一緒に行ったし、水泳部しかないだろ!」

「いーや、漫研! 仮入部ならうちもこないだ来たよ! 二人以上じゃないと部として成立しないじゃん。譲ってよ! せっかく見つけた獲物を逃すわけにはいかないね!」


ズコーッと滑りたい気持ちになった。それは本人のいないところで繰り広げる部活の勧誘合戦だった。

「おおっ床を泳いでる、やっぱ水泳部だな」

「いやっ違うね。これは紙の上を滑るGペンの気持ちを表明しているのよ」

なんということだろう。眼前では、漫研VS水泳部という、前代未聞の争いが繰り広げられている。

「二人ともいい加減にしろよ」

「「じゃあ、どっちに入部するの!?」」


僕は特に佐川としか親しくせず、男子とはテキトーに話を合わし、教室もそういう空気になっていたのに。なんだよ、これ……。落ち着く暇がない……。



その夜、僕はようやく家で落ち着けて、Gペンを構えた。

同級生に恋をする主人公の女子を、なぞる。

手が震えまくって、主人公の耳が妖怪みたいに溶けたみたいになった。髪は竹林みたいに尖り、武器みたいに鋭利だ。

おまけに輪郭をなぞった乾いてない墨汁を手の側面で擦ってしまい、恋をする主人公は、口から血を吹いたみたいになってしまった。

どんなスプラッタホラー漫画だよ。

そんな調子で僕は原稿をどんどん台無しにしていった。

やるべきことが分からず窮地に陥り続けている、なんだか僕の高校生活のようだな、と思った。

あづさに「原稿を匿ってて」と頼まれたにもかかわらず、僕は、瞳未の原稿に手を出してしまっている。今更だがどうしようもない。

秋谷曰く”僕にまわってきた運命らしい”が。

過去作を封筒から取り出す。

これは、小学五年生のときの初投稿。

これは、中学入学直後の二作目。

これは、中二の暮れのときの三作目。

これは、中三の一学期のときの四作目。

並べてみると歴然だ。

瞳未は出版社に投稿を繰り返した猛者だ。そして分かりやすくどんどん上手くなっていった。

なのに、学校では一言もそんなこと言わず涼しい顔して隠し通し、誰にでも優しく、清く正しいヒロインとして過ごしていた。



手元のスプラッタホラー漫画に目を落とす。

これもそうだ。どうして、ネットで道具の使い方を調べてその通りにやってるのに、瞳未の過去作みたいに綺麗に描けないのだろう。

心が汚れてるからなんだろうな、と僕はうなだれた。

「綺麗にしてやりたいよなぁ……」遺体は目もくれない状態だったらしい。だったら猶更……。「僕が選ぶのは……」



放課後、美術部を訪れて扉を開けると、目の星をこぼしそうなくらい明るい表情で秋谷が飛び出してきた。

「やった! ウチに軍配が上がった!」

「いや、買い物返しに来ただけだから」

「頼むよ、二人以上じゃないと部として正式に承諾されないのよ」

「知らないよ、そんな事情。ほれ、原稿も返す」

「あ、読んだんだ」

読んだんだじゃないよ。ワザとかよ。がくっとし、文房具店の紙袋ごと押し付ける。

「レベルが違いすぎるよ、僕なんてただなぞってるだけだし、あんなんになれっつったって無理だって」

「いーや、林野くんの原稿はすごい。あ、君じゃなくて作者の瞳未さんね。デッサンがうまくて忠実で綺麗。画面がすっきり見やすくて可愛い。登場するデフォルメキャラやギャグも面白い。下書きでここまで描きこんで設計をしてから描くなんてきっちりした人なんだなぁって思ったよ」

 そんなことを見ていたのか、描く人目線でいやに専門的だなと意外に思った。

「だから林野くんのペン入れがめっっっっっっっっっっっっちゃ足引っ張ってんの。自覚ある?」

 そんなに溜めなくても……。

「完成したいんでしょ?漫画?」

「や、僕はただ下書きまで終わってるのに、形として中途半端だから終わらせてあげたいなって思っただけで」

「瞳未さんの夢を引き継ぐんでしょ?」

「や、そんなたいそれたことは……」

「そうだったら面白いじゃん!」

 すんげぇ前のめりになって、エサで釣るように、瞳未の原稿を突き返してぺらぺらしてみせた。

「君はどうしたい?」

 その聞き方はないだろ、と思った。



 2


「それ、どうしたの? 指、黒いけど」

 眠い目で玄関ポーチを降りると、あづさが心配したように言った。

 手の側面を自分に向けると、まるで虫を潰したみたいになってて、僕は仰天した。

「やべ、洗い忘れだ」

 僕は慌てて家に引っ込み、洗面台で水をザーッと出し、石鹸をこれでもかとごしごし押し付けた。何もなかったかのように涼しい顔を装って玄関から再び出てきた。

「やぁ」

 ぴかぴかになった手のひらをアピールして、朝の挨拶を装った。というのも、あづさが現場に張り付く刑事みたいに、しつこく門扉前で僕を待っていたからだ。

「……すすだらけ。いっくん、土木作業でも手伝ってるの?」

「そんなところかな」

「最近帰ってくるのも遅いみたいだし」

「高校ってところは、何かと作業に借り出されるんだよ。あづさには分からないだろうけど」

「ふーん? そんなに土木作業があるんだ……?」

 疑いつつもランドセルを背負いなおして、あづさは「先行くね」と小学校に登校していった。

 なんだか工業高校に通ってるみたいな説明をして誤魔化してしまったが、僕が通っているのは普通科の高校だ。

 『漫画の原稿を匿っててくれ』と頼まれた矢先、あづさには妙な後ろめたさがあった。

 彼女に手を出してしまった彼氏がその父親をいやに敬遠する、なんかあれに近い気がする。そんな経験は全くないのだけど。

 僕の手についていたのは、墨汁だったからだ。


 遡ること数日前、秋谷はHR前、急に前の席から身を乗り出して、一枚のルーズリーフを僕に手渡した。

「林野くんには漫画の基本技法を身に着けてもらいます」

そこには綿密な練習メニューが記されていた。

「絵はもちろん、板書もすべてGペン一本! 野球の素振りと一緒よ。やればやるほど使いこなせるようになるの。特別にタダでマンツーマンで教えてあげるわ。幸い、部員も君しかいないしね」

 メニュー表には聞いたことがない単語が羅列されていた。僕はどうなってしまうのだろうか。

「はい、これ契約書。逃げるなよ?」

「……逃げるわけねーだろ、瞳未のためなんだから」

 僕はGペンで自分の名前をさらさらと記した。それは入部届だった。瞳未の原稿のためなら、もうどうにでもなれという心境だった。

「やったー!」

 僕はどうも挑発されると弱いらしかった。どこかで、もう目の前の問題から逃げたくないという気持ちがあったのかもしれない。そんなこんなで流されるがまま、僕は漫研に入部してしまっていたのだ。


練習メニューは意味不明だった。

「ツヤベタとカッターナイフ裁きは女の髪質を美しくするのよ」

「はい?」

「少女漫画の基本。繊細な髪質を表現することをまずは目指して」

 美容シャンプーのCMでも聞いたことのない前衛的なキャッチコピーを聞かされ、僕の頭はフリーズした。

教室で、僕も秋谷も自分の席に座ったまま、彼女だけが椅子だけ向きを変えて、僕を振り返っている体勢だ。このように昼休みになると彼女は突拍子もなくぐるんと振り返り、そんな極意を語り出すのだった。

僕の反応を待つまでもなく、机に筆ペンとカッターナイフが投げ込まれた。ますます意味が分からない。

「ツヤベタって呼ばれる技法があるの」

 秋谷がどこからかすっと、シンプルなイラストが描かれた白い紙を差し出した。紙には長髪を下ろした少女が描かれている。その紙をいったんは僕に見えるように提示すると、自分の向きにまわし、彼女は筆ペンを右手に持った。すると、少女の髪にペンを乗せて、妙に器用な筆遣いで、その髪をギサギサに塗り始めたのだ。

なにしてんの、この人。呆然としながら作業する彼女を見守っていたが、完成した絵を見て、ひょっとして、と思い、僕は声に出した。

「この子を黒髪にしたのか」

「ピンポン! わかってるじゃん。書き残した余白部は髪の艶なんだ」

 秋谷は首をかしげて、自分のこめかみを指差し、ポーズをした。

「たとえば、ほら。私の髪も、天使の輪っかがあるでしょ?」

 無邪気な犬が懐くみたいに机に伏せてそう言う。僕を見上げるその顔は、無駄がなく、整っている。僕の返事を待って、まっすぐに人形みたいな大きな目で僕を見つめている。

「……天使の輪?」

「うん」

 構ってもらってる、という感覚で惨めに思えてきた。

「どこに?」

 僕はなんとなく、そう答えた。

「はぁ~~~~~ん!?」

 すると秋谷が変な声を出した。びっくりして彼女を見ると、それはもう妖怪のような形相だった。顔のパーツというパーツをふくわらいで失敗したみたいにぐしゃぐしゃにしていた。

彼女は僕の手の甲を強引に摑むと、ずんずんと廊下まで突き進んだ。

その豹変ぷりに何が始まるんだ、と冷や汗をかいていると、その手で水道の蛇口を上向きにして思いっきりひねったのだ。

「あばばばばばばばば!」

 一瞬で僕の視界は水まみれになった。というか目に水が入った。秋谷が蛇口を締めるともう辺り一面水浸しだった。ハンカチを僕に差し出してくれたのでそれで顔を拭うと、どっからか取り出したデカい手鏡に僕の頭を映して見せた。

「これが天使の輪。髪がつやつやして光沢が出てるでしょう?」

 窓の外はほのぼのとしたいい天気なのだろう。

陽の光が眩しく、僕の濡れて纏まった髪はてかてかになり、確かにはっきりと白っぽい艶が出ていた。

「……なるほど」

 頷いてしまった。なんというか呆気にとられてそうせざるを得なかった。

「理解したならヨシ」

 秋谷は「ご迷惑おかけしましたー」と周りにいた人にわざとらしく声をかけ、廊下の水回りに雑巾をかけ、拭き掃除をしてサッと手を洗うと、僕をまた教室の席へと連れ戻した。

「で、次はカッターナイフなんだけど。スクリーントーンを切っていくのね」

 平然と漫画講義が再開した。

なんという切り替えの早さだろう。

昼休みの教室だ。学食や部室で食べる少数の生徒を除いて、ほとんどの生徒がここで歓談し、過ごしている。にも関わらず、秋谷は僕しか視界に入ってないみたいに振る舞う。さっきのだって一部始終を全部クラスメイトに見られているのにいいのかな、と心配になった。体裁とか気にならないんだろうか。僕が思うのも変な話だけど。

「B4サイズの正方形のシールに柄が印刷されたものをスクリーントーンっていうの」

秋谷は馬鹿デカいシールを何枚か鞄から取り出した。机にべん、と置くと端がはみ出る。近くで弁当を食っていた男子の何人かがぎょっと見てきたのが分かった。

「それ、瞳未の道具箱にも入ってたな」

「そう! 知ってるのね。なら話は早い。漫画は、白黒だけで華やかに魅せなきゃいけないから、仕上げにはスクリーントーンが欠かせないの。キャラの服の柄だったり、物の影に使われることが多いね。で、髪の毛束の裏側に貼ることで、髪の重みを表現することもできるの」

 よく喋るなぁと思った。教室で好きな話ができるのが純粋に嬉しいんだろうな。 

彼女は、ん。とカッターナイフとスクリーントーンを手渡してきた。

「スクリーントーンは半透明のシールだから、貼りたい絵に重ねると透けるの。カッターで貼りたい形に切ってみて。弱くね」

 絵の上にスクリーントーンを敷いて、僕はカッターナイフを立てた。

近くの男子達の視線を感じて、手元が震えた。

何をしているのか、という単純興味だろうけど。秋谷というイチイチ目立ってしまう女子といるので余計注目を集めている気がしてならない。 

思うがままに思いっきりカットした。

「どうだ」

トーンをどかすと、ぺろんと紙が剥がれた。少女のイラストは、顔面から真っ二つに切り裂かれていた。……あれ?

秋谷の顔を見ると、今度はにっこりとしていた。でも嫌な予感は的中した。

「なんじゃこれ! イラストごと切るな、馬鹿力!」

 僕はそのままビンタをくらった。


こんな調子で、しれっとスパルタ漫画塾が始まった。

「部員もたった二人だし、席も前後だし、部室の美術室だけで律儀に活動しなくても別に良くない?」

という彼女の気まぐれ発言に、特に意見を言わなかったのが仇となったのだろうか。

僕たちの席は、教室のわりとド真ん中だったが、ひっそりでなく結構派手に活動をしていた。なにせ席が前後なので、秋谷の気分次第だ。数歩進めばモンスターにエンカウントするRPG並みにそれは発生した。

「次はこの絵をなぞりなさいっ!」

側転をする少女、校舎、りんご、深海魚、天空の城、モナリザ。

横顔、お腹が見えるぐらい下から覗いたもの、つむじと胸元と足しか見えない上からのもの。半端ないバリエーションのシャーペンの新しい下絵を僕に手渡すのだ。

それも、何かプリントをまわす度だ。

学校生活で、前の席から後ろの席にプリントをまわす回数、それを数えたことがある人はいるだろうか? 

おそらく義務教育でも最初に教わるこの集団生活における行為を僕はこれほど恐れて学校生活を過ごしたことはいまだなかった。

前の席の女子がニコッと振り返り、僕にプリントを差し出す。その手には内緒の紙きれが挟まっている。

一見、夢のあるシチュエーションだ。でもそれがこう……何度も重なってくると、その笑顔がだんだん怖く思えてくる。資料として一気に十枚を、分けて配る授業もあるだろう。そのときは狂気の沙汰ものだ。夏休み前のホームルームで何往復も宿題を配布し続ける先生みたいな、有無を言わせない圧があった。

頼むから振り返らないでくれ、と僕は内心願った。

「に、二十七枚……」

クリアファイルに今日追加された消化不良の下絵を足していく。

 授業中はもはやノートを取る片手間というか、なぞる合間に、消される寸前の板書を写すというほうが近い。

 イラストの紙には、シャーペンのままで指示もきっちり書き込まれている。

 追加ミッションだ。大体ツヤベタかスクリーントーンの貼りつけだった。

 そういう大がかりな作業は家でやった。でも、なぞるが否や気が付きゃ日付を超えてることが多くなった。

とにかく眠い。

あくびをしながら放課後の美術室で、出来た分だけ、なんとか提出し続けた。なんだか下僕のような心地だ。

美術室は、気付けば物置きとなっていて、授業で使わない棚や端の机なんかは、秋谷の私物の漫画道具が散乱していた。


「なんで……?」

陸トレで階段の走り込みをしていた佐川が、そんな僕たちを不審に眺めているとも知らずに。

「林野くん、授業のノートだけど……」「悪い取ってない」「昼飯……」何度か話しかけられたけれど、秋谷に教えてもらうのに夢中だった。

極めつけには「佐川、ごめん。今漫画描くので忙しいんだ」と僕は軽くあしらっていた。

深く考えることもなく、日々が過ぎていった。逆に言うと、佐川以外には誰一人として誰も話しかけてこなくなっていた。記憶が定かでない。なんせ漫画の特訓で忙しすぎるのだ。


僕が気力をふり絞ってなぞった絵をなんともいえない判別のつかない顔で眺めると、秋谷はこう言った。

「Gペン、だいぶマシになったわね。じゃあ、次は丸ペンよ。これを攻略しなさい」

 嬉々と見たことない新種のペン先を差し出した。

「丸ペン!? 聞いてないぞ!?」

 僕は空を仰いだ。




漫研の活動を今日もなんとか終え、雨の中、くたくたで帰宅すると、隣の家の玄関ドアが開いていた。

「あづさ?外出してたのか?」

「散歩」

ガン、と音を立てて玄関ホールに腰掛けた。

「何よ。小学校行ってないと散歩しちゃだめなわけ?」

その音に誰か人間が反応したような音は一切聞こえなかった。

「今日も誰もいないのか?」

「……うん。今、親出かけてるから」

「おじさんとおばさんどこ出かけてんの」

「病院。セーシンカ」

 僕は何も言えなかった。朝元気に家を出た娘が、人間の形をしたただの物体になって帰ってきた親の心境というのは、たやすく想像できるものではない。

「上がってく?なんか上がりたそうな顔してるじゃん」

僕はドキリとした。

靴を脱いで、おそるおそるフローリングを歩いた。

そこにあるのは、昔から知ってる大きいソファ、上品なカーテン、戸棚付きのテレビ台だった。いろいろなことを肌で覚えていた。なのにやはり時が止まったような埃っぽい印象だ。カーペットは冬用だった。

 「瞳未って、ごはんとか洗濯とか……全部一人でやってたのか」

「やってたね。母さんも父さんも仕事から帰ってきたら九時まわってたからね。二人分の弁当も作ってたよ」

 途方に暮れながら言い、あづさはソファに倒れ込んだ。

学校から帰って来次第、毎日ここに立って。僕はその姿を想像しゾッとした。 

プラスチックごみに捨てられた、九個入りと書かれた卵パック。反して、食器棚に並ぶ平皿、ラーメン鉢、マグカップなんかは全て四種類の色とりどりなもので揃えられている。食卓のテーブルの椅子も当然、四つだ。この家のすべては四を中心に回っている。奇数個が記されたその卵パックのごみに、異物感を覚えた。三本脚でなんとか立ってる机みたいな宙ぶらりんな違和感が家中にあった。

ひっくり返されたお茶碗と箸が、すごいほこりを被って紙ナプキンの上に置いてあるのが食卓のテーブルの隅にあった。

欠けた四本目の脚……もとい瞳未が使っていた食器だろう。

それがちらりと見えて僕はぎょっとした。特にその事実にも触れずに、言った。

「全部そのまんまなんだな」

「だって掃除したら姉ちゃんの居た家じゃなくなっちゃうからね」

おじさんおばさんは共働きだったが、おばさんはかなり憔悴し仕事を辞めてしまったらしい。事故を起こして亡くなった運転手の会社から払われた死亡慰謝料をなんと全額拒否したという話だ。その分ひとりで稼ぐためにおじさんは仕事にますます打ち込んだ。どうなってるんだろう、と僕の母も心配していたが、それは的中していたようだった。ごみ箱には、開封済みカップラーメンが十数個ぶちこまれていた。

「特にお姉ちゃんの部屋は。頻繁にお母さんが入り浸ってる。探って泣いての繰り返しなんだ」

階段を上って案内された瞳未の部屋は、やはり物が散らかされていた。ただ、布団に人の重みの痕跡があった。

「そこ、母ちゃんが寝た跡。夜中にフラっと起きてここで寝てるんだ」

ゾッとした。要するにおばさんは分かりやすく感傷的になり病んでいるのだろう。空きっぱなしになった押入れの扉も、毎日覗いてるのかなと思うと背筋が凍った。

「漫画、すぐにいっくんに預かってもらってて良かったよ。最近、探しもの癖が酷くて。どうしようね」

「どっか遠いところにでも捨てよっか」

 空虚な目で投げやりにそう言った。

「うーん……」

 どんな言葉をかけてよいのか分からない自分が情けなかった。

 瞳未ならこういうときどうするのかな。

 きっと、どうにかしてビシッと家族を立ち直らせるんだろうな。僕なんかと違って。

当の本人は写真の中でただ笑っていた。


中学の部活帰り、瞳未に出くわすのは、たいてい地元の小さいスーパー前だった。

『見て。おっきい豆腐、サービスでもらっちゃった。今晩はお鍋にしようかな』

新品の洋服がやっと買えたとでもいうように伸びをして、今日の戦利品を見せるのだった。

瞳未は慣れたもので、計画的に買い物をしていたようで、いつも涼しげに買い物バッグをスクール鞄から取り出して、腕にぶらさげていた。

学校のヒロインとなると、その庶民的なところさえも、「家庭的でいい」「エプロン姿がみたい」だの男どもに言われていた。

だから、尋ねたことがある。

『瞳未はなんで部活に入らないの?』

『家で漫画描く時間がなくなるでしょ。あと晩御飯も作らないといけないし』

『親が作ってくれないの?』

『私が当番になったの。仕事終わりに台所に立たせるなんて疲れてるのに可哀そうよ』

瞳未はなんで急にそういうふるまいをするようになったのか、僕は疑問だった。

『じゃあ生徒会はなんで立候補して入ったの?』

『生徒会は、部活に比べるとたまにしか活動ないじゃない』

『そうだけど……面倒臭くない?』

『そんなことないよ』

 瞳未は困った顔をしたが、すぐに声を潜めて何が可笑しいのかふふっと微笑んだ。

『生徒会に入ってると家族がしっかり者だって喜んでくれるでしょ。だから安心して夜中に漫画が描けるの。私はそういうものを利用して、いろんなところでうまくやってるのよ』

 一見矛盾したその発言の意味が分からず、今度は僕が首をかしげた。

『まぁまぁ。生は水泳部に入ってるからそれでいいじゃない』

 なんて、ぷくっとした唇でふくれて可愛く笑ってごまかした。

 急に大人びた瞳未がちょっと怖くて遠い存在に感じた。そこまでして漫画を描く時間を守る理由が分からなかった。

 僕はそれから彼女の本音を二度と尋ねることはなかった。


なんだか目が冴えて眠れなくなったので、茶封筒から取り出した下書きの漫画原稿をぼうっと見ていた。

次第に原稿を一枚ずつ送って、気が付けば順に読んでいた。

漫画というからにはそこにはストーリーがある。

捻挫した中学生の女子が主人公で、松葉づえをついて歩くときに傘をそっと差してバス停まで歩いてくれるクラスの男子に恋をする少女漫画っぽい展開が繰り広げられている。

あづさから預かってからもう何度も目を通しているので、何も目新しさはないがそれでもついつい眺めてしまう自分がいた。

小説なんかはただの文字の集合体だし眺めててもつまらないけれど、漫画はぼうっと眺めてるだけでも派手で分かり易いからなのかな。なんなんだろうな。

原稿をパラパラ見ていたときに、ふと目に留まった、相合傘をする主人公のシーン。

主人公の女子は、男子が差し出してくれた傘に入り、そして無言で歩く。上目遣いでドキドキしている描写がそこにある。

無性にイラッとした。 

それがたまらなく陳腐で胸糞悪くなって、原稿を机の端に置き直した。

だって、相合傘とか。なんてくだらないんだろう。

この原稿にうっとりしながらその絵を描きこむ、瞳未を想像した。

失われた光景だ。死んだら、元も子もない。相合傘だろうが、シングル傘だろうが、どうでもいい。

本当、こんなの描くことに命かけるなよ、と。

僕は瞳未の感性が理解できなかった。  

そもそも、なんで漫画を描いてたんだろう。

 なんで彼女は、家庭の苦労を背負ってまでして、そこまでして漫画を描き続けたんだろう。

だからこそ、僕の手にこの漫画の運命が委ねられたのなら。

僕は完成させることで、本当の瞳未を知りたいと思った。きっとそれが僕のできる償いだから。

 一階のリビングからはバラエティーの音がした。父が観ているのだろうか。タレントの下品な笑い声が聞こえてきて、人ってなんなんだろう、と思った。



「連絡したのになんで無視するの?」

 朝。朝食を食べて、家の門扉を開けた。

すると秋谷が居て、そう言ったのだ。驚くというより、血の気が失せた。

「な、なんで住所知ってんだよ」

「権田先生。私のだって先生がメモで教えちゃったんでしょ、だからこれであいこ」

 当然のように淡々と言った。

あの先生もプライバシーというものはないのかよ。

「昨日追加課題送ったのにいつまで経っても既読にならないんだもん」

「そうだったんだ、スマホ見てなかった。瞳未の漫画読んでたから……」

  そこに間の悪いことに散歩に起きたあづさが現れた。

豆鉄砲をくらったみたいに、分かり易くぎょっとした顔をした。

「か、カノジョ? いたの?」

「違うって。行った行った。」

 小学生らしからぬ、漫画かどこかで読んだのかのようなお手本のような反応を示した。僕も適当にあしらった。明らかに背後を気にしていたが、しぶしぶ散歩へと行かせた。

「あの子は、瞳未さん……の?」

「妹」

「兄弟がいたのか。なるほど、出会っちゃったなぁ」

 秋谷は意味深な発言をし、しげしげと、あづさのランドセルの背中を見ていた。

 別々に登校するのもわざとらしいので、やむを得ず一緒に高校まで登校した。

六月になり、いつの間にか衣替えを済ませた僕たちは、未だ訪れる気配のない梅雨前線とゆかりもないような暖かい風に吹かれて、葉桜も終わり、青々と茂った並木道を歩いていった。


この日の秋谷は一日中るんるんだった。

二限目が終わると、急に立ち上がって「購買まで付き合って」と言い出した。男同士で連れションに行くみたいなノリだった。

「ここの購買のパン超美味しいの! 食堂のおばちゃん達は十時に来て学食の手配してくれてるからさ、混雑避けるためにおにぎりやパンだけ早くに作ってくれてるんだよ」

 彼女はほぼ無人の購買で、頬張りながら豆知識を披露した。

「秋谷ちゃんいつもありがとうねぇ」

「はーい!」

 秋谷ちゃん、って……。購買のレジのおばちゃんと打ち解けてるし……。こんな調子で昼休みも校内案内に連れまわされた。食堂の席に二人で腰掛け、秋谷は注文したカレーを頬張った。

「林野くんほんと少食だよね」

「秋谷が食べすぎなだけだよ。それに一応親が作ってくれた弁当があるからね、無下にしちゃ悪いだろ」

蓋を開けると、一段の枠に区切られた白飯と少しの野菜が今日も入っている。話しながら少しずつ食べ進めた。

「なるほどねぇ。いい子だ」

 カレーをがつがつ食べてぺろりと平らげると、皿の乗ったトレーを端に追いやった。

「で、ここで遠近法について教えたいんだけど」

と忽ちスカートのポケットからGペンを取り出した。ちゃんと墨汁の小瓶も用意していた。出張版かよ。呆れつつもう慣れていた。歓談していた近くに座る他学年の生徒達がぎょっとして見てきた。

「食堂は教室よりもずうっと奥まで距離があるでしょ? 奥行きを出すためには消失点を決めて構図を決めるの。線を手前ほど太く、奥ほど細くすることを意識して」

 定規を左手に構え、紙をひたすら回転させ、僕は食堂という部屋の形を捉えるのに苦心した。

「人物も手前の人ほど大きく、奥の人ほど小さくね」

 人も付け足していった。すると見違えるほどに分かり易い、絵になっていった。

 秋谷も「そうそう!」とちょっと満足気だった。

 「まさか校内案内してくれてる?」

「それもある。林野くん、最低限の教室とトイレの場所ぐらいしか知らなさそうだもん。もう六月だよ?」

 六月が早いのか遅いのかと言われても分からないが、まぁ図星だった。でもわざわざ探検しようなんてそんな面倒臭いことはしない。

「高校デビューって少女漫画の基本でしょー? ちょっとは心躍らせようよ、あ!そこの角に自動販売機買いたい」

 硬貨を入れて、ジュースを買うとごくごく飲んだ。飲みながら歩き進める。

「あ、保健室。ここはキライ。清潔すぎるもの」

「どんな理由だよ。美術室もちょっとは片づけたら。新入部員入ってこないよ」

「一人入ったからそれでいいもん!」

そう言って、保健室の横でゴネた。


そして授業中、秋谷はがっつり昼寝をしていた。そりゃ食べすぎではしゃぎすぎだ。

当てられるぞ、と思ったが自業自得なので無視した。

「おい何寝てるんだ秋谷」と呼ばれると慌てて立ち上がってのっけからこんなことを言った。

「ちょっと林野くん、その遠近法は……」

しかもちょっと巻き舌だ。ぐがっといびきをかいた。

なかなかゾッとした。彼女の夢の中まで僕が入り込んでしまっている。彼女は遠近法を教えることに夢中だ。なんかごめんなさい、と教室のみんなに後ろめたい気持ちになった。

すぐにハッとして「アッ、寝てました……」と秋谷はうなだれていった。その言い方がなんかコミカルでクラスは安心して爆笑した。

授業後「天然なんだね」と他の女子に話しかけられ、「いやぁ」と頭を掻いていた。

すぐ不機嫌になったり、でも寝顔は安らかだったり慌ただしい変な女子だ、と思った。今日は課題のなぞり絵を数枚しか貰ってない。その間に今までの負債を返そう、と躍起になった。



「秋谷は何でも好きなんだな。一緒にいて疲れる……」

「林野くん。心の声出てるよ」

 今も放課後の部活動を終えて帰宅している途中だが、心配なので家まで彼女を送るという名目で電車に乗っていた。

 でも。とよく考える。それは秋谷が好意でやってくれてることだ。

 自分の何のメリットもないのに、僕に絵の描き方や漫画の技法を無償で教えてくれている。時に夢に見るまでも夢中になって。

 そう思うと申し訳なくなった。だって、僕は、秋谷のおかげで夢を見れている。秋谷はどうして、僕を同級生から庇ったり、僕の漫画をここまで熱心に見てくれてるのだろう。そんなに漫研が大切なのだろうか。


「秋谷、いつもありがとう。漫画の描き方教えてくれて」

 秋谷は座席の前に立つ僕の顔を見上げた。それは唖然とした様子だった。少し意外に思った。

「なんで急にそんな改まって」

「だって僕はこんなにド素人なのに」

「いいよいいよ、だって同じ部活でしょ。だって需要と供給が一致してるんだもん。私は自分の居場所として漫研が欲しい、林野くんは漫画を完成させたい」

 秋谷は慌てて否定するが、僕の絵は確かに巧くなっていった。と言っても、アリに羽根が生えた程度なんだけど。


「今乗っている電車の車両とか、四角だし遠近法が使えそう」

「まぁ確かに。じゃあ、消失点は一番前の車両の車掌さんだ」

比較的空いたこの車両は、これから乗ってくる客と去る客を思わせる、余韻のようなものがあった。 小さな虫だって、もし羽ばたけなくても飛べるということを知らないのとでは全然違う。なんというかこういう見方もあるんだって思った。


「やっぱり、絵って生きてるんだな……」

そこに瞳未がいる。輪郭をなぞれば、瞳未が浮かんで戻ってくる。


「うん。勿論漫画も、だよ」

 秋谷はふふっと笑った。 

「明日、3ページの見開きからねっ!予習してくるんだよ!」

「いやもうそれ家庭教師じゃん」

夕日を背景に手を振り別れるその背中を見て、僕はそっと呟いた。


「秋谷……僕と一緒に少女漫画を描いてくれる?」


衣替えの澄んだ薄出のブラウスから小さな肩が透けている。彼女は本能のままだけど、心が清い。需要と供給の一致で一緒にいる……か。便利な言葉だ。


「もちろんっ!」

秋谷が振り返ってジャンプした。聞こえてたのか、と思うと口元が緩んだ。

地獄耳だなぁ。そこが秋谷なんだけど。

着地でバランスを崩したのか、「いったぁ!」と声をあげて、とぼとぼ坂道を下る後ろ姿は滑稽で、

住宅街へと続く、何もないうんざりしたはずの田舎道が少し新鮮に見えた。


「それ何、プールか?」

 押入れからプールバッグを取り出して、水着を見ていると父親が部屋をノックした。

「水泳の授業来週から始まるから、サイズとか見てたんだ」

 どうやら父親は晩御飯の準備が出来たから呼びに来てくれたらしい。

 バッグごと食事に持って降り、「洗濯機に入れといていい?」と母に頼んだ。

 食卓には晩御飯の皿が三人分並んでいる。僕は一人っ子だからいつも家族三人で食卓をこうして囲んで食べている。

「気が進むままに食べていいからね」と母が言った。

「なんだ、水泳部に入ってるわけじゃなかったのか」

 父は残念そうな口調ながらも、大きな口を開け、ピーマンの肉詰めハンバーグを頬張った。

「部活はもう漫研に入ってるから」

「まんけん?」

「漫画研究部」

父と母がポロリと箸でつまんでいたものを落とした。

「け、研究しているのか、生」

 言われてみたら大層な名前だ。そんなたいそれたことはしてないと思うけれど。

「嘘だろ」

「ほんと」

 どういう反応だよ。僕はなんとか最小限のご飯を流し込んで、席を後にした。


ある日、部活に行こうとしたら美術室近くの廊下で呼び止められた。

「明日、プール開きなんだ」

 振り返ると佐川だった。一時期秋谷と不毛な争いをしていたけれど、そういえばここ最近あまり話していない。

 制服は模様替えし、肩のラインがシャツから透けて見える。彼は身体つきががっしりしていて、水泳部と聞いて誰も違和感を持たないだろう。

「水泳部、今からでもどうかな」

だからその発言は謎だった。ただ僕が一度仮入部に行ったから成り行きで勧誘をしていただけだと思っていた。

「もう、漫研に入部したから」

「……そっか。秋谷さんと仲良さそうだし、まぁそうだろうなとは思ったけど」

 言いたいことが奥歯に挟まったような、はっきりしない顔をしていた。

 ネイビーのプールバッグをきゅ、と握っていた。

「もう六月だけど、勧誘活動なんだ」

「林野くんも元水泳部なら分かると思うけど、水泳部はプールが使える水温の季節になるまでは開店休業状態じゃないか。他の部活より一歩遅いけど、やっとトレーニングを終えて明日からスタートなんだ」

 確かに、そう言われたら、今勧誘するのも水泳部に限っては遅くはない。一応声をかけておこう、という感じだろうか。

律儀だな、と思った。

「それに、あまりの豹変ぷりに面食らってしまったけど、林野くんと同じ中学の人間に裏を取ったけど、やっぱりそうだった」

「なにを」

「林野くんって中学の水泳部の大会で……」

 風がびゅう、と吹いた。そんな気がした。耳に水が詰まったみたいに、佐川の声が籠ってよく聞こえなくなっていった。なんとか言いよどめようと、僕は一言放った。

「それは、もう昔のことだから。終わったことだから!」

「なんで、水泳を捨てたの?」

 佐川は疑いの眼差しだった。

僕はうまく答えられないので、そのままその場を後にした。


美術室で、カッターナイフを弄っていると、秋谷が頬に絆創膏を貼ってやってきた。

「怪我? どうしたの?」

「うん。漫画道具、もっとなかったかなって、その棚、引っ張り出してきたら怪我しちゃった」

「前買ったのにもう在庫ないの?」

 どんだけ怪我するんだよ、と思ったのと同時にそう聞いていた。

「うーん。もうちょっとあるに越したことないんだけどねぇ。トーンとか」

「どっかの誰かさんがステーキ食って三千円近く飛んだからな」

 そう言うと、意外な返答が返ってきた。

「行く? 画材屋さん?」

「え、今から?」

「だって、カッターナイフ手に持ってるじゃん。スクリーントーン切りたくて仕方ないんでしょ」

 あっけらかん、とした様子で鞄をこしらえ始めた。

 耳から水が抜けた。


「Gペンと丸ペンと……私スクリーントーンも買うからカゴ持ってて」

 前と違う画材屋に来ていた。

「改めて思うけど、漫画ってのは、色んな道具で作られてるんだなぁ」

 フロア全体に、漫画道具がずらりと並んでいる。透明のショーケースに綺麗に仕切られ、大ぶりなものから小ぶりなものまでが、管理されて置いてある。

その圧巻の光景は、昆虫採集フェアに、嫌がる瞳未と来た小学生のときのことを思い出させた。ちょっぴり冒険心がくすぐられた。

入り口には初心者向けのスターターセットが、ばん、と平積みにされていた。ケースに最低限の漫画道具が収められていうようで、こうやって見ると、秋谷が重点的に教えてくれてる道具は一通り収められていて、本当に初心者向けに教えてくれてるんだ、と実感して胸がじんとなった。

メーカーごとのカタログが端っこに置いてあったので、ぱらぱらと見てみる。

羽根ぼうき、雲形定規

「これおもちゃじゃなかったのかよ!」

秋谷がどれどれ、と覗いてきた。

「へぇ、瞳未さんそんな漫画道具も持ってたんだ」

「道具箱に鳥の羽根とブーメランが紛れてるからびっくりしたんだよ」

「形から入る人だったのかな」

羽根ぼうきを手に取り、適当に振り回す秋谷。なにその、道具で通じ合うみたいな関係。

「漫画は白黒の二色だけで華やかに魅せなきゃいけないから、いろんな工夫がいるのよ。ソフトウェアで描いてる人も多いから、漫画に携わる人の全員がここにある道具を使ってるわけじゃないけど、やっぱりワクワクするよね」

 試し書き用のGペンを手に取った。化粧品とか、アクセサリーとかそんな類のものを愛でるような横顔で、告げた。

「どうやって自分を感動させよう、紙面を魅せるものにしようかって」

 プロだ、この人。

僕はその横顔に羨望の眼差しを送った。

「林野くんはトーンどれくらい持ってる?」

「四十枚ぐらいはあったかな」

「足りないなぁ」

スクリーントーンの種類はここに並んでいるだけでも二百種類以上あって、洋服の柄みたいなものがパッと見、目を引いた。秋谷が他の道具を見ている間、僕はじっとトーンに見入っていた。これはレースの柄、制服のズボンの柄、ダメージジーンズの柄か? それぞれに品番が割り振られている。

それはまるで手芸屋を訪れて、布の柄を選定しているみたいだ、と思った。

一枚一枚しゃがんで確認すると、青空、夕焼け、草木、花火の柄、なんかもあってなかなか興味深かった。

 青空のトーンをディスプレイから引っ張り出すと、店内の蛍光灯に照らされて透けた。僕の手のひらの中に、入道雲があるようだった。

「その番号のトーンオススメ。持ってて損なし!」

 秋谷はくすくすと笑った。

 地下に画材屋の入った施設には、屋上庭園があった。戦利品を広げるために僕たちはそこにある広場に足を運んだ。隣接しているレストランでビアガーデンもやっているらしく、回廊のようにウッドデッキが続いている。オリーブの樹木を囲むベンチに腰掛け、ショップの袋から購入品を広げていった。

空には大きな雲が浮いていた。向こうは青いのに、雲がなんだか速く近づいてくる。日が傾き始めていた。

「秋谷、遅くなっちゃうけど、大丈夫?」

「一時間ちょっとあれば帰れるし、へーき」

 漫画道具が置いてあるような画材屋は都市部にしかなく、学校から電車を乗り継いで、一時間以上かけて僕たちは来ていた。思い立ってやってきたものの、長居してしまい、もういい時間だった。

「こういうところ、親としか来たことないな」

「まず、子どもだけで来ないよね」

 洒落た服を来た女性達が大ぶりなポーズをして写真を取り合ったり、明らか恋人だろうと思われる男女がカップのジュースを寄り添って飲んだりしている。

 なんだか気まずくなって手に持つスクリーントーンに視線を落とした。僕と秋谷の足元が目に入る。僕たちは横に並んで座っている。

「私たちカップルに見られてたりして」

「そんな馬鹿な」

 LEDライトの灯りがともった。それは足元のウッドデッキに埋め込まれたもので、僕と秋谷の足がぽうっと光った。手元が照らされ、スクリーントーンの柄と、包装袋の背面に描かれた、使い方説明が両方、暗闇に浮かんだ。

「綺麗だな」

「ねぇ、こっちはこっちは」

購入品を順番に照らした。僕たちは夢中で漫画道具を光にかざし続けた。製図ペンやGペンもなんだか愛おしく特別に思えたのだ。

プライベートプールみたいな雰囲気だ。目を閉じれば水の音が聞こえてくるようだ。車の走行音なんかしない、ここは安全圏だ。


すると、秋谷が急に語り出した。 

「正直さ、林野くんがここまで忠実に頑張ると思わなかったの。私は、デートみたいで楽しかったよ。本当に瞳未さんのこと、好きなんだね?」

 驚いた。そんなことを考えていたとはつゆとも知らなった。

「ああ。好きだよ。うん。やっと見つけたからな。瞳未を償うために出来ること」

 僕の声に秋谷が被せてきた。「わかってるじゃん」と僕も言った。

「私も頑張らなきゃなー」

「何を?」

「漫画」


そう呟くと、しばらく僕たちは黙った。

ぼうっとしたりやけに忙しなかったり、こんな調子で過ぎていったここまでの高校生活の数か月を想った。

──高校生になれず、死んでしまった少女がいる。

だけれども、僕を含めた同級生は平然と高校生になってしまい、依然と変わらぬ日常を送っているように見えた。そりゃあ、大半の人は瞳未を知らないことは分かっている。

でもこの拭えない罪悪感は消えなかった。


僕は秋谷に問うた。


「僕さ、嫌いな言葉があるんだけど」

「何?」

「朱に交われば赤くなる。僕さ、ずっと考えてたけど、大災害が起こった地域から遠く離れた土地に引っ越してきたような感覚なんだ。その先で多くの友人に囲まれて青春しようぜと押し付けられているような違和感があるんだ。教室の雰囲気というか。その言葉が妙にしっくり来た。朱に交わったほうの人の態度がものすごく冷たく感じたんだ」

僕は語った。

「……だから、逃げれるところに連れ出してくれてありがとう。これでちゃんと自粛できるよ。主役とかいいんだ。僕は永遠の脇役として役目をやり遂げたいんだ」

秋谷はぽかん、としていた。

無理もないだろう。これは僕の勝手なポリシーだ。


スクリーントーンに視線を落とし、そして秋谷は再び僕を見つめて言った。

「じゃあ林野くん。漫画描き終わったらどうするの──?」


そのとき、土みたいなつんとした香りがした。トーンにぽん、と雫が滴った。見上げた途端、雨がさぁっと降り出した。

「なになに」

「夕立かも」

 女性達も恋人も、全員が建物の中に一斉撤収した。

 そのまま地下を通じて、駅へと行った。電車が止まってしまう前に、早く。乗り込もうとした電車はかなり込んでいて、駆けこもうとしたとき、 

 秋谷はもつれ込むように足を絡めてその場に倒れた。


「えっ……どうした、おーい!」

慌て駆け寄ったが、声をかけても返事がなかった。

なんで?

片手で秋谷の呼吸を確認した。大丈夫、大丈夫だ。でも……。

一点を見つめて、ぼうっとしている。両手をあげて、ふるふるしている。

電車がゴウッと発車すると、ホームの人だかりがすっと空いた。やがて気付いた駅員が駆けてくる。

ケータイに伸びた手が三桁の番号を押そうとするが、ばくばくしてその数字が思い出せない。すると、ポケットから取り出したケータイの下に一枚の紙きれがあった。

──これは、権田先生が「なんかあったとき俺に連絡しろよ」と渡してきたものだった。

藁にもすがる思いで、その番号をダイアルした。

「もしもし先生ですか」

「どちらさまですか」

「あの、秋谷が……」

「あー。林野か。呼吸は落ち着いてるか?怪我はないか?」

「多分」

「なら大丈夫大丈夫。秋谷、興奮するとたまにぶっ倒れるんだ。少し楽な体勢にさせて呼吸が安定してきたら家まで送ってやってよ。住所伝えるから。大丈夫、明日には学校来るよ」

普段と変わらない先生の声に少し胸をなでおろす。

駅員に大丈夫らしいです、と頭を下げると、ベンチに座らせ、呼吸が落ち着いたのを確認すると、スマホのアプリで経路を調べ、秋谷をおぶった。

教えてもらったアパートの部屋。その前で降ろそうとしたら、「ん、」と秋谷が声を出し、身体をひねった。どうやら気が付いたらしい。呑気に寝言を言っていた。

「創作のアイデアでも受信したのかよ、……めんどくさい天才だな。鍵あるか?」と尋ねたが、ドアノブに手をかけると鍵が空いていた。不用心すぎるだろ、と心配に思ったが、規則正しい呼吸を立て、眠っているのだ、と分かったのでそのまま彼女を玄関ホールのマットの上に寝かせた。他人の家に上がり込むわけにもいかないので、失礼しました、と扉を閉めて階段を下りた。


そうした、はずだ。



次の日、やはり雨だった。止むことなくそのまま振り続けていた。なんかスッキリしない。登校しようと玄関を出ると、あづさが門扉の前で待っていた。

傘を差してその場に立ち尽くしたまま聞いてきた、

「昨日、またあの女の人と帰ってたでしょ。彼女じゃないなら何者? 土木作業を一緒にやってるの?」

 そういえばそんな出鱈目な嘘をついていたな、と思って、これはややこしいことになったと困った。

「あ、腕、トーンついてるよ」

「え、本当だ」

 トーンの端くれを指で取ってそれを見つめた。

あれ、なんで分かるんだ、と思った。

「土木作業でスクリーントーン使う?」

思考停止した。

やがてハッとした。

 あづさは、僕にこの道具たちを託した張本人だ。

「姉ちゃんもさ、よくそうやって指真っ黒にして、服のあちこちにトーンつけて気付かず過ごしてたよ。見るに堪えなくて教えてたけど」

 知ってないはずがない、のだ。

「どういうこと、説明してくれる? 姉ちゃんの漫画の原稿は、今どうなってるの?」

 バレた。

 いや、どっちみちいつかは説明しないといけなかったんだ。

 匿って欲しいと頼まれてたものに、手を加えていたのだから。

 なんて言っていいのかわからなかった。自分でも説明のしようがなくて、こうとしか言えなかった。

「……僕が漫画を仕上げてるんだ、そのやり方を彼女は教えてくれてるんだ」

「なんで?遺品だよ」

 気分を害しているような、別人のような声だった。

「不吉じゃん」

「は?」

「だから、時期が来たら二人で供養しようと思ったんだよ。呪われてるよ、アレ。だめだ、いっくんも呪われちゃう」

 ぽかんとした。

 あづさは、次々言い足して、大きなため息をついた。

「なになに、急にどうしたんだよ」

「ねぇ、姉ちゃんの秘密を、一緒に守ってくれるんじゃなかったの? たった私たち二人しか知らないんだよ。わかった、明日捨てに行こう」

「嫌だ」

「なんで」

 なんでって。そのそっけない声にさすがに腹が立った。

「だって、少なくとも、漫画はまだ死んでないじゃないか!」

「は? だってただの紙じゃん」


 その目は軽蔑、だった。

 もう頼ってはくれないだろう。瞳未を傷つけて、あづさにも嫌われて、もう僕には何が残ってるんだろう、と思った。

雨音が強くなる。

あづさはそのまま家へと戻ってしまった。

僕は玄関にあった適当な傘を摑み、乱暴にこじ開けた。

なんで通じないんだろう。


「あらあらおはよう」

ふと顔をあげると、門扉の向こうに入院着のような白い服装のおばさんが立っていた。

気配を感じなかった。かつての面影もない精気のない姿だ。ぼさぼさの黒髪の長髪と相まって……気味が悪い。


「生くん。なんかあづさと随分騒いでいたようね」

「ちょっと部活の話を……」

「部活動。いいわねえ、高校生は」


ふふふ、と全く緩んでいない色のない唇からゆっくりと低く息を漏らす。


「瞳未は中学生のままなのに、ね」


すっと家の中に戻り、玄関の扉が静かに閉まった。僕は持っていた傘をカタンと落とした。ザァ……雨が激しくなっていった。

雪女のような人だ。瞳未に遺伝した綺麗な顔立ちなのに。どうしてこうなった?僕は凍りついてしまったように重く鈍くなった脚をどうにか引きずって、登校した。住宅街を出ると、車の交通量が増えていて、なかなか信号が青に変わらなかった。




裸で生まれて、親を求めて這いずり回るそんな無防備で不安定なもの。それが原稿だ。

 産み落とされたけれど、誰にも存在を認められないまま。

 僕も原稿も一人ぼっちになった気がして、なんだかつらかった。

 でも、僕の手には感覚があった。この感覚があるから、どこにでも羽ばたける。言葉にならない気持ちがあった。あづさに反対されておばさんに恨まれてもいい。後悔なんか決してしてなかった。



夜。水泳部の活動が無事に始まったらしいプールに忍び込んだ。

へこみ場所を僕はここしか知らなかった。


裸足でプールサイドを歩き、腰をかけて、ちゃぷ、と音を鳴らす水中に脚を浸けた。

「くそっもっと僕の絵がうまければ、あづさだって、佐川だって説得できたのに……」

だったら漫画を描いていて、反対なんかされないのに。

おばさんとだってきっと面と向かって立ち向かえるのに──。


水面に情けない顔の僕が映る。

僕にだって、こんな情けない顔の仕方を知らない時代があった。

もっとまん丸で手が楓みたいにちっちゃかった頃の話だ。


僕と瞳未は5歳で出会い、8歳で同じスイミングスクールに通い始めた。

水に顔をつけることや、浮きを挟んで泳ぐことが怖い、と二人で怯えながらのスタートだった。

でも楽しいね!そうやって隣で笑いあえたらそれでいいと思った。

プールバッグを持って、スクールのプールまで歩いて通った。二人して塩素の香りをさせて、両家族で定期的にご飯の食べあいっこなんかをしていた。同い年の子供がいるよしみですわ、なんて母親同士が笑う。あの頃は本当に楽しかった。



なのに、どうして。こんなんになるなんて、情けない。

水面が僕の記憶を溶かす。


秋谷が倒れたとき、僕は確か、取り乱した。

……なんだこれ。

汗がぶわっと湧き出た。

「はぁっ……」なんだよこれ。肺が苦しい。息が続かない。頭が真っ白になってアパートの外壁のコンクリートに頭を打ち付けた。

その痛さがじんわり広がって引いたときに、過呼吸だと気づいて、数回深呼吸を繰り返した。なんとか一歩を踏み出して、数駅離れた自分の家まで歩いて帰ることにした。

少し考えたかったのだ。

冷静になった頃には、夜風にさらされて肌が寒く感じた。

頭が冴えてしまうと、今度はふつふつと怒りが湧いてきた。


散らかった部屋。小さいワンフロアの家。なんだこの家、生活感のなさに違和感を覚えた。家に上がりこむ仕草なんかを見て、ああ人間だったんだな、と思った。ちょっと心配に思った。


あのときこうしてれば、なんてシミュレーションなんて何度でも頭で描いていた。

瞳未が大型トラックとガードレールに挟まれたとき、すぐにどこかに連絡していれば、なんて間に合わなかっただろうけど、もしかしたら何か変わったのかもしれない、とか。少なくともその場に一時間以上突っ立っているだけの自分を惨めに思うことはなかっただろう、とか。

秋谷はなんらか興奮して倒れたんだろうけど、こんなの人助けのうちになんて入らない。怒りたい気持ちも、不安になる気持ちも確かに両方あった。

気が付けば道を間違えて、同じ小道を何度も行き来していた。それでもいいや、と半ば諦めた。夕日が沈む時間に敗北した僕は、疲れ切った身体で帰宅した。


遅くに帰ってきた僕を傍に両親はリビングで会議していた。

「私はね、生が何か見つけてくれたならそれでいいと思うの」

両親は暖かく見守ってくれた。

「でも、フラフラじゃないか」

「あんなに熱心にやってるんだもの。見守ってあげましょう」


環境で変わってしまったような僕。変わらない情けない僕。

きっと、水面に映る月のように、揺れている。


あのとき、背中に居る秋谷の寝顔を見て、背負う月夜を見て思った。


──「漫画、やりたいんでしょ?漫画を描くことで高校に通ってるじゃん。変わりたいって思ったからでしょ?」

じっと考えてみた。

僕はただ、この漫画を完成させたい。それだけだ。秋谷と一緒に。このモノ好きの感謝を絶対に忘れない。

一緒だかんな、僕と一緒に少女漫画を完成させよう。


──「漫画を書き終わったらどうするの──?」


脇役は脇役らしく、描き上げた漫画とともに役目を終えるつもりだ。

それまでに何も見つからなかったら──。

そのときは、瞳未がいるその場所へ悔いなく行けるように。精一杯やってみよう。

ありがとう秋谷。高ぶる気持ちに僕は自分を正当化していた。

だから、震える背中の涙には気づかなかった。




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